フランスの田舎で暮らす

土野繁樹の歴史散歩

ドルドーニュ便り~仏ワインを救った米国(6)

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ドルドーニュの葡萄                    Department de la Dordogne

 

 こちらで暮らしはじめるまで、わたしはワインについての知識はほとんどなかった。ボルドーブルゴーニュと言われてもピンとこなかったし、味についても無頓着な野暮天だった。ところがドルドーニュ県はフランスでも有数のワイン生産地である。葡萄(ブドウ)畑に囲まれて、ことあるごとに一杯となるとすこしは違いがわかる男になった。

 5年前の夏、わが家に珍客ダルネさん(当時102歳)が到来した。この家は彼女の両親の別荘だったのだが、その日はなんと85年ぶりの再訪だった。「少女の頃、ここで自転車を乗り回していたわ」「この応接室、あの頃となにも変わっていないわね」と語る彼女は感慨深げだった。

 フィガロ紙を毎日読むという彼女はシャープで話題も豊富だった。話のなかでとくに面白かったのは,わが家の別棟の由来である。ダルネさんによると、19世紀の終わりまでは、そこはワイン製造場であったという。「あのフィロキセラ騒動でワイン造りをやめたのでしょうか」と聞くと「そうでしょうね」と言う。フランスワインの危機とわが家に関わりを知り、わたしはおどろいた。

 ワインの歴史に詳しい読者はご存じだと思うが、1860年から30年にわたって、フランスのワイン産業は壊滅的な打撃を受けている。各地で葡萄の葉が変色し根が腐食していくのだが、原因がわからない。中世の黒死病にも似たスピードで被害が拡がっていく。あせるフランス農務省は科学者を動員する一方で、解決案を提案してくれた人には、金貨で30万フラン(現在の価値で3億円)を与えるという公示までだしている。

 懸賞金につられて、ありとあらゆるアイディアが集まった。そのなかには、牛の小便、鯨油とガソリンの混合液、ポンペイの火山灰を葡萄畑に撒くなど奇想天外な案も含まれていた。被害はヨーロッパ全域に広がり、イタリアのトスカーナ地方では、当時開設したばかりの鉄道が原因であるとの噂が流れ、実際に一部の路線が閉鎖されている。

1862年から1875年までの時点で、フランス国土の葡萄畑の40% までが被害にあっている。その額は1870年フランスが敗れた対プロシア戦の費用より大きい。また、1875年にあった葡萄畑84.5百万ヘクタールが、1889年には23.4 百万ヘクタールまで減少している。その減少数字は72%だからいかに巨額かが分かる。

 

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若き日のプランション          Wikipedia

 

フランスの植物学者や生物学者はワイン大国の国難を救うべく、必死の努力をする。その顛末を、英国人ジャーナリスト、クリスティ・キャンベルが、著作PHYLLOXERA: How wine was saved for the world:2004年刊で, 推理小説のような面白さで描いている。

地質説,気象説など諸説が飛び交うなか、犯人は害虫フィロキセラ(ブドウネアアブラムシ)であると特定したのは、フランス南西部の町モンペリエの植物学者ジュール・エミール・プランションであった。フィロキセラは肉眼では見えないほど小さな黄色の虫である。キャンベルによると、葡萄の木の根や葉を侵食する害虫の繁殖力は驚異的で,これが大流行の原因だったという。葡萄畑が枯れる現象はそれまでもあったが、フィロキセラは新現象だった。

 

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最高級ワインを楽しむフィロキセラ             英パンチ誌 1890年

 

 プランションは、その害虫がどこから来たかを研究する。気の遠くなるような調査を続けた彼は、1862年、ローヌ県のワイン販売業者ボティがニューヨーク経由で取り寄せた、米国産の苗木154本に付いてきたフィロキセラが元凶であることを突止める。大西洋を渡ってきた犯人の正体が分かったのは1874年のことだった。

 ボティの庭の葡萄畑の調査をしたプランションは、フランス原産の木は死滅あるいは瀕死の状態だが、米国産の葡萄の木は元気溌剌の意外な事実を発見する。米国産の葡萄の葡萄畑には、この害虫への免疫性があると知った彼は、唯一の解決策は米国の苗の輸入であると提案する。米国の苗を台木にして地元の苗に接木する方法である。

