フランスの田舎で暮らす

土野繁樹の歴史散歩

 パリは燃えているか?(13) その2

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シャンゼリゼ大通りを凱旋行進するドゴールと随行団 1944年8月26日                  Aramy

 

筆者 は『パリは燃えているか?』は、20世紀のノンフィクションの傑作だと思う。この本の「感謝の言葉」を読んでいると、二人の 著者が 3年間をかけて取材した内容に圧倒される。二人の組み合わせが最高だ。ラリー・コリンズは米国のニューズウィーク・パリ支局長でアメリカ人、ドミニク・ラピエールは パリ・マッチの記者でフランス人であった。二人はこの世界的ベストセラーの 著者になるジャーナリストとしての豊かな経験があった。コリンズは北アフリカ、中東、ヨーロッパ の特派員、ラピエールはヨーロッパ、アメリカ、アジアの特派員 を体験していた。二人は勤務先から3年間の休暇をもらい調査と執筆に専念したが、この本は国際記者の最優秀作といえる。

筆者はこの本の刊行当時の爆発的売れ行き(30カ国、1000万冊)は、米国のノートン出版の知恵者の戦略が当たった気がする。ノートンは世界的出版社であるから映画界とも縁が深く、フランス人監督ルイ・クレマンと豪華なスター総動員の同タイトルの映画を公開し大当たりした。これはメディヤ・ミックスの勝利だろう。

この本が扱っている期間は1944年8月7日、コルティッツ将軍がヒトラーにパリ司令官に任命されあいさつに行く日から、ドゴールが4年間の亡命からパリに戻って来て、絶大な人気を得て臨時首相となった翌日の8月26日までの僅か19日間である。

今回のエッセイでは『パリは燃えているか?』(志摩隆訳)のなかで、主にコルティッツ、ノルドリンク、ドゴールに関する出来事を取り上げている。例えば、コルティッツに関しては「ヒトラーと面談」「パリ焦土化は当然」「パリ市長必死の説得」「ドイツ軍への反乱が始まった」「パリ司令官の孤独」「パリ全教会の鐘が鳴る」「ヒトラー、V1 号、V2号の発射命令」、ノルドリンクは「ノルドリンクと反ナチ情報部員」「コルティッツが決断する」、ドゴールは「孤独なフランスへの旅」「アイゼンハウワーの決定を変えた男」「パリまで50キロ」「パリ帰還」「ドゴール、 フランスを掌握する」。以下の手に汗握る描写は基本的に本からの抜粋であるが、主要人物の発言の引用部分は特に大事だ。二人の著者はこの引用部分を歴史の証言と考えていた。

筆者はコルティッツの心境の変化が、パリを救うことになったと思う。8月15日、彼は上司の西部軍司令部の会議で「パリ破壊は妥当」と考えていたが、21日にはヒトラーに反逆する決意をしているからだ。19日、パリで共産主義者主導のドイツ軍占領への反乱が起き、首都で武力衝突が勃発した。しかし、武力で 決定的に劣る反乱側はたちまち苦境に追い込まれる。アイゼンハウワーはパリ進攻に反対であったが、22日に共産党愛国者ガロアの必死の説得で心変わりをする。これはパリの運命を変えるものであった。

この本の圧巻はドゴールが4年の亡命を終え、26日、シャンゼリゼ大通りを凱旋行進する場面だ。100万の大群衆がドゴール、ドゴールと歓声を上げるなかで、彼は群衆のなかにある思いに同感し、自分がフランスの運命を託されていることを強く感じた。

25日、ヒトラーは戦略会議で「パリは燃えているか?」とモーデル参謀長に聞くが答えられない。怒った彼は北部フランスなどにあるV1号とV2号の1000発を、パリへ打ち込めと命令する。翌日、その命令を受け取った現地のB軍集団のシュバイデル参謀長は、常軌を逸していると思いそれを取りつがなかった。1週間後、ゲシュタポが彼を逮捕した。シュバイデルが命令を伝達していたら、凱旋行進の日、パリは殺戮の首都になっていただろう。彼はドイツ側の知られざる英雄だ。

ドゴールがフランス人になぜあれほど尊敬されるのか。その答えは、凱旋行進の日に彼が示した何者をも恐れぬ勇気と平静な態度にある。その日、将軍と行動を共にしたアメリカ人記者は「この日、ドゴールはフランスを自らの手中にした」と電報を打った。この本のハイライトである最終章に詳細を記しているので、どうぞご覧になって下さい。

 

 

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ヒトラー暗殺計画、首謀者のシュタウフベルグ大佐(左端)とヒトラー総統
 7月15日                     Bundesarchiv Bild

 

コルティッツ、ヒトラーと面談 8月7日

ヒトラーがコルティッツをパリ司令官に任命しその理由は彼の忠誠心だった。7月20日に軍幹部によるヒトラー暗殺未遂事件があり、疑心暗鬼になっていた総統の側近は「どんな苛酷な命令でも、いちども命令に逆らったことのない男」を推薦したのだった。彼はオランダ・ロッテルダムの無差別爆撃の命令を遂行し,死傷者多数、被災者8万人をだし、クリミア半島セバストーポリのユダヤ人虐殺の命令に従って約3万人の殺害に加担している。

コルティッツはヒトラーに8月7日に再会した。一年前、ドニエプル河岸の司令部で行われた野外昼食会の席で会い、ヒトラーに3つの点で感銘を受けた。あの確信に満ちた話しぶり、決して笑顔をみせず、そして、シレジアの田舎者のぶっきらぼうさであつた。ラステンブルクの森に到着する前は、 ヒトラーと会って第三帝国の将来について信念を新たにしたいと思っていた。ところが、目の前の男は1年前の男の面影はないまるで老人だった。顔はやつれ、蒼白で、目は血走り、猫背になっていた。なによりも何百万の人々を活気づけたあの絶叫が弱々しい声になっていたのだ。

内容はといえば、とりとめなく昔話で、やがていま準備中の“新兵器“について語った。そして、突然ヒトラーは「7月20日以来」と絶叫した。「何十人という将軍たちが、わたしの使命遂行を妨害したために、ロープの端からぶら下がるはめになったのだ。だが何者もわたしを止めることはできない」とヒトラーはコルティッツに向かって叫んだのだ。最後に彼は君の任務は「わたしの特別司令官になるのだ。将軍、安心してくれたまえ。必要な援助はなんでもやる」と言った。この言葉を発したとき時のヒトラーの「残酷な目」が忘れられない。彼はヒトラーが狂ったのではないか、と思った。

 

 

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アウシュヴィッツ強制収容所                     Wikipedia

 

ノルドリンクと反ナチ情報部員 8月12日ー16日

スウェーデン総領事ラウル・ノルドリンクは、ドイツ国防軍のためにボール・ベアリングの工場を経営していたので、パリ外交団主席という肩書きで、彼はドイツ軍の公式レセプションにいつも招待されていた。その日どうしても会いたいドイツ人“ボビー”を紹介してくれる人を探していた。

ノルドリンクの目的はゲシュタポに捕らわれた囚人の未来についてだった。パリには7000人が収容されていたが、ゲシュタポはその一部をドイツの強制収容所に送るか、残った収容者は退却前に親衛隊が殺害するかであった。なんとしてもボビーに会い、最近着任したパリ司令官に面会し、出来るだけ多くの政治犯赤十字の保護に置くことを談判したいと考えていたのだ。

ノルドリンクが電話をしたとき、エミール・“ボビー” ・ベンデルは数時間後、セント・スメールの上司の軍情報部長の命令でパリを去るつもりだった。しかし、この45歳のハンサムな元パイロットは、チュウリッヒの婚約者と落ち合い、この戦争から手をひくつもりだった。4年間暮らしたパリを去るのは、ボビーにとって悲しいことだった。もう一つのボビーの顔は、1941年以来、情報部内の反ナチ地下組織の最も重要な一員であった。

ボビー を説得するには時間がかかったが「数日だけ」滞在をのばすという条件で、彼は総領事に援助を約束した。これ は大誤算で、2週間のちにはフランス人の捕虜になってしまった。しかし、彼がその間にやったことはこれまでの仕事の価値をはるかに上回るものだった。

