フランスの田舎で暮らす

土野繁樹の歴史散歩

ドルドーニュ便り~アルファロメオ( 9 )

 

 こちらで暮らしはじめるまで、わが家は車とは無縁だった。結婚以来、共稼ぎで東京と横浜で30年暮らしたが、自家用車を持ったことはなかった。そもそもわたしには、運転免許がなかったのだから持ちようもない。ところが、フランスの田舎への移住を決めてから事情が変わった。東京都の15倍の広さに、人口40万のドルドーニュ県では車なしでは生活ができないからだ。

 移住をきめた当時、わたしはまだサラリーマンで目黒の事務所に通勤していたが、一念発起、近くにある日の丸自動車に入学した。指導員に絞られ、実地試験に落ちること2回、やっと仮免をとるところまでこぎつけた。卒業式の日の教習所校長の祝辞がふるっていた。「この教習所の実地試験は、目黒、渋谷という全国でも最も難しいコースを走るテストです。日の丸自動車は教習所の東大と言われています。皆さんおめでとうございます」。その日以来、わが家でわたしは「ドライヴィング・スクールの東大をでた男」として知られるようになった。

 全国一の難関の自動車学校を卒業したわたしが8年前に当地で手にいれたのは、ルノーのクリオの中古だった。人生ではじめて所有した黒塗りの小型車を、夕闇のなかで愛でていたわが姿を思い出す。その数年前、奥方がルノーのメガン(メガーヌ)の中古を買い使っていたのだが、わたしはマニュアル運転ができないので助手席に座っているだけだった。

 これでは行動範囲が限られてしまうと思い、オートマ車を購入した。車は人の行動範囲を飛躍的に拡大する、20世紀最大の発明は自動車である、と英エコノミスト誌の編集長が書いていたが、21世紀になってそれを実感している。

 数か月前、メガンの調子が悪くなった。ガレージで調べると修理をすれば大丈夫だという。しかし、修理代は高いし、前のオーナーも含めると15年も走り、エアバッグもないから車を買うことにした。新聞記者をしていた奥方はインターネットで得意のリサーチを猛然と開始。はじめは中古を探していたが、人生に一度は新車に乗ろうと方針転換、その結果浮上したのがアルファロメオのMiToだった。デザインが素晴しい。エアバッグが7つもある。小型車だから価格もそこそこで、日本で買う半額だ。「この車に乗ると10年若返りますよ」とセールスマンのオリヴィエが言う。この殺し文句で陥落。

 

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村の教会前のMiTo

 

 頭金10%を払い2か月後受け取りの契約書にサインをした直後、ベルジュラックで暮らすバンバリ夫妻の家に招待された。その日、ストックホルムに住むエドマン夫妻も招待されていた。二人のムッシュは東京でビジネスマンとして活躍し、日本を第二の故郷と思っている親日家だ。とくに、25年を東京で過ごしたエドマンさんは自らを江戸男と称している。その日宴もたけなわになったころ、奥方がアルファロメオの話をすると、彼は「メイド・イン・イタリア?大丈夫かな」「それにしても、ヤードはリスクが好きだね。日本人と結婚し、フランスに移住し、そのうえイタリア車を買うとは」とひやかすと、奥方曰く「ハイリスク、ハイリターンがわたしの人生哲学よ。ご心配なく」とさらりとかわした。

 

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バンバリ邸のワイン貯蔵庫で (左より)バーブロ(バンバリ夫人) 筆者 ヤード 
キキ(エドマン夫人) ご主人のピーター・バンバリさん    Goran Edman

 

 車が届くはずの日の数日前、アルファロメオの販売店に電話すると、すこし遅れるという。その後、なんども連絡をとり販売店に車が到着したのは約束の期日の2週間後だった。手続きに1週間かかったから、都合3週間の遅れである。奥方は偶然、大型車がペリギューの販売店に、隣の町でこの車を運搬するのを見たので驚いていた。この呑気さにいささか呆れたが、こちらで暮らすには忍耐力がいる。

 車受け取りの日の朝、販売店に引き渡すメガンを洗い、長い間お世話になったな、と思いながら丁寧に磨いた。きれいになったメガンで、奥方とわたしは販売店に到着(自宅お届けサーヴィスはありません)。オリヴィエが笑顔で出迎え、大柄な女性マネージャーの部屋に案内する。保証契約などいくつかの書類にサインをしたあとのことだ。

 「メガンの廃棄処分同意のサインお願いします」とマネージャーが突然言った。8万㌔しか走っていないので、中古市場で再利用されるものとばかり思っていたのでびっくり。この車に愛着があった奥方の暗い表情になり「可哀そうね」とつぶやいた。しばし沈黙が続いたあと、奥方の気持ちを察したマネージャーは「メガンの役割が終わって、MiToがお待ちかねですよ」と慰めた。15年も前の車は価値がないので廃棄処分にするのが、販売店の方針だという。ヤードは悲しそうな顔でサインをした。もったいないことだ。

