フランスの田舎で暮らす

土野繁樹の歴史散歩

ドルドーニュ便り〜人生に喝采(3)

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サン・ジャン・ドコール村の散歩道で

 

「会社を辞めて、フランスの大田舎で暮らすことにしたよ」とわたしが友人に明かすと、彼は「君のような都会で忙しい仕事をしていた男が、そんなところへ行くと退屈で死んでしまうぞ」と心配してくれた。大学の後輩からは「まだお若いのにご隠居ですね」と冷やかされた。今春、帰国したとき女性ジャーナリストの友人から「毎日なにをやっているの、面白い?」と尋ねられ「東京とはすべてが逆のところが、面白いね」と答えたものだ。

都会は便利で面白いのだが、退職をすると懐具合がさびしくなり、華やかな消費文化とは縁がなくなってしまう。幸い、サン・ジャン・ドコール村にはただ一軒、小さな食料雑貨店があるだけで、自動販売機なし、広告ポスターなし、緑十字のネオンサインはあるが薬屋さんのものだ。村の周辺を散歩しても、牛や羊には出会うが、商品広告にお目にかかったことがない。コマーシャルの洪水とは無縁の環境は、精神衛生上まことに良い。

 

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ティヴィエ町の土曜朝市

 

時には、ドルドーニュ県の首都ペリギュー(車で40分)の専門店や大型スーパーに行くが、たいていの買い物は車で10分の町、ティヴィエの店でことたりる。土曜日になると町の広場で朝市が開かれるので、地元の農家で生産された採りたての野菜、果物、肉を買い求める。当地の秋の味覚は桃、栗、きのこ、そして秋刀魚の代わりにフォアグラだ。大勢の人のなかに、友人や知人の顔が見える。買い物そっちのけで世間話をしている老人仲間がいて、町長が中年のマダムの相談ごとに耳を傾けている。小さな町の息遣いが聞こえてくる光景である。

 

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朝市風景 買い物よりおしゃべり

 

わが家は田園地帯の丘の上にある。寝室の窓から見えるのは隣の家の大きな池と遥か彼方の丘の上の数軒の家だけだ。この風景も夏になると庭のポプラの葉で見えなくなる。隣家は数軒しかないので、数日誰にも会わないこともある。しかし、辺鄙なところで暮らしているからと言っても、世界から隔離しているわけではない。インターネットで日本と世界のニュースを瞬時に入手できるからだ。それに、スカイプを利用すれば、世界中どことでも自由に話ができる。通信革命のおかげで、異国の田舎で暮らす孤立感はない。

 

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庭のロシアンセイジ

 

秋のドルドーニュは快適だ。朝、澄んだ空気のなか陽光を浴びながら庭仕事をする。奥方はバラやモクセイの手入れをし、わたしは枯れ枝を切り、雑草を刈り、小川の掃除をする(広い庭なので仕事はかぎりなくある)。陽気の良い日に、鳥鳴き花咲く庭での昼食の味は格別だ。あまり酒が飲めなかったわたしが、昼から赤ワインを傾けるのだから、胃袋まで仏蘭西風に改造されたのだろう。わが家を訪ずれた東京の友人は「君は贅沢な暮らしをしているね。非国民だな」と言う。

暮らしをテーマにした本に、中国人作家・林語堂の『生活の発見』(原題はThe Importance of Living『生活の大切さ』ニューヨーク1937年刊)がある。同志社の学生時代に坂本勝(当時兵庫県知事)の名訳で読んだ忘れられない本である(現在は『人生をいかに生きるか』の書名で講談社学術文庫から刊行)。生活の楽しみ、自然の楽しみ、教養の楽しみをユーモラスに語るこの本は世界的べストセラーになり、とくにフランスで爆発的に売れたという。「人生を楽しむこと以外に、人生になんの目的があるのか」と言う著者の考えにフランス人はわが意を得たのだろう。

ティヴィエ図書館の美人館長ブリジットに「この本の邦訳のタイトルは『生活の発見』、中国版は『生活的芸術』だけど、フランス版ではなんでしょう」と尋ねたら、すぐ調べてくれた。その答えは“Le Triomphe de la Vie”『人生に喝采』だった。さすがフランス、英日中仏のなかで一番洒落ている。(2012年10月05日記)