ノルドリンクとボビー・ベンデルは過去4日かけて、懸命にゲシュタポ政治犯釈放のために努力したが 、成果は上らなかつた。だが、8月16日、ホテル・マジェスティクでコルテ ィッツが「政治犯には用が ない」と言ったので、二人は飛びあがって喜んだ。占領軍政府参謀長の部屋に行き説明をするが、上司はすでにナンシーに行ったので、こんな重要事項は自分には決定出来な いと言う。

ノルドリンクは切り札として「フランス人の政治犯一人につき、ドイツ人兵士5人を自由に出来る」と言った。少佐の態度が変わり、ノルドリンクが連合国軍最高司令部はこの交換を了承していると言うと安心したようすだった。「あと1時間したら、わたしはナンシーへ出かけなくてはなりません」という。二人は大急ぎでホテルを出て、弁護士を見つけ法律形式で 書いてもらい、少佐の署名をもらった。1時間15分で、ドイツ人捕虜1万5000人との交換で3633名の政治犯の生命を救ったのだ。

 

 

パリの焦土化は当然 8月15日

早朝、コルティッツの車ホルヒは、ヴィクトル・ユーゴ通りの西部軍司令部前で止まった。ドイツ国防司令部の命令「限定的焦土作戦」を議題にした、上司の司令部フォン・クルーゲ元帥の会議に召喚されたためだった。コルティッツは前日、ベルリンから始めて直接命令を受け取っていたので、クルーゲも当然コピーを受け取っていると思った。

クルーゲの参謀長ブルーメントリットが16頁の作戦計画をもとに、第一段階のパリのガス、電力、水道施設の破壊、第二段階の産業施設のサボタージュを説明し、参謀長 は第一段階を直ちに実行することを主張した。コルティッツは連合国軍がドイツの諸都市を爆撃している現状で、当地が焦土化するのは当然だと思った。しかし、彼はこの計画はパリを放棄する準備にかかるときで良いと主張した。もちろん、ドイツ軍には放棄のつもりはないが、早まってやれば、パリ市民の多くがレジスタンスに合流すると考えたのだ。

すると突然、クルーゲは、二人とも良い点をついているが「いずれ最終決定はわたしが下す」と言い会議を打ち切った。しかし、会議が終わったあとで、コルティッツはクルーゲからパリの破壊を実施するように言われた。それから56時間後、クルーゲに異変が起こる。彼は突然解任され、ベルリンに戻る途中で自殺したのだった。自殺の原因はこの本では不明だが、コルティッツは彼のパリ破壊命令を棚上げにしている。

同じ日、司令官がホテル・ムーリスに帰ると4人の技師が待っていた。彼らの命令書にはベルリンのコードル大将のサインがあった。彼らは「パリ地区の主要な産業施設破壊の準 備と監督」のために派遣されたのだ。このグループの長バイエル教授は、それ相当の爆薬を装置できれば「少なくとも、6ヵ月間パリを完全に麻痺させる」ことができると司令官に保証した。コルティッツはホテルに部屋をとり、車を二台自由に使えるように手配した。2時間後に部屋に行ってみると、技師たちは「地図と青写真に夢中になっていた」。一人の技師が司令官に請け合った。「たとえパリが陥落しても、連合国軍が入ってきても 役に立つような工場は一つもないでしょう」。

 

 

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パリ市長テタンジュ                        Grand Cuvee

 

パリ市長必死の説得 8月16日

パリ市長ピエール・テタンジュは「ドイツ軍が橋を爆破するらしい」という匿名電話をもらい、急遽パリ司令官に面会を申し込んだ。開口一番、コルティッツは居丈高に「たとえばですよ。もしオペラ座にいたわが軍の兵士に、一発の弾丸でも発射されるとしますよ。そうなれば、わたしは一区画にある家を全部焼き払った上に、住民を全部銃殺させます」と言った。つづけて「わたしには親衛隊員を主力とする2万2000人の歩兵、戦車100台、爆撃機90機があります」と言い、橋、発電所、鉄道、通信施設の破壊計画を話した。テタンジュは体の震えを隠せなかった。

突然、将軍は咳き込みはじめたので、彼はバルコニーで外の空気を吸うようにすすめた。そこで、市長は脅迫に屈することなく、パリを証人に都への愛を語り始めた。「将軍たちは往々にして破壊する権力はお持ちですが、建設する権力はほとんどお持ちになりません。いつの日かあなたが観光客としておいでになったとき、このバルコニーに立って、このわたしたちの喜びと悲しみの目撃者である記念建築物を見て、こう言える日がくるかもしれません。フォン・コルティッツ将軍は、この建物を全部破壊しようとすることは出来たのだが、人類への贈り物として保存しておいたのだ」と。

コルティッツはしばらく無言のままだった。そして、ずっと優しい声で「あなたはパリのためには実に見事な弁護士ですな、テタンジュさん、あなたはご自分の義務を果たされました。わたしも同じくドイツ将軍としての義務を果たさねばなりません」。

 

 

共産党、一斉蜂起を決める 8月18日

共産党のパリ解放委員会は、ノートルダム寺院から南に10キロの野菜畑にある秘密会議場で、一斉蜂起という最も重要な決定を下した。議長役のアンドレ・トレはひとたび口火が切られれば、フランス国内軍(25000人)の愛国者が戦いに参加することを確信していた。

しかし、この圧倒的に不利な武装蜂起がもたらす、犠牲の大きさを考えれば、「常軌を逸した危険な賭け」であることを知っていた。大事なことは、ドゴール派の29歳のシャパン・デリマ将軍(ドゴールのパリ代表)やパロディ(ドゴールの政治家のトップ)を出し抜くことだった。2時間後に決定が下され、トレは喜色満面だった。しかし、彼の好み からすると、4人の委員 の中でレイ・アモン法学教授は、ドゴール派に近いと思われた。

法学教授への疑いは当たっていた。その日のうちに、アモン教授はドゴール派のパロディに、翌朝7時の一斉蜂起計画を伝えたのである。それなら、とパロディは大胆な方法を思いついた。先手を打って、パリ警視庁が彼らの手に渡る前に奪取するのだ。指令書はパリの警察官が、午前7時にノートルダム寺院の石畳の前に集まることを求めていた。これで、この派は一斉蜂起で先陣を勝ち取ることが出来る。

 

 

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降伏するドイツ兵                           Past Daily

 

ドイツ軍への反乱が始まった 8月19日

空気はうっとうしく、湿っぽかった。パリは占領第1518日目を迎えようとしていた。この灰色の朝から数時間後には、ドイツ国防軍の支配から逃れる戦いが始まろうとしていた。9時までの一連の報告にコルティッツは驚き、激怒した。一斉蜂起はまったくの不意打ちだったのだ。最初の2時間で市街の様相が一変した。

パリのいたるところから、徒歩または自転車で、スト中の警官が続々とノートルダム広場を目指して集結していた。警視総監ビュシェールの目が覚め、従僕に「何か変わったことはないかね」と訊ねると、彼は「ニュースがございますよ。みんなが戻ってまいりました」と答えた。時間は午前7時過ぎだった。

警視総監は中庭に面した窓からの光景に驚いた。小銃、拳銃、手榴弾武装した者、素手の者と数百人が集まっていたのだ。指導者のイヴ・バイエは叫んだ。「フランス共和国とドゴールの名において、わたしは警視庁を占拠する」。仰天した警視総監は「革命じゃないか…」とつぶやいた。そして、全員が熱烈な調子で「ラ・マルセイエーズ」を歌った。

そのあと、バイエはサン・ジェルマン大通りカフェ・ド・マゴで新聞を読んでいる男に「総監閣下、警視庁を占拠いたしました。警視庁はあなたのものです」と言った。男は満足の微笑を浮かべ、車に乗り新しい職場に向かった。この男は7日前に落下傘で着陸したシャルル・リュイゼで、ドゴール将軍が最初に任命した高官だった。

