フランスの田舎で暮らす

土野繁樹の歴史散歩

KGBの二重スパイ:モスクワ脱出か処刑か

 

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脱出計画が始まった瞬間                           The Times

 

モスクワのアパートに到着したゴルディエフスキーが発見したのは、ドアが開かないことだった。3番目のカギを使ったのはKGBの捜査班に違いないと思った瞬間、彼は背筋が寒くなった。自分の運命はこれで終わりだと思った。逮捕されすべての秘密を告発するまで、尋問を受け処刑されるだろう。

しかし、しばらくすると、KGBを知っている彼は次のように考えた。彼のスパイの全貌を知っているのなら直ちに空港で逮捕され、今頃はルビャンカの地下の牢獄だろう。彼が疑われているのなら、まだ確固たる証拠がないからに違いない。

KGBは極めて法律に忠実な組織であった。大佐を拷問にかけるには厳重なルールがある。スターリンが無実の人々を粛清した時代の反省からこうなったのだが、85年には証拠で犯罪を示し裁判で判決を受けるシステムが出来上がっていた。

彼はアパートのカギを管理しているKGBのカギ屋のおかげで、部屋に入ることができた。盗聴、盗撮の装置があることを確認した彼は、なにごともないように振舞うことにした。逃亡の詳細が隠されているシェークスピアの本は無事であった。その日、彼は直属の上司ニコライ・グリビンの自宅に電話をしたが妙によそよそしかった。

翌朝、彼はKGB本部へ出勤した。グリビンは彼に「君はトップ二人に会ってロンドンの状況を説明するのだから、その準備をしておいたほうがいい」と言った。彼はそういう指示だったので準備はできていると答えた。

夕方、彼はKGBのボスからの連絡を待っていたが、なにも声がかからなかった。3日目、グリビンが早めに帰宅するので、途中まで送るよと言われたので「ボスから電話があるかもしれない」と言うと、彼は「今晩、ボスから連絡はないよ」と言われた。

ゴルディエフスキーはロンドンの妻レイラに電話をした。彼女は二人のこどもは元気にやっているという、そしてしばらく話した。モスクワで何が起こっているか気づいていないようだった。この電話はKGBとしMI6が盗聴していた。 

KGB取調官のドラッグ尋問 

 

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ブダノフ取調官                The Spy and the Traitor

 

その後、KGBのボスとの会見がないまま時が過ぎた。5月27日の朝、彼は寝不足で神経が疲れていたので、ロンドンでプライスからもらった元気回復の錠剤を呑んだ。本部に着くと、第一総局次長のヴィクトル・ グルスコから電話があり「二人の高官が君と英国でのスパイの侵入について話をしたいと言っている」と言い、会見の場所は本部の外で彼も一緒に行くという。

会見の場所は第一総局のゲスト・ハウスで、二人が到着すると、マネージャーは外国の貴賓を出迎えるような丁寧な応対だった。そこで、彼はグルスコに勧められアルメニアのブランディを呑んだ。その時、二人の男が入ってきた。彼は知らなかったのだが、年をとったほうは第一総局長(ソ連版のCIA局長)のヴィクトル・ゴルベフで、若いほうはKGBのトップ取調官のヴィクトル・ブダノフであった。

しばらく4人は杯を重ね世間話をやっていた。突然、ゴルディエフスキーは現実から浮遊して幻覚症状を感じている自分がいることを発見した。ブランディのなかにはKGBが開発した“なんでもしゃべる”薬が入っていたのだ。

二人は質問を開始した。彼は質問に答えているのだが、何を言っているのか、よくわからない状況だった。しかし、彼の頭脳の一部は自己認識があり、防御機能が働いていた。「油断するな」と自分自身に言い聞かせた。ゴルディエフスキーは命を懸けて、このドラッグと戦っていたのだ。

彼は次の5時間に一体何がおこったかを正確に説明できない。彼は幻覚症状が起こりはじめたとき、キム・フィルビーの言葉「決っして告白はするな」を思い出していた。「フィルビーと同じように、わたしはすべてのことを否定した。否定、否定、否定である。これは本能的だった」

二人はオーウェルソルジェニーツィンの本について聞いた。「なぜ君はこれらの反ソの本をもっているのか」。彼は自分が次のように答えたと思う。「わたしがこれらの本を読むのは、相手がどう考えているかを知るためだ。政治将校の務めである」

「われわれは君が英国のスパイであることを知っている。反駁できない証拠がある。告白しろ」(二人)「わたしには告白することは何もない」(ゴルディエフスキー)

ブダノフが反抗的なこどもをあやすような調子で「君は数分前に非常にうまく告白した。もう一度、確認のために言ってくれないか」と言うと「告白することは何もない」と自分の嘘にしがみついて突っぱねた。

尋問の途中で、彼は突然吐き気がしてトイレに駆け込み激しく嘔吐をした。それを見ていた二人のマネージャーにはさきほどの丁寧さのかけらもなかった。彼は大量の水を飲んだ。

ブダノフは切り札をだしてきた。「われわれは誰がコペンハーゲンで君をリクルートしたのか知っている。それはリチャード・ブロムヘッドだ」。それへの答えは「ナンセンスだ。わたしが彼に会ったのは一度だけだ。。彼は誰とも話す男だった。この会合について上司へ報告をしている」だった。

ブダノフはコペンハーゲンでの彼の妻への電話は「あの電話は英国の情報機関への、シグナルだったことを知っている。そうだろう」と攻めてきた。彼は「それは違う」とこれまた否定した。

抵抗力が弱まることを感じながら、彼は力を振り絞って反撃にでた。「あなた方はスターリンの秘密警察と同じようなことをやっている。無実の男に罪を押し付けようとしているではないか」。部屋の明かりが突然消えた。疲れ果てたゴルディエフスキーは眠りについた。

 

ロンドン支局長を解職となる

 

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グルスコ第一総局次長             The Spy and the Traitor

 

目が覚めると彼は清潔なベッドで寝ていた。異常に頭痛がし、のどがカラカラだった。昨晩のことを思うと「これで終わりだ。彼らはすべてを知っている」と絶望的な気持ちになった。

やがて、コーヒーが運ばれてきてそれを何杯も飲み、靴を履こうとしているときに、昨晩の二人がやって来た。ブダノフが口を開いて「君の昨晩のわたしたちへの態度は大変無礼であった。君はわたしたちを1937年のあのテロの時代の後継者であると非難したではないか」「君は間違っている。ゴルディエフスキー同志、いずれそれを証明してみせる」と憤慨しながら言った。

彼はスターリンとは逆の法の守護者であると思っていたので、これが怒りになったのだ。ゴルディエフスキーは「もしそんな失礼を言ったとしたら、お詫びをしたい。しかし、昨晩のことは思いだせない」と言った。しばらく奇妙な沈黙が支配したのち、またブダノフが口を開いた。「あとで車がくるので、それで帰宅してほしい」。

アパートに帰ったゴルディエフスキーは昨日の出来事を考えた。取調官は、ブロムヘッドのこと、レイラへの英国情報部への伝言のことを知ってはいるが、スパイの全貌は分かっていない。

ロンドンでは夫からの連絡がないのでレイラが心配し始めていた。5月28日の朝、ソ連大使館の男がアパートを訪れ、夫は軽症の脳障害にかかっているので「こどもを連れてモスクワへ行ったほうがいい、手配は大使館がする」と言った。KGB代表の妻レイラは手荷物だけを持って、二人の子供を連れて一等席に座りモスクワへ向かった。

ブダノフの尋問の翌朝、ゴルディエフスキーは本部に向かった。机について数分後、グルスコのオフィスから、直ぐに来るようにと電話があった。彼が部屋に入るとグルスコ、グリビンと第一総局長のゴルベフが座っていた。彼は立ったままで裁判が開かれた。

グルスコが「何年間も君がわれわれを騙してきたことを知っている。君はロンドンの仕事から解雇される。しかしKGBに在籍できる。有給休暇をとってもよろしい。ロンドンへ電話をすることはできない」と宣言した。

ゴルディエフスキーは愕然とし言葉を一瞬失った。しかし「グルスコ同志、わたしにはあなたが言わんとすることがまったく分からない。しかし、その決定がどんなものであろうと、将校として紳士として受け入れる」と言った。

 

猫がネズミを追い詰める 

 

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猫がネズミを追い詰める                        Sumical.com

 

アパートに帰った彼は証拠不十分なKGBは長期戦に持ち込む気だと思った。猫がネズミを追い詰めて最後は殺すつもりだろうと。それに、彼らはKGBの監視のもとで、逃亡した容疑者はいないという絶対の自信をもっていた。

ロイ・アスコットはMI6のロンドン代表で、生まれは伯爵家の息子であった。この組織では珍しい毛並みの良さだった。1980年にMI6に入り、ロシア語を学び83年に34歳でモスクワに赴任した、彼は際立って優れたスパイだった。

英国を出発する前、彼と妻のキャロラインはゴルディエフスキーについてプライスから学んでいる。彼女はこのロシア人のことを「素晴らし人物だ」と激賞していた。そう語る彼女のことを彼は「性格は率直で、まるでジョン・ル・カレの小説に登場する人物のようだった」と言っている。

