KGBの二重スパイ;米ソ核戦争を止めた男 (その2)
1978年夏、デンマークからモスクワに帰任したゴルディエフスキーは、第3局の部長ヴィクトル・グルミコに離婚して結婚することを報告した。すると、彼は「これですべてが変わるな」と返答した。やはり、KGB文化では離婚はご法度だったのだ。望んでいた副部長どころか、人事部に配属されこの局の歴史を担当することになった。のちに、彼は4年近くにわたるこの期間について書くことはないと言っているから、左遷の味をかみしめていたに違いない。そして、MI6との接触はまったく切れていた。
それでもカムバックを期して、英語の勉強を熱心に続けていた。当時のソ連で手に入るチャーチルの『第二次世界大戦史』やフレドリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』などを読んでいる。特に気にいったのは、サマセット・モームの小説で、英国情報機関のアシェンデンに惹かれている。また、キム・フィルビーの報告書をロシア語に翻訳することもやっている。
1982年6月、ゴルディエフスキーは長い左遷を解かれロンドンへ赴任し、MI6の二重スパイの仕事を再開する。その年、世界は冷戦が熱くなり核戦争に追い込まれる気配を示してきた。それを発見したのは彼だった。クレムリンが本気で西側が核の先制攻撃をすると考えている兆しを探知したのだ。クレムリンは真剣そのものだった。
ライアン作戦を命じる
1981年5月、アンドロポフKGB議長は、本部の秘密会議室で幹部を前に、アメリカはソ連に核の先制攻撃を加えこの国を消滅することを考えている、というおどろくべき発言をした。
冷戦が始まって20年以上も東西の核保有国の基本理念は、どちらが核戦争を仕掛けようが相互確証破壊(どちらの勢力も大量破壊をまぬかれない)になるので、核を使わないことが暗黙の了解事項であった。しかし、70年代に入ると西側の核兵器の開発が優位をしめるようになり、米ソのパワー・バランスが崩れてきた。
1981年初め、KGBは新開発されたコンピュータによる世界の地政学の分析をやっている。その結論は「東西の相互関係は西側に優利に展開している」というものであった。ソ連のアフガン介入、キューバ援助はこの国の財政を圧迫し、CIAは世界各地で秘密の反ソ活動を活発に展開し、冷戦のための大規模な軍備拡張を始めている。
これを知ったアンドロポフの不安が高まってきたのだ。KGB議長のソ連はアメリカの不意打ちの核攻撃に脆弱だという確信は、合理的な地政学的分析によるというより、個人的見解によるものと思われる。
1956年のハンガリー動乱のとき、駐ハンガリー大使だった彼は、強力と思われた政権があっという間に倒されることを目撃する。アンドロポフはソ連軍の介入を要請してハンガリー人の蜂起を鎮圧している。
12年後のポーランドのプラハの春では,彼はドブチェク大統領を支持する国民の民主化要求を退け、ワルシャワ同盟軍による極端な手段で鎮圧した。このように、軍事力を信じるKGB議長は敵が起ち上がる前に、先手必勝で潰すことが最良だと考えていたのだ。
一方でルーマニアの情報機関のトップは「レーガン大統領の自信に満ちた攻撃的な態度が、アンドロポフにこのような態度をとらせる一要素になった」と語っている。
妄想病のアンドロポフは、彼の不安を裏付ける証拠を集める命令を下した。ライアン作戦(ロシア語で「ミサイル攻撃に備えるロシア」)はソ連が平和時に取り組んだ情報活動で最大のものだった。
ブレジネフ第一書記をはじめソ連の幹部は、その作戦計画を聞きおどろいた。アンドロポフは「アメリカとNATO軍は核戦争を準備している」と断言し、KGBの役割はそれをいち早く発見し警告を発することである、ソ連は奇襲攻撃をされることを避けると言った。
