フランスの田舎で暮らす

土野繁樹の歴史散歩

ドルドーニュ便り~仏ワインを救った米国(6)

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ドルドーニュの葡萄                    Department de la Dordogne

 

 こちらで暮らしはじめるまで、わたしはワインについての知識はほとんどなかった。ボルドーブルゴーニュと言われてもピンとこなかったし、味についても無頓着な野暮天だった。ところがドルドーニュ県はフランスでも有数のワイン生産地である。葡萄(ブドウ)畑に囲まれて、ことあるごとに一杯となるとすこしは違いがわかる男になった。

 5年前の夏、わが家に珍客ダルネさん(当時102歳)が到来した。この家は彼女の両親の別荘だったのだが、その日はなんと85年ぶりの再訪だった。「少女の頃、ここで自転車を乗り回していたわ」「この応接室、あの頃となにも変わっていないわね」と語る彼女は感慨深げだった。

 フィガロ紙を毎日読むという彼女はシャープで話題も豊富だった。話のなかでとくに面白かったのは,わが家の別棟の由来である。ダルネさんによると、19世紀の終わりまでは、そこはワイン製造場であったという。「あのフィロキセラ騒動でワイン造りをやめたのでしょうか」と聞くと「そうでしょうね」と言う。フランスワインの危機とわが家に関わりを知り、わたしはおどろいた。

 ワインの歴史に詳しい読者はご存じだと思うが、1860年から30年にわたって、フランスのワイン産業は壊滅的な打撃を受けている。各地で葡萄の葉が変色し根が腐食していくのだが、原因がわからない。中世の黒死病にも似たスピードで被害が拡がっていく。あせるフランス農務省は科学者を動員する一方で、解決案を提案してくれた人には、金貨で30万フラン(現在の価値で3億円)を与えるという公示までだしている。

 懸賞金につられて、ありとあらゆるアイディアが集まった。そのなかには、牛の小便、鯨油とガソリンの混合液、ポンペイの火山灰を葡萄畑に撒くなど奇想天外な案も含まれていた。被害はヨーロッパ全域に広がり、イタリアのトスカーナ地方では、当時開設したばかりの鉄道が原因であるとの噂が流れ、実際に一部の路線が閉鎖されている。

1862年から1875年までの時点で、フランス国土の葡萄畑の40% までが被害にあっている。その額は1870年フランスが敗れた対プロシア戦の費用より大きい。また、1875年にあった葡萄畑84.5百万ヘクタールが、1889年には23.4 百万ヘクタールまで減少している。その減少数字は72%だからいかに巨額かが分かる。

 

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若き日のプランション          Wikipedia

 

フランスの植物学者や生物学者はワイン大国の国難を救うべく、必死の努力をする。その顛末を、英国人ジャーナリスト、クリスティ・キャンベルが、著作PHYLLOXERA: How wine was saved for the world:2004年刊で, 推理小説のような面白さで描いている。

地質説,気象説など諸説が飛び交うなか、犯人は害虫フィロキセラ(ブドウネアアブラムシ)であると特定したのは、フランス南西部の町モンペリエの植物学者ジュール・エミール・プランションであった。フィロキセラは肉眼では見えないほど小さな黄色の虫である。キャンベルによると、葡萄の木の根や葉を侵食する害虫の繁殖力は驚異的で,これが大流行の原因だったという。葡萄畑が枯れる現象はそれまでもあったが、フィロキセラは新現象だった。

 

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最高級ワインを楽しむフィロキセラ             英パンチ誌 1890年

 

 プランションは、その害虫がどこから来たかを研究する。気の遠くなるような調査を続けた彼は、1862年、ローヌ県のワイン販売業者ボティがニューヨーク経由で取り寄せた、米国産の苗木154本に付いてきたフィロキセラが元凶であることを突止める。大西洋を渡ってきた犯人の正体が分かったのは1874年のことだった。

 ボティの庭の葡萄畑の調査をしたプランションは、フランス原産の木は死滅あるいは瀕死の状態だが、米国産の葡萄の木は元気溌剌の意外な事実を発見する。米国産の葡萄の葡萄畑には、この害虫への免疫性があると知った彼は、唯一の解決策は米国の苗の輸入であると提案する。米国の苗を台木にして地元の苗に接木する方法である。

 しかし、この方法はフランス人には抵抗があった。伝統あるフランスワインが米国ワインに汚染されるのではないか、という心配である。当時、米国産ワインの品評会を取材したパリの記者は「米国産のワインを飲み干す勇気のある者は、一人もいなかった」と書いている。それほど米国産は評判が悪かった。

 

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プランションの銅像アメリカへの感謝の碑               Ed Wardk

 

 しかし、被害は広がるばかりで誇り高きフランスの生産者も背に腹はかえられない。1890年代になってカリフォルニア州テキサス州から貰う苗木の大量輸入がはじまり、フランスワインは蘇生したのであった。皮肉にも、フランスが米国から輸入した苗木の大部分は、昔フランスから運んだものの子孫であった。モンペリエの公園に、その功績を称えた植物学者プランションの銅像が建っている。その碑文には「フィロキセラとの戦いで、米国はフランスワインを蘇らせた」とある。

フィロキセラ騒動は、世界のワイン地図を塗り変えた。チリ、アルゼンチン、アルジェリア産ワインの生みの親は、フランスで破綻しそれらの国に移住した人々だった。ドルドーニュの多くのワイン農家も、故郷を去り外国に移住している。あの日、今も健在のダルネさんが、美味しそうにボルドーワインを飲んでいた姿が目に浮かぶ。(2012 年11月2日記)