アスコット夫妻は2年間のロシア滞在中に、数回、ヘルシンキまで車で走り脱出計画のルートを覚え、落ち合う地点836を確認していた。モスクワの英国大使館で脱出計画を知っているのはアスコット夫妻、次席のアーサー・ジーと妻のレイチェル、MI6の秘書ヴァイオレット・チャップマンであった。

ゴルディエフスキーは妻とこどもたちを飛行場で迎えた。それを聞いたレイラは安心したが、一目見てその憔悴ぶりにおどろいた。車のなかで彼は妻に「もう英国へは帰れない」と言うと、びっくりした彼女は「なにがあったの?」と尋ねた。

彼は嘘を言った。「わたしに対する陰謀事件に巻き込まれた。自分は無実だ。他人が言うことは信じるな。わたしは正直な将校だ。祖国への忠誠心はかわらない」。それを聞いたレイラはショックから立ち直りこの説明を受け入れた。「わたしはこの人の妻だ」と思い、疑いが晴れるまで頑張ろうと思った。しかし、彼は外交官パスポートを剥奪され、現在、強制休暇中であることは妻には話していなかった。

疲労困憊の彼に保養地に出かけて休養しては、と勧めたのは母親のオリガだった。セメノクスエコ保養地はアンドロポフがKGB議長時代に建てたもので設備は一流だという。KGBの許可が出て彼は2週間そこで休養することにした。

そこへ行く前にゴルディエフスキーは友人リュビモフに会いにいった。久しぶりに会ったゴルディエフスキーの印象を彼は「顔色は死者のようで、神経質で、話は混乱していた」と語っている。そのとき彼は「KGBのことなど忘れて、僕のように作家になってはどうだ」と励ましたと言っている。

 

裏切り者エイムズ

 

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エイムズ                          Famous People

 

1985年6月13日、CIAのエイムズはスパイの歴史で最大の裏切り行為を犯している。彼は、西側のために働くソ連のスパイ25人の名前を明らかにし、KGBに売り渡したのだ。

その日の午後、エイムズはソ連大使館のチューバキンとジョウージタウンのレストランで会い、3キロの買い物袋を渡した、そのなかには、スパイの電報、報告書、内部交信などの証拠書類が大量に入っていた。そして、彼はCIAが独自に探りあてたKGBの二重スパイの存在を明らかにしていた。

この情報は直ちにモスクワへ伝えられ、KGBはスパイを逮捕し尋問を開始した。エイムズはモスクワから「おめでとう。これで君は100万長者だ」との祝電を受け取った。

このエイムズ情報で、ゴルディエフスキーがスパイである証拠が見つかったことになる。ところが、KGBの取調官ブダノフはすぐには動かなかった。25人のスパイの対応に忙しすぎたのだろうか。ともあれ彼は、厳しい監視下にあるゴルディエフスキーが逃げることはできないと、確信していたのだ。

6月17日、ゴルディエフスキーはロシアで最も豪華な保養地の客人になっていた。しかし、60歳代のルームメートがいて、どこへ行くにもついてきた。言ってみれば、セメノクスエコ保養地はあまりにも快適な監獄であった。KGBにとって、彼を監視するには最適の環境だったのだ。

しかし、ここには良い図書館があったので、彼はロシアとフィンランドの国境地帯の地図を勉強した。そして、毎日走って体力の回復を図った。そして、行きついた結論は「代案はもうない。ここを脱出しなければ死ぬしかない。ここの休暇でさえ死人扱いだ」であった。

 

ゴルディエフスキーの苦悩の選択 

 

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マーシャ(左)とアンナ                 The Spy and the Traitor

 

休暇からから帰ってきたゴルディエフスキーは脱出計画に本気で取り組み始めたが、まずは、彼は家族をどうするかについての決断をくださなくてはならない。彼はこれまでスパイとして命をかける場面に直面してきたが、それ以上に苦悶の選択だった。

ある日、彼は3歳と5歳の娘がベッドで英語の会話をしているのを聞いた。姉のマーシャが「わたし、ここは嫌いよ。ロンドンに帰りましょう」と妹のアンナに話していたのだ。

これを聞き、彼は一番良いのは家族4人で脱出することだと思った。しかし、男ひとりと4人連れでは危険度がちがう。彼らを見捨てて脱出することを思うと心が痛み体調が悪くなった。おそらく、危険をおかして家族として脱出すほうが良いのではないか。結果はどうなろうと、4人は運命を共にすることができる。

彼はレイラを愛していた。しかし、彼女はKGBの将軍の娘でこどものころからプロパガンダで教育された、忠実なソ連市民であった。彼女ははたして政治的責任のほうが祖国への忠誠心より大事だと思うだろうか。彼には妻の愛が共産主義より強いものであるという確証がなかったのだ。

ある晩、KGBのマイクロフォンが届かないバルコニーで彼は妻に「君はこどもを英国の学校で勉強させたいと言っていたね」と話かけた。妻はうなずいたので、彼は“本題”をきりだした。 「君の両親はアゼルバイジャンに家があるね。そこからとトルコへ脱出するのはどうだろう。国境をこえる狭い道があるのだが、どうだろう」と尋ねたのだ。

妻がやってもいいと返事をすれば、本当のMI6のヘルシンキ・ルートのことを話すつもりだった。しかし、レイラの答えは「馬鹿なことを言わないで」だった。その答えを聞いて彼の心は張り裂けるばかりになった。妻は頼れないのだ。

しかし、この結論は間違っていたかもしれない。それから何年も経ち「本物の脱出計画を知らされていたら、あなたはKGBに知らせたか」と問われたレイラは「逃がしただろう。彼の決定は倫理的なものだった。それを通告することは、彼の死を招くことになる。それは、わたしの魂が許さないことだった」と答えている。しかし、一緒に逃げたかどうかについては何も言っていない。

ともあれ、彼は家族を連れていかない決心をした。これしか選択肢はない、と自分に言い聞かせたのだ。すくなくとも、レイラはKGBの取り調べで、自分はなにも知らなかったと言うことが出来るだろう。

彼は妻と相談し、レイラとこどもはアゼルバイジャンカスピ海の近くにある父親の別荘で一月過ごすことにした。こどもたちは大喜びだったが、彼にとって最後の別れの日はつらかった。駅の喧騒のなかで、何も知らない妻子とちゃんと抱擁しキスをすることも出来ない別れになった。

 

脱出が始まった

 

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左から4番目がパン屋で3番目が合図の場所         The Spy and the Traitor

 

6月30日、KGBの尾行をまいて3時間後に彼は赤の広場に到着した。レーニン博物館のトイレで「深く疑われている。脱出をしたいので、至急連絡をお願いする」とブロック文字で書いてそれを封筒に入れて、目的の場所に向かった。聖ワシリイ大聖堂へ行き2階へ上がろうとすると「修理のため閉鎖」とあった。コンタクトに失敗した彼は帰りの電車のなかでメッセージを破り捨てた。

ロンドンのMI6は彼から連絡がないので諦めの空気が濃くなった。それでも,モスクワのMI6のアスコット、ギ―、ヴァイオレットは順番で、パン屋の前で午後7時 30分にセーフウェイのバッグを持った男が現れるのを待っていた。

アパートに帰った彼は、シェークスピアソネット詩集を10分間水につけ開いてみた。KGBの隠しカメラの目が届かないボックスを入れる部屋で、ロウソクをつけて脱出のマニュアルを読んだ。出会う場所836はモスクワからの距離、キロ数であった。明日の火曜日に脱出の合図を送ると土曜日には836で落ち合うことになる。

翌朝、もう一度ボックス・ルームで脱出計画を読んで燃やした。前夜すでに本はゴミ・シューターで廃棄していた。退役将軍であるレイラの父親からその夜7時に夕食の招待があり、それを受けた。リュビモフから来週火曜日に別荘へいくのでこないかと電話があり、その日の11時13分発の汽車で会うことにした。

午後4時、アパートを出た彼は次の2時間45分、KGBの尾行を巻くため全力を尽くした。バスとメトロを何度も乗り換え、ショッピング街の迷路を通り、6時45分にメトロ駅キエフスカヤに到着した。

 

危機一髪で脱出合図に成功

 

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⑤は合図の場所、④はパン屋、①はウクライナ・ホテル    The Spy and the Traitor

 

6月16日は素晴らしい夏の夕暮れだった。彼はゆっくりパン屋に向かって歩いていった。そこに着いたのは7時20分で、合図の時間より10分早かった。パン屋の外の歩道の端に立って、MI6の男が現れるのを待った。その日の脱出計画のシグナル担当者はジーであったが、車が混んでいて遅れていた。

その時、英国大使館のアスコット夫妻はロシア外交官の夕食会に招かれ、クトゥゾスキー大通りを車で走っていた。KGBの監視車がいつものようにぴったりついていた。アスコットが 大通りを隔ててパン屋の方を見て、一瞬凍てついた。パン屋の前に立ちセーフウェイのバッグを持っている男がいたのだ。時間は7時40分だった。ゴルディエフスキーには最大限30分待って、誰もこなければ去れと指示している。アスコットは「アーサーは間に合わない」と思った。

アスコットにはUターンしてその男と接触する時間が10秒あった。キツトカットのチョコレートもある。しかし、KGBの連中は彼の突然の奇妙な行動に気がつかないはずはない。アスコットは良心の呵責を感じながらUターンをしなかった。パーティの間中、彼は救出できなかった男のことを考えていた。