 

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さよならメガン

 

 奥方は愛用しているモノに時々話しかける。先日も、半世紀前に父親から贈られたシンガー・ミシンが故障したとき「頑張ってね」と言っていた。モノにも命が宿るという考えは、日本的なものだが、奥方にそれが根付いたのだろうか。

 日本には針供養のように引退するモノに感謝する儀式があるが、奥方によるとキリスト教にはモノを供養するコンセプトはないという。マネージャーの部屋をでて、二人でそんなことをしゃべっているところに、オリヴィエがお祝いのシャンパンの瓶をもって現れた。

(2012年11月5日記)

 

ドルドーニュ便り~春が来た(8)

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わが家の春景色

 

やっと長かった冬が終わって、サン・ジャン・ドコール村に待ちに待った春がやって来た。当地で暮らしはじめて一番寒く、毎日のように雨が降る異常な冬が去り、無風、気温20度の正真正銘の春日の今日は心が弾む。納屋から取り出した黄色いデッキチェアーに座って、コーヒーを飲む。夏雲のような逞しい雲を眺めながら、健康回復のありがたさを思う。

ポカポカ陽気に誘われて散歩にでかける。玄関をでると、坂を上がってきたルノー車が停まった。わが家からすこし離れた丘の上の一軒家で暮らすカレー夫人エレンだった。「ヤードの調子はどうですか?」と彼女が聞く。「おかげさまで、咳も止まったのでもう大丈夫でしょう。血液検査の結果、なんの問題もなく安心しました」と答える。

一昨日、エレンはわが奥方が悪性のインフルエンザにかかり10日間も寝こんでいるのを聞きつけ、見舞いに来てくれた。医者に往診してもらったが、なかなか治らないので、風邪ではなく他に原因があるかも知れないので、血液検査をしたいと言うと「それじゃ、わたしが知っている看護婦のマゾーさんに来てもらいましょう」と言い彼女は一旦自宅に帰った。しばらくして「病人にはなによりスープよ」と言いながら、大きな瓶に入った作ったばかりの二種類の野菜スープを持ってきてくれた。翌朝、マゾーさんが来て採血し、町の血液分析所で検査した結果は問題なしだった。隣のバトラン夫人も医者の往診の手配をしてくれた。隣人の親切が身に沁みる。

 

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池のガチョウ

 

わが家に隣接して5000坪の大きな池がある。パリの住人の別荘の敷地内にあるのだが、家主はふつう不在なので、たまに池を1周する。エレンにお礼を言ったあと、池の周りを散歩していると、ガチョウのつがいが目の前をゆっくり歩いていた。やがて彼らは、池に入り一直線に進んでいった。夫唱婦随か婦唱夫随なのかは分からない。

村につながる道の右側は野原で蛇行するコール川が見え隠れし、左側は小高い岩崖になっている。崖のくぼみを見るたびに、ここはクロマニヨン人の住居だったのでないかと思う。村の入り口まで1キロの道沿いに4軒の家が点在している。わが家の別棟の洗面所や台所を新装してくれた建築業のカスターニュさんの家、昨年引っ越してきて友人になったイタリア人夫妻の水車がある家、5年前に農家の廃屋を自力で改築し見栄えのする住居にしたオランダ人夫妻の家、川沿いの庭があるモロッコ人夫妻ラヒトさんの家がある。わが家のすぐ隣はバトランさんとドモントさんの家だから、これをいれると7軒中(わが家を含めて)4軒が外国人の住居ということになる。

人口350人のサン・ジャン・ドコール村には、外国人が所有する家(半分は別荘)が24軒もある。国籍は英国、アイルランド、オランダ、ベルギー、リトアニア、イタリア、ドイツ、モロッコ、カナダ、アメリカ、スウェーデン、日本と12ヶ国にもなる。ドルドーニュ県の小さな村がなぜこんな国際村になっているのか。その背景には、EU市民であればEU圏のどこにでも暮らせる、というEUのシェンゲン協定の存在がある。EU圏内ではヒト、モノ、カネの流れが自由になり、国境が消滅している。その結果、グローバル・ヴィレッジが出現したわけだ。

村の外国人のなかで一番多いのは英国人で、その次がオランダ人で、その他の国はそれぞれ一人か二人だ。抜群の環境、不動産の安さ、肉や野菜の旨さに魅せられて、ドルドーニュ県で暮らす英国人は多い。昨年末、村の親友(夫のロンはカナダ人、妻のオナはリトアニア人)のお宅でパーティがあったが、客はフランス人と外国人が半々で、英国人が7,8人はいた。隣に座ったアイルランド人の知人がワイングラス片手に「何百年もかけて、アイルランドから英国人を追っ払ったと思ったら、なんたることか。この村は英国人でいっぱいだよ」と言っていた。こんなのをアイリシュ・ユーモアと言うのだろう。