この言外の意味は、もし奇襲攻撃の兆しが見つかれば、先手を打って先制攻撃をやるということだった。アンドロポフのライアン作戦は彼の興奮した想像力の産物だった。この作戦には大事なモットーがあった。それは「決っして見逃すな」であった。
先制攻撃を信じるアンドロポフ
1981年11月、米国、西欧諸国、日本、第三世界諸国に駐在するKGB代表にライアン作戦の命令第一号が送られ、82年の初めにすべての国のKGB代表にこの作戦を最優先事項として扱う命令が下された。
1982年6月、ゴルディエフスキーがロンドンに着任したときには、ライアン作戦はすでに始動し自動的に推進されていた。しかし、アメリカは先制攻撃をする意図などなかったので、作戦は誤った前提で策定されていたことになる。
アンドロポフは、自分の信じることに疑問をはさむという情報活動の原則に従わずに、作戦を始動したのだった。ヒトラーは連合軍のDデイ上陸地点をカレーと信じて二重スパイの情報に操られ、ブッシュとブレアはサダム・フセインの大量殺戮兵器所有を疑わず中東政策を誤った。独裁的なアンドロポフもまた、部下がその証拠をみつけることを信じて疑はなかったのだ。
当時のゴルディエフスキーの担当官であったジェームス・スプーナーは、ライアン作戦は「なぜ現実からこんなに乖離しているのか」と疑問を呈している。
1983年11月、ブレジネフが死亡し15年のKGB議長を体験したアンドロポフが、共産党ナンバーワンの第一書記を継承した。間もなくKGBの各国代表は「ライアンは非常に大事な作戦だ。緊急の扱いを要請する」との彼の指示を受け取った。ロンドンのKGB代表アルカディ・グック宛ての、この「極秘」「トップ・シークレット」と書かれた書類が届き、それをゴルディエフスキーは密かに盗みスプーナーに渡した。
その見出しは「NATOが準備しているソ連への核攻撃を暴く作戦」とあり、ライアン作戦の詳細が入っていた。西側の核の先制攻撃へのKGBの恐れが記されており、クレムリンは本気であった。いち早くその企てを暴露して、対抗手段としてソ連が先制核攻撃をすることが記されていた。
この文書には20の核攻撃の準備を測定する方法が指示されていた。そこには合理的と思われるものから、とんでもないものまで入っていた。例えば「政策の主要決定者の動きを注目せよ」の中に教会指導者とトップの銀行家がおり、核攻撃が始まる前にハンバーグの肉を貯蔵するので「屠殺場の動きに注目せよ」まであった。
当初、ゴルディエフスキーと同僚はへんてこな指示を相手にしていなかった。KGB将校たちのなかには西側には核攻撃などをやる気配はないと思い、ロンドンのKGBのトップグックは「馬鹿げている」と言っていた。
ソ連を「悪の帝国」と糺弾する
しかし、ソ連の情報機関の世界では常識より命令に従うことが慣行である。それに従って“証拠”を探すことが始まった。ゴルディエフスキーは「信じてもいない危険な情報を報告する。情報活動の悪循環だ」と批判している。
それ以降、ライアン作戦はKGBの最優先事項になった。一方、1983年のはじめレーガン大統領はソ連を「悪の帝国」と呼びクレムリンの不安を煽り、ソ連のワルシャワ同盟国における中距離核ミサイルに対抗して、パーシング2型の中距離核ミサイルを西ドイツに設定したが、これは彼らの不安を煽った。
パーシング2型ミサイルはモスクワまでの飛行時間が6分で、警告なしでミサイル・サイロも破壊できる能力を持っていた。もしKGBが前もってそれを察知すれば、逆に核攻撃をすることができる。
しかし、レーガン大統領は戦力防衛構想(通称スターウォーズ計画)を発表する。これは、衛星軌道上にミサイル衛星などを配備し敵国の核ミサイルを破壊するので、ソ連が計画している核攻撃は無効になる。アンドロポフはソ連の生存に関わる問題なのでこれに猛烈な勢いで反発した。