アスコットがその男を見たのとほぼ同時に、ジーもまた車からひさしのある帽子をかぶりセーフウエイ・バッグを持った男を目撃していた。Uターンをし、駐車場でグレイのズボンに履き替え、マーズバーのチョコレートを持ってパン屋へ向かった。時間は7時45分だった。彼は「男は去ったのではないか」と思った。

急いでパン屋でパンを買ったジーは、外へ出てポケットのなかからハロッド・バッグをだした瞬間、セーフウエイ・バッグを持った男を見た。同時にゴルディエフスキーも彼がMI6の男であることが分かった。自分のほうへ歩いてくる男がまぎれもない英国人であったからだ。

妻の父アリエフ将軍はゴルディエフスキーが来ないのでイライラしていた。彼は2時間遅刻してきた詫びをいれ、いつになくご機嫌でガーリック・チキンを平らげた。

アスコット夫妻はパーティから5台のKGBの監視車に囲まれ帰宅すると、ジーから伝言が入っていた。その夜、ウィンブルドン選手権で17歳のボリス・ベッカーが勝利したので「今日の試合をビデオにしたので週末に見に来ないか」とあった。これは接触に成功したときの二人の暗号だった。この伝言を妻のキャロラインに見せながらアスコットは「安心したよ。危機一髪だったね」と言った。

 

英国モスクワ大使館

 

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英国モスクワ大使館                          Wikipedia

 

7月17日の朝、ゴルディエフスキーはアパートを出た。その日はKGBの監視をあらゆる策略を使って潜り抜け、モスクワのレニングラード駅で4等車切符を買わねばならない。

KGBの監視はその日は厳しかった。前方に1台の車、後方に2台の車で、それぞれ二人の追尾要員が乗り、必要であれば一人が車を降り歩いて追跡する体制であった。バス、タクシー、メトロを乗り継ぎ、追跡を振り切りレニングラード駅に到着した。そこで、彼は偽名で19日の午後5時30分発のレニングラード行きの4等車の切符をキャッシュで買った。

17日午後7時30分、MI6本部のソ連課長P5(偽名)はモスクワから極秘電報を受け取った:「ピムリコ(ゴルディエフスキーの暗号名)は飛んだ。監視は厳しい。脱出はスタートした。アドバイスを待つ」P5は大急ぎでMI6のボス“C”クリストファー・カーウェンの部屋へ駆けつけた。彼は「計画はあるのか」と尋ねたのでP5は「はい、あります」と答えた。

自宅の庭で本を読んでいた担当官ブラウンにP5から電話があった。彼は「事務所に顔を出したほうが良いと思う」と言った。これは脱出計画についてではなかろうか。

「ゴルディエフスキーはまだ生きているのでは」とはやる思いでロンドン行きの汽車に乗った。本部に着いたブラウンは「空気がまったく変わっている」ことに気づいた。2カ月の間、この救援チームはロシア人スパイの運命を心配し続けていた。

それが興奮し脱出計画の詳細を詰めている。彼はその印象を「なんだか超現実的な気持ちだった。この脱出計画は長い間(7年間)考えてきたことだった。それが実行に移される。本当に成功するのだろうか、と皆が思っていた」と語っている。

モスクワのMI6の人々は盗聴できない地下の会議室でリハーサルをやっていた。脱出計画ではアスコットと ジーが2台の車でゴルディエフスキーと836地点で落ち合うことになっているが、KGBが信じそうな作り話が必要だった。朝出かけるまえにジーは妻レイチェルに「君に病気になってもらうよ」と書いたノートで渡した。

レイチェルは突然、背中が痛みだすのだが、その演技は真に迫っていて、彼女の母親が本気で心配するほどだった。彼女の親友キャロラインが応援のため、夫のアスコットとともに参加することになった。

アスコットは妻に参加を非常にためらうことを言っていたが、これもKGBが盗聴することを知っての演技であった。アスコット夫妻は15カ月の幼児を連れて行くことにした。幼児がいると警戒されないと言う理由からだった。彼はヘルシンキの医者に電話して約束をとった。

 

 MI6と駐露大使の激論

 

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MI6のボス、カーウェン                      The Telegraph

 

ロンドンでは脱出計画に反対する英国外務省の外交官もいた。その中には外務大臣のハウとモスクワの大使として赴任するブライアン・カートリッジがいた。

外務省で脱出計画についての会議が開かれた。出席者は、MI6側はボスのクリストファー・カーウェンとP5などで、外務省側はカートリッジを含む高官(ハウ外務大臣は葬儀のため欠席)だった。カートリッジは猛烈にその計画に反対した。彼は「これは絶対に破滅的なことになる。わたしは明日モスクワへ行くが、1週間以内に退去を命じられるだろう」と言った。

P5は「もしこれを実行しなければ、今後、MI6は正々堂々とはやれない」と反論した。ちょうどその時、内閣秘書官長のロバート・アームストロングが首相官邸からやってきた。彼は「首相はこの男を救済することは、重要な道徳的義務だと思っている」と言い議論に終止符を打った。それを聞いたカートリッジの表情は「まるで絞首台に行く男のようだった」という。

しかし、この脱出計画は首相の公式な承認がいる。7月18日、MI6のカーウェンは首相官邸サッチャーの信任が最も厚い、個人秘書のチャールズ・パゥエルに会い、ピムリコ作戦(脱出計画)の首相の公式承認を求めた。

その日、サッチャーは英国女王に招かれスコットランドのバルモラル城にいたので、脱出計画の重要性を知るパゥエルはお忍びで彼女に会いに行った。バルモラル城に着いた彼は、サッチャーに用件をてみじかに伝えると「コリンズ氏は自らの危険を顧みず、西側へ大きな貢献をしている。その外交的反発がいくら大きくとも、英国は全力で彼の救済にかかわるべきだ」と言い文書にサインした。

後で分かることだが、サッチャーも知らないことがあつた。。脱出計画が動き出した時点で、彼女がその計画を公認する文書を出していたことだ。サッチャー自身も誰がやったかを知らなかった。

 

7月19日金曜日

 

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モスクワのレニングラード駅                 Alamy stock photo

 

7月19日モスクワの英国大使館。MI6の本部から大使の態度がぐらついているようなので、次の電報が入った。「首相はこの作戦を公式に承認した。あなたがたの作戦実施にあたっての能力を100%信頼している。この作戦は成功するだろう」。アスコットはこの電報を新大使カートリッジに見せた。

11時:ゴルディエフスキーのアパート。彼はアパートの上から下まですべてを掃除した。KGBは彼が整頓したすべてをはぎ取り解体するだろうが、彼のプライドがこれをさせたのだ。それは自分の家は整然としているという誇りだった。

彼はレイラに220ルーブルを置いていったが、その行くへはわからない。彼はゴミ一つないアパートを出る前に身支度をした。それらは、プラステック・バッグ、デンマーク製の帽子、鎮痛剤、小型の古いフィンランド国境の地図とごく簡単なものだった。

11時:フィンランド国境バーリマのモーテル。フィンランド側の救出作戦の準備も予定通り進んでいた。プライスとブラウンは前夜ヘルシンキに到着し、国境から10キロある小さなモーテルに宿をとっていた。そこへ応援の若いMI6のマーティン・ショウフォードとデンマークのPETのエリクセンとラーセンがやって来た。

英国チームがソ連国境の監視網を突破してフィンランド側に入ったときの合流地点は、国境から5キロのところであった。MI6-PETのチームがなんども付近を調べたが、人家が一軒もない森林地帯である。そこで、車を乗り換え長時間北へ向かって走りオスロへ到着の手順だった。

午後4時:モスクワ。ゴルディエフスキーは薄い緑のセーター、古い緑のズボン、古い茶色の靴で外出の支度をした。これなら、アパートの管理人も走りに行くと思うだろう。

しかし、彼がロビーを通るとき、管理人は見向きもしなかった。あと90分の間にKGBの追跡を潜り抜けてモスクワのレニングラード駅に着かなくてはならない。

彼は走り、逆走し、メトロの乗り換えで追跡者を手玉に取るなど、追跡を振りほどき無事駅に到着した。駅はモスクワの世界音楽祭へ参加する、1万5000人の若者を迎えて大変な人出であった。

彼は売店でパンとソーセージを買い、レニングラード行きの汽車に乗り込んだ。6人収容するコンパートメントで彼の席は最上段であった。5時30分、汽車は時間どおりに発車した。彼は鎮痛剤を2錠のむと、瞬く間に深い眠りに落ちた。

午後7時、英国大使館。新任大使歓迎会は大成功だった。前夜到着したカートリッジ大使は挨拶のスピーチをしたが、MI6の連中は一言もその内容を覚えていない。1時間経った頃、二人の情報機関員はレイチェルの背中が痛むので、今晩、車でヘルシンキの医者に連れていくという口実でパーティを後にした。もちろん大使は事情を理解していた。

レイチェルはこどもたちが寝ているベッドルームに行き別れのキスをした。そのとき「もし計画が失敗したら、いつまた会えるのだろうか」と思った。

 

脱出計画のルート

 

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濃い黒線はゴルディエフスキー、薄い黒線はMI6の脱出ルート The Spy and the Traitor

 

11時15分、2台の車が発車し大通りに入り北へ向かった。ジーのフォード車が先に走り、アスコットのサーブ車がそれを追った。二組の夫婦はヘルシンキまでの長い道のりで退屈しないように、ロック・ミュージックのディスクを持って行った。