警視庁でドゴール派に一歩ゆずった以外は、共産党が準備した一斉蜂起は瞬く間に拡大した。ゲリラ戦での兵士のスローガンは、共産党のボス、ロレ大佐が命名した「一人が一人のドイツ兵を」で、集団を離れた敵兵を攻撃し、武器を奪い取っていった。フランス国内軍はあり合わせの武器で、20の区役所、警察署、郵便局などを占拠していた。そして、いたるところにフランス国旗をはためかせていた。

パリで最も閑静なヌイイに住んでいた5000人のドイツ兵は、この朝も戦争からはほど遠い生活を続けていた。二人のドイツ兵がコニャクを飲みくつろいでいた。後ろを向くと肉屋が銃を向け、二人のドイツ兵はヌイイの区役所に連行され捕虜になった。

一発も撃たずに区役所を占領したカイエットは65名の部下を3つの階に分散させていた。すると、ドイツ兵を満載したトラックが到着し、士官が「降参して、でてこい!」と叫んだ。するとカイエットは「お前たちこそ降伏しろ、こちらは解放軍だぞ!」と答えた。銃撃戦が始まり、ドイツ兵全員が死んだ。

幌のないメルセデスがチュイルリー河岸の並木道を走っていた。あまりにも平穏なので、若いフォン・アルニム伯爵は、パリがまったく別世界になることは想像できなかった。後部座席で、二人の軍曹が機銃をビルに向け警戒していた。ノートルダム寺院や警視庁のあるシテ島に入ると、警視庁から銃弾の雨が降り注いだ。二人の軍曹はあっけなく殺され、タイヤを射抜かれた車からアルニムは命からがら脱走した。その夜、家族に電話した。「母さん、パリは地獄になってしまいました」。

午後7時、ホテル・ムーリスでコルティッツはノルドリンクと会っていた。警視庁から「状 況は絶望的で、弾薬はあと数分しか残っていません」と電話があり、司令官に会見を申し込んだのだ。バルコニーに立った司令官は、自転車で行く「あの綺麗な娘たちを殺すのは悲劇だ」と言った。この言葉にぎょっとしたノルドリンクは、「本当にパリを破壊するつもりですか」と訊いた。すると彼は「奴らを爆撃して警視庁から追い出してやる」と答えた。

ノルドリンクは「もし爆弾が目標をはずれたら、ノートルダム寺院かサント・シャペル寺院に落ちるかも知れないのですよ」と反論した。彼は「わたしの立場に もなってごらんなさい。ほかに一体どんな方法があるのですか」と言う。スウェーデン総領事は「一時休戦」を提案した。司令官はおどろいた。しかし、彼の 提案には利点もある。司令官はパリの平穏が保たれるなら、考えてもいいと思った。

これは、コルティッツの生涯で最も重大な決定だった。彼は次のように言った。「もしも 警視 庁の指揮官たちが、1時間の間に部下を統制出来るなら、全市にわたる休戦に同意して もよい」と答えた。コルティッツは武力が引き起こす悲劇なしで、平静が回復されることを祈っていたのだ。彼はそのあとで、参謀長に明日に予定していた空爆は一時延期を伝えるよう指示した。ノルドリン クがニュースを伝えると、警視庁のピザ二は椅子からとびあがって喜んだ。

 

 

ドゴール、孤独なフランスへの旅 8月19日―20日

パリで一斉蜂起が始まった日、ドゴールはロッドスター機フランス号でノルマンディ海岸の飛行場に向かっていた。2000キロ離れたマダガスカルから英国領に入ると、同国の護衛編隊が来ることになっていたが、それが来ない。旧式のロッドスター機は目測でシェルブールの小さな飛行場を探す。困った機長が「おやじさんにこの地図を持っていき、飛行場の位置がわかるか、聞いてくれ」と機関長に言う。ドゴールは眼鏡をかけて、しばらく外を眺めていた。ノルマンディの突端の部分を見ながら「ここだ、シェルブールのすぐ東だ」と言った。それは正確だった。残っているガソリンはわずか120秒分しかなかった。危機一髪のところだった。

モペルチェの小さな飛行場で、8月19日に彼を迎えたのは泥と霧雨だけだった。そこで ドゴールは  「パリで暴動が起こった」ことを知った。ドゴールの政敵が挑戦を仕掛けてきたのだ。今やサイコロは投じられたのである。今夜中にも連合国軍のパリ進撃をアイゼンハウワーに説得しなくてはならない。

翌日、ドゴールはフランス号でコタンタン半島にある最高司令官に会いにいく。アイゼンハウワーは、決してパリの運命に巻き込まれることはしないという堅い決心をしていた。彼もパリの蜂起は知っていたが、彼の唯一の関心事は、ドイツ軍を打倒することだった。1時間15分後、肩を落としとぼとぼと歩いてくるドゴールの姿があった。アイゼンハウワーは「パリ解放のために計画は変更出来ない」と彼に通告したのだ。

しかしドゴールは直ちに「パリ問題を再考するように」要求した。もし、この提案が拒否されるなら、連合国軍の指揮下からフランス軍第二装甲師団を引き抜き、独自にパリに進撃する決意である、と言明したのである。フランス号に乗り込みながら、彼はケ二グ将軍に「ルクレールはどこにいるか?」と聞いた。

 

 

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アイゼンハウアー総司令官と将軍たち。ブラッドリーは左端。      Wikipedia

 

アイゼンハウアーの決意を変えた男 8月22日―23日

アメリカ軍司令部は、8月22日と23日に二人のフランスからの訪問者を受けることになる。最初の人物は共産主義者、ロル大佐の参謀ロジュ・ガロア少佐、二番目はコルティッツのメセッジを伝えるスウェーデン総領事ノルドリンクの弟ロルフであった。 ガロアは一人でドイツ軍前線基地を突破しアメリカ軍陣地に入る。その後、ジープに3回乗り換えサイバード将軍とブラッドリー将軍の司令部に到着する。二人の将軍はアイゼンハウワーとの会談に出発する前だった。

ガロアはサイバード将軍の将校を前に、ロルの目的である武器供与ではなく、アメリカ軍の進撃を要請したのだった。ひげぼうぼうで汚らしい彼は話し始めた。「パリの民衆は、自らの手で首都を解放し、それを連合国軍への贈物にしたいと思っているのです。しかし、成し遂げる力がないのです。だから、皆さんに助けに来て頂かなければなりません。さもないと、恐ろしい大量虐殺が行われフランス人が殺されるでしょう」。 その主張には誠実さと信念が溢れて、なみいるアメリカ人将校は心を奪われた。部屋は静まり返っていた。

「深く感銘」したサイバート将軍は「ルクレール将軍が来るので、面倒を見てやってくれ」と言い残して出かけた。ルクレールは飛行場でガロアと二人でサイバート将軍の帰りを待っていた。彼が姿を現し、二人はかけ寄った。サイバート将軍が大声で言った。「君の勝ちだ!君を直ちにパリに派遣することに決定した」。この少し前、サイバートはグランシャンの会議場で、アイゼンハウワーとブラッドレーに労働者の指導者から聞いた話を切々と訴えた。アイゼンハウアーは溜息をついて「やれやれ、なんということだ。なあブラッド。これじゃあどうやら行かねばならんようだな。ルクレールに出発するように言ってくれたまえ」とブラッドレーに言った。

ブラッドリーは「パリに進撃する決定が下った」と言い、実行は彼とルクレールガロアの三人の責任であると強調した。そして、ガロアに「あなたはこの決定を下すのに、大いに力のあった情報の提供者ですからな」と言った。二日前雨の夜、一寒村の別荘で、共産主義者の上司から受けた命令を無視して、武器の代わりに連合国軍の援助を受けるようにと説得されたこの小柄な使者は、ドゴールさえなしえなかった偉業をなしとげたのである。ガロアのおかげで、連合国軍の軍隊はフランスの首都への、進撃を開始することになったのだ。

喜び勇んだルクレールは自分の小型飛行機のほうへ急いだが、ブラッドレーは呼び止めて「作戦命令は軍団長のところへ取りに行ってくれたまえ」と言った。ルクレールが師団司令部に戻ったときは、もう夜になっていた。彼は機から飛び降りると、滑走路に出て待っていた作戦部長のグリビュス少佐に、4年間も待ち続けていた言葉を叫んだ「グリビュス、即刻進撃だ!」。