米ソの論争はしだいに大きくなり,MI6はソ連の恐怖心が単なるジェスチアーでないことを理解するようになった。アメリカにこのソ連の恐怖心を、たとえそれが無知とパラノイアに基いていようとも、伝えなくてはならない。
ゴルディエフスキーが明らかにしたライアン作戦は、CIAに伝達されることになった。それまでは、この極秘情報はMI5とMI6、PET(デンマーク情報機関)、首相官邸、内閣府、外務省のごく一部の人々に限られていたが、アメリカの情報機関をふくめることで大きく転換した。しかし,MI6は情報の出どころについては決して分からぬようにしていた。
そうして、20世紀で最も重要な情報の共有作戦が開始されることになったのだ。MI6は静かなプライドで、ゆっくりと、注意深くゴルディエフスキーの秘密をアメリカへ送り始めた。英国の情報機関はスパイの質に誇りをもっていた。アメリカの資金力と技術にはかなわないが、英国は人間を理解していると思っていた。
米国の情報機関はそれに感銘を受け、好奇心を持ち、ありがたく思った。ごく少数だがジュニア・パートナーの恩着せがましい態度に怒る人もいたが。しかし、これはフィルビーのスキャンダルを埋め合わせる情報共有だった。
ゴルディエフスキーの諜報の量は増え、その内容は詳細にわたり、しだいにアメリカ大統領にまで届くようになり、その政策へ影響するようになる。アメリカの情報機関のなかできわめて少数の人々が、イギリスが抱えるソ連のスパイが、この極秘情報の提供者であることを知っていた。
英国文化に魅惑される
ロンドンのレイラとこども The Times
ゴルディエフスキーは6カ月の二重スパイの役割が軌道にのったことに満足していた。レイラは新しい家が気に入り、夫の秘密についてはなにも知らなかった。二人の小さな娘は人形に英語で語りかけるほどになっていた。彼はロンドンの公園とパブが好きだった。レイラはエレナと違って料理が好きで、ここの素材の素晴らしさに感心していた。しかし3年後にはモスクワに戻ることを当然と思っていた。
いつの時点かで、彼は妻にイギリスのスパイであることを告白して、祖国には帰れないと言わなくてはならないと思っていた。しかし、なぜ今の時点で、彼女はこのストレスと危険を抱え込まなくてはならないのか。とは言っても、いつかは告白する日がくるだろう。
彼らはクラッシック音楽の演奏会、絵画展のオープニング、演劇の公演にでかけイギリス文化に夢中になった。彼にとって西側のスパイになるのは、裏切り者になるのではなく、文化の反体制派の行動だった。「作曲家ショスタコーヴィッチが音楽で、作家ソルジェニーツィンが言葉で体制と戦っている。それと同じように、KGBのわたしも情報の世界で体制と戦っている」とゴルディエフスキーは秘密を武器にした体制への挑戦を語っている。
毎朝、彼はホランド公園を走った。そして、毎週のようにベイスウォーターのMI6の隠れ家に出かけた。そこに着くと地下の駐車場に外交ナンバーを隠すかめにカバーを車にかけた。
出かける前に、彼は昼休みで人がいなくなると、会合のための必要書類を集めてポケットか袋にいれた(その頃はマイクロ・フィルムでのモスクワの指示はなくなっていた)。ロンドンの情報は豊富だった。大使館だけで23人のKGB将校がおり、GPUは13人で他に27人が外部で情報関係の仕事をしていた。「モスクワのセンターは凄い量の情報を求め、それにロンドンは回答していた。だから、わたしは自由に選んで渡した」(ゴルーディエフスキー)
隠れ家に着くと、彼は担当官のスプーナーに説明をし、ヴェロニカ・プライスは台所で昼食を準備し、MI6の秘書サラ・ページは彼が持ってきた書類を撮影した。仕事が一段落すると、最近の関心事に話が移った。これが始まると面白くなった。
