フランスの田舎から世界を見ると

土野繁樹の21世紀探訪

カミュが愛した女優カザレス

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カミュとカザレス 彼女のアパートで                 Paris Review

 

1944年 6月5日、アルベール・カミュは30歳で、表の顔は舞台の演出家、裏の顔はレジスタンス紙『コンバ』の編集長だった。マリア・カザレスはスペイン首相の娘で将来を嘱望される21歳の女優だった。

その日、カミユは彼女を誘い友人の宴席に出席した。そこはジャン・ポール・サルトルと妻シモーヌ・ド・ボーヴォワ-ルの自宅で、昔はヴィクトル・ユーゴーの愛人のアパートだった。

ボーヴォワ-ルは、カザレスは綺麗で独立心の強い人だったと日記に残している。深夜、カミュは自宅のアパートでカザレスとはじめて愛を交わした。その日、6月6日はドイツ軍との戦いを逆転するために、連合軍が20万の兵士を動員し、ノルマンディー作戦の第一弾を敢行した日であった。

二人の関係は4年間の断絶の後、1960年冬にカミュがあの突然の自動車事故で亡くなる日まで続き、彼らの交流は秘密のラブレター865通の手紙に綴られている。

このラブレターが入った『書簡集』の素材は、女優カザレスがカミュの娘カトリーヌに譲ったもので、彼女は長い間ためらっていたが、彼女の編集で2017年にガリマール社から刊行された。手紙、絵葉書、電報が入った1300頁の大作だ。

カトリーヌの母が1979年に亡くなったあと、彼女は意を決してカザレスに面会を求めた。二人はすぐ打ち解けて、旧知のようにカミュのことを遅くまで語りあったという。

彼女は手紙のすべてを読んで心が軽くなった。この『書簡集』の序文に「彼ら二人に、ありがとう。手紙を読めば、ただ二人が存在したがゆえに、この地上はより広く、空間はより煌めき、空気は軽くなる」と結んでいる。

 

演出家と俳優の出会い

 

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天井桟敷の人々』(1945)のカザレス           Radio-Play RTC

 

カミュは、パリが解放されたときフランスではよく知られた存在だった。アルジェリア生まれの彼は1942年に『異邦人』を刊行し、フランス文学界に一大旋風を巻き起こし、43年、地下新聞『コンバ』の編集長に就任し、ドイツからの解放は第一歩である、その目的はこの国の改造にあると書いた。

1944年8月24日のパリ解放の日に『コンバ』紙で、彼は自由フランスのために戦った男も女も「抵抗を諦めた勢力とあらゆる不正義に戻ることはできない」と宣言した。

その頃、マリアもパリで名が知られた存在だった。スペイン戦争(1936-1939)当時、父親は首相であった。フランコ将軍の勢力が優勢になると、彼はマリアの身の安全を考えて、14歳の彼女をフランスに送っている。

彼女はゼロからフランス語を学び、演劇と哲学を専攻し、21歳で有名なマチュラン劇場で、その衝撃的な演技で観客を沸かせている。映画女優としてマルセル・カルネ監督の名作『天井桟敷の人々』(1945)に出演しその演技力に観客は圧倒された。のちに彼女はフランスで最も有名な悲劇俳優になっている。

 

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カザレス『誤解』を主演             gettyimages

 

カミュとカザレスの物語はマチュラン劇場で始まる。彼女はカミュの作品『誤解』(1944)の主演女優を演じたのだが、パリの有名人が観劇した初日の内容の評判は散々だった。嘲笑、やじが飛びかい途中退場する観衆もいた。

しかし、初演ということもあり、カミュはそれほど失望したわけではない。むしろ、彼はカザレスの才能を発見した喜びを日記に書いている。「この舞台を演出した者としては、最高の女優を得て素晴らしい公演になった。というのも、わたしが意図したことを彼女は魂と声で伝えてくれたからだ」。

カミュがカザレスと会ったとき彼は激務をこなしていた。演劇と裏の仕事の『コンバ』だけでなく、『ペスト』の執筆などもやっていた。そもそも、彼は『コンバ』の編集長に声をかけてくれたパスカル・ピアに以前も世話になっている。

1938年、彼が25歳のとき、はじめて就職した『アルジェ・レピュブリカン』紙でピアは編集長だった。カミュは彼に鍛えられ右腕となり、記者として政治、社会記事を担当した。その彼がリヨンのレジスタンス組織から1943年夏にパリの地下出版の『コンバ』の総編集長に就任し、オランのカミュを編集長に抜擢したのだ。また、ピアはアンドレ・マルローの親友で『異邦人』の出版に二人で尽力している。