 

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教会の鐘塔(左)と城の尖塔(右)

 

1キロ歩いて村の入り口に着くと、11世紀に建った教会の3時を告げる鐘が鳴った。村の広場では、城を背にして陽光を浴びながら4.5人の村人がペタンク(伝統球技)に興じている。中世にできたコール川にかかる風情のある石畳みの橋を渡ると、リトアニア人のオナが、アメリカ人のメリーと語らっていた。建築技師のオナは夫の人類学者ロンと5年前に、15世紀に建てられ20年も放置されていた家を買い、資材を購入しほとんど自力で大改造をし、趣味のいい快適な生活空間を作り上げている。

米国ケンタッキー州出身のインテリア・デザイナのメリーは、夫のジムと当地で暮らすこと20年のベテランだ。彼らは村の中と、村の外れの丘の上の廃墟を再生した家を持っているが、内装はまるで建築雑誌 ’Architectural Digest’に出てくるような輝きがある。二組の外国人夫妻は、村の退役将軍フォルニエさんが言うように、誰も手をつけなかった廃屋を蘇らせ村を美しくした功労者だ。奥方とわたしはこの二組の夫婦とは波長が合い、世界観と人生感が重なるところが多く最も親しい。

久しぶりに会ったメリーが「もう頭痛は無くなった?」と聞く。「ぼくはすっかり良くなったが、ヤードがインフルエンザで10日も寝込んで、やっと元気になりつつあるよ」とわたし。「イタリアへは行ったの?」と彼女が尋ねるので「いやーそれがドゴール空港まで行ったのに、雪のためフライトがキャンセルになるは、大混乱の空港でヤードの体調が悪くなり医療センターで診察を受けるやで、結局、翌日こちらへ戻ってきたよ」と言うと「楽しみにしていたのに、それは大変だったわね」とえらく同情してくれる。「まあ、航空券やホテルの代金はムダになったけど、飛行機が墜落して死ぬよりいいよ」とわたしが言うと、彼女は「それはそうね」とあいづちを打ってくれた。

家に戻る道すがら、医者の世話になる話になったせいか、10年前のわが病院体験を想いだしていた。その日、わたしは新品自転車のハンドル操作を間違え横転、鎖骨を折ってペリギュー県立病院に入院したのだが、翌日の昼時に看護婦が「赤にしますか、白にしますか」と聞いたのにはビックリした。フランスの病院では患者にワインをだすのである。その頃はまだフランスの医療保険制度(加入者はVitaleというみどり色のカードを所有している)に入っていなかったので、一泊入院は高くついた。しかし、あれは5万円の超高級ボルドー・ワイン一杯の値段だったのだ、と自分に言い聞かせている。味はあまり美味しくなかったが。

フランスの国民皆保険制度は、日本の国民健康保険のように、資格取得のための支払い義務がないので助かる。フランス市民あるいはEU市民(フランスと相互取り決めのある国の市民)には、自動的に日本の国民健康保険証に当たるVitaleが発行されるが、これには費用がかからない。わたしの場合はヤードがEU市民であるので、その夫であるので幸いにも資格が出来た。

わたしも2月にヴィールスにやられ左眼が大きく腫れたので、町の総合医のところで診断をしてもらい、彼の署名入りの薬のリストをもって薬局に行き、それで治療したのだが、総費用は約200ユーロ:2万5千円だった(診察費23ユーロを2回、レントゲン50ユーロ、薬100ユーロ)。薬代の明細を見ると、政府が50%負担していた。この部分は消費税20%などの税収でカバーしているということになる。

Vitaleは適用範囲が広く、できるだけ安いことを原則にしているから利用者にとってありがたい制度だ。このシステムは年寄りに優しい。それでも、大多数の人々がMutuelleという自己負担の医療保険に加入している。

それにしても、フランスは薬の国だと思う。わたしが利用した鎮痛剤など3種の薬は少ないほうで、奥方は2回の医者の処方で7種類もあった。人口3000人の隣町ティヴィエには3つの薬局があり、それぞれの店に薬剤師が4,5人いて、訪れる人が絶えない。薬嫌いの奥方に言わせると、フランスの医療サービスはスウェーデンと同等の高レベルだが、薬に依存しすぎということになる。調べてみると、フランス人の薬消費量はヨーロッパ一だった。

 

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かりんの花

 

春の空気をいっぱい吸って家に戻ってきて、タンポポの花で溢れる庭を一巡する。タロウドリの鳴き声が聞こえてくる。水仙の花が咲き、柳に葉が付きはじめ、かりんの花(写真)が満開だ。かりんは東京にいる2歳の初孫の名前でもあるので、この花にはとりわけ愛着がある。