その中にはライアン作戦について本部からの最新の問い合わせ、それへの回答などもあった。ゴールディエフスキーは最近のオフィスでの会話、噂などすべてのことを話してくれた。誰が飲みすぎで、誰が何を考えているのか、誰と誰が寝ているのかを話しながら、彼はスプーナーに「あなたはKGBの仲間のひとりだ」とからかった。
プライスはこの会合で時々、万一に備えたモスクワからの脱出計画の改定版を説明した。プライスが初めて計画を作ったときから時間が経ち、ゴルディエフスキーは結婚して2児の父親になっていたので、脱出に備えるためこどもの体重を計り報告している。しかし、彼はこの脱出計画は20%の成功率しかないと思っていた。
MI6の巧妙な二面作戦
ライアン作戦について知っている政治家は3人だけであった。1982年12月、カギ付きの青い箱に入った赤いフォールダーの極秘報告書が、はじめてマーガレット・サッチャー首相のもとに届けられた。ゴルディエフスキーが英国へ赴任して半年後のことだった。その報告書には情報提供者の名前は隠されたままであった。
二人目はジェフリー・ハウ外務大臣で、ライアン作戦に強烈な印象を持ったようで「ソ連の指導者は彼らのプロパガンダを本当に信じていた。西側がソ連政権を転覆させる計画があることを本気で恐れている」と書いている三人目のウィリアム・ホワイトロー内務大臣は一月後に知らされている。
しかし、彼の諜報活動が大きな影響力を与えている一方で、ソ連大使館では上司とうまくいかず、仕事の行き詰まりに直面していた。KGBの代表アルカディ・グックと次席のニキテンコはおおっぴらに彼に敵意を見せ、直属の上司イゴーリ・チトフは彼を嫌っていた。
だが、同僚マキシム・プルシコフは違っていた。彼の父はレニングラードの芸術家で、ゴルディエフスキーと文化的趣味が合っていた。彼らは机を並べていたので、仕事をしながらBBCRadio3のクラシック音楽を聴いた。プルシコフは彼のことを知性があり同感できる人物だと思った。
彼の問題は仕事にあった。当時の彼は英語がそれほどできず、定期的に昼食に出かけるが、大した新情報はもってこなかった。彼がロンドンに赴任して数か月後、KGBのスタッフの間で、彼は仕事ができないという噂が出始めた。
ゴルディエフスキーはその失敗に気が付いていた。彼が前任者から引き継いだ人脈は役に立たず、センターが要求する新しいコンタクトは上手くいかなかった。6か月後、グックの手下の主席アナリストが、彼は無能力な男だと言い始めた。しかし、実際には彼はイギリスのために情報集めをやっていて、KGBの仕事がおろそかになっていたのだ。
もし彼がモスクワへ送り返されたとすると、MI6にとっては大変な痛手になる。彼から相談を受けたMI6は前例のない二面作戦で彼に肩入れすることを決定した。それはKGBスパイの仕事を手伝い、彼を邪魔している者を国外追放することだった。
マーティン・ショウウッドは彼のKGBの評判を回復するために政治レポートの下書きをすることになった。この若いMI6将校はモスクワ勤務を終えたばかりで、ロシア語が堪能だった。
彼が新聞、雑誌の情報をもとに記事を書き、それにゴルディエフスキーが手を加え、モスクワのセンターがその価値を認める報告に仕上げたのである。内容はスパイの間で"鶏の餌“といわれるもので、長い記事のなかに真実は入っているが、大事なことは言っていない内容だった。
英露スパイの不思議な関係
英国議会の時計と国旗ユニオン・ジャック Wikipedia
しかし、“鶏の餌”だけではKGBは納得しない。政治テーマについて内情に詳しい人の談話が入っていれば報告は信憑性をもつ。MI6は数人の“信頼できる人々”を彼に紹介したが、なかでもローズマリー・スペンサーは彼にとつて格好の人物だった。
彼女は英国保守党本部の国際部で働く42歳の研究員で、フォークランド紛争についての報告書で知られていた。彼女は独身で社交的で賢く、英国政治の中心にあって情報に通じている、KGBがリクルートしたいような人物であった。