二台の車にKGBの監視車が町はずれのソコルまでついてきたが、あとは監視車なしだった。なしと言っても、国道の各検問所には国家自動車検閲官がいて、怪しい車の通過を知らせることになっていたので、まったくのフリーパスではなかった。

また見えないKGB監視車が、盗聴をしている恐れがあったので、車内では誰も脱出には触れなかった。ジーは運転をしながら「KGBの罠にかかったのではないか」と思った。

 

7月20日土曜日

 

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フィランド・ステーションで演説するレーニン             Wikipedia

 

7月20日の朝3時30分、モスクワからレニングラードへの汽車で、ゴルディエフスキーは最下段のベッドで目を覚ました。割れるように頭が痛む。すると上段の若い男が「上から落ちましたよ」と言う。汽車が急ブレーキをかけた瞬間に上から転げ落ちたのだ。鎮痛剤のもの凄い効果でそのことは覚えていない。こめかみを切っていた。

新鮮な空気を吸おうと思い廊下にでると、隣のコンパートメントの若い女性が談笑していた仲間に入ろうとして口を開くと、ひとりの女性が後ずさりして「恐ろしい。叫ぶわよ」と言った。彼はこれで自分が血まみれの顔をしているかが分かったのだ。

朝5時:レニングラード駅。ゴルディエフスキーは列車が11時間30分後に駅に着くと急いで出口に向かった。白タクに乗って「フィンランド・ステーションへ」と行き先を伝えた。駅に着いたのは5時45分で広場はがらんとしていた。この駅は1917年にレーニンボルシェビキ革命を始めたところで、ソ連誕生の地であった。今、彼は自由を求めてレーニンとは逆の方向へ行こうとしている。

彼が乗った7時5分発の汽車の終点はゼレノゴルスクで、国境まで50キロのところにある。そのあとはバスに乗り換え国境検問所に近い町ヴィボルグに着く。その汽車はむやみに遅かった。

朝7時:モスクワのKGB本部。KGBがいつの時点でゴルディエフスキーの失踪に気が付いたのかは分からない。KGBの監視チーム(中国の外交官担当で、彼が何者であるかは知らされてない)が3回にわたって彼を見失ったが、アパートへ戻ってきていた。しかし、今回は土曜日の午後遅くに消えてしまったのだ。

普通なら日曜の朝までに、KGBは大捜索命令をだして国境の検問所を含めて捜査にあたるのだが、それをやった形跡はない。ゴルディエフスキーがバラまいた偽情報(リュビモフと火曜日に駅で会う)に騙されたのだろうか。家族や友人にすぐ問い合わせることもやっていない。この失敗の原因はKGBが監視体制にあまりに過剰な自信をもっていたからだろう。

 

集合地点836

 

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ゴルディエフスキーとMI6チ―ムの集合地(中央の赤字) The Spy and the Traitor

 

7時30分;レニングラード。MI6の脱出計画チームは7時間45分後にレニングラードのアストリアホテルの近くの駐車場に到着した。あと2時間も運転すれば836地点に着く。あとは無事にゴルディエフスキーがそこまでたどり着けるかだ。

国道をずっと追ってきたKGBの車は消えたが、いやな予感がすることがあった。ジーと二人の女性と赤ん坊が朝食を食べている間に、アスコットは車に残って寝たふりをして、あたりを警戒していた。すると二人の男が現れて、車の内部をのぞこうとするではないか。彼は目を覚ましたふりをして追い払った。

アスコットはこの調子だとKGBは監視車をつけるだろうと思った。最悪は次の状況だった。「彼らが836地点で、われわれの2台の車を挟み撃ちにして監視車をつけるとお手上げだ」。そんなことを考えていると彼は憂鬱になった。

 

飛んでもない計画

 

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夏のスモリヌイ聖堂                          Wikipedia

 

836地点には午後2時半までに行けばよいので、近くのスモリヌイで時間を過ごした。そこはレーニンが10月革命の本部にしたところであった。庭に出てMI6の救出班は836地点での行動計画のおさらいをした。レーニンの陰謀の遺跡で、彼らは新たな陰謀をたくらんだわけだ。

レニングラードの郊外に出ると、KGBのアンテナ付きの二人乗りのジグリが追いかけてきて、ぴったりとMI6の車についた。アスコットは「これは憂鬱な光景だったが、さらに悪いことが起こる」と書いている。

8時25分:ゼレノゴルスク。ゴルディエフスキーはゼレノゴルスク駅に着いた。脱出計画ではここからヴィボルグ行きのバスに乗って、途中でモスクワから836キロの地点で降りることになっている。彼は改札所で切符を買ってバスへ乗り込んだ。

古いバスの乗客は満席の半分くらいだった。道路の両側を白樺と鬼の夏至がぎっしり密集し、ときどきピクニックのテーブルのための空間が削られていた。道が右に旋回すると、プライスが写真でよく見せてくれた光景があるではないか。

彼はここだと思い立ち上がると、停車場ではなかったがバスが止まった。彼は吐き気がするのでここで失礼すると言い降りた。そのとき6人以上の乗客がこの奇妙な光景を目撃していた。しかし、幸いなことに彼がスパイで逃亡者であることは知らなかった。

彼が下りたところから300メートル先に目印の大きなD型の岩が見えた。100メートルはあるだろうか。その裏に木に囲まれた約束のMI6との落ち合い場所がある。彼はそこへ着くと蚊の来襲にあう、時間はまだ10時半だった。

MI6の人々との待ち合わせ時間は2時半だ。ここで彼は飛んでもないことを考え着く。ヒッチハイクをしてヴィボルグの町にいって1杯やろう、と思いそこを去ったのだ。

12時;レニングラードからヴィボルグ高速道路へ。MI6の車2台が836地点に向け走り出した。レニングラードの郊外までくると、それまでMI車を追跡していた警察車がKGB車に取って代わった。その車には連絡のためのラヂオがついていた。

15分も経たないうちに、MI車は前方のKGB車と後方の警察車3台に挟み撃ちをされてしまった。これはKGBのクラシックな威嚇の手法だった。

アスコットはその時の心境を次のように言っている。「この状況では、836地点に到達することはできない。そこでゴルディエフスキーの家族が待っていても、脱出計画は中絶せざるを得ない」

12時15分:ヴィボルグのカフェで。ゴルディエフスキーが乗ったヒッチハイクの車はラダだった。ロシアではヒッチハイクが当局により奨励されていたので、利用者にとっては気楽な習慣だった。

町のはずれに着くと、彼は客のいないカフェテリアに入り2本のビールとチキンを注文した。そこのチキン・レッグの味は最高だった。ウエイトレスは注文をとったときにチラリと顔をみただけで無関心だった。彼はそこで不思議にも平静であることを感じていた。そして突然、疲れが襲っていた。

彼は少し寝たのだろうか。時計を見ると1時だった。支払いを済ませ店をでた。あいにく昼休みだったので、ヒッチハイクの車はなかった。彼は走り始め、だんだんとスピードを上げて行った。836地点までの25キロを、90分で走れるだろうか。おそらく無理だろう。ゴルディエフスキーは人生を賭けて走った。

 

KGB車の挟み撃ち

 

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バーリマ フィンランド側で待機するMI6チーム         Tageo.com

 

1時: フィンランドのバーリマ、村から3キロ地点で。フィンランド側のMI6のチームは早く位置についていた。プライスとブラウンはボルボ車を待ち合わせ場所に置き、シヴィボルョウウッドと二人のデンマーク人は、もしKGB車が2台の救援車を追跡してきた場合、それを阻止する車2台を道路の両側に置いた。ブラウンはその待機の時間を「なにが起こるか分からない状況で、あたりは静寂そのものだった」と語っている。

1時30分: レニングラードからヴィボルグ高速道路へ。ロシア当局はレニングラードからフィンランド国境を走る道路を誇りに思っていた。道は広く舗装されているショー・ロードだった。

二つの情報機関の一群の車は時速120キロで前進していた。アスコットはこのままではKGBのペースで物事が運ぶと思い、速度を時速55キロまで下げた。その時点でモスクワからのキロ数は800キロだった。

彼のKGBへのメッセージは「君たちのいるのは知っている。君たちが何のためにいるのかも知っている」であった。それを知ったKGBの ドライバーの神経は切れ速度をトップにまで上げ、しばらく走ったあとで後続の車を待った。

前に監視の車がいなくなったアスコットはしだいにスピードを上げ時速140キロで走った。追跡する3台の車との距離は800メートルまで広がった。しかし、途中で軍の輸送部隊が交差点で左から右へ移動しているのに出会いストップをせざるを得なかった。そのうち、追跡者が追いついた。距離指標は826を示していた。アスコットは「これで終わりだ」と思った。

2時 ;ヴィボルグから16キロの地点で。ゴルディエフスキーはトラックのエンジンの音を聞きあわてて手を挙げた。彼を乗せたドライバーは「そこへ行ってなにをするんだい」と聞いたので、彼は「森のなかに小屋があって、そこで彼女とランデブーさ」と答えると、そのロシア人は「良いことをやるね」と言った。お礼に3ルーブルを渡すと彼は「良いことやるね」と繰り返した。