奥方がインフルエンザでダウンしている間、スーパーでの買い物と料理は、わたしが担当した。リスト片手にスーパーで食料や日用品を買うのは慣れているが、料理は辻クッキング・スクール卒で料理教師の母をもつ奥方が仕切ってきたので一苦労だった。それでも、彼女の指示に従って作ったポーク・フィレ、ハンバーグ、アンリーブのグラタンは合格点をもらった。蕎麦つゆやマドレーヌ菓子の作り方をマスターしたのも収穫だった。食べる人、皿洗う人から、料理する人への進化である。

今晩は、やっと元気になった奥方が台所に立ち、料理長として腕を振るった。わたしは傍で、彼女の作る肉野菜スープの料理法を質問しながらメモをとり後日に備えた。さすが、師匠の料理は旨い。食事のあと、書斎の窓を開けるとフル・ムーンだった。

満月が 池に映りて 春来る (2013年3月30日記)

 

ドルドーニュ便り~日仏ふたりの飛行家(7)

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『わが長距離飛行:パリ―東京』の挿絵

 

 ドルドーニュの田舎道を車で走るのは爽快だ。樫,栗、松などの樹に囲まれた曲がりくねった緑の道を、わが家から15分も走ると、ドアジーさんの館がある。館の正面にある壁は長さ70m、高さは5m、両端に黒い尖塔があるから、まるで要塞のようだ。

 

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ドアジー

 

 この館のご主人ジャン・ドアジーさんは退役軍人(大佐)で、奥さんとのんびり暮らしている。かつて、彼の叔父ペルティエ・ドアジーは、日仏友好の象徴として知られた人だった。彼のことは『絹と光―知られざる日仏交流の歴史』(クリス・コッポラ著)の中に詳しくでてくるが、まさか、その甥が隣人だとは思ってもいなかった。偶然、町のスーパーでドアジーさんの奥さんからそのことを聞き、館を訪ねたのだ。この田舎にもJapon connexion(ジャポン・コネクスィヨン)ありである。

 ペルティエ・ドアジー(1892-1953)は偉大な飛行機乗りとして、パリ―東京長距離飛行にはじめて成功した人だった。今では二都市間の飛行時間は12時間だが、1924年のこの冒険飛行のときには、平均時速168㎞で120時間もかかっている。もちろん一挙に飛んだのではない。2万㎞を20の都市(ブカレストバグダッド、カラチ、北京など)を中継し47日間かけている。

 

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ペルティエ・ドアジー大尉

 

 ドアジーさんは「叔父は人生を愛する愉快な人で、パリ―東京飛行の帰路、インドで虎狩りをした話をしていたよ。若いころ苦労したので部下にやさしかったね」と懐かしそうに語っていた。資料をいろいろ貸してくれたが、最も興味深かったのは、ドアジー大尉(当時)の回想録”Mon Raid-Paris Tokyo” (わが長距離飛行:パリ―東京)だった。この本の巻頭は大尉が、400馬力のプレゲ型機カトリーヌ(大尉の1歳の娘の名前)号で、機関士ブザンとともにパリの飛行場を飛び立つ光景からはじまっている。

 韓国の大邱を発ち対馬海峡を渡り、19番目の中継地、大阪に着いたのは1924年6月8日だった。大尉は回想録に次のように書いている。「飛行場には、我々を歓迎するための大テントがかけられていた。出迎えの人々の万歳、万歳の大歓声のなか、山のような花束とプレゼントを受け取った」。翌日の東京での歓迎ぶりも熱狂的だったようで、着物姿のマドモアゼルが、二人の遠来の客の肩車にのっている微笑ましい写真も残っている。

 大尉は大阪の飛行場で、思いもよらぬ友人と再会している。第一次世界大戦の戦友で、ともにドイツ軍を相手に空中戦をした日本人パイロットが、フランス陸軍の士官服を着て彼を出迎えたのだった。回想録で大尉は「大戦中ずっとフランスのために前線で戦ってくれた同志バロン滋野の出迎えを受け、わたしは非常に感動した」とその心境を述べている。

 『バロン滋野の生涯―日仏のはざまを駆けた飛行家』(平野国夫著、文芸春秋)を読むと、滋野は大正時代のコスモポリタンであることがわかる。

 滋野清武(しげのきよたけ)は14歳で男爵家の当主となり、1910年に28歳で渡仏し、はじめは音楽家志望でパリの音楽学校で勉強していた。しかし、ライト兄弟の飛行機熱に巻き込まれ、パリの飛行機クラブで操縦技術を学び、日本の民間人として初の万国飛行免許を取得している。その後帰国するが、民間飛行練習所の設立準備のために、再びフランスに戻る。間もなく大戦がはじまり、滋野はフランス陸軍飛行隊に志願し大尉として活躍、レジオン・ドヌール勲章を授与されている。彼が所属した鵠の鳥(コウノトリ)飛行大隊は、敵機を5機以上撃墜したパイロットのエリート集団であった。パイロット仲間から彼はバロンと呼ばれ親しまれていたという。