フランス第二装甲師団ほど奇妙な、いろいろな人間の寄り集まりでできた部隊はなかっただろう。逮捕、追放を恐れるあまり家族には一言も言わず家を出て、何百キロも歩き通してきたフランス人がいた。危険なドーバー海峡をボートや盗んだ漁船に乗ってわたってきた青年もいた。ポーランド、ロシア、フィンランドノルウェーからアフリカやイギリスにたどり着いた開戦当時の捕虜たちもいた。フランス語などほとんど話せないアラブ人、パリの破壊を座視できないリビア人、メキシコ人、チリ人もいた。これらの男たちにとって、ヨーロッパでのこの戦いは、まさに十字軍だった。ドルジェクス大尉は4年前、パリで無力な同志とドイツ軍と戦った悲惨な体験があった。その当時はモーターサイクルだったが、今は新しいシャーマン戦車に乗って戦うのだ。砲塔の上に書かれた名前はパリだった。

8月22日の深夜、ヒトラーは戦略会議を開いた。彼は軍首脳部の面々に「古今の歴史上、パリを失う者はフランス全土を失っている」と言い、反乱首謀者の公開処刑を命令した。最後に結論を下した。「パリはどんなことがあっても、敵の手に渡してはならない。もし敵に渡すようなことがあっても、その時はパリは廃墟となっているだろう」。

翌日の23日にアメリカ軍司令部を訪れた、パリ司令官のメセッジを伝えるノルドリンク総領事の弟ロルフの要請は次の「コルティッツの決断」でその詳細を書いている。

 

 

コルティッツの決断 8月21日ー23日

イライラしたようすでパリ司令官を待っている男がいた。ヴェルナー・エーベルナッハ 大尉 だった。大尉は部下に 命じて、6日間かけてパリのあらゆるところに爆弾を仕掛け終わっていた。8月21日、エッフェル塔などの主要建造物に、導火線の火をつける命令を司令官から受け取りに来たのだが、2時間待っても会えなかった。コルティッツの命令は「準備作業を続行し、指令を待て」だった。

コルティッツにとって、暑いホテルで過ごしたその一夜は、全世界が崩壊するような思いであった。ノルドリンクの休戦協定の賭に敗れたのだ。それに最高司令部からの破壊命令のどれ一つも実行していない。クルーゲ元帥がパリ地区の工業施設破壊を命令したのは15日で、昨日、ベルリンから破壊命令を確認する電報を受けている。しかし、司令官は自分が反抗的になっているのに気が付いていた。

「親族連座法」という過酷な法が家族を脅かしている。また、ヒトラーを信じられなくなっている。あの男は狂人ではないのか、という疑いが念頭から離れない。そして、パリを破壊すために、彼は自分をここに派遣したのではないか。歴史はパリを破壊する男を決して許さないだろう、という議論は彼にはうなずける議論だ。彼が陥っている矛盾から脱却する方法は、フランス人が必死になって求めている連合国軍のパリ即時入城だった。

 

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スウェーデンのノルドリンク総領事         Wikipedia

 

翌朝、コルティッツはノルドリンクに至急会いたいと連絡した。外交官が司令官の部屋に行くと、彼は「ウィスキーを一杯やりましょう」と言い、グラスをあけ「乾杯」と言って一息に飲みほした。まじめな顔で「領事閣下、あなたの休戦協定は失敗だったようですね。暴動は日ましに拡大していくようです」と言った。溜息をついた総領事は、本当の権威者はドゴールだけで、ノルマンディ戦線のどこにいるのかわからない、と答えた。すると、司令官は「どうして彼に会いに行かないのですか」と聞いた。呆気にとられた総領事はしばらく沈黙したままだった。ノルドリンクは、連合国軍のところまで行くのに、ドイツ軍前線を通過する認可書を司令官は発行してくれるのか、と尋ねた。「もちろんです」とコルティッツは答えると、総領事は中立国の外交官として連合国軍と交渉する使節団を組織すると約束した。    

司令官はポケットからベルリンからの命令書を取りだし次のように言った。この命令の一つでも従っていたらパリは廃墟になっていただろう。パリ休戦が失敗した今となっては、この命令には従わざるを得ないのだ。現在これを阻止できるのは連合国軍の早急な介入のみである。そして付け加えた「これは反逆行為ととられても仕方があるまい。連合国軍に援助を頼むにひとしいからな」。

彼はノルドリンクのために、ドイツ軍戦線を超える認可書を書き渡した。総領事はドイツ軍戦線を突破する保障を与えてほしいと言った。司令官はドイツ前哨地点までボビー・ベンデルを連れていくことに同意した。コルティッツはやさしく彼の腕をとり戸口まで送っていった。総領事の手をぎゅっと握りしめて言った。「早くいらっしゃることです。あと24時間、いや48時間くらいしかないでしょう。そのあとは、わたしには保障ができません」。

スウェーデン国旗をひるがえしたシトロエンは、5人の使節団をのせて100キロ先のアメリカ軍前線に向かって走り続けた。そのあとをボビー・ベンデルが護衛しながらついていった。トラップの町はずれで屈強なドイツ兵が「これは何の用だ」と車をとめた。ベンデルが怒声で、一歩哨が外交使節団をとめるとは何事か、と詰問した。戦車隊長が現れ通行証を見せたが、ベンデルに押し返した。彼は戦車隊長にくってかかると、パリ司令官に電話することに同意した。電話にでたパリ司令官は「もしその一行を通させないというなら、わたしがじきじきに行って通過させる」と脅し一件を落着させた

そのあと使節団は命びろいをする。車が出発しようとした瞬間、歩哨が飛び出し「地雷だ!」と叫んだ。シトロエンの3メートル先から地雷原が始まっていたのだ。使節団の車は歩哨がジグザグに歩いて行くのについていった。冷汗の35分だった。アメリカ軍は500メートル先にいた。

スウェーデン総領事の弟ロルフ・ヘルドリンク(兄が心臓病で倒れ代理)は神経を消耗させる尋問を12時間ぶっ続けで受けていた。それから解放され、前日、ブラッドレー将軍がルクレールにパリ進攻の青信号を出したと同じ滑走路で、ヘルドリンクは当の将軍に伝言をつたえていた。将軍は静かにスウェーデン人の説明に耳を傾けている。彼は次のように説明した。パリ司令官はパリ破壊の公式命令を受けている。彼はその命令を実行していないが、窮地に追い込まれている。現在の情勢が進展すれば命令を実行せざるをえないだろう、だからコルティッツが望んでいるのは、ドイツの援軍が到着する前、あるいは破壊命令の実行をせざるをえない状況になる前に、入城してほしいということだ。    

ブラッドレーは直ちにこれに応じた。前夜、彼が命令した作戦は絶望的に緊急を要する性格を帯びてきた。アイゼンハウアーも彼も、ドイツ親衛隊第26および27戦車師団が支援部隊としてパリへ向かっていることを知っていた。もし、連合国軍がそれらの部隊より先にパリに着かなければ、パリは怖しい戦場となる危険性がある。ブラッドレーは「この男の気が変わったりしたら大変だぞ」と思った。かたわらのサイバート将軍に「フランス軍師団に大急ぎでパリに向かうようにホッジスに伝えてくれたまえ。それとアメリカ第4師団もパリに急行することもね」と言った。

 

 

ドゴール、パリまで50キロ 8月24日

「ドゴールよ・・・・・・あれがドゴールだわ・・・」とウェイトレスは天使の幻影をみたようにその目に涙をいっぱいためて、じっと立ちつくしていた。ドゴールはちょうどランブイエに到着したところだった。将軍はヴィシー政権の象徴であるランブイエ城に入り最上階にある質素な部屋へ入った。そのあと荘重な宴会の木の食卓で、3人の部下とともに夕食のC式の軍用缶詰を開けた。

食事をすませると、ルクレールを呼び寄せた。彼はドゴールに攻撃計画の大要を説明する。もし彼が行動を迅速にしなかったなら、パリへの途上で師団もろとも包囲されてしまう可能性があった。ドゴールはじっと若い将軍の説明を聞き、長い間考えこんで承諾を与えた。彼はこの率直で不屈の魂をもった熱血漢に特別の愛情を抱いていた。いわば精神の息子のようなものだった。「しっかりやってくれよ」とただ一言い、最後に付け加えた。「早くするんだぞ。第二のコミューンを出現させんようにな」