彼は836地点の待避所に身を隠した。蚊が再び彼を歓迎した。ヴィボルグのカフェテリアで買ったビールを飲むと、時間は2時30分になっていた。10分が経ち、またとんでもない考えが浮かんだ。立ち上がってMI6の連中の時間をセーブするために道路へ行こうとしたのだ。しかし、KGBの追跡車が彼を見るとすべてはダメになると思い引き返した。彼は「落ち着け」と自分に言いきかせた。

 

ヘンデルの「メサイヤ

 

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ヘンデルの「メサイヤ」                      Amazon.co.jp

 

2時40分:836地点。輸送部隊の最後の車輛が通ったあと、アスコットはエンジンを入れ前の車を追い抜きジーが続いた。彼はヘンデルメサイヤのテープをディスクに入れた。キャロラインはそのボリュームを最高まで上げた。

闇の中を歩いた人々は/ 大いなる光を見た / そして,死の影の地に / 住む人々は / 自分たちの上に輝く光を得た

アスコットはそれを聞きながら「もし追跡車との距離が広がるなら・・」光が見えると思い祈った。

二人のMI6将校はあとすこしで836地点に着くことを知っていた。彼らは時速140キロで走り、追跡車は500メートル背後にあつた。間隔がしだいに広がって行った。200メートル先に836の表示版が見えてきた。

ジーが後ろの追跡車を見ると800メートル離れていた。大きな石が視界に入る。836地点に入り彼らはブレーキを踏んだ。時間は2時47分だった。そこは石と緑に囲まれた待避所だった。「神よ、どうぞこの車のほこりをお見せにならないよう」とレイチェルは祈った。道路との間はわずか50メートルしか離れていなかったのだ。MI6のチームは予定通り、ロシア人を収容する車のトランクを開け、ピクニックに見せかけるため敷物をだした。その瞬間、泥とほこりにまみれたゴルディエフスキーが藪のなかから現れた。

レイチェルは「写真で見たときと似ても似つかない人だった」、アスコットは「グリム童話集に出てくる木こりのようだった」と彼の姿におどろいた。それに、脱出計画では家族4人だったのに一人だけだった。ゴルディエフスキーはMI6の救援班に女性が二人と赤ん坊までいることにおどろいた。それに、ピクニックの準備までしているとは。彼は「どちらの車に」と英語で尋ねた。

ジーはゴルディエフスキーに自分の車を指し、水と医療パックとカラのボトルを渡した。彼は着ているものを脱ぎアルミニュームの毛布をかぶり、トランクへ入った。彼が姿を現してMI車が出発するまでの時間は、わずか80秒しかかかっていなかった。

KGBの追跡車2台と警察車2台は852地点の中継所で駐車していた。MI6の車が通りかかると、彼らの表情は「どこへいたのだという混乱と、見つかってよかったという安心がまじったようすだった」アスコットは言っている。そして、彼らは次の中継地に連絡して、外交官の車を止めて調べろとは指示していなかった。彼らは836地点でMI6車が消えたのは、トイレに行ったと思ったのではなかろうか。

レイチェルはアメリカのロック・バンド“ドクター・フックス”のヒット曲集のディスクをかけた。これは「聞きやすいポップ」ということになっているが、ゴルディエフスキーには苦痛そのものだった:「実にひどい曲で、大嫌いだった」。

レイチェルの心配は、汗とタバコと石鹸とビールの混ぜ合わせた匂いだった。そのロシア独特の強い匂いはトランクから伝わってくるもので、捜索犬の対象になるのではと思った。

その頃、モスクワでは捜査が始まっていた。しかし、緊急事態への対応ではなかった。彼が自殺したのではないかという推定で、モスクワ河の底などが捜査された。自殺が証明されれば、彼が罪を認めたことになるのでKGBにとつては好都合だった。

 

キャロラインの気転が救う

 

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ソ連の最後の検問所                    The Spy and the Traitor

 

MI6車はヴィボルグまで10キロの地点に着いた。ここから軍事境界線が始まり横幅20キロにわたって鉄条網が張られている。KGB車は去り、警察車もいない。ここからソ連フィンランドの間に5つの国境検閲所がある。3つはソ連で2つがフィンランドのものだ。

第一の検問所で国境警備隊員は厳しい目で一行を見たが、パスポートなどの検査をすることなくMI6の一行を通した。警備隊員は明らかに彼らの存在を知らされているようだった。第二の検問所でアスコットは警備隊員の表情を「われわれに特別な警戒心をもっている気配はなかった」と観察している。

最後の検閲所はフィンランドとの国境であった。出入国管理事務所で手続きをする人々の車が横並びに駐車していた。そこは壁で囲まれていた。この国の出入国書類を整えるには相当な忍耐力がいる。レイチェルとキャロラインは長い待ち時間を覚悟していた。トランクからは音がまったく聞こえてこなかった。

キャロラインは車を出て赤ん坊をあやしながら、隣に駐車している座ったままのレイチェルに話かけた。警備隊員は車の間を通って左右を点検している。

レイチェルはもし警備隊員がトランクを開けろといったら切れてやろうと思った。外交官はジュネーブ協定でその必要はないことが決められていると抗議し、もし聞かなければアスコットを呼んで対応してもらおう。

彼は抗議の手紙とジュネーブ協定のその条項を警備隊員に示すだろう。それでもダメならすぐにモスクワへ帰って正式に抗議すると言う。しかし、それでもトランクを開ければ全員が逮捕されるだろう。

気温は高く、空気は動かなった。その時、レイチェルはトランクの中から咳をする低い声を聞くと、すぐにドクター・フックスの音楽を入れた。警備隊員が捜索犬を連れて8メートル先に立っていた。彼はシェパードをなでながら英国人の車をしきりに眺めていた。一匹の捜索犬は大型トラックを調べ、もう一匹は意気込んでこちらに近づいてきた。レイチェルはチーズと玉ねぎからできているチップスをキャロラインへ差し出したが、そのいくつかが地上に落ちた。

ロシアの捜索犬にとって英国のこのチップスを食べるのは初めての体験であった。レイチェルはチップスを与えると犬は大喜びで食べた。これでシェパードの嗅覚は衰える。警備隊員がそれに気づくと苦い顔をしていたが、気づくのが遅すぎた。

別のシェパードがトランクへ近づいてきた。とっさにキャロラインは大胆不敵な行動に出た。ゴルディエフスキーがいるトランクの上で、娘のフローレンスを寝せてダイパーの取り換えをやったのだ。赤ん坊はタイミングよく便をだしたので、匂いがする。それをシェパードへ与えたので捜索犬は逃げるように退散した。おむつの計略はキャロラインがその場で考え出したもので、効果抜群だった。

二人の男は書類を書き終え帰ってきた。15分のちに警備隊員から4つのパスポートが渡された。最後のハードルはパスポートの検閲センターだった。英国のパスポートはここで時間をかけ検査され、ソ連側の手続きすべて終わった。 

 

成功の調べ「フィンランディア

 

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フィンランド側の国境に到着したゴルディエフスキーとプライス    The Spy and the Traitor

 

あと残るのはフィンランド出入国管理事務所とパスポート・センターだった。彼らはソ連側から不信なことがあると電話一本があれば、送り返される危険性があった。そこを無事切り抜け、最後のパスポート・センターで手続きを終え、警備員が外に出て関門を開けようとしたとき電話がかかってきた。彼は事務室に帰り長い間話していた。その時間はまるで永遠に続くようだった、電話を終わった警備隊員はあくびをして関門を開けた。そのとき、モスクワ時間で4時15分、フィンランドで3時15分だった。

ゴルディエフスキーはドライバー席のドアが閉まる音を聞き、フォード車がスピードを上げると振動を感じた。突然、テープ・デッキが鳴り出した。彼がよく知っているクラシックの曲だった。フィンランドの作曲家シベリウスが祖国のために創った「フィンランディア」である。ジー夫妻が“あなたは自由です”と伝えるための贈り物だった。

20分のちに2台の車は森の道を走り、林の中へ入っていった。アスコットはMI6のショウウッドの姿が目に入り車を止めた。プライスが車の中から「何人?」と尋ねるとアスコットは「ひとりだ」と答えた。トランクからでてきたゴルディエフスキーは日光で目がくらんだ。「彼は半分裸体で汗びっしょりで、まるで生まれたばかりの赤ん坊のようだった」とアスコットは言っている。

ゴルディエスキーはプライスの手を取りそれにキスをした。これはロシア式の感謝を表すジェスチャーだった。それから、彼はキャロラインとレイチェルにも同じようにハンド・キスをした。この瞬間、泥まみれの木こり姿が、デリケートに感謝を示す男の姿へ変貌したのだった。プライスと彼は車から離れて二人だけになった。その時彼は「わたしは裏切られた」と言っている。

ブラウンが車をヘルシンキへ向かって運転しながら、やさしく彼に家族のことを尋ねると「家族を連れてくるには、リスクが大き過ぎた」とポツリと言い、窓から見えるフィンランドの景色を眺めていた。

車がガソリン・ステイションに着くと、ショウウッドは公衆電話でロンドンのP5へ連絡した。「そちらの天気は」とP5が聞くと彼は「素晴らしい天気です。釣りは大成功だった」と答えた。脱出計画の成功を知らせる暗号だった。P5はMI6のボス“C”に連絡すると、彼はすぐに首相官邸に電話し、個人秘書パウウェルがその朗報をサッチャーに伝えた。