彼らはMI6の手引きで初めて議会のパーティで会った。その後二人はランチをし、ゴルディエフスキーは礼儀正しく魅力的に振舞った。彼はスペンサーがMI6の防諜エージェントであることを知り、彼女は彼がKGBであることを知っていた。しかし、彼がMI6の二重スパイであることは知らなかった。その後、二人は繰り返し昼食をともにした。
MI6は彼女にどんな情報を話すかを示唆した。内容はあまりにセンシティブなものは避け、保守党内部の噂もいれた”鶏の餌“であった。ゴルディエフスキーはこれをタイプしMI6が集めた情報を入れた。保守党のインサイダーの推測の談話が入った報告書にKGBは感銘を受け、彼が保守党内部のインサイド情報を提供するソース源を開拓している、センターはいずれ彼女はエージェントになるという期待を持った。
二人は固い友情で結ばれていた。しかし、お互いを騙していた。ゴルディエフスキーはKGB内での自分の評判を高める目的で、スペンサーはソ連に一撃を加える目的での関係であった。二人は真の愛情を抱いて、嘘を言っていたのだった。これは冷戦下、二人のスパイが嘘とやさしさで付き合った例である。
これでロンドンのKGB内部でゴルディエフスキーの評判は急上昇し、代表のグックも彼に温かく接するようになった。彼の成功を喜ばなかったのは上司のチトフである。自分の地位が危なくなると思った彼は部下の邪魔をした。そこで、MI6はグックとチトフ(ついでに) を「好ましからざる人物」の理由で国外追放した。真の目的を隠すため二人のCRU将校も同様な理由で追放にあっている。もちろん、チトフとグックはKGB将校だったので追放にあう理由は十分にあったのだが。
チトフが排除されたあと彼は政治情報長の候補となり、中佐に昇格しその地位に就いた。その結果、彼は政治だけではなく軍事、戦略諜報に関するファイルを見ることができるようになった。これはPRラインと呼ばれるものであった。このファイルによると、彼が予測していたように、KGBの英国の指導層への侵入レベルは取るに足りないものであった。
ゴルディエフスキーは他の部門、Xライン(科学技術)Nライン(非合法)KRライン(防諜と保安)などの機能を学ぶことができた。彼はこれらのKGBの秘密を次々とMI6に伝えたのである。
もうひとつの彼の情報源は妻のレイラであった。彼女はKGBの代表グックのパートタ
イムの秘書になり、夕食時にタイプした手紙の内容やオフィスの噂話を話すと、ゴルディエフスキーは熱心に聞いていた。彼女はそれがMI6に伝わるとは思ってもいなかった。
彼はすべてのことが順調にいっていることに満足だった。昇格し、身の安全は保障され、報告書は首相も読んでいる。ゴルディエフスキーは共産党を内部から本格的に攻撃しはじめたのだ。
首相のロシア・スパイへの思い入れ
サッチャー首相はロシアのスパイに特別の感情があった。理由は分からないのだが、彼をミスター・コリンズと呼んでいた。自由のために、危険極まりない状況のなかで、働いている彼を英雄だと思っていた。
サッチャー伝の著者チャールス・ムーアは、「ロシアのスパイの視点は異質で、誰もクレムリンが西側の行動にこんな反応をすると言った者はいない」と彼女のゴルディエフスキー観を語り「ひとりのスパイの人生にこれほどの個人的関心を寄せた首相はいないと思う」と書いている。
1983年後半、東西関係は核戦争へ向かう危機的な状況にあるように見えた。レーガンの演説と行動とソ連のパラノイアがその背景にあった。レーガンは「マルクス・レーニン主義は歴史のくず箱へ捨ててしまおう」と英国議会で演説しクレムリンの激しい怒りを買っている。
その年の8月、クレムリン中央委員会のウラジーミル・クリュチコフは海外のKGB代表に「敵がソ連に密かに侵入し核兵器、生物・化学兵器を破壊する恐れがある」と電報を出し、この件について証拠があれば連絡してほしいと要請した。