 しかし、この方法はフランス人には抵抗があった。伝統あるフランスワインが米国ワインに汚染されるのではないか、という心配である。当時、米国産ワインの品評会を取材したパリの記者は「米国産のワインを飲み干す勇気のある者は、一人もいなかった」と書いている。それほど米国産は評判が悪かった。

 

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プランションの銅像アメリカへの感謝の碑               Ed Wardk

 

 しかし、被害は広がるばかりで誇り高きフランスの生産者も背に腹はかえられない。1890年代になってカリフォルニア州テキサス州から貰う苗木の大量輸入がはじまり、フランスワインは蘇生したのであった。皮肉にも、フランスが米国から輸入した苗木の大部分は、昔フランスから運んだものの子孫であった。モンペリエの公園に、その功績を称えた植物学者プランションの銅像が建っている。その碑文には「フィロキセラとの戦いで、米国はフランスワインを蘇らせた」とある。

フィロキセラ騒動は、世界のワイン地図を塗り変えた。チリ、アルゼンチン、アルジェリア産ワインの生みの親は、フランスで破綻しそれらの国に移住した人々だった。ドルドーニュの多くのワイン農家も、故郷を去り外国に移住している。あの日、今も健在のダルネさんが、美味しそうにボルドーワインを飲んでいた姿が目に浮かぶ。(2012 年11月2日記)

 

ドルドーニュ便り~旧鉄道路の散歩 (5)

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鉄道開通             Histoire de la France rural (Seul)より

 

フランスで初めて乗客をのせた蒸気機関車が走ったのは 、1832 年のリヨン~サン・テティエンヌ間である。上の絵は、当時ののどかな風景だ。パリ~ボルドー間が開通したのは 1853 年、パリ~マルセイユ間が 1863年としだいに都市を結ぶ鉄道は普及していったが、長い間、貧しい田舎は取り残されたままだった。

わが村に鉄道が通じたのは 1892 年で、フランス鉄道事始から 60 年後のことである(日本の鉄道事始は、1872 年の新橋~横浜間)。その後、サン・ジャン・ドコール駅はローカル線の駅として利用されたが、1965 年に廃線となった。この地方の都市への人口流出、車とトラックの普及で、採算が合わなくなったからだ。

その後、半世紀以上の間放置されていた旧鉄道路の一部が、数年前、県と近隣の村の共同出資によって整備され、現在ここは“緑の道”と呼ばれる 16キロの散歩道になっている。旧サン・ジャン・ドコール駅はテヴィエとサン・パルドゥの中間点にある。そのおかげで、妻と二人で四季を通じてここをよく散歩する。春には、乗馬姿に出会うこともある。夏の木陰のプロムナードは涼しく、秋にはドングリやクルミの実を見かける。冬は日当りのよい北西方向の道を歩く。出会うと、散歩人は“ボンジュール”と挨拶する。

 

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1892 年に建った旧駅舎

 

散歩の基点である旧駅舎は、いまではオランダ人が買い取り夏の別荘にしている。その壁には、1 等席、2,3 等席の文字が残っていて、ふたつの改札口の跡がある。旧鉄路が“緑の道“として復活した記念に、鉄道開設時の村の人々の等身大の写真看板が置かれている。スカーフを被った女性の姿をみると、その頃の流行がうかがわれて面白い。

地方史家、ジョルジュ・トマさんが書いた『鉄道 100 年史』(1991 年刊)によると、当時の開通式は盛大だったらしい。1883 年ノントロンの町(村の駅から 20 キロ、ナイフの産地で有名)に駅が開設されたとき、パリから建設相が来訪し 3000 人の人々が駅に集まり、祝砲が放たれ、大祝賀会が開かれたという。

そのとき開通したローカル線は、アングレーム(現在、毎年 2 月に開かれる国際漫画フェスティバルで有名)からノントロンまでの区間 40 キロであった。その線が 20 キロ延長され、村に駅ができるまで、さらに 10 年かかつている。19 世紀末の時刻表を見ると、上下各 5 本の汽車が走っている。サン・ジャン・ドコール村はその頃、人口 900 人(現在の 3 倍)だったので、利用客も多かったのだろう。

 

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“緑の道" は絶好の散歩道だ。

 

わが家の最寄り駅は 8 キロ離れたテヴィエという人口 3000 人の町だ。ここからパリまで 4 時間かかる。TGV(新幹線)はこの路線には通っておらず、パリへの本数は一日に 4本しかない。それでも駅の構内にはキヨスクがあるので、乗降客だけではなく町の住人が新聞を買いにやってくる。