 

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滋野清武とジャーヌ夫人  『バロン滋野の生涯』(文芸春秋)より

 

 渡仏中に彼はリヨンでエイマール・ジャーヌという女性と恋をし結婚した。帰国し大阪住吉で暮らしていた頃の写真を見ると、二人は床の間を背に和服姿、手に扇子のお似合いの夫婦である。写真を撮った4年後に、滋野はドアジー大佐と劇的な再会を果たすのだが、二人が握手をする隣で、ジャーヌ夫人が赤ん坊の次男を抱いている姿が映っている。残念なことに滋野はその半年後に胃病で42歳の若さで亡くなった。

 二人の男の子を抱えて、32歳で未亡人になったジャーヌ夫人の苦労は大変だったようだ。長男の男爵相続問題で、滋野家から2人のこどもを残してフランスへの帰国を迫られたが、彼女はそれを拒否している。その後、大佛次郎夫人などを相手にフランス語の個人教授をし、その収入で親子3人は細々と暮らしている。やがて太平洋戦争がはじまり、二人のこどもは兵役にとられ、長男は満州に送られる。戦後、長男のジャーク・清鵠はピアニストとなり、次男のロジェ・清旭は画家となり、ジャーヌ夫人は1968年72歳で亡くなった。

 

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ドアジーさん

 

 ドアジーさんを再訪した日、わたしは平野さんの滋野伝を持参した。「この和服姿の滋野夫妻の写真いいでしょう。でも、太平洋戦争中、ジャーヌ夫人は外国人だったから、大変な苦労をされたようです」とわたしが言うと、朗らかなドアジーさんは一瞬沈黙し、哀しい表情になった。そのあと彼は「一杯やりましょう」と言った。( 2012年11月15日記)

 

ドルドーニュ便り~仏ワインを救った米国(6)

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ドルドーニュの葡萄                    Department de la Dordogne

 

 こちらで暮らしはじめるまで、わたしはワインについての知識はほとんどなかった。ボルドーブルゴーニュと言われてもピンとこなかったし、味についても無頓着な野暮天だった。ところがドルドーニュ県はフランスでも有数のワイン生産地である。葡萄(ブドウ)畑に囲まれて、ことあるごとに一杯となるとすこしは違いがわかる男になった。

 5年前の夏、わが家に珍客ダルネさん(当時102歳)が到来した。この家は彼女の両親の別荘だったのだが、その日はなんと85年ぶりの再訪だった。「少女の頃、ここで自転車を乗り回していたわ」「この応接室、あの頃となにも変わっていないわね」と語る彼女は感慨深げだった。

 フィガロ紙を毎日読むという彼女はシャープで話題も豊富だった。話のなかでとくに面白かったのは,わが家の別棟の由来である。ダルネさんによると、19世紀の終わりまでは、そこはワイン製造場であったという。「あのフィロキセラ騒動でワイン造りをやめたのでしょうか」と聞くと「そうでしょうね」と言う。フランスワインの危機とわが家に関わりを知り、わたしはおどろいた。

 ワインの歴史に詳しい読者はご存じだと思うが、1860年から30年にわたって、フランスのワイン産業は壊滅的な打撃を受けている。各地で葡萄の葉が変色し根が腐食していくのだが、原因がわからない。中世の黒死病にも似たスピードで被害が拡がっていく。あせるフランス農務省は科学者を動員する一方で、解決案を提案してくれた人には、金貨で30万フラン(現在の価値で3億円)を与えるという公示までだしている。

 懸賞金につられて、ありとあらゆるアイディアが集まった。そのなかには、牛の小便、鯨油とガソリンの混合液、ポンペイの火山灰を葡萄畑に撒くなど奇想天外な案も含まれていた。被害はヨーロッパ全域に広がり、イタリアのトスカーナ地方では、当時開設したばかりの鉄道が原因であるとの噂が流れ、実際に一部の路線が閉鎖されている。

1862年から1875年までの時点で、フランス国土の葡萄畑の40% までが被害にあっている。その額は1870年フランスが敗れた対プロシア戦の費用より大きい。また、1875年にあった葡萄畑84.5百万ヘクタールが、1889年には23.4 百万ヘクタールまで減少している。その減少数字は72%だからいかに巨額かが分かる。

 

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若き日のプランション          Wikipedia

 

フランスの植物学者や生物学者はワイン大国の国難を救うべく、必死の努力をする。その顛末を、英国人ジャーナリスト、クリスティ・キャンベルが、著作PHYLLOXERA: How wine was saved for the world:2004年刊で, 推理小説のような面白さで描いている。