この電報に証拠らしいものを見つけ返信した者は称賛され、そうしなかった者は厳しく批判された。ロンドンのグックは後者だったので「米英が準備しているソ連に対する先制攻撃」の証拠を挙げる作業を怠ったことを詫びる手紙を強制されて書いた。
1983年9月1日、ゴルディエフスキーは後にこれは茶番だと言っているが、MI6に提出した彼の報告書を読むと明確にソ連のリーダーは恐怖に包まれていることが分かる。追い詰められれば、ソ連は先制攻撃をやるかもしれないのだ。
東西関係、大韓航空機撃墜事件で最悪へ
そんな状況のなか日本海で悲劇的なことが起こる。1983年9月1日の夜明けに、ソ連の戦闘機が航路を誤って領空に侵入した大韓航空747便を撃ち落したのだ。この撃墜で乗客、乗組員269人が死亡し東西関係が最悪の状況になる。
ソ連ははじめ撃墜を否定していたが、航空機は領空侵犯をしたスパイ機でレーガンの陰謀であると非難した。クレムリンは謝罪どころか、CIAの「犯罪的な挑発行為」であると声明をだしたので、西側は激怒した。病床のアンドロポフは各国の大使館へ電報を打ち「アメリカの軍事的な精神異常」を非難した。それをゴルディエフスキーは密かに持ち出しMI6に渡した。
著者マッキンタイアはこの事件の原因は、ロシアと韓国のパイロットのヒューマン・エラーであると言っている。しかし、ゴルディエフスキーの報告は、この悲劇が危機的な政治状況にまで発展したのは、相互不信の深さにあると書いている。この相互不信と誤解と攻撃的態度が、冷戦を核戦争の寸前まで追いやったのだ。
さらに、緊張が高まったのは、NATO軍が実行したエイブル・アーチャー(Able Archer)と呼ばれる軍事演習だった。その演習は11月2日から11日までで、赤軍(ワルシャワ連合軍)がフィンランド、ノルウェー、ギリシャに軍事侵略をし、それを青軍(NATO軍)が同盟国を守るために阻止するというシナリオだった。投入された米軍将兵は4万人とあとはNATO将兵であった。
筋書では通常兵器による戦いが核戦争にまで発展し、NATO軍の将校が核のボタンを押す場面もあった。クレムリンは大韓航空機撃墜事件のあとだったので、核の先制攻撃の準備ではないかと疑ったのだ。内閣秘書官長のロバート・アームストロングは後にサッチャーに「この軍事演習が普通の形をとっていないので、疑いを抱かせた」と報告している。
11月5日、KGB本部から、アメリカとNATOが先制攻撃を決定すると7日か10日後にミサイルが発射される予定だ、との警告がロンドンに電報で届き、グックはイギリスの核施設や首相官邸の動きを監視するように命令を受けている。ゴルディエフスキーがMI6にこの動きを伝えたことが、西側がソ連の疑心暗鬼を知る最初の機会となった。しかし、彼の報告が遅かったので演習を止める事にはならなかった。
その時点で、ソ連は自国の核爆弾を起動させる準備をしていた。東ドイツとポーランドの核搭載機への準備命令、ヨーロッパの都市を標的とする70基のSSミサイルへ最高の警戒体制の指令、核ミサイル掲載のソ連潜水艦は北極の海面下に潜り探索を避けることが指令された。
CIAがバルチック諸国とチェコスロバキアでのソ連軍の動きを探知する。その時点で、ソ連は核ミサイルの格納庫を開いていたが、最後の瞬間に発射の中止命令が出て破局をまぬがれたと言う。
11月11日、エイブル・アーチャーは予定通り幕を閉じた。そしてNATOとソ連は警戒態勢をしだいに緩めていった。この対決のことを大衆は何も知らなかった。歴史家の間では、この対決が世界核戦争にどれほど近かったかについて意見の相違がある。MI6の公式見解は「1962年のキューバ・ミサイル危機以来、最も危険な時だった」と記している。他の歴史家はソ連の核政策はいつもシャドウ・ボクシングだから危機ではないと言う。
英米首脳、冷戦戦略を大転換