先日、土曜の午後パリ行きの切符を買いに行ったら、窓口は閉まっていて、フランス国鉄の告示が貼られていた。いわく、合理化で窓口業務を「月曜から金曜までは 8 時から 5 時まで、土曜は 9 時から 3 時まで、日曜は 10 時から 12 時まで」とある。以前は、5 時の始発から深夜の終電まで窓口が開いていたのが、これは大変だと思い辺りを見ると、構内の机の上に国鉄の新方針に関する地方紙の記事の切り抜きと、反対署名のノートがあった。

そこには、多数の署名と抗議のコメントが書かれてあった。わたしも名前と住所を書き署名した。数週間後、駅に行ってみると、窓口業務の時間はすこし削られていたが、ほぼ以前のサービスに戻っていた。反対署名の効き目があったわけだ。わが人生ではじめての署名による勝利体験であった。(2009年4月9日記)

 

 

ドルドーニュ便り~ディドロの『百科全書』 (4)

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16世紀末に建った村の城

 

「この肖像はどなたですか」と尋ねると「ルイ16世ですよ。8代前のわたしの祖先で将軍だったド・ボモン伯爵が、国王からもらったものです」とマルトニ城の跡継ぎティエリ・ド・ボモンさんは言った。フランス革命でギロチンの犠牲になった国王の表情が柔和なのは意外だった。

 

 

肖像画は、村の城を訪れてド・ボモンさんをインタビューしたとき、居間にかかっていたものだ。彼はパリで保険会社を経営しているが、村長を37年間つとめこの春引退した城主の父親に会いに時々やってくる。彼は医療慈善活動をする「マルタ騎士団(フランス)」の会長でもある。

フランス革命期の伯爵家の運命について尋ねると、城は国有化されご先祖は逮捕され、ドルドーニュ地方で一番大きな城オトフォーに投獄されたという。しかし、数日後すぐ釈放され、革命熱が醒めると城主の地位を回復したようだ。

この地方では、革命が猛威を振るっていたときでも、貴族への弾圧はひどいものではなかった。ド・ボモンさんよると、その理由は、ほとんどの城が小さいものなので、貴族と農民の間に日常から人間的な交流があったからだという。それでも、家具が盗まれたり書類(とくに城主との間で交わされた契約書)が焼かれたりする被害はあったらしい。

ここで暮らしはじめた頃、夏の間だけ公開している城の一部を見学したが、一階のミニ博物館にはご先祖が残した自慢の品々が展示されていた。

そこで、わたしは思いがけない書物に出合った。ディドロが編纂した『百科全書』である。若い頃、わたしは『ブリタニカ国際大百科事典(日本版)』の刊行にたずさわったので、啓蒙主義の開祖が執筆・編集し、フランス革命を思想的に準備したといわれる書物を見て、奇遇に驚き感動を覚えたものだ。そのことを話すと、読書家のド・ボモンさんは身を乗り出し、隣の書斎からルイ16世の司祭が所有した『百科全書』(1779年刊、第3版)の数冊をもってきてくれた。

 

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軍事項目のイラスト

 

ディドロが20年かけて編纂した『百科全書』(1751-72)は全28巻で、そのうち11巻が図版である。わたしは図版を見ながら、大衆に知識を普及させるためにはイラストが一番、と考えたディドロは名編集長だと思った。

百科全書派は危険思想であるとの烙印を押された時期もあったので、「ご先祖は開明派貴族だったのですね」と聞くと「ええ、国王の司祭で教養のある人でした」とド・ボモンさんは言った。とすると、ルイ16世の側近は保守反動ばかりではなかったことになる。

父親が40年かけた城修復の苦労話などを聞き、正午になったのでお暇をしようとすると、「なにかお飲みになりませんか」と誘われた。

 

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ド・ボモンさん

 

ド・ボモンさんは台所に行き、しばらくして居間に戻ってきた。お盆の上には赤ワイン、白ワイン、ジュース、ウィスキーと氷が置かれていた。「なににされますか」と彼は聞くのである。こんな場合、わが家だったら、「ワインいかがですか、ウィスキーもありますよ」と事前に好みを聞くのだが、8代目はすべて準備したあとに尋ねるのである。これこそ貴族の優雅なもてなしではないか! その日の赤ワインは格別だった。(2008年8月25日記)