地質説,気象説など諸説が飛び交うなか、犯人は害虫フィロキセラ(ブドウネアアブラムシ)であると特定したのは、フランス南西部の町モンペリエの植物学者ジュール・エミール・プランションであった。フィロキセラは肉眼では見えないほど小さな黄色の虫である。キャンベルによると、葡萄の木の根や葉を侵食する害虫の繁殖力は驚異的で,これが大流行の原因だったという。葡萄畑が枯れる現象はそれまでもあったが、フィロキセラは新現象だった。

 

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最高級ワインを楽しむフィロキセラ             英パンチ誌 1890年

 

 プランションは、その害虫がどこから来たかを研究する。気の遠くなるような調査を続けた彼は、1862年、ローヌ県のワイン販売業者ボティがニューヨーク経由で取り寄せた、米国産の苗木154本に付いてきたフィロキセラが元凶であることを突止める。大西洋を渡ってきた犯人の正体が分かったのは1874年のことだった。

 ボティの庭の葡萄畑の調査をしたプランションは、フランス原産の木は死滅あるいは瀕死の状態だが、米国産の葡萄の木は元気溌剌の意外な事実を発見する。米国産の葡萄の葡萄畑には、この害虫への免疫性があると知った彼は、唯一の解決策は米国の苗の輸入であると提案する。米国の苗を台木にして地元の苗に接木する方法である。

 しかし、この方法はフランス人には抵抗があった。伝統あるフランスワインが米国ワインに汚染されるのではないか、という心配である。当時、米国産ワインの品評会を取材したパリの記者は「米国産のワインを飲み干す勇気のある者は、一人もいなかった」と書いている。それほど米国産は評判が悪かった。

 

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プランションの銅像アメリカへの感謝の碑               Ed Wardk

 

 しかし、被害は広がるばかりで誇り高きフランスの生産者も背に腹はかえられない。1890年代になってカリフォルニア州テキサス州から貰う苗木の大量輸入がはじまり、フランスワインは蘇生したのであった。皮肉にも、フランスが米国から輸入した苗木の大部分は、昔フランスから運んだものの子孫であった。モンペリエの公園に、その功績を称えた植物学者プランションの銅像が建っている。その碑文には「フィロキセラとの戦いで、米国はフランスワインを蘇らせた」とある。

フィロキセラ騒動は、世界のワイン地図を塗り変えた。チリ、アルゼンチン、アルジェリア産ワインの生みの親は、フランスで破綻しそれらの国に移住した人々だった。ドルドーニュの多くのワイン農家も、故郷を去り外国に移住している。あの日、今も健在のダルネさんが、美味しそうにボルドーワインを飲んでいた姿が目に浮かぶ。(2012 年11月2日記)

 

ドルドーニュ便り~旧鉄道路の散歩 (5)

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鉄道開通             Histoire de la France rural (Seul)より

 

フランスで初めて乗客をのせた蒸気機関車が走ったのは 、1832 年のリヨン~サン・テティエンヌ間である。上の絵は、当時ののどかな風景だ。パリ~ボルドー間が開通したのは 1853 年、パリ~マルセイユ間が 1863年としだいに都市を結ぶ鉄道は普及していったが、長い間、貧しい田舎は取り残されたままだった。

わが村に鉄道が通じたのは 1892 年で、フランス鉄道事始から 60 年後のことである(日本の鉄道事始は、1872 年の新橋~横浜間)。その後、サン・ジャン・ドコール駅はローカル線の駅として利用されたが、1965 年に廃線となった。この地方の都市への人口流出、車とトラックの普及で、採算が合わなくなったからだ。

その後、半世紀以上の間放置されていた旧鉄道路の一部が、数年前、県と近隣の村の共同出資によって整備され、現在ここは“緑の道”と呼ばれる 16キロの散歩道になっている。旧サン・ジャン・ドコール駅はテヴィエとサン・パルドゥの中間点にある。そのおかげで、妻と二人で四季を通じてここをよく散歩する。春には、乗馬姿に出会うこともある。夏の木陰のプロムナードは涼しく、秋にはドングリやクルミの実を見かける。冬は日当りのよい北西方向の道を歩く。出会うと、散歩人は“ボンジュール”と挨拶する。

 

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1892 年に建った旧駅舎

 

散歩の基点である旧駅舎は、いまではオランダ人が買い取り夏の別荘にしている。その壁には、1 等席、2,3 等席の文字が残っていて、ふたつの改札口の跡がある。旧鉄路が“緑の道“として復活した記念に、鉄道開設時の村の人々の等身大の写真看板が置かれている。スカーフを被った女性の姿をみると、その頃の流行がうかがわれて面白い。