ゴルディエフスキーは冷静で、これはソ連のパラノイア現象で、他の証拠がないので緊急事態ではない、と言っている。しかし、当時の彼のモスクワからの大量の電報についての報告を読んだ要人は、破局が迫っていたと見ている。外務大臣のハウは「ゴルディエフスキーは疑いもなく、ソ連が核の先制攻撃でやられるということを、クレムリンが本気で信じていることを書いている」と記している。
サッチャーは、ソ連の恐怖とレーガンの戦闘的な演説の組み合わせが生んだ、核戦争の可能性を本気で心配した。アメリカはこのことを十分理解していないのではないかと思った彼女は、MI6がゴルディエフスキーの秘密をCIAと共有することを決めた。
クレムリンの指導者はアメリカが先制攻撃をすると本気で信じていることを知ったレーガンは「なぜそんなことになるのか分からない。しかし、考えてみよう」と言った。
実際には、レーガンは核戦争の黙示録的世界を一月前に映画『ザ・デ・アフター(The DAY After)』(1983)を見て知っていた。核攻撃でアメリカの都市が破壊される悲惨さに「ひどく落ち込んだ」と彼は書いている。エイブル・アーチャー事件直後、ペンタゴンが核戦争の被害についてのブリーフィングをやり大統領も出席した。米国が勝利者になっても、その犠牲者は1億5000万人にのぼることを大統領は知る。
レーガンが日記で語る
レーガンはその日のことを「人生で最も厳粛な体験だった」と言っている。その夜、彼は日記に「ソ連は攻撃されると思い込んでいる。そんなことをやろうと思ったことはない。これは彼らに伝えなければならない」と書いている。
米英の指導者は、冷戦の目的はデモクラシーが共産主義の脅威から諸国を守るためのものと考えていた。しかし、ゴルディエフスキーのおかげで、彼らの考えは変わった。ソ連の侵略よりもむしろソ連の恐怖のほうが、世界平和にとっては危険であるという認識である。
レーガンは自伝に次のように書いている。「この3年間の(大統領の)体験で、わたしはロシア人についておどろくべきことを学んだ。それは、ソ連指導部の多くの人々は、アメリカ人を本気で恐れていることだ。彼らはアメリカを敵と思っているだけでなく、核兵器で先行攻撃をする侵略者になるかもしれないと考えていたのだ」
エイブル・アーチャーは冷戦の対決の転換期になったが、この事件は西側のメディアも市民も知ることはなかった。二つの超大国はゆるやかに目に見えるかたちで、雪解けの道を歩んだのだった。レーガン政権は反ソ攻撃をひかえ、サッチャーは対話の道を選ぶ。彼女は「『悪の帝国』のレトリックを超えて、いかにすれば西側が冷戦に終止符を打つことができるかを考えるようになった」と書いている。
ゲーツの率直な意見
ゲーツCIA副長官 Wikipedia
クレムリンのパラノイアは弱まりはじめ、アンドロポフの死でライアン作戦のパワーは衰え始めた。これはゴルディエフスキーが全部をやったわけではないが、彼の諜報活動の成果は大いに貢献している。彼はMI6が情報をCIAと共有することを喜んだ。「ゴルディエフスキーはインパクトを与えることを望んでいた」とMI6の担当官のひとりは言っている。
当時、CIA副長官であったロバート・ゲーツは、彼の報告書に基づいたレポートを読んで「CIAは情報の集め方に大きな失敗をしているのではないか。さらに重要なのは、エイブル・アーチャーで戦争寸前までいき、それを知らなかったという点だった」と率直な感想を述べている。
ゲーツのいう失敗とは、CIAはソ連スパイを何人か抱えていたが、情報ソースを特定できず心理的な分析ができない、軍事関係のことばかりだったということだろう。
レーガンにとってゴルディエフスキーの情報は天の声のようなものだった。レーガンは彼がどれだけ危険をおかして情報をとっているか知り感動した。彼は冷戦の緊張緩和だけではなく、その終結を心から望んだのである。しかしCIAはこの情報がどこから来るのか分からず不満だった。