翌日、背の高いドゴールがランブイエ城のテラスを行ったり来たりしていた。彼は一時間ごとにルクレールの前進がますます困難になり、今夜のうちに自分がパリに入城する希望は達成されそうにない。午後パリの抵抗運動創刊号を見たドゴールは、政敵の動機と目的についての疑惑が確認されたと思った。彼が思ったとおり、共産主義者はドゴール将軍歓迎委員会を組織しその傘下に彼を迎えるつもりだった。しかしドゴールにはその手に乗るつもりはなかった。彼が望んでいるのは、大衆が彼に与えてくれる信頼だけだった。全国抵抗評議会とか軍事行動委員会の運命を彼は決めていた。解放の光栄ある歴史の名誉席に収まってもらうつもりだった。

 

 

パリ司令官の孤独 8月24日

コルティッツは旧友のヤイ大佐になにも言わずに電文を渡した。その電文にはパリ市街を廃墟の原野にせよという狂人からの命令であった。読み終えると大佐は溜息をつき「とんだことになりましたね。しかし、あなたにどんな選択ができますか」とあきらめの返事だった。ヒトラーの狂人の命令の熱狂的支持者と唯々諾々と受け入れる人々に囲まれて将軍は孤独だった。将軍はあとどれくらいの間、この美しいパリの建物を焼く命令に逆らえるのだろうかと思った。

その翌日8月24日の朝、コルティッツはB軍集団作戦司令部からの電報で、彼の指揮下に入る親衛隊第26および第27戦車師団がパリに近接中であることを知らされた。彼は長い間沈黙し考え続けていた。命令に背くか否かの選択に迫られていたのである。そして、一日半まえに出発したノルドリンク使節団からは、なんの知らせも受けていなかったのだ。彼はルクレールの第二装甲師団アメリカの第4歩兵師団のパリ進軍のニュースも知らなかった。

先に援軍が到着すれば、コルティッツは市防衛のために戦わざるをえない。彼の義務感と軍人としての名誉がそれを彼に強要している。無益な戦闘になることは彼も承知していた。もう選択の余地はなかった。彼は戦うだろう。しかし、この日がホテル・ムーリスでの最後の日になることも知らなかった。

ホテル・ムーリスから500メートルも離れていない、アルジェ街のビルの3階で、ボビー・ペンデルがパリ参謀部の共犯者のおかげで、あらゆる電報の内容を入手し読み、それを心臓病の発作でベッドにいるノルドリンクに伝えていた。情勢はきわめて重大だ、とボビーは断言した。援軍が先に到来する場合、自分自身と家族全員を銃殺の危険にさらしたくなければ、パリ破壊を実行しなくてはならなくなるだろう。「もし連合国軍が数時間のうちに到着しなければ破滅しかない」と彼は言った

同席したドゴールのパリ代表のデルマ将軍の副官クリュズは、自転車に飛び乗り秘密本部へ急いだ。そこでデルマに「早く連合国家に知らせなければ、コルティッツは応援の二個師団を待って、一戦をまじえパリを破壊するつもりだ」と報告した。もう一人の若き同席者プティ・ルロアはオンボロ自転車でドイツ軍前線を突破し、この極秘情報をルクレール師団とアメリカ軍に知らせに行った。

 

 

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ノートルダム大聖堂の鐘                                      Wikipedia

 

パリ全教会の鐘が鳴る 8月24日―25日

ホテル・ムーリスの大きな部屋で、幕僚がコルティッツとの別れの晩餐会を開こうとしていた。パリの占領軍の運命に幻想を抱いている者はほとんどいなかった。その時、アメリカ軍がセーヌ河を渡りなんの抵抗もなくドイツへ進撃中という、衝撃的なニュースがコルティッツに届いたのだ。その救援に向かったのが、パリ支援の二つの戦車師団であった。コルティッツは今や、自分の部隊しかあてにできないことを了解した。

ベルリンの最高司令部が自分に期待しているのは、エーベルナッハ 大尉に起爆装置に点火せよという命令だけである。彼はこの終末には、自分も責任があることを知っていた。

ルクレール将軍の命令で、パリ一番乗りをするレイモンド・ドロンヌ大尉の3台の戦車と6台の半装軌車は、オースティリッツ橋で軽い銃撃を受けただけで目的地に向かっていた。ドロンヌは突然、感動で喉がつまるのを感じた。夕闇の中で、ノートルダム寺院の永遠に変わらぬ姿がそびえていたのだ。ドロンヌの編隊はパリ市庁舎の前で停車した。彼の金色の時計は午後9時22分をさしていた。

国営ラジオ放送のアナウンサーが叫んでいた。「パリ市民よ、喜んでください。ルクレール師団がパリに入りました。わたしたちは嬉しさで気も狂いそうです。彼はヴィクトル・ユーゴの詩を朗唱し始めた。

目覚めよ!恥辱はもうたくさんだ。偉大なるフランスを再興させよ!偉大なるパリを再興させよ!

放送局が「ラ・マルセイエーズ」を流したあと、アナウンサーは「牧師さんたちに、力いっぱい鐘を鳴らすように言ってください」と言った。パリの全教会がそれに応じた。パリは荘厳な合奏につつまれ、市民350万人の多くがその音を聞いて泣いていた。

ホテル・ムーリスでは晩餐会の席でコルティッツと幕僚が懇談していた。突然、遠くから鐘の音が聞こえてきたと思ったら、鐘の音が大きくなり窓から流れ込んできた。会場は静まり返った。「どうして、鐘が鳴っているのですか」と無邪気な秘書が訊ねた。パリ司令官は「あれはわれわれのために鳴っているのだよ。連合国軍がパリに入城するというのでね」と言った。その鐘の音はコルティッツにとって弔鐘だった。

真夜中だった。コルティッツ がホテル・ムーリスの長い廊下を歩いていたとき、若い将校エーベルナッハが追いかけて来た。自分は新任務につくので去ることになる、司令官から命令があるのではと思い急いでやって来たという。司令官は素っ気なく「エーベルナッハ、もう君に対する命令はないよ」と答えると、エーベルナッハは爆薬を爆発させるために、一個小隊をパリに置いていくという。「いいから、君の部下を全員引き連れて出発したまえ」と言い、黙って部屋へ入って行った。これは司令官がパリを救った瞬間だった。

 

 

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V2の発射準備                           gettyimages

 

ヒトラーのV1 号、V2号発射命令 8月25日

ラステンルグの大本営で戦略会議が開かれたのは午後1時すぎであった。ヒトラーは連合軍が猛烈な勢いで、パリに攻め込んでいるという報告を信じられなかった。怒り狂った彼は、1週間も前からフランスの首都は最後の一兵まで死守せよと命令しているではないかと怒鳴った。長い沈黙のあと、ヒトラーはテーブルを拳固でたたきながらヨードル参謀総長に尋ねた。「わたしは知りたいのだーパリは燃えているのか?いま、この瞬間、パリは燃えているのか イエスかノーか、ヨードル、どうなのだ」その問いに答えられない参謀総長は沈黙したままだった。そして総統は最後の決心をしたと言った。ヨードルのほうを向き、パリに対するV1号 、V2号の1000発の集中攻撃をせよ、と命令したのだ。

その日、パリの象徴エッフェル塔の頂上に登ろうと決意している男がいた。レイモン・サルニゲ消防隊大尉はあの4年前の敗戦の日に、ここにナチ・ドイツのハーケンクロイツ旗がかかったことへの屈辱を覚えている。三色旗を頂上に掲げるため痛む足をひきずりながら1750段の階段を登っていった。彼はやっと頂上にたどり着き、自家製の旗をとりだした。それは三枚の軍隊用ベッドシーツを縫い合わせたもので、色もあせていた。サルニゲは気を付けの姿勢で、涙をぬぐいもせず、夏の青空に国旗を掲揚した。