その夜、ショウウッドは脱出チーム全員をヘルシンキで最も優雅なホテルクラウスKの夕食に招いた。もしKGBがその日キャロラインを監視しているとしたら、彼女の回復に目を白黒させたに違いない。

夕食のあと、2台の脱出車とデンマークのPETのチームは、夜を徹して北極の方向へ向かった。その時のことをゴルディエフスキーは「われわれはロシアの権力が強い領土にまだいた。ロシアがその力を使ってやろうと思えば、ほとんど何でも出来たはずだ。しかし、ソ連国境から離れるにしたがって、脱出成功への自信が深まった」と言っている。

日曜の朝、一行はフィンランドノルウェーの国境の町カリグラニエミの町に到着した。そこには小さな国境をこえる検問所があり、警護官はデンマーと英国の友人を調べもせず通過させた。翌日、彼らは空港からオスロ行の飛行機に搭乗し、途中で乗り継いでロンドンへ着いた。誰もが成功を疑っていた脱出計画が成功した瞬間だった。

 

世界の情報分析者になる

 

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モンクトン城塞                      Starforts.com

 

7月22日月曜の夕方、ゴルディエフスキーは英国リンカンシャーのサウス・オームスビー・ホールの特別ゲストであった。ここの主人はMI6のボスの友人で、邸宅は3000エーカー(東京ドームの260個分)という広大な敷地にある邸宅であった。

この静寂の地で、モスクワでの悪夢の二か月の疲れを癒した彼は、ポーツマスにあるMI6のスタッフの訓練センター、フォート・モンクトン(上の写真)に移る。ここは1779年のアメリカ独立戦争のときに、建てられた城塞でその後改築されている。、

ゴルディエフスキーはこの軍事施設で4か月を過ごすことになる。彼はMI6のボスが使うベッドルームを与えられ、その扱いは名誉ある客人待遇だった。はじめの4時間のブリーフィングでは、彼は脱出の詳細を語り家族の安否を繰り返し尋ねたが答えは「分からない」であった。

この4か月の期間は情報活動の面からいうと、彼が西側に果たした貢献のなかで最も有意義なものであった。そもそも、彼が集めた情報はあまりに生々しく直接使うことが出来なかった。具体的であればあるほど、彼の身元が割れる可能性があったのだ。彼がロンドン時代に集めた情報は膨大なもので、それらは目的に応じて分割され編集され、極度に単純化された形でごく少数の人々へ配布された。そして、外国でこの情報に接する者は限られていた。

例えば、ドイツ人であればエイブル・アーチャー軍事演習で、世界が核戦争の一歩手前まで行っていた事実を、彼の情報で詳細に確認することが出来たのである。ロンドンに亡命したゴルディエフスキーは情報収集の仕事は終わったが、彼は過去11年間で集めたKGB情報の宝庫を内外の関係者に示して分析する仕事が待っていたのだ。

したがって、フォート・モンクトンはMI6がかつてやったことがない情報収集、照合、配布のセンターになった。官僚、分析官、秘書がそこへやって来て、ゴルディエフスキーのスパイの果実を味わったのである。

 

ゴルディエフスキー、冷戦終結を早める

 

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ジュネーブ首脳会談のレーガンゴルバチョフ                 Iter

 

8月1日、KGB将校ヴィタリー・ユルチェンコがローマで米国大使館へ亡命した。彼はワシントンへ運ばれ、空港で尋問担当者のCIAソ連課のエイムズが「KGB将校でCIAのためにスパイしている者はいるか」と聞いた。すると、彼はゴルディエフスキーの名前をだしたのだ。

エイムズは自分の名前がでなかつたことに安堵し、ユルチェンコがこのスパイは「KGBの厳しい尋問にあっているらしい」と言ったことを上司へ報告した。それをCIAはMI6に伝えることになる。

その頃、すでにゴルディエフスキーはモスクワからの脱走に成功していたので、MI6としてはアメリカ側に事情を説明する必要がある。MI6は二人の将校をワシントンに派遣し、CIA長官ケーシーの自宅を訪問した。彼らはゴルディエフスキーの経歴を説明し、固唾をのむ脱走に成功したことを伝えると、ケーシーは大いに喜んだ。

夕食はケーシー夫人が準備し、その夜は二人で劇場に行く約束だったので「そろそろ出かける時間ですよ」と言うと、ケーシーは「一人で行ってね。ここの話が一番のショーだよ」と言い劇場行を取りやめた。彼は二人のブリーフィングには心からの感謝をしたが、二重スパイの名前にはおどろかなかった。CIAは彼のことは知っていたが、そのことは言わなかったのだ。

9月16日、ケーシーは軍事用ヘリコプターでモンクトンを訪れた。ヘリパッドにはMI6のボス、カーウィンと幹部が待っていた。米国から飛んできた彼の目的は、ゴルディエフスキーから、レーガン大統領がゴルバチョフ第一書記と会談する時のアドバイスを聞くためだった。

レーガンの信任が厚い彼は、おそらくは世界最強のスパイだった。第二次世界大戦中はロンドンでCIAの先駆者OSS( 戦略事務局 )の幹部として、ヨーロッパのスパイをコントロールした情報機関のベテランだった。

モンクトンの昼食ではMI6のカーウィンが入り3人の会談になった。ケーシーはゴルディエフスキーにゴルバチョフの交渉スタイル、彼の西側への態度、KGBとの関係などを聞いた。そして本題へ入った。

「あなたはゴルバチョフだ。わたしはレーガン。われわれは核兵器をやめたい。信頼関係をつくるために、スターウォーズ計画を共有したい。この考えをどう思う。」(ケーシー)

ケーシーは核兵器の恐怖を排除するために、その技術をソ連と共有することをレーガン政権の方針として考えていたのだ。

しばらく考えていたゴルディエフスキーはロシア語で「ニェト」と答えた。おどろいたケーシーは「なぜだ?すべてを提供するのに」と言った。

「われわれはあなた方を信用していない。すべてを提供すると言っても、そんなことをするはずがない。なにか隠しているに違いない」。(ゴルディエフスキー)

「それでは、どうすればいい?」(ケーシー)

スターウォーズ計画を放棄すればよい。そうすればあなた方を信用する」(ゴルディエフスキー)

「それはできない」(ケーシー)

「分かった。それでは開発を継続すべきだ。それでゴルバチョフに圧力をかけよう。ゴルバチョフと指導部は軍事開発で、アメリカと競争できないことを知っている。あなた方の技術は勝っている。開発を続けよう」。そして「長期的に、この戦略はソ連指導部を破滅させることになるだろう」と付け加えた。

著者マッキンタイヤーは次のように言っている。「歴史家はこのモンクトンの会談が冷戦の極めて重要な出来事であったことを指摘している」と。

11月、米ソ首脳会談がジュネーブで開催された。この会談でレーガンはゴルディエフスキーのアドバイスのように、ゴルバチョフスターウォーズ計画について一歩たりとも譲ることはなかった。

しかし、この会談は温かい雰囲気で行われ、ゴルバチョフは「世界はより安全になった」と言っている。だが、彼は、西側に追いつくためソ連の改革を進めなくてはならないという、確信をもってジュネーブを去った。その直後から、グラスノスチペレストロイカの大改革案が実施されたのである。

しかし、後の大混乱のなかでゴルバチョフは力を失いソ連崩壊を許すことになる。ゴルディエフスキーの1985年のソ連の将来への予測がこの国の崩壊を招いたわけではないが、彼のアドバイスで冷戦終結のスピードが早まったと言えるだろう。

 

影の実力者

 

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ケーシーCIA長官                       Wikipedia

 

ケーシーとのモンクトンの昼食に続いて、ゴルディエフスキーはワシントンへ飛び情報関係の高官との秘密の会合をもった。それらは国務省国家安全保障会議国防省、その他の情報機関の人々である。彼は質問攻めにあい忍耐強く丁寧にそれらに応じた。彼のKGBに関する豊富な知識は、聞く人々を圧倒するほどであつた。アメリカ人は感謝し、英国人はこれを誇りに思った。レーガンの国防長官ワインバーガーは「ゴルディエフスキーの情報は非常に良い」と言っている。

彼がラングレーのCIA本部を訪れた時のことである。ここで彼は一連のブリーフィングを高官相手にやったが、これはその一つで起こった。その時、ゴルディエフスキーは聞き手のなかで、薄いひげの男が講義の内容を熱心に聞いていることに気づく。講義のあとその男と話す機会があり、その印象を次のように記している。

「わたしはこの人物に感銘を受けた。アメリカの価値“開放性、正直、良識“を具現したような男だった」。ゴルディエフスキーは二重スパイとして、10年以上もやってきた男で人を見る目がある人物だったが、男がエイムズであることを知らなかった。

 

スパイの家族への思い

 

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サッチャー首相                            Wikipedia

 

ゴルディエフスキーはモンクトンを基地にして、KGBと戦っていることに誇りを持っていた。しかしその一方で、理由はあったにせよ、家族をソ連に残したことへの罪悪感に苦しんでいた。ロンドンに亡命して以来、彼らの安否を心配する気持ちが日々高まってきた。.