 

カミュ逮捕を逃れる

 

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『コンバ』編集局のカミュ                       Le Figaro

 

コンバは1942年に発足したレジスタンスの秘密組織で、その任務はドイツ占領軍の情報を集め、その施設にサボタージュをしかけ、できれば敵と武器で戦うことであった。

1944年5月、連合軍のノルマンディー上陸作戦直前の『コンバ』の部数は25万で、秘密出版なのでカミュが実名で書いた記事はニ本しかない。その一本は5月に出ている。ドイツ軍が、ゲリラの列車脱線計画に協力した疑いで、村人86人を銃殺したときの記事がある。

彼は偽名の身分証明書をつくっていた。その名はアルベール・マテ、1911年 5月生まれ、住所はパリの近郊ショワジィ・ル・ロワであった。その偽名の証明書を持って、カミュはその日カザレスとレオミュール・セバストポル地下鉄の近くを歩いていた。すると、突然フランスとドイツの警官隊が道路の両側を閉鎖し、通行人の身体検査をし始めた。

その時、カミュはポケットのなかに、『コンバ』紙のロゴが入ったレイアウト・ページを持っていた。彼はそれをそっと隣のマリア・カザレスに渡した。ドイツ警官は、男の所持品を調べ、女は身分証明書だけを調べたので、証拠物件を見つけることはできなかった。肝を冷やす体験をしたカミュは、同僚でゲシュタポに逮捕され強制収容所送りになった者や殺された者の運命を思った。

 

作家の告白

 

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カミュとカザレス                         Gallimard

 

しかし、その年の夏、カミュは苦悩してカザレスに別れの言葉を送っている。彼は4年前に同郷のアルジェリアのオラン生まれのフランシーン・フォーレと結婚していたが、パリが解放され彼女はオランから2年ぶりに戻ってくる、だから離婚することはできないと手紙をだしたのだ。

「わたしがやるべきことはよく知っている。妻に言うべきこと(離婚)を言い、いまの生活を忘れることだ。しかし、結婚の誓いの言葉を捨てることはできない。約束を破ることはできない」と言い、数日後に「わたしはフランシーンを幸せにしたいと思う」と書き関係は断絶した。

この手紙を受け取ったカザレスは動転した。しかし。辛い別れだが、致し方ないと思い潔く受け入れた。しかし、4年後の奇しくも6月6日、二人は偶然パリのサンジェルマン大通りで出会い運命が逆転する。二人はその日の約束をキャンセルして、カミュのアパートへ向かい夜を過ごした。カミュとカザレスの愛人関係はそれから12年間、彼の死まで続くことになる。

この『書簡集』を読んだロバート・ザレツキイ(米ヒューストン大学教授)は『ロサンゼルス・レビュー・オブ・ブックス』誌に次のように書いている。カミュについて知っていると思っていたのだが、実はそうではなかった、カゼレスについてはほとんど知られていないのだが、実に豊かな感情の持ち主であることが分かると。

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カミュと双子のこども             gettyimages

 

カミュの初期の手紙は詩情に溢れている。たとえば、プロヴァンスからの便りに「今晩、星空を見上げてご覧。星の雨があなたの美しい顔に降り注ぐ。それは私の愛です」とある。

カザレスの手紙には二人の逢い引きについて「あなたに初めて会ったとき、わたしは若すぎた。わたしには、あなたが言う”われわれ”という意味がよく分かっていなかった。あなたへの愛の渇望とその意味を取り戻すためには、人生について深く考える必要があったと思う」と言っている。

1944年、カミュはカザレスに、フランシーヌはこちらにいるが、わたしの側にいつもいてほしいという不条理な思いを告白している。4年後に再会したあとで、カミュはこの実存主義の言う不条理に再び直面する。

彼はカザレスに書いている。なるほど、二人の関係は「馬鹿げている」かも知れない。自分は結婚をしていて、二人のこどもまでいる父親ではないか。しかし、それがどうしたというのか。

「考えようによると、すべてのことは馬鹿げている。しかし、それが現実なら、それを変えることはできない。であれば、人生にあまり多くを望まず、すべてを台無しにすることなく、この不条理な人生で、できるだけのことをしてやっていこうではないか」とカザレスに伝えている。

『書簡集』を読んだステファニィ・ラカバは『パり・レビュー』誌で、“禁断のラブレター”を寄稿し、その内容は偶然とチャンスが繰り返す不条理そのものであると言っている。そして、手紙のやり取りを全体から見ると、深刻な告白もあるが、二人の生活のディテイルが軽妙に、時に風刺を込めて書かれてるという。