 

 
著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。

ドルドーニュ便り〜人生に喝采(3)

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サン・ジャン・ドコール村の散歩道で

 

「会社を辞めて、フランスの大田舎で暮らすことにしたよ」とわたしが友人に明かすと、彼は「君のような都会で忙しい仕事をしていた男が、そんなところへ行くと退屈で死んでしまうぞ」と心配してくれた。大学の後輩からは「まだお若いのにご隠居ですね」と冷やかされた。今春、帰国したとき女性ジャーナリストの友人から「毎日なにをやっているの、面白い?」と尋ねられ「東京とはすべてが逆のところが、面白いね」と答えたものだ。

都会は便利で面白いのだが、退職をすると懐具合がさびしくなり、華やかな消費文化とは縁がなくなってしまう。幸い、サン・ジャン・ドコール村にはただ一軒、小さな食料雑貨店があるだけで、自動販売機なし、広告ポスターなし、緑十字のネオンサインはあるが薬屋さんのものだ。村の周辺を散歩しても、牛や羊には出会うが、商品広告にお目にかかったことがない。コマーシャルの洪水とは無縁の環境は、精神衛生上まことに良い。

 

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ティヴィエ町の土曜朝市

 

時には、ドルドーニュ県の首都ペリギュー(車で40分)の専門店や大型スーパーに行くが、たいていの買い物は車で10分の町、ティヴィエの店でことたりる。土曜日になると町の広場で朝市が開かれるので、地元の農家で生産された採りたての野菜、果物、肉を買い求める。当地の秋の味覚は桃、栗、きのこ、そして秋刀魚の代わりにフォアグラだ。大勢の人のなかに、友人や知人の顔が見える。買い物そっちのけで世間話をしている老人仲間がいて、町長が中年のマダムの相談ごとに耳を傾けている。小さな町の息遣いが聞こえてくる光景である。

 

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朝市風景 買い物よりおしゃべり

 

わが家は田園地帯の丘の上にある。寝室の窓から見えるのは隣の家の大きな池と遥か彼方の丘の上の数軒の家だけだ。この風景も夏になると庭のポプラの葉で見えなくなる。隣家は数軒しかないので、数日誰にも会わないこともある。しかし、辺鄙なところで暮らしているからと言っても、世界から隔離しているわけではない。インターネットで日本と世界のニュースを瞬時に入手できるからだ。それに、スカイプを利用すれば、世界中どことでも自由に話ができる。通信革命のおかげで、異国の田舎で暮らす孤立感はない。

 

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庭のロシアンセイジ

 

秋のドルドーニュは快適だ。朝、澄んだ空気のなか陽光を浴びながら庭仕事をする。奥方はバラやモクセイの手入れをし、わたしは枯れ枝を切り、雑草を刈り、小川の掃除をする(広い庭なので仕事はかぎりなくある)。陽気の良い日に、鳥鳴き花咲く庭での昼食の味は格別だ。あまり酒が飲めなかったわたしが、昼から赤ワインを傾けるのだから、胃袋まで仏蘭西風に改造されたのだろう。わが家を訪ずれた東京の友人は「君は贅沢な暮らしをしているね。非国民だな」と言う。

暮らしをテーマにした本に、中国人作家・林語堂の『生活の発見』(原題はThe Importance of Living『生活の大切さ』ニューヨーク1937年刊)がある。同志社の学生時代に坂本勝(当時兵庫県知事)の名訳で読んだ忘れられない本である(現在は『人生をいかに生きるか』の書名で講談社学術文庫から刊行)。生活の楽しみ、自然の楽しみ、教養の楽しみをユーモラスに語るこの本は世界的べストセラーになり、とくにフランスで爆発的に売れたという。「人生を楽しむこと以外に、人生になんの目的があるのか」と言う著者の考えにフランス人はわが意を得たのだろう。

ティヴィエ図書館の美人館長ブリジットに「この本の邦訳のタイトルは『生活の発見』、中国版は『生活的芸術』だけど、フランス版ではなんでしょう」と尋ねたら、すぐ調べてくれた。その答えは“Le Triomphe de la Vie”『人生に喝采』だった。さすがフランス、英日中仏のなかで一番洒落ている。(2012年10月05日記)

 

ドルドーニュ便り〜年の瀬(2)