その頃、モスクワでレイラは繰り返し夫の行方をKGB調査官から問われていた。ゴルディエフスキーの母のオリガも妹のマリナもそうだった。彼の知人、友人はすべて取り調べにあっていた。当初レイラは、夫は陰謀の犠牲者であると主張していた。彼女のいくところには6人のKGB監視官がついてきた。こどもたちは学校の遊び場でも監視されていた。

レイラは毎日のようにレフォルトヴォ監獄に出頭すると「どうして、夫が英国のスパイであることを知らなかったのか」と同じ質問をKGB調査官に聞かれた。ある日、それに嫌気がさした彼女は、次のように抗議している。

「6年間、わたしは彼の完全な妻だった。彼のためにできることはすべてやった。KGBには身元をチェックする仕事をして、給料をもらっている人々が数千人いる。彼らは夫を調べまくって無罪にしたはずだ。それなのに、あなたがたはわたしの所へきて、わたしを非難する。これは馬鹿げたことだと思わないか。あなた方は仕事をやっていない。これは私の仕事ではない。あなた方はわたしの人生を破滅させている」

9月はじめに、サッチャーKGBがゴルディエフスキーの消息を探している時点で、秘密裏にレイラとこどもと英国のKGBGPUのスパイの交換を提案 したが、それは失敗している。その頃、まったく家族の消息が分からない彼は、思いあまってサッチャーに手紙を書いた。彼は首相の家族解放への努力に感謝したあとで心情を吐露している。「わたしにとって家族なしの人生は意味がない」と。

サッチャーは「われわれはあなたの家族のことは決して忘れない。自分自身のこどものことを考えると、あなたの思いが良く分かる。どうぞ“人生は意味がない”などと言わないでほしい。人生には常に希望がある」と書き「わたしはあなたが示した勇気と自由とデモクラシーへの貢献をよく承知している」と添えた。

サッチャーの提案がKGBによって拒否され、両国はともに62人のスパイを追放した。この大量の追放合戦は、サッチャーの家族返還への強い意思を示している。その日、モスクワの英国大使館から、MI6のアスコットとジーなどが乗った8台の車が,12台のKGB車に囲まれて出発した。英国人のスパイは脱出計画と同じ経路を通って追放されたのだ。ジーのカバンのなかには、ハロッドのバッグと「フィンランディア」のテープが入っていた。836地点でKGB車は速度を急に落としたが、これは「君たちのやったことは知っている」という意思表示だった。

1985年11月14日、KGB軍事法廷は欠席裁判で、国家反逆罪でゴルディエフスキーに死刑の判決を言い渡した。7年後、KGB最後の第一総局長(ソ連版のCIA局長)のレオニード・シェバルシンはインタビューで、ゴルディエフスキーが英国で暗殺されることを望み「技術的には特別のことではない」と脅している。

亡命して以来、ゴルディエフスキーは世界を旅する情報活動の専門家になった。MI6の協力者といっしょに、KGBのミステリーを白日の下にさらす仕事に取り組んだ。彼が訪ねた国々はニュージーランド南アフリカ、オーストラリア、カナダ、フランス、西ドイツ、スカンジナヴィア諸国などであった。

ロンドンへ亡命して3か月後、MI6はセンチュリー・ハウスで世界の情報機関のエクスパートと政府の要人を招待し、ゴルディエフスキーの資料を検討し、軍縮と東西関係に与える影響を討議した。膨大なペイパーが提出され、二日間にわたり参加者は大いに啓発さ.れた。

MI6はロンドン郊外に彼の家を購入し、ロシア人は偽名で暮らしはじめた。情報機関は暗殺予告を本気にとって、厳重な警戒態勢を敷いている。彼はそこで歴史家クリストファー・アンドリューと共著で”KGB:the Inside Story”(『KGB:内幕』) を書いた。この本は現在でも最も信頼される情報機関に関する一冊である。

1986年5月、サッチャーは首相別邸チェッカーズにゴルディエフスキーを招待した。そこで3時間にわたり、軍縮ソ連核戦略ゴルバチョフについて彼の意見を聞いた。翌年の3月、彼は再び首相官邸に招かれ、サッチャーのモスクワ訪問前にブリーフィングをした。彼の分析が大いに役に立ち訪問は成功している。

 

レーガン、大いに感謝する

 

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レーガンとゴルディエフスキーの会見             Wikimedia Commons

 

同年、彼はホワイトハウスを訪れレーガンに会っている。会合は22分だったが、彼は満足だった。大統領は彼の肩をだき「われわれはあなたのことを知っている」と言い「あなたの西側への貢献に感謝している。ありがとう。あなたの家族のことも知っている。ともに戦おう」と最大の敬意を表明している。

国を裏切った男は財産を没収されるので、レイラはアパートと車からデンマーク製のアイロンまで取られてしまった。ゴルディエフスキーはモスクワのレイラに電報を打ったが妨害され、こどもたちに高価な衣料を送ったがKGBに没収されている。

彼に同情的なソ連の官僚のおかげで、彼は手紙を彼女に渡すことができた。それを読んだレイラは「彼は、自分は何も罪になることはしていない、正直な将校で忠実な市民だ、と書いていた。なぜわたしにまで嘘を言わねばならないのか、わたしにはその理由が分からない」と言い「彼は私を愛していると言っているが、“あなたはやりたいことをやった。そして脱走した。しかし、わたしはモスクワにこどもといっしょにいる。生活は囚人と同じだ”」とやるせない気持ちを吐露している。

KGBは彼が若い英国の秘書とできてしまったと、彼女に偽の報告したあとで、もし彼と離婚する気があれば、彼の財産は返却すると言った。「こどものことを考えれば、そうするほうがいい」と言われ、レイラはそれに同意した。だが、のちに西側のジャーナリストとの会見で、彼女は「わたしは紙の上では、彼の妻ではない。しかし、心のなかでは彼の妻だ」と言っている。しかし、これで生涯会うことはないだろうと思った。

 

家族は6年ぶりに再会したが・・・

 

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幸せそうな家族だったが                The Times

 

1987年3月に、サッチャーゴルバチョフに会った。その時、ゴルディエフスキーの家族の問題を取り上げた。彼女の秘書のパウェルによると、ゴルバチョフの顔色が 変わり話すことを拒否したという。二人はその後も2度会い、彼女はその度に家族の再会を話したがゴルバチョフは拒否している。

1991年8月にソ連でクリュチコフ大将が首謀したクーデターが起こり3日で失敗した。彼は逮捕され反逆罪で訴えられた。KGBのトップになった民主改革派のワジム・バカーチンはレイラとこども二人を英国のゴルディエフスキーのもとに返すことを決定した。彼は「KGBの将軍に意見を聞いたが、全員が反対であった。しかし彼らを無視することにした」と言っている。KGBが解体され、彼の家族がロンドンで再会するのに6年の歳月がかかっている。

レイラとこどもは1991年9月6日に、ヒースロー空港に着き、ヘリコプターでフォート・モンクトンに到着した。そこには、満顔に笑みを浮かたゴルディエフスキーが家族を出迎えたのである。

その3か月のちにソ連は崩壊し、家族は共産主義の終わりを象徴するロマンチックなシボルとしてマスコミは報道した。しかし、6年間の強制された別離は深い溝をつくりだしていた。こどもたちにとって父親の思い出はほとんどなく、レイラは批判的であった。ゴルディエフスキーはレイラがいつも「説明を求めている」と思った。彼女は人生が政治によって破壊され、愛していた男が別の人生を歩んでいると感じていた。

彼女は次のように言っている。「彼は自分の信じることをした。わたしはそれを尊敬する。しかしあの悲惨な場所で家族に起こったことを思い出してほしい。彼は選択をする機会を与えずに、わたしをこの事件に巻き込んだのだ。彼は骨の髄までロシアの男だ」

彼女は過去に起こったことを忘れることができなかったのだ。一家は昔のような仲良く暮らすことを試みた。しかし、うまくいかなかった。最後にレイラは、ゴルディエフスキーの思想に対する忠誠心は、彼女への愛を超えると考えたのだ。それから何年も経ったころ、彼女は「個人と国家の関係と、愛する二人の間の関係はまったく違う」と言っている。

1993年に結婚は苦い終局を迎えた。彼は「もうなにも残っているものはない」と書いている。二人の関係はKGBとMI6、共産主義と西側の戦いが破壊したものだ。結婚は冷戦のスパイ活動の矛盾の中で生まれその終結とともに終わった。

現在、レイラは英国とロシアを往復して暮らしている。こどもたちは英国の学校で学び、大学へ行きこの国にいる。彼らはゴルディエフスキーの名前を使っていない。MI6は引き続きこの家族にも財政的援助と保護を与えている。

 

スパイと裏切り者

 

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晩年のゴルディエフスキー                Wikipedia

 

ゴルディエフスキーが2回のアムステルダム赴任をしたとき、公私とも最も親しかったリュビモフは、彼の逃亡をどう考えていたのだろうか。彼がモスクワで最後に懇談したとき、リュビモフはKGBをやめソ連サマセット・モームを目指して小説家になっていた。

彼はゴルディエフスキーが消えた直後「KGBの指示で、ほとんどの同僚がわたしとの連絡を絶ち、会合にも声がかからなくなった。わたしがゴルディエフスキーの裏切りを操っている男だとの噂を、KGBが流していたようだった」と言っている。

その疑いは消えたが、リュビモフは脱出の重要な場面で、彼がKGBの注意をそらすために嘘の約束をしたことを、英国のフェア・プレーの精神に反すると言い怒っていた。二人はそれ以来話をしていない。