地方史家、ジョルジュ・トマさんが書いた『鉄道 100 年史』(1991 年刊)によると、当時の開通式は盛大だったらしい。1883 年ノントロンの町(村の駅から 20 キロ、ナイフの産地で有名)に駅が開設されたとき、パリから建設相が来訪し 3000 人の人々が駅に集まり、祝砲が放たれ、大祝賀会が開かれたという。

そのとき開通したローカル線は、アングレーム(現在、毎年 2 月に開かれる国際漫画フェスティバルで有名)からノントロンまでの区間 40 キロであった。その線が 20 キロ延長され、村に駅ができるまで、さらに 10 年かかつている。19 世紀末の時刻表を見ると、上下各 5 本の汽車が走っている。サン・ジャン・ドコール村はその頃、人口 900 人(現在の 3 倍)だったので、利用客も多かったのだろう。

 

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“緑の道" は絶好の散歩道だ。

 

わが家の最寄り駅は 8 キロ離れたテヴィエという人口 3000 人の町だ。ここからパリまで 4 時間かかる。TGV(新幹線)はこの路線には通っておらず、パリへの本数は一日に 4本しかない。それでも駅の構内にはキヨスクがあるので、乗降客だけではなく町の住人が新聞を買いにやってくる。

先日、土曜の午後パリ行きの切符を買いに行ったら、窓口は閉まっていて、フランス国鉄の告示が貼られていた。いわく、合理化で窓口業務を「月曜から金曜までは 8 時から 5 時まで、土曜は 9 時から 3 時まで、日曜は 10 時から 12 時まで」とある。以前は、5 時の始発から深夜の終電まで窓口が開いていたのが、これは大変だと思い辺りを見ると、構内の机の上に国鉄の新方針に関する地方紙の記事の切り抜きと、反対署名のノートがあった。

そこには、多数の署名と抗議のコメントが書かれてあった。わたしも名前と住所を書き署名した。数週間後、駅に行ってみると、窓口業務の時間はすこし削られていたが、ほぼ以前のサービスに戻っていた。反対署名の効き目があったわけだ。わが人生ではじめての署名による勝利体験であった。(2009年4月9日記)

 

 

ドルドーニュ便り~ディドロの『百科全書』 (4)

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16世紀末に建った村の城

 

「この肖像はどなたですか」と尋ねると「ルイ16世ですよ。8代前のわたしの祖先で将軍だったド・ボモン伯爵が、国王からもらったものです」とマルトニ城の跡継ぎティエリ・ド・ボモンさんは言った。フランス革命でギロチンの犠牲になった国王の表情が柔和なのは意外だった。

 

 

肖像画は、村の城を訪れてド・ボモンさんをインタビューしたとき、居間にかかっていたものだ。彼はパリで保険会社を経営しているが、村長を37年間つとめこの春引退した城主の父親に会いに時々やってくる。彼は医療慈善活動をする「マルタ騎士団(フランス)」の会長でもある。

フランス革命期の伯爵家の運命について尋ねると、城は国有化されご先祖は逮捕され、ドルドーニュ地方で一番大きな城オトフォーに投獄されたという。しかし、数日後すぐ釈放され、革命熱が醒めると城主の地位を回復したようだ。

この地方では、革命が猛威を振るっていたときでも、貴族への弾圧はひどいものではなかった。ド・ボモンさんよると、その理由は、ほとんどの城が小さいものなので、貴族と農民の間に日常から人間的な交流があったからだという。それでも、家具が盗まれたり書類(とくに城主との間で交わされた契約書)が焼かれたりする被害はあったらしい。

ここで暮らしはじめた頃、夏の間だけ公開している城の一部を見学したが、一階のミニ博物館にはご先祖が残した自慢の品々が展示されていた。

そこで、わたしは思いがけない書物に出合った。ディドロが編纂した『百科全書』である。若い頃、わたしは『ブリタニカ国際大百科事典(日本版)』の刊行にたずさわったので、啓蒙主義の開祖が執筆・編集し、フランス革命を思想的に準備したといわれる書物を見て、奇遇に驚き感動を覚えたものだ。そのことを話すと、読書家のド・ボモンさんは身を乗り出し、隣の書斎からルイ16世の司祭が所有した『百科全書』(1779年刊、第3版)の数冊をもってきてくれた。

 

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軍事項目のイラスト

 

ディドロが20年かけて編纂した『百科全書』(1751-72)は全28巻で、そのうち11巻が図版である。わたしは図版を見ながら、大衆に知識を普及させるためにはイラストが一番、と考えたディドロは名編集長だと思った。

百科全書派は危険思想であるとの烙印を押された時期もあったので、「ご先祖は開明派貴族だったのですね」と聞くと「ええ、国王の司祭で教養のある人でした」とド・ボモンさんは言った。とすると、ルイ16世の側近は保守反動ばかりではなかったことになる。

父親が40年かけた城修復の苦労話などを聞き、正午になったのでお暇をしようとすると、「なにかお飲みになりませんか」と誘われた。

 