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わが家の台所の壁にかかっている、逆回りで動くこの時計を奥方が買ったのは、こちらで暮らしはじめたころのことである。日本から遠路やってきた友人はたいてい「なぜ?」と尋ねる。「これは、時間に追われる東京にさよならをした象徴みたいなものよ。時間が逆に流れているみたいでしょう」と奥方は答える。

わたしも当初は戸惑ったが、慣れるにしたがって、これが普通になった。未来に向かう時の流れは地球上どこでも同じなのだが、なんだかわが家の空間だけは、時間が過去に向かって流れているような心地よい錯覚に一瞬とらわれるのである。

事実、ここでの時間の流れは実にゆったりしている。わたしが東京でニューズウィーク日本版の編集をやっていた頃は、土日月の3日間で40時間働いて週刊誌をだす、それを一年に50回繰り返す時間のサイクルだった。それに比べると、第一線を退き、自然のなかで暮らしている今は、時間の流れを測るバロメーターが春夏秋冬の四季の移ろいになった。

しかし、今年も残すところ10日。この時期になると1年があっという間に過ぎたことを思い知る。年を重ねる毎に‘光陰、光速の如し’の感が深い。

 

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凍てつく夜、ダイニング・ルームにある暖炉に火を入れる。この家は1827年築だから、暖炉も年季が入っている。人は炎になぜ魅せられるのだろう。揺らめく炎を見ていると、時の流れを忘れてしまう。あたりが優しく、親しみのある空間になる。そして、静寂と闇のなかで燃え上がる炎の前で、人は沈黙し哲学的になる。

この炎を眺めていると、同志社大学アーモスト館の寮生時代から親友だった石井信平君のことを想いだす。筑摩書房の編集者、テレビマン・ユニオンの番組製作者、ライターだった彼は才能豊かなほんもののジャーナリストだった。考え抜かれた見事な文章を書く友だった。なにより、わたしは誠実で毅然としユーモアを解する彼の人柄を愛した。

信平君が敦子夫人とわが家に滞在したことがある。彼は暖炉の炎の虜になり、朝に夕にマキを燃やし続けじっと炎を見つめていた。その信平君は3年半前にガンで亡くなった。

今宵は彼を偲んで、好きだったボルドーの赤ワインを飲みながら暖炉の炎と語らおう。

 

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サン・ジャン・ドコール教会

 

年の瀬になると、奥方とわたしは花を携えてお世話になった村の友人宅を予告なしで訪れる。今年の花はアマリリス。フォルニエ夫妻の家は教会(写真)の前にある。アンリ・ジャンは退役将軍で、教会修復委員会の幹事として、中世ロマネスク様式の教会内部の修復事業のための基金43万ユーロ(5千万円)を集めた人だ。わが奥方も唯一の外国人委員として参加したが、10年間かけたこの事業も今年の夏で終わった。

マチュア画家のニコール夫人は花にいたく感激したようすだった。コーヒーでもと誘われるのを辞退しての帰り際、ニコールは「これは、アンリ・ジャンのプレゼントよ」と、超ミニ折り紙が入っているイヤリングを指差した。

その後、フォルニエ宅から歩いて数分、コール川沿いにあるリトアニア人・バストカスさん夫妻のお宅に花を届けた。ロンはカナダのトロント大学の前人類学教授、オナは土木エンジニアで、なんでもできるスーパーウーマンだ。彼女はロンの書斎になる空間の壁に暖房シートを張っている最中だった。彼女は「明日、書棚をつくる木材を買いにいくのよ」と弾んだ声で言っていた。5年前廃墟にちかい5世紀前の家を買った彼らは、ほとんど自力で見事な住居に蘇らせつつある。この夫妻とは昔からの友達のように波長が合う。この村が結んでくれた縁である。

 

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元旦ヌーヴェル・クイジー

 

クリスマス休暇で娘の恵実がストックホルムからやってきた。彼女はスウェーデン環境省の役人で地球温暖化対策を担当している。今月ドーハで開催された国連気象変動会議(COP18)など、海外出張が年間100日というから相当タフな仕事だ。しかし、元気なので安心した。彼女が持参した奥方の故郷スコーネ(スウェーデン南部)の塩漬ハムや胡椒クッキーは、わたしの好物でもあるのでありがたい。

クリスマスの朝、毎年わたしたちは教会のミサに行く。今年はひさしぶりにドルドーニュの首都ペリギューにあるサン・フロン教会に行くことにした。ここは、ビザンチン世界にタイム・スリップしたかと錯覚するような5つのドームで知られ、サンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼路の一部として世界遺産に登録されている。