英国のスペクテイター誌のコラムニスト、ゴードン・コレラBBC記者)がモスクワのリビュモフの自宅でインタビューをし、英国でゴルディエフスキーにその言葉を伝えて意見を求めている。コレラは「ゴルディエフスキーは裏切り者だ。彼はKGBで働き、英国側の寝返った」と聞いたので本人に「これをどう思うか」と尋ねたのだ。

ゴルディエフスキーの顔に怒りがこみあげてくる気配がしたので、コレラはこの質問はすべきでなかったと思った。しかし、彼の答えは見事にストレートだった。「裏切り者の議論は無意味だ。なぜならソ連は犯罪国家だからだ。そして、最も犯罪的要素があるのはKGBで、無法者の集団だ。無法者を裏切るのは魂に非常に良い」。このコラムの筆者は、KGB100万を相手に戦った男の信念だと思った。

CIAの秘密をKGBに売った男エイムズはどうなったのだろう。彼はKGBに、まずはモスクワのロシア人スパイの名前を、その後もあらゆる種類の国家機密を売ったが、そのたびにスイスとアメリカの銀行への振り込みが膨らんでいった。エイムズはジャガー車を買い新築の家を建てたが、同僚は裕福なのはコロンビア貴族出身の妻の財産のおかげだと思っていた。彼は10年間で460万ドルを稼いだが、疑われなかったのは不思議である。

1994年2月21日、エイムズ夫妻はFBIに逮捕された。その日は「君たちは大きな誤りを犯している」と抵抗したが、2月後にスパイ容疑を認めた。エイムズは仮釈放なしの終身刑、妻のロザリオは脱税とスパイ幇助罪で5年間の判決を受けた。

1997年、アメリカのABC放送の「ナイト・ライン」司会者テッド・コぺル記者が、ゴルディエフスキーとエイムズの二人をインタビューした。コぺルは収録したロシア人スパイのビデオを、インディアナ州の監獄で服役中のエイムズに見せた。

ゴルディエフスキーは彼に直接語りかけ「君は裏切り者だ。その目的はカネだけだった。君は貪欲で不愉快な人物だ。君は生涯の終わりまで、自分の良心によって罰されるだろう」と言い「君のことはほとんど忘れかけていたよ」と付け加えた。

テープが終わり、コぺルはエイムズに「彼はあなたのことを忘れかけていたと言っているが、それを信じるか」と尋ねた。すると彼は「信じるね」と言った。映像を見ていたからだろうか、エイムズは悔いととれる発言をしている:「恥といおうか、悔いといおうか。この感情は今でも将来でも極めて個人的なもので、いつも感じている」。

 

人生最大の贈り物

 

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エリザベス女王、ゴルディエフスキーに叙勲              Wikipedia

 

ゴルディエスキーはロシアから亡命して以来、別名でロンドンの郊外にある家に住んでいる。その家は平凡だが周囲を囲む塀が高く、侵入探知装置が取り付けられている。KGBの怒りは収まらず、暗殺の危険は去っていないからだ。

2015年にプーチンの大統領府長官のセルゲイ・イワノフは「彼はわたしにレッテルを張った。それは仕事をする上で大きな迷惑だった」と言っているが、これは彼への明らかな反感だ。プーチンの思いも同じだろう。

2018年3月4日、前GRUのセルゲイ・スクリパリとその娘ユリアは、ロシアの神経ガスによる暗殺計画の標的になった。彼はゴルディエフスキーと同様に大佐でMI6のスパイであった。しかし、彼はモスクワで逮捕され服役中であったが、スパイ交換で2010年にロンドンに戻ってきた。未遂に終わったこの事件は国際的ニュースになったが、プーチンが暗殺を指示したのではないかと疑われている。ともあれそれ以来、ゴルディエフスキーが暮らす家は24時間警戒体制だ。

もう一つ国際ニュースになったのは、国家保安委員会の前スタッフのアレキサンドル・リトビネンコを狙ったポロニウム210による暗殺だった。ゴルディエフスキーは親しくしていたリトビネンコの、2010年の死はプーチンの指示によると言っている。

ガーディアン紙のハーディングは2013年に彼をインタビューし、「英国のような重要な国でポロニウム210を使って、暗殺をするのはトップの了解なしではありえない」という発言を引き出している。そして「KGBの毒薬の使い方は巧妙だった。彼らはモスクワ郊外にファブリカという名の毒薬生産施設をもっていた」と語っている。

そして、最近の世界的ニュースは、8月20にロシアの反体制派リーダー、アレクセイ・ナタルヌイに神経剤ノビチョクが使われた事件だ。ロシアの空港で紅茶を飲んでいて意識を失い、22日にベルリンの大学病院に運ばれ一命をとりとめた。

メルケル首相は「毒薬による殺人の試みは、基本的な価値と人権の侵害だ」と言い、「ロシア当局は完全な透明性のなかで、徹底的に調査をしなければならない」と厳しくクレムリンに説明を求めている。彼女はプーチンKGBの無法統治に相当怒っているようだ。これはドイツが取ってきたビジネスと人権のバランスに重点を置く外交の転換になるかもしれない。

ゴルディエフスキーは元気に暮らしている。彼は読み,書き、クラシック音楽を聴き、ロシア政治のニュースを熱心に追いかけている。1985年のフィンランドの土を踏んで以来ロシアへ戻る気はない。そして彼は「私は英国人だ」と言っている。

BBC4の音楽番組「無人島」で、本人が英国人の女性と幸せに暮らしていると言っていた。筆者がこれを聞いたのは2008年製作の番組だが、最近のジャーナリストのコラムで、この女性のことが出てきたのは朗報だ。

ゴルディエフスキーは1989年に亡くなった母親が息子のことを「彼は二重スパイではない。三重スパイとしてKGBで働いている」と言ったことを聞き「彼女にわたしの目的を話して、理解して欲しかった」と言っている。

ゴルディエフスキーの人生はいまだに二重ライフだ。彼の隣人にとってはもう一人の年金生活者にすぎないが、現実はまったく違っている。このことを本の執筆者マッキンタイヤーは次のように言っている。

「彼は歴史上きわめて重要な人だ。おどろくべき人物で、誇り高く俊敏で洞察力がある。深刻な話題を話していても、突然の皮肉なユーモアで笑わす。時に気に入らないこともある。しかし、称賛せざるを得ない。彼は人生に悔いはないと言う。しかし、会話の途中で沈黙し、何かを考えていることがある。わたしが会った人のなかで、彼は最も勇敢で最も孤独な人のひとりだ」

筆者はマッキンタイヤーのこの人物評はさすがだと思う。

マッキンタイヤーはこの本のなかでMI6の人々の名前は偽名にしている。規則で情報機関の人々は表には出ないということが決まっているからだ。1994年に法律が制定されるまで、英国政府はこの秘密情報機関の存在を認めていなかったが、それ以降、長官の名前は公表されるようになった。

ゴルディエフスキーの担当官ジャームス・スプーナーは「親切で、正直で、わたしが会った人のなかで、最高の頭脳の持ち主」とロシア人スパイは言っている。この人物はのちにMI6の長官になるジョン・スカーレット(2004-2009)だが、この本ではその事実は伏せられている。

「脱出計画」の担当者ベロニカ・プライスはまるでル・カレのスパイ小説の登場人物だと言われたが、彼女の本名はヴァレリー・ペティトであった。今年の3月に90歳で亡くなり死亡記事でこのことを筆者は知った。このエッセイでフィンランドに脱出して撮った写真を掲載しているが、死亡する前は顔を覆い隠されていた。隣人は熱心なカトリック教会信徒で外務省を引退した人だとしか知らなかつた。

2007年6月、ゴルディエキーは英国女王から人生最大の贈り物を与えられた。女王の誕生日に「英国の安全保障に貢献した人々へ贈られる」聖マイケル・聖ジョージ勲章をもらったのだ。それも勲章のなかで最高級のものだった。「ロシアより愛を込めて」のなかでジェームス・ポンドが同格の勲章をもらっているよ、と言う彼の顔は幸せそうだった。

2015年7月、ゴルディエフスキーのモスクワからの脱出記念30周年の祝賀会が開かれた。その日、彼は76歳だった。このおどろくべき脱出に関係したすべての人が招待されていた。彼に新しい旅行カバンが記念品としてプレゼントされた。

その中には、マースバーのチョコレート、ハロッドのバッグ、ロシア西ロシアの地図、鎮痛剤、蚊よけ薬、2本の冷えたビールと2つのカセット・テープ:ドクター・フックの「最高のヒット」とシベリウスの「フィンランディア」だった。彼が最後に渡された最高の記念品は、チーズと玉ねぎのクラッカーと赤ん坊のおむつだった。

参考文献

このエッセイを書くにあたって、以下の著作、ポッドキャスト、記事のお世話になりました。とりわけ、ベン・マッキンタイアーさんの秀作に感謝を捧げます。”The Spy and The Traitor: The Greatest Espionage Story of the Cold War” Ben Macintyre Penguin Random House UK 2018、“ The poisoning of Alexei Navalny ” Podcast by Anushka Asthana with Luke Harding: Luke Harding says alleged attack on Russian opposition figure has all the hallmarks of a state-sponsored hit The Guardian 2020・9・20、 “Betraying bandits” Gordon Corera The Spectator 2018・10・6

 

 

 

フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。