ルクレール師団の古強者の一人ジャック・プラネ大尉は、ドイツ軍パリ司令官逮捕を命じられた。トレ広場に集合した彼の部下200名は13時に攻撃を開始した。彼は部下を三つの班に分け、二つの班は背後から攻撃するが、彼が指揮する三班はパリ司令官の本部の正面玄関からのりこむつもりだった。その班のカルシェ中尉がピラミッド広場に差し掛かると、ドイツ軍の機銃の十字砲火にとらえられ、彼の歩兵部隊は完全に道をふさがれてしまった。それまで、彼の歩兵部隊に先導されていたプラネ大尉の5台の戦車は、敵を一掃するためにカルシュ部隊の前にでた。

声で騒音に満ちている事務所のなかで、コルティッツは最後の手紙を口述していた。ノルドリンク総領事にあてたものだった。「親愛なるノルドリンク総領事閣下、本官は閣下に対し深甚なる感謝の意を表するものであります」将軍はそこで中断して、窓のほうに数歩寄った。彼はびっくりした。敵の戦車がそこに来ていたのである。ホテル玄関に砲針を向けているのに不安になったが、彼は「砲塔を開けたままにしているのは、この戦闘を甘く見ている」と思った。その時、屋根の上にいたドイツ兵が戦車めがけて手榴弾を投げた。手榴弾は爆発し将校と砲手は破片の雨で負傷し、外に飛び出しアスファルトの上で火まみれでころげまわった。ラインホルト少佐は部下に発砲を禁じた。煙のたちこめる戦車の操縦士は、直ちに現場から脱出した。

40分前、リヴォリ街に進出してきた5台のシャーマン戦車のうち、3台までがドイツ軍の手榴弾やバズーカ砲弾の攻撃でたたきつぶされた。戦闘のすざましさは一人の将校が「こりゃあ大変だ!スターリングラードもこんなふうだったにちがいない」と言っている。

ムーリスの前では戦闘は激化していた。90分前、リヴォリ街の攻撃に敢然と出陣していったレクレール師団の5台の戦車のうち、最後まで生き残ったのはたったの1台だった。パリ司令官逮捕を命じられたジャック・プラネ大尉は200人の部下の先頭に立って戦ったが、ムーリスまであと50メートルのところで射撃され死亡した。

アンリ・カリシェ中尉とその部下3人が、携帯機関銃をかまえてムーリスの玄関に躍り込んだ。彼らは玄関のガラスケースに入った、ヒトラーの巨大な肖像画を機関銃で木っ端微塵にした。カリシェはリンの匂いがする手榴弾をロビーの中央めがけて投げた。もうもうとたちこめた煙のなかから、両手をあげたドイツ人将校が一人現れた。その男にカリシェが「全員、一人ずつ両手を上げ、武器を捨てて出てくるんだ」と命じると、リンで半ば視力を失い、服もぼろぼろの一団が降伏した。カルシェのほうに歩いてきた参謀将校に「将軍はどこか」と訊ねた。

将軍はカルシェの一階上の小部屋にある長いテーブルに座っていた。彼のそばには、4人の側近が待機していた。将軍と同じように彼らも降伏の象徴として、拳銃を机の上に置いていた。あきらめきったコルティッツはなんの動揺も見せずに、大団円の時を待っていた。彼はなんら自分をとがめることはなかった。いまこの瞬間にも「最後の一弾まで戦う」という総統の命令に従っている。だから、自分が捕虜になってからは部下にも降伏を命じることができる。同時に彼は、なにを怖れることもなく、恥じることもなく、歴史の審判にも堂々と臨むことができる。復讐心に燃えるヒトラーが、彼に死刑執行人の役割を押し付けようとすることをついに許さなかった。ドア開き伍長が「閣下、奴らがやってきました」と言った。

ドイツ軍将校がドアを開けカルシェが    なかに入った。コルティッツは立ち上り、中尉は不動の姿勢で敬礼した。「ドゴール将軍の軍所属アンリ・カルシェ中尉であります」と名乗ると、ドイツ人は「パリ司令官、フォン・コルティッツです」と答えた。カルシェが降伏の意思があるかと聞いた。「ヤー」と彼は答えた。そのとき二人目のフランス軍将校ド・ラ・オリ少佐が部屋に入ってきた。彼はコルティッツにドイツ軍が降伏文書調印をするために、レクレールが待つモンパルナス駅への同行を求めた。

下の階では車に乗るまでの間、コルティッツはまばたき一つせず群衆の怒りを受け止めていた。女たちは彼に飛びかかり、肩章をもぎ取り、唾をはきかけた。男たちは口々に罵声を浴びせた。彼はドイツのナチ党員に代わって、償いをしたのである。その時、赤十字の女性が将軍のそばに割って入り、自分の体を盾に彼をかばった。コルティッツは親切な女性に「奥さん、あなたはジャンヌ・ダルクのようですね」とささやいた。

ノートルダム寺院に面した警視庁の食堂で、もう一人の将軍が昼食の席についたところだった。ルクレールにとってこの勝利の日は、故国フランスへの進撃を始めてから4年目に当たっていた。1940年8月25日にドゴールの自由フランスの名で、同志17人と丸木舟に乗って、フランス領カメルーンの再占領を企てた記念すべき日であった。

彼はコルティッツが到着したと聞き、隣室のビリヤード室に入り降伏文章を受け取る準備をした。小柄なドイツの将軍がルクレールに近寄ってきた。「わたしはフォン・コルティッツです」と言うと「わたしはルクレール将軍です」とかつて陸軍士官学校で学んだドイツ語で答えた。降伏文書の条文について簡単な議論をした。そのあと、共産主義者のロル大佐が入ってきて、クレールのわきに自分の名前をいれるように主張した。ルクレールはそれに同意した。二人の合意でパリの15の基地で抵抗を続けるドイツ軍に、仏独米の3人の使者がそれぞれ軍事基地を訪れ、パリ司令官が署名した降伏命令書を渡し説得した。48時間以内にほぼ2万名のドイツ兵が捕虜になった。この戦闘だけでドイツ兵の死傷者2200名、レクレールの師団は42名が死亡し、市民は172名の死亡と負傷者が712名の負傷者がでている。

 

 

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ドゴール将軍が最も信頼したルクレー ル第二装甲 師団長    France3

 

ドゴールのパリ帰還 8月25日

ドゴールは首都への距離が近くなるにつれて「感動に息がつまると同時に心が澄みわたる」と大戦の回顧録に書いている。彼は連合国軍に知らせもせず、その承諾もえず、フランス人の運転するフランス車に乗って、銃声の鳴り渡るパリ市内に入ろうとしている。彼が望んでいた「基本的にフランスだけの問題」のクライマックスに向かって車は走り、オルレアン通りに入ると、彼はパリ市民の熱狂的人波に囲まれていた。午後4時半、ドゴールの亡命は終わりをつげた。

モンパルナス駅に入ったドゴールは、ルクレールが渡した降伏文書を手にして、ロルの名を見て顔がこわばった。この書類に彼の名をいれるのはまずかった、とルクレールに注意した。その朝、彼は全国抵抗審議会の声明はドゴールにはふれず、黙殺していたのだ。これは彼へのあきらかな挑戦であった。彼は駅を出発する前に彼はそこに居合わせたルクレールの参謀と握手をした。そこに、スペイン内乱時代の古い軍服を着た異様な姿のロルがあった。しかし、ドゴールは彼の手をしっかりと握りしめた。それから、車でアンヴァリッドを通過し、陸軍省の玄関の階段をのぼった。この建物は彼が去ったときのままだった。大臣室の写真も絨毯もカーテンも昔のままだった。わが家に帰った彼は、ここで国家再建に着手しようと決心した。

 

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ドゴールを待つ共産党党首のアンリ・ロル・タンギー(ロル大佐;右から二人目)
1944年8月月25日                          Wikipedia

 