カミュは二度目に彼女に会った直後、パリは4年前とほとんど変わっていないと言い、住人の昔ながらの流儀を皮肉っている。一方、舞台と映画で国内外を飛び回っているカザレスは、ベルギー産のフレンチ・フライの嫌な臭いは、この国の名物だとユーモラスに言っている。

日常生活では、父親の好みのタバコを数ダース買い世話をすることや、彼女のペットの子猫の餌を買ったことや「スパゲティとグレープ・フルーツ」で夕食をすませ、「お休みなさい」という短い便りもある。あるいは質問と最新情報が入った長いのもある。カザレスは時々、こどものことを聞いている。

「あなたは、この家の匂いがいいから気に入るだろう。夜になると辺りは静かになる」とカミュは書き、別の手紙では山で取ったタイムの小枝を送っている。そして「いま素晴らしい嵐の真っただ中だ。雷と閃光と雨のなかで、わたしは、ジャンとカトリーヌ(双子のこども)と遊んでいる」と答えている。

カミュは自分の結婚が障害であることを知っていた。「この不幸な愛はあなたにふさわしくない。わたしは、あなたが生きる力を与えてくれる存在であると思ったが、一緒に暮らせなかった」「あなたのことを思うと、ただ涙がでるだけだ」「夜、あなたの名前、マリアと書いた。愛する人へ」。

彼は日曜も執筆日にしていたが、なかなか仕事が進まない。カザレスは手紙をだして彼を励ました。「愛する人へ、書いて、書いて。毎日は長くてつらい。わたしはあなたの手紙で生きている。寝て。横になって」と書いた。

 

妻の自殺未遂

 

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カミュ夫妻             printerest.com

 

1952年、カミュサルトル論争という不条理が彼を襲った。前年、カミュが刊行した共産主義全体主義を批判する『反抗的人間』をサルトルが激しい批判をした事件である。サルトルが主宰する『現代』誌でフランシス・ジャンソンが本を徹底的に批判した。

カミュはそれにサルトルを名指しで激しく反論すると、サルトルは個人攻撃を含む本の全面否定をしたのだった。それにショックを受けたカミュはひどく落ち込み「もう生きていく意欲がなくなった」とその心境をカザレスに伝えている。

しかし、間もなく彼はその絶望感から立ち直った。しかし、カミュは対外的にも個人的にも四面楚歌に陥っている。小説が書けなくなったのだ。

「わたしは働かなくてはならない。それなのに、書けないのだ。本当に書けないのだ」と苦しい心境をカザレスに書いている。家庭においても、妻のフランシーヌが夫のカザレスとの関係を知って鬱(うつ)になっていた。

ピアノと数学の先生をしたことのある彼女は、バッハとスカルラッティの曲の練習に集中していたのだが、しだいに集中力がなくなり、スーツケースに荷物を入れることも出来なくなった。フランシーヌはパニック状態になったのだ。こどもにはやさしかった彼女は、ジャンがある日足を痛めると、彼はポリオにかかっていると信じることもあった。

1954年の暗い手紙には、フランシーヌがアパートのベランダから飛び降り自殺を企てたことが書いてある。「もしわたしがそのことに気付いていなければ」妻は自殺に成功していただろうと、カザレスに告白している。彼はすべての原因がなんなのかは分からない言っているが、主な原因はカミュ本人にあることはまちがいない。

しかし、カミユが1957年のノーベル文学賞を授賞するころには鬱は治っていた。妻としてストックホルムに同行したフランシーヌは「優雅で美しい」人として大人気であった。その頃には、彼女は妻として大事にしてくれるカミュの愛人の存在を認めたのだろうか。あるいは、彼女は諦めたのだろうか。娘のカトリーヌによると、カミュの死後、フランシーヌはカザレスのことを「あの人は良い人だった」と敬慕の情で話していたという。

カミュには他に3人の恋人がいた。彼が自動車事故で亡くなる前、ミッシェル・ガリマールの一家が彼のガールフレンドについて冗談でからかったとき、カミュは「みんな幸せだからね」と答えている。

その一人は、彼が1946年にニューヨークで会ったヴォーグ誌の編集者パトリシア・ブレーク。当時、21歳の彼女はフランス留学体験のある美人で才媛だった。二人は春のニューヨークを歩き廻った。二人目は、56年に会った30歳の女優のカトリーヌ・セラー。カミュがフォークナーの『尼僧の鎮魂歌』を公演したときの主演で、彼が最も博学と思う人であった。3人目はデンマーク出身の22歳のイラストレーター、メッテ・イボス。57年にサンジェルマンのカフェ・ド・フロルで偶然出会った。二人はサッカーのファンという共通点があり、スタジアムに行くのが楽しみだった。