サン・フロン教会だけではなく、どこの教会でもクリスマスの日にいつも心を動かされることがある。それはミサが終ると、前後左右に座っている、見知らぬ人同士が黙って握手する光景だ。信者でないわたしも力強く握手をする。これほど気持ちが和むことはない。

毎年、猛スピードでやってくる大晦日。年越し蕎麦とシャンパンで‘行く年、来る年‘を祝うわが家の行事は、結婚以来だからもう40年近くも続いている。シャンパンは意外に蕎麦と相性がいい。これこそ東西グルメ文化の融合!

横浜で暮らしていた頃は、港の汽笛やNHKの流す除夜の鐘で正月を迎えたが、ここにはサン・ジャン・ドコール村の教会の鐘がある。なにしろ11世紀に教会が建てられて以来、鳴り続けてきた音色である。

仏鐘に 諸行無常の 響きあり (2012・12・20記)

 

 

ドルドーニュ便り-芸術誕生の地(1)

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サン・ジャン・ドコール村

 

筆者が上記のタイトルで2007年、白水社ふらんす誌に12回寄稿したのが、暮らしシリーズの事始めであった。これが好評で、同誌のインターネット版で番外編として3年間続 け、その後も、2012年からLGMIと一緒に3年間継続した。

内容は江戸時代のようなペースでの暮らし、村人との愉快な交流、四季の移ろい、それに 時評と旅行記である。今回、その大量のエッセイから面白いものを選択し公開する。毎月2回で一回分が平均2000字の内容は、気楽な歴史散歩である。読者の皆さん、どうぞお楽しみください。

 

芸術誕生の地(1)

 

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ラスコー洞窟画     17000年前の作品

 

わたしは10 年前から、ひょんなことからパリから南500キロのところにあるドルドーニュ県の小さな村で、一年の大半を妻と二人で暮らしている。ドルドーニュは、珍味フォアブラの産地、クロマニヨン人の描いたラスコー洞窟画、1000の城で知られている。わが家の周りはまったくの田園地帯で、数軒隣家があるだけだ。1キロ近く歩くと、中世の風情を色濃く残す人口300人の村サン・ジャン・ドコールがある。そこには11世紀の教会と15世紀の城が建っている。教会の鐘の音が時を告げ、村役場の三色旗がたなびく生活空間のなかでの暮らしは快適だ。 

 

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わたしはフランスとは縁のない男だった。いわば純粋英米派であった。というのも、英国で誕生したブリタニカ百科事典、米国の週刊誌ニューズウィーク日本版の編集をしていたからだ。30年間、仕事を通じてアングロ・サクソン文明の視点で世界を見てきたのだが、当地の田舎暮らしでフランス文明の視点が加わった。そのおかげで、世界を見る目が微妙に変わったと思う。

 

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筆者 村の花祭りの準備

 

フランス語は、こちらで暮らしはじめる前に、横浜日仏学院の週3時間のコースに半年通っただけで、まっくのゼロ(雑誌Elleのタイトルがなにを意味するか知らなかった)からの出発であった。奥方はフランス語ができるので、日常生活に支障はなかったが、当初、わたしの村人との交流はBonjour(ボンジュール)一本槍だった。今ではルモンド紙を購読(理解度は50%))し、テレビ・ラジオのニュースを苦労して聞いている。しかし、まだレベルの高い会話はできない。

都会育ちのわたしにとって、田舎暮らしそのものが初体験だった上に、選んだ場所がフランスの奥深い田舎だったので、そのインパクトは新鮮かつ強烈だった。この村での暮らしと東京時代とを比べて、なにが一番違うかと言えば、時間についての感覚だろう。ここでは、とにかく時間がゆっくり流れるのである。

 

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丘の上のわが家

 

わが家は、1827年に建った石造り240㎡の平屋である。建築様式は17世紀から19世紀前半に流行したシャルトルーズと呼ばれるもので、昔は地方のブルジョワや地主の住居や別荘であったようだ。壁は70㎝もあるから頑丈で真夏でもクーラーはいらない。食堂の暖炉には建築時のままの鶏や豚を丸焼きにする装置があり、いまでも利用できる。歳月を経て屋根の赤瓦は薄茶色となり、壁は淡い灰色に変色し、玄関の入り口にある石垣には苔がむしている。ここで暮らしていると、百年前、二百年前、いや千年前もそれほど昔とは思えない。