ドゴールは、陸軍省の事務室でパリにおける政治代表パロディと初対面をした。そのとき、彼は全国抵抗評議会などに迎えられる意志はないという持論を展開した。パロディは、ドゴールが彼らの根拠地、市庁舎を拒否することでパリ市民に大きな失望を与えることになる、決心を変えてくれと迫った。しかしドゴールは頑固に拒んだ。そこでパロディは彼をよく知る、警視庁のリュイゼに応援を頼んだ。警視総監は長い議論のあとで説得に成功した。だが、市庁舎に出発する前に、二つの決定を総監に知らせた。第一は国家の象徴である警視庁を訪れそのあとで市庁舎を訪問する、第二は明日、凱旋門からノートルダム寺院までの凱旋行進をするであった。この行進は全国抵抗評議会への回答であった。まわりの人々に大声で「よろしい、行かなくてはならないなら、行くことにしよう」と言った。

一斉蜂起の隊長たちの失望は怒りに変わっていった。評議会委員長のピドーが「これまで人にこんなに待たされたことなどないぞ」「ドゴールなしでも、われわれだけで解放の式典をやろうではないか」と叫んだ。やっと到着した質素なカーキ色の制服を着た、ドゴールが大股で壇上がった。彼の演説は感動的だった。「敵はよろめいている。が、まだ打ちのめされてはいない。現在ほど国民の団結が必要とされることはない。戦争、団結、偉大、これがわたしの綱領です」

彼が話し終わったとき、ピドーはポケットから宣言書をとりだした。彼はしわがれ声で言いった。「あなたのまわりには全国抵抗評議会とパリ解放市民委員会がおります。群衆の前で、厳粛に共和国宣言をしていただきたいのですが」。ドゴールは氷のような視線でピドーを見て「お断りだ。共和国は一度滅びたわけじゃない」と答えた。ドゴールが市庁舎を去ったあと、共産主義者のひとりが 激怒して「ことは簡単だ。われわれは奴に負けたんだ」と言った。

マルジヴァルにあるB軍集団の地下司令部の電話が鳴り始めた。ベルリンのヨーデル大将がヒトラーの緊急命令でモーデル元帥と話したかったのだ。彼が不在と知ったヨーデルは参謀長のハンス・シュバイデルを呼び出した。そして「昨日、総統はV 1号とV2号によるパリ総攻撃を即刻開始せよと命じられている。パ・ド・カレ、北部フランス、ベルギーにあるロケットの1000発をパリへ打ち込む攻撃をせよ」、とシュバイデルに命じた。そして、ドイツ第三空軍参謀部も「出勤可能の全機をもって」パリ空爆命令を受けていると付け加えた。シュバイデルは 総統の命令を直ちに伝えますと言い、受話器を置いた。シュバイデルは蒼ざめ、人生で最も苦しい判断を迫られていた。彼はラステンブルク大本営からの電話が来たとき、モーデルがいたら1時間もたたないうちにV 1号とV2号がパリに飛んでいっただろうと思った。しかし、彼はすぐさま心を決めた。パリが陥落した現在、この命令は常軌を逸していると判断して、彼はこの命令をとりつがないことにした。一週間後、彼はゲシュタポに逮捕された。

シュバイデルのこの最も尊敬すべき決定と勇気は、翌日のドゴールのシャンゼリゼ大通りの凱旋行進に集まった市民を救っている。ベルリンの最高司令部も彼もこの行進のことを知らなかった。もし、シュバイデルが命令を伝達していたら、V 1号とV2号による攻撃によってパリは恐るべき殺戮の首都になっていただろう。

 

 

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大群衆に囲まれるドゴール                                                           Wikipedia

 

ドゴール、フランスを掌握する 8月26日

ドゴールは凱旋門の無名戦士の墓の前に立ち不動の姿勢とっていた。墓に身をかがめると、赤いグラジオラスの花環をおいた。そして、凱旋門のド―ムの下に、“死者に”と“ラ・マルセイエーズ”が鳴り響くうちに、彼は永遠の炎をふたたび燃え立たせた。そのあと、整列している第二装甲師団の戦車と装甲車部隊を閲兵した。

オベリスクまでの1800メートルの沿道は、喝采をおくる人々で車道までいっぱいだった。一点の雲もない青空の太陽が輝くこの日、ドゴールはまばゆいばかりの勝利の瞬間を生きようとしていた。しかし、彼はドイツ空軍がこの勝利の光景をおそろしい悲劇にしてしまうことを知っていた。

シャンゼリゼ大通りをドゴールは大股で行進していた。彼の背後に新フランスの指導者が続いた。ルクレール、ジュアン、ケニグ、レジスタンスの隊長たち、全国抵抗評議会のメンバーたち、パリ解放市民委員会や軍事行動委員会のメンバー、パロディ、シャンバン・デルマなどがいた。ドゴールは彼らのほうへ振り向いて言った。「諸君、わたしより一歩下がってください」。

世界で一番美しいこの通りに沿って、100万の群衆が屋根、窓、バルコニーに鈴なりで、人の波はついに車道にあふれた。熱狂した群衆の注視の的ドゴールは、群衆のなかに同じ一つの思いがあると感じ、自分がフランスの運命を託されていることを強く感じていた。

ドゴールがコンコルド広場に入っていくと一発の銃声が響き渡った。それに反応して四方から小銃が発射された。何千の人々が石畳に伏せたり、戦車のかげに飛び込んだりした。ドゴールが銃声には無頓着に歩いて行った。一人の戦車兵が「しめた、5番目の円柱だ」と叫び、オテル・クリンのその円柱に大砲を発射した。埃の中で円柱が崩れ落ちた。それと同じころ、カリシッ中尉と同僚のアメリカ人はノートルダム寺院の北の塔付近で銃声を聞き、塔のあるバルコニーから弾丸をあびせている3つの小銃の銃身を見た。カリシッは「畜生、奴らはドゴールを暗殺しようとしているんだな」と思った。

ドゴールのオープンカーがノートルダム寺院前の広場に着くと、彼はゆったりと車を降り、アルザスの郷土衣裳を着た二人の少女から3色の花束を受け取った。彼が正面玄関に向かって歩き始めると、弾丸が広場を掃射した。警戒中の兵士が四方八方に射ちまくっていた。しかし、ドゴールは泰然自若として歩み続けていた。参謀将校の秘書ステルは、ドゴール崇拝者ではなかったが「しゃんと体をたてて、がっしりと」進んでいく将軍の姿を見た瞬間、「この人に対する誇りの涙」が流れるのをとめることはできなかった。

ドゴールは本堂の貴賓席の席に静かに腰をおろした。参会者の多くが敷石にはいつくばり、銃声が大伽藍に反響しているなかで、彼は手に祈祷書を持ち聖母賛歌を歌いだした。賛歌が終わると、これ以上続けるのは愚であると思った彼は式を取りやめた。ドゴールはいささかも動じない足取りで伽藍を出、車に乗り込んだ。

ドゴールがどんな行動や演説をしたとしても、彼が肉体的な勇気と精神の平静さを公衆の前で示したこの行動ほどには、同胞の尊敬を集めることはできなかっただろう。この行動の最初から最後まで将軍と行をともにしたアメリカ人記者は次のような電文を送った。「この日、ドゴールはフランスを自らの手中に収めた」。

陸軍省に着くころには、ドゴールは一つの決心をしていた。沿道の群衆の喝采は、彼を支持する声であると受け取った。最初の決定はフランス義勇軍パルチザンを解散し、正規軍の編入し軍規の下に統率することだった。2日後、ドゴールはパリ地区のフランス国内軍の上部構造を解体してしまった。彼は利用できるものは軍に再編されると布告した。彼らの武器や装備はすべてケニグ将軍のもとに集められた。彼は全国抵抗評議会の委員と会議をもった。委員たちは永続的な機関にする案を提示したが、彼は皆さんの役割は終わったと告げた。ドゴールは回顧録でそのときのことを「鉄は熱かった。わたしはそれを打った」と書いている。

凱旋行進があった夜、ヒトラーはフランスの首都に彼の計画どおりの破壊を加えることができた。105機からなる編隊を組んだドイツ空軍機が、パリの東北地区を爆撃したのだ。戦争は終わったと思っていたパリの市民はびっくりした。ヴァンサスの城とリヨン駅のある地区での被害者は、30分間で死者213、負傷者914で、全破壊の建物は597戸に達していた。これは全戦争期間をつうじて最大の被害だった。