カミュはいずれの女性にも一目惚れだった。そして、サルトルボーヴォワールを頼りにして利用したようなことはせず、親切で亡くなるまで手紙を書いている。だから、彼らは幸せだったと言える。そして、カミユの娘カトリーヌは「みんな非常にいい人だった」と語っている。

アルベール・カミュ:ある一生』の著者オリヴィエ・トッドは「カミュは人生は限りなく豊かであると信じていた」とガーディアン紙で言っている。だから、複数の女性を同時に愛することはいいことだ、と考えていたのだろう。別の意見もある。カミユの友人は彼が生涯愛したサッカーのように、こどもが菓子を拒否できないように、本当に女性が好きだったと言っている。これも本当だろう。いずれにせよ、カミュは愛についてもわれわれの常識を超える人だった。

 

スタンダールオーウェル

 

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スタンダール        Wikipedia  オーウェル       Wikipedia

 

筆者は前回のカミュの生涯についてのエッセイ(カミユの哲学:非暴力の平和主義者)を書いたあと、パリで暮らした米国人ハーバート・ロットマンの『アルバートカミュ:ある伝記』(1979)を読んだ。おどろくほど詳しく面白い本(753頁)で、フランス語にも翻訳されており、カミュ伝ではトップ・クラスと言われる。

彼はこの本の20年後の前書きで、70年代にある女性が密かに彼を訪ねてきて、これを読んでほしいと言われて大量の資料を読んだが、それは第一級の歴史資料で大いに参考になったといっている。この女性の名はカザレスであった。その資料は6週間後に返却したが、内容はのちに『書簡集』に入っている一部だと思われる。

二人はいつも読書をしているようで、意見交換をしている。スタンダールは“いつも見事”だ、バルザックは“時に輝いている”と、彼らは同意した。マルグレット・ユルスナールの『ハドリアス帝の回想』は“とるに足りない”、ヘミングウェーは“偽物”とカザレスが批判すると、カミュは「映画も本も悪いとは」とからかっている。そして彼は「ジョージ・オーウェルはわたしが共感する数少ない作家のひとりだ」と言っている。

小説を書くことに行きづまったカミュが1957年に自伝小説『最初の人間』を手掛けることを思いつく。ロシアのトルストイの『戦争と平和』のスタイルで故郷アルジェリアを描き1965年までに3~5巻で刊行する予定だった。これをストックホルムの記者会見で発表している。1997年に娘のカトリーヌの編集で刊行されベストセラーになった。筆者も読んだが、生まれてから13歳までのこの自伝的小説は感動的だ。

 

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カトリーヌ(8歳)とカミュ              Le Figaro

 

ザレツキイ教授が『書簡集』を編集したカミュの娘カトリーヌをインタビューしている。「わたしはこの本を読んで、『異邦人』、『シーシュポスの神話』、『ペスト』、『反抗的人間』を書いた父上が、これほど傷つきやすい人だと知らず驚きました。予想外の新発見でした。この父上の一面をどう思いますか?」

カトリーヌは「父はわたしたちと同じ人間でした。彼の著作には、この弱さと迷いがあるから偉大さがある、と個人的には思っています。わたしは少女の頃から、父は孤独で苦しんでいるのを知ってましたが、若すぎて恥ずかしくて、あるがままの姿でいい、愛しているとは言えませんでした」と答えている。彼女は見事にカミュ文学の本質をとらえている。

時間が経っても、彼らの愛は冷めなかった。おそらく、カミュもカザルスも忙しすぎて会う機会が多くはなかったからだろう。カミュは「あなたを抱きしめるとき、いつもはじめてのような気がする。君の心とすべてを愛する。二人のことを思うと、永遠は馬鹿げたことではない気がする」と書いた。

後期になると、カザルスの手紙はカミュが小説を執筆できないことへの態度が変わっている。「あなたがいつも望んでいたように生きればいい。もし書く気がなければ、やらなければいい。そうしないと、繰り返しになることをわれわれは分かっているではないか」。

そして、彼は忙しくて手紙が書けないなら「一言そのことを書いてくれるだけで良い。これでわたしが知りたいことが分かる。わたしも同じようにする」と。そのあとの手紙で、彼女は「あなたのいない世界は考えらない。しかし、現実はそれを許さない。なにごとがあろうと、あなたはわたしの人生のなかにいる」とその思いを綴っている。