村の広場に立って、ロマネスク様式の円いドームの教会、4つの尖塔がある城を眺めていると、中世世界にタイムトラベルをしている気分になる。教会はフランス革命時には荒れ果て、干し草の倉庫になっていたという。現在の城主ド・ブモンさんは貴族の末裔で16代目、37年間、村長でもあった。教会に隣接して大きな屋根で覆われたオープン・スペースがあるが、ここは昔のマーケットだ。いまでも夏祭りのダンスや教会コンサートあとのパーティの会場として使われている。広場の中心には、20世紀二つの大戦で戦死した村出身の兵士21名の名前が刻まれた慰霊碑がある。眼前に歴史がある。日常生活のなかに過去が生きている。

 

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ラスコーの洞窟画

 

わが家から車で20分のところに、クロマニヨン人が暮らしたヴィラ―の丘がある、その丘の下には鍾乳洞があり19000年前に描かれた洞窟画がある。ラスコーの壁画に比べると、画の数はすくない が、夏になると観光客が訪れる 。ここの人を襲う野牛や青い馬を見ていると、現代人の祖先クロマニヨン人を身近に感じるのである。

クロマニヨン人と言えば、横浜に住んでいたころスウェーデン人 の奥方と交わした会話を思い出す。ある日、彼女はフランスの雑誌の不動産広告を見ながら「このドルドーニュの家、素晴らしいわね」と弾んだ声で言った。わたしは「いいね」と答えたものの、彼女がまさか本気だとは思わなかった。

翌日からヤードは、その地がいかに面白いところかを語りはじめた。ワインが美味しく、風光明媚で、英仏百年戦争の地で・・と説得にかかったのである。「フランス語ができないから、無理だよ」と言うわたしに、彼女は「勉強すればできるわよ。それにドルドーニュは人類がはじめて文明化し芸術に目覚めた土地なのよ。ラスコーの洞窟画のこと知ってるでしょう」と言ったものだ。心機一転、まったく新しいことをやりたかったわたしに、この一言は効き目があった。わたしは文明と芸術と言う言葉に弱い。(2007・4・1記)

 



著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。

KGBの二重スパイ:モスクワ脱出か処刑か

 

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脱出計画が始まった瞬間                           The Times

 

モスクワのアパートに到着したゴルディエフスキーが発見したのは、ドアが開かないことだった。3番目のカギを使ったのはKGBの捜査班に違いないと思った瞬間、彼は背筋が寒くなった。自分の運命はこれで終わりだと思った。逮捕されすべての秘密を告発するまで、尋問を受け処刑されるだろう。

しかし、しばらくすると、KGBを知っている彼は次のように考えた。彼のスパイの全貌を知っているのなら直ちに空港で逮捕され、今頃はルビャンカの地下の牢獄だろう。彼が疑われているのなら、まだ確固たる証拠がないからに違いない。

KGBは極めて法律に忠実な組織であった。大佐を拷問にかけるには厳重なルールがある。スターリンが無実の人々を粛清した時代の反省からこうなったのだが、85年には証拠で犯罪を示し裁判で判決を受けるシステムが出来上がっていた。

彼はアパートのカギを管理しているKGBのカギ屋のおかげで、部屋に入ることができた。盗聴、盗撮の装置があることを確認した彼は、なにごともないように振舞うことにした。逃亡の詳細が隠されているシェークスピアの本は無事であった。その日、彼は直属の上司ニコライ・グリビンの自宅に電話をしたが妙によそよそしかった。

翌朝、彼はKGB本部へ出勤した。グリビンは彼に「君はトップ二人に会ってロンドンの状況を説明するのだから、その準備をしておいたほうがいい」と言った。彼はそういう指示だったので準備はできていると答えた。

夕方、彼はKGBのボスからの連絡を待っていたが、なにも声がかからなかった。3日目、グリビンが早めに帰宅するので、途中まで送るよと言われたので「ボスから電話があるかもしれない」と言うと、彼は「今晩、ボスから連絡はないよ」と言われた。

ゴルディエフスキーはロンドンの妻レイラに電話をした。彼女は二人のこどもは元気にやっているという、そしてしばらく話した。モスクワで何が起こっているか気づいていないようだった。この電話はKGBとしMI6が盗聴していた。 

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