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ド・ボモンさん

 

ド・ボモンさんは台所に行き、しばらくして居間に戻ってきた。お盆の上には赤ワイン、白ワイン、ジュース、ウィスキーと氷が置かれていた。「なににされますか」と彼は聞くのである。こんな場合、わが家だったら、「ワインいかがですか、ウィスキーもありますよ」と事前に好みを聞くのだが、8代目はすべて準備したあとに尋ねるのである。これこそ貴族の優雅なもてなしではないか! その日の赤ワインは格別だった。(2008年8月25日記)

 

 
著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。

ドルドーニュ便り〜人生に喝采(3)

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サン・ジャン・ドコール村の散歩道で

 

「会社を辞めて、フランスの大田舎で暮らすことにしたよ」とわたしが友人に明かすと、彼は「君のような都会で忙しい仕事をしていた男が、そんなところへ行くと退屈で死んでしまうぞ」と心配してくれた。大学の後輩からは「まだお若いのにご隠居ですね」と冷やかされた。今春、帰国したとき女性ジャーナリストの友人から「毎日なにをやっているの、面白い?」と尋ねられ「東京とはすべてが逆のところが、面白いね」と答えたものだ。

都会は便利で面白いのだが、退職をすると懐具合がさびしくなり、華やかな消費文化とは縁がなくなってしまう。幸い、サン・ジャン・ドコール村にはただ一軒、小さな食料雑貨店があるだけで、自動販売機なし、広告ポスターなし、緑十字のネオンサインはあるが薬屋さんのものだ。村の周辺を散歩しても、牛や羊には出会うが、商品広告にお目にかかったことがない。コマーシャルの洪水とは無縁の環境は、精神衛生上まことに良い。

 

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ティヴィエ町の土曜朝市

 

時には、ドルドーニュ県の首都ペリギュー(車で40分)の専門店や大型スーパーに行くが、たいていの買い物は車で10分の町、ティヴィエの店でことたりる。土曜日になると町の広場で朝市が開かれるので、地元の農家で生産された採りたての野菜、果物、肉を買い求める。当地の秋の味覚は桃、栗、きのこ、そして秋刀魚の代わりにフォアグラだ。大勢の人のなかに、友人や知人の顔が見える。買い物そっちのけで世間話をしている老人仲間がいて、町長が中年のマダムの相談ごとに耳を傾けている。小さな町の息遣いが聞こえてくる光景である。

 

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朝市風景 買い物よりおしゃべり

 

わが家は田園地帯の丘の上にある。寝室の窓から見えるのは隣の家の大きな池と遥か彼方の丘の上の数軒の家だけだ。この風景も夏になると庭のポプラの葉で見えなくなる。隣家は数軒しかないので、数日誰にも会わないこともある。しかし、辺鄙なところで暮らしているからと言っても、世界から隔離しているわけではない。インターネットで日本と世界のニュースを瞬時に入手できるからだ。それに、スカイプを利用すれば、世界中どことでも自由に話ができる。通信革命のおかげで、異国の田舎で暮らす孤立感はない。

 

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庭のロシアンセイジ

 

秋のドルドーニュは快適だ。朝、澄んだ空気のなか陽光を浴びながら庭仕事をする。奥方はバラやモクセイの手入れをし、わたしは枯れ枝を切り、雑草を刈り、小川の掃除をする(広い庭なので仕事はかぎりなくある)。陽気の良い日に、鳥鳴き花咲く庭での昼食の味は格別だ。あまり酒が飲めなかったわたしが、昼から赤ワインを傾けるのだから、胃袋まで仏蘭西風に改造されたのだろう。わが家を訪ずれた東京の友人は「君は贅沢な暮らしをしているね。非国民だな」と言う。

暮らしをテーマにした本に、中国人作家・林語堂の『生活の発見』(原題はThe Importance of Living『生活の大切さ』ニューヨーク1937年刊)がある。同志社の学生時代に坂本勝(当時兵庫県知事)の名訳で読んだ忘れられない本である(現在は『人生をいかに生きるか』の書名で講談社学術文庫から刊行)。生活の楽しみ、自然の楽しみ、教養の楽しみをユーモラスに語るこの本は世界的べストセラーになり、とくにフランスで爆発的に売れたという。「人生を楽しむこと以外に、人生になんの目的があるのか」と言う著者の考えにフランス人はわが意を得たのだろう。

ティヴィエ図書館の美人館長ブリジットに「この本の邦訳のタイトルは『生活の発見』、中国版は『生活的芸術』だけど、フランス版ではなんでしょう」と尋ねたら、すぐ調べてくれた。その答えは“Le Triomphe de la Vie”『人生に喝采』だった。さすがフランス、英日中仏のなかで一番洒落ている。(2012年10月05日記)