陸軍省の窓からギイ中尉が火災を見つめていた。隣のアパートから、パリ解放の祝いの幸福な笑い声が聞こえてきた。彼は暗闇のなかから人影が近づいてくるのに気づいた。ドゴールだった。不機嫌そうに押し黙って窓の外の光景を見つめていた。彼は溜息をついて「あの連中は、パリが解放されたから戦争はないと思っているのだろう。だが、戦争はまだ続くのだ。一番辛いのはこれからなのだ。われわれの仕事はやっと始まったばかりなのに」と言った。それから、ドゴールは事務所に戻って行った。石油ランプの明かりで彼は「やっと始まったばかりの仕事」に没頭し始めた。

 

 

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トレント・パークの“盗聴者”                            BBC NEWS

 

パリを救った二人のその後

コルティッツはロンドン北部にあるトレント・パーク捕虜収容所に収監され、米国のミシシッピ州の収容所に移ったが、容疑がないので47年に釈放された。トレント・パークには44年8月から他の将軍や将校とともにいたのだが、ドイツの囚人への待遇は、抜群でまるでゲストのような扱いであった。彼はそこが英国諜報部の情報の宝庫であったことを知る由はない。ゲスト待遇は囚人をリラックスさせるための作戦であった。

英国諜報部は100人の“盗聴者”にトレント・パークのドイツ人将軍の会話を録音させ、本音を知ろうとしたのだった。例えば、“盗聴者”は英国に亡命したユダヤ系ドイツ人は、将軍たちの会話からドイツ軍が東欧で大量のユダヤ人を虐殺している事実を掴んだのだ。チャーチルは戦争中にこのドイツ軍の秘密を知ることができたのである。コルティッツはトレント・パークに入った直後の44年8月29日に「わたしがやった仕事の中で、最悪なのはユダヤ人の撲滅だった。わたしはこれを徹底的に全面的にやった」と秘密テープで告白している。

また44年10月の秘密テープで、コルティッツは「われわれは、すべてのことに同意したことに罪を負わねばならない。われわれはナチの言うことを半分は信じていた。しかし、やるべきだったのは“地獄へ行ってしまえ、馬鹿なことを言うんじゃない”と言うべきだったのだ。わたしは部下の兵士がこのナンセンスを信じることに加担した。わたしはこのことを恥じる。われわれの罪はあの教育のない動物(ヒトラーと側近)よりも重いかもしれない」と告白している。 このコルティッツの発言は、まだヒトラーが連合国軍を相手に戦っていた頃のものである。彼のヒトラー批判は厳しく、自らの責任についても、それ以上と思えるほど厳しい。

彼が恐れていたベルリンの報復はどうなったのだろう。1944年8月28日、参謀総長モーデルはヒトラーにコルティッツを「パリ司令官の責任を果たさなかった」ので告訴することを要請した。その手紙には「その過失が彼のうけた戦傷によるものか、抵抗の意思弱化か、敵の介入によるものか、はわからない」と言っている。軍事法廷がはじまり、死刑の判決が下されたとの報道もあったが、結果的には親族連座法で家族が罰せらることもなく、1947年に彼が釈放され一家は再会をはたした。こうなった理由は裁判が長引き、ドイツが負け戦になりそれどころではなくなったからだと思われる。

コルティッツは戦後 1955年に、ノルドリンクとパリで再会したのだが、残念ながら話の内容は分からない。しかし、1956年にホテル・ムーリスを訪れたときのことが記録に残っている。彼はホテルのバーにやってくると、バーテンダーが「不自然なほど姿勢が正しい」コルティッツ のことを覚えていた。ホテルのマネージャーがやって来たので、彼はパリ司令官時代の執務室を見学 したいのだが、と言うと「どうぞ」と部屋に案内した。彼がそこにいたのは 15分足らずであった。

見学を終えた彼は 、マネージャーからシャンパンでもどうですか と誘われたが、昔の知人、パリ市長だったテタンジュと会う約束があるのでと断ってホテルを出た。あのパリを破壊しないで欲しいと、必死で説得したパリ市長である。彼は自分の人生を変えた会合のことが忘れられなかったのだろう。

1966年 11月5日コルティッツはバーデン=バーデンで亡くなり家族葬のあと、9日に公式の葬儀が行なわれている。AP電によると、仏米は国家の代表として、彼と親しかった軍人を葬儀に送っている。フランスは在バーデン=バーデンの司令官 ワグナー大佐と友人だったド・オメゾン大佐を派遣している。ドイツ側は葬送曲を奏でる軍楽隊が参加する、軍の公式行事として式典を主催した。独仏米の軍の要人が見守るなか、パウル・コウラー中将は弔辞を読みパリの救済について「われわれドイツ軍人は皆、将軍の解決策に心からの感謝をしている。彼は命令と良心の間で最大の抗争に取り組んだ、勇敢で人道的な人物であった」とヒトラーの命令に従わなかったことを賞賛した。

 

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セッポアのノルドリンクの墓碑                                          pingou45

 

ノルドリンク総領事の父はスウェーデン人で母はフランス人であった。生まれはパリで 中等教育機関リセの卒業生だったから、そのフランス語は流暢で自分は「パリの市民」であると称していた。彼がコルティッツと初めて会った時の印象をその自伝で 「彼はプロシアの軍人で、交渉は難しそうだ」と書いている。しかし、二人は信頼で結ばれ、パリ破壊をとめるための”同盟“となった。パリ司令官はルクラークの師団が総司令部を囲み、降伏する寸前に総領事宛の感謝の手紙を書いていた。

彼がコルティッツと関係を持ったのは、ゲシュタポに捕まった監獄にいる政治犯 の釈放だった。大量の政治犯の釈放を見事に成功させた経過は書いたが、その動機は人道主義であった。スウェーデン政府が指示したとは思わないが、この国の人々が大いに支持する考えである。

1962年にノルドリンクはパリで亡くなり、その墓碑(上の写真)には「スウェーデンの ラウル・ノルドリンク総領事は、英雄的でかつ決断力のある行動で囚人を解放しパリを救った。これは賞賛に価することだった」 とある。戦後 、フランス政府は彼に最高勲章を授与しその功績を称えている。 パリのルゥ・セント・バーナード市など4つの場所で通りに彼の名前をつけ、その一つは「政治犯3633人の釈放を実現し、パリを救った外交官に永遠に感謝する」と記念碑に刻み彼を称えている。コルティッツはユダヤ人虐殺については非人道的行為だが、 ノルドリンクは正真正銘の人道主義者だった。

映画『外交』を監督した直後、フォルカー・シュレーンドルフは、映画製作会社のピータ・ベッカーのインタビューで製作の意図を聞かれている。内容はなかなか深みがあるので紹介しよう。「この映画は正しいことを説得する言葉について語っている。そのものずばり、外交の力についてだ。ドイツとフランス、あるいはドイツの将軍が主題ではない。首都の破壊についてもそうだ。一人の人間の言葉の力、策略、嘘と正直のあらゆる要素の話し合いで、戦争を終わらすことが出来るのだ。映画製作の意図はそこにある。

世界の紛争を見ていると、ほとんどの場合、馬鹿げた不必要なものだ。その要因はリーダーと国民の考え方にある。彼らは敵とどう戦うかしか考えていない。わたしは言葉こそが現実を変えることが出来ると思う」。彼は米国のリチャード・ホルブルックが、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の和平交渉で指導的役割を果たした外交官として高く評価している。

このインタビューと同時期に、ジャーナリストがシュレーンドルフに、もしパリがワルシャワのように破壊されたとすると、どうなったと思うかと尋ねた。彼は「パリが焦土になっていたら、戦後の仏独関係は極めて難しかっただろう」と答えている。戦後の仏独を軸にした世界の欧州連合EU)は存在しなかったかもしれないのだ。

 

付記 筆者は『パリは燃えているか?』(Larry Colins & Dominique Lapierre著、志摩隆訳)の上下2巻に大いにお世話になりました。この本は早川書房が1966年に刊行し、2005年に再編集して 世に問うたものです。こんな複雑な話をよくここまで書いたものだと思います。二人の著者と日本版の関係者に感謝申し上げます。