 

カミュ最後の手紙

 

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カミュのカザレスへの1959・12・30の手紙  Le Monde

 

この『書簡集』を読むと、手紙のやり取りというより、愛する二人の並外れた人間による物語だ、とジョン・フレッチャーは英国の『タイムズ文学付録』で言っている。その書評は“対等のパートナーシップ“と題されている。

彼はカザレスが母国語ではない、フランス語を自由に使っていることに感嘆し、次のように言っている。「彼女はカミュのようなインテリではない。しかし、読書家できわめて知的だった。この疑似結婚では、まったくこの二人の関係は対等だった。たとえば、「彼女は『姦通の女』にコメントしそれをカミュは受け入れ書き直している」と指摘している。

カミュが執筆した原稿への論評、書けなくなった時の激励はもちろん、彼の困難なときのカザレスの温かい配慮を感謝する気持ちを、彼は率直に書き送っている。「わたしがはっきり分っていないことを、あなたはわたしに教えて呉れた。あなたの愛へ尊敬と感謝を込めて」

カザルスの返信は見事だ。「もちろん、わたしは1944年の自分ではない。1950年のわたしでもない。これは良いことだ!」これらの変化は二人の並外れた合意の上にできたもので「今のわたしは、自らの努力によって出来たものではない。われわれが創ったものだ」。

カザレスは1959年のクリスマスにカミュに手紙を出した。その頃、彼はノーベル賞の賞金で、プロヴァンスの小さな村ルールマランに邸宅を買って、家族と休暇を過ごしていた。

彼女はその手紙で、クリスマス・ショッピングの合間にバルザックの『幻滅』を、自分がそうならないようにと思い、読んでいるので「あなたがこちらに来た時、この本のことを話しましょう。こちらでゆっくりしてね」と書いた。

カミュプロヴァンスで12月15日、38か国の外国留学生が学ぶアックスの大学での講演の招待を受けていた。一人の学生が「あなたはこれまで出した本の中で、どの本が一番お好きですか」と尋ねると、カミュは「次の本です。この本は一人の男の自伝小説で、20世紀がテーマです」と答えた。これが、人生最後の講演になる。

 

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ルールマランにあるカミュの小さな墓        raelsalvador.worpress.com

 

12月30日、彼の自動車事故から5日前、カミュはカザレスのクリスマス・レターに返信した。

「これが今年最後の手紙です」で始まる手紙は、彼が再会を一日千秋の思いで待ち望んでいる様子がわかる。

火曜日にガリマール一家(金曜日にこちらへ到着)とパリへ出発し、火曜日の夕食を楽しみにしていると予定を確認し、新春のあいさつの中で「愛するあなたの笑顔が輝くことを望んでいる(しかし、何かが起こるのではないかと心配している)。心の太陽のすべてを込めて、小包の中に贈り物のレインコートを入れてあるのでどうぞ」。

「まもなく会えますね。わたしの愛しい人。わたしは再会できることが嬉しくて、笑顔を浮かべながら、この手紙を書いています。今、すべての資料を閉じて働く事をやめています(わが家は家族とその友人たちで溢れている!)。われわれの夜とあなたの笑顔を奪うものはなにもありません。たとえそれが国であっても。あなたに接吻を送ります。来週の火曜日まで。それからまたスタートしましょう」。

しかし、二人のロマンスは突然の自動車事故で無残にも打ち砕かれた。この悲劇はフランス文学にとって大きなマイナスであった。そして、読者はカザレスの協力を得た『最初の人間』の完結版を手にすることができなくなったのだ。

カミュが愛した太陽と海の国アルジェリアの20世紀の物語はどんなものになったのだろう。カミュの死ほど人生の不条理を思い起こさせるものはない。

 

このエッセイを書くにあたって、以下の記事と著作のお世話になりました。筆者の皆さんへ感謝いたします。“No Longer the Person I was : The Dazzling Correspondence of Albert Camus and Maria Casares” Robert Zaretsky Los Angeles Review of Books 2018・3・4、 “Illicit Love Letters:Albert Camus and Maria Casares” Stephanie LaCava the Paris Review 2018・4・11、”Partner of equals” John Fletcher TLS 2018・8・3、 “Albert Camus: A Biography” Herbert R. Lottman Gingko Press 1979, ”Albert Camus: A Life “ Olivier Todd Alfred A. Knopf 1997, “The First Man” (Translate by David Hopgood) Albert Camus Penguin Modern Classics 1995

 

 

 

フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。