歴史上スパイが深い影響を与えることは稀だ。ゴルディエフスキーはスパイの殿堂に入った数少ないひとりである。彼はKGBの仕組みを知り、彼らがやっていることを伝え、クレムリンがどう考え計画しているかを報告した。
サッチャーの葬儀での名演技
アンドロポフ葬儀 Getty Images
1984年2月14日、赤い広場にユリ・アンドロポフの葬儀に参加する人々が集まった。世界の指導者のなかに優雅な喪服を着たサッチャーの姿があった。彼女はアメリカ副大統領ジョージ・ブッシュに「東西関係において、この機会は天の配剤だ」と耳打ちした。
他の指導者が葬儀で会話を交わしているなか、彼女は厳粛な態度を崩さなかった。彼女は後継の老いた第一書記コンスタンティン・チェルネンコと40分の会談をし「本格的な軍縮をする機会が来たと思う。これがおそらく最後のチャンスになるかしれない」と伝えている。チェルネンコの印象を帰りの飛行機のなかで側近に「彼は生きてる化石だ。誰か若い指導者と話がしたい」と語っている。彼女の希望はゴルバチョフの登場で現実になる。
サッチャーは彼女の葬儀の役割を見事に果たした。MI6のスプーナーに葬儀のシナリオを相談されたゴルディエフスキーは、彼女は「礼儀正しく、友好的」態度で臨むべきだと進言している。
サッチャーのモスクワ訪問を企画した外交官によると「ゴルディエフスキーは準備に全面的に協力した。サッチャーは葬儀場では黒い喪服と毛皮の帽子をかぶり深刻な状況にぴったりだった。彼女はロシア人の心理を読む力があった。ゴルディエフスキーのアドバイスでサッチャーはそれを完璧に演じたのだ」
ロンドンのソ連大使ポポフはスタッフを前に称賛の演説をした。「クレムリンの葬儀でのサッチャーの行動は素晴らしい出来だった。首相の感受性と政治哲学にクレムリンの同志は深い感銘を受けた。ミセス・サッチャーは同志を魅了した」
ゴルディエフスキーはこのように首相にソ連の指導者へどう対応するかを助言し、その反応を伝えるという役割を担ったのだ。MI6のアナリストが「彼の貢献のエッセンスは、他人のアタマに入り込み、彼らの論理と合理性を説明することだった」と言っている。
その年の夏休み、ゴルディエフスキーはモスクワに帰った。その時、デンマーク時代の顔見知り英国・スカンジナビア担当のニコライ・グリビンに会ったが、彼はミハエル・ゴルバチョフのことを高く評価していたという。ゴルバチョフは共産党のヒエラルキーを異常な速さで登りつめ、党中央委員会の常任委員に就任し、チェルネンコの後釜の声が高い50歳になったばかりの人物であった。グリビンは、KGBはゴルバチョフが第一書記になることを、歓迎すると言った。
サッチャーもまた同様な結論に達した。彼女の指示で外務省はゴルバチョフの訪英の意思を探り、彼は1984年の夏に招待を受諾した。ロンドンを訪れる時期はその年の12月であった。
この訪英はKGBの政治担当の責任者ゴルディエフスキーにとっても好機となる。KGB将校として、英国がゴルバチョフになにを期待しているのかを、クレムリンにブリーフィングをし、スパイとしては、ロシア側のゴルバチョフ訪英についての準備をMI6にブリーフィングする役割だった。
これは、スパイが二人の指導者の間で、スパイと報告とをひとりでやるので、まるで首脳会談を演出するかの感があった。スパイの歴史で極めて稀なことである。これを分かりやすく言うと、ゴルディエフスキーはクレムリンにはサッチャーが何を言うかをアドバイスし、サッチャーには彼女がゴルバチョフに何をいうかをアドバイスすると言うことだった。
これが上手くいけば、ゴルディエフスキーがロンドンKGBの代表になることも可能になるだろう。ゴルバチョフ来訪のニュースでソ連大使館は大忙しになった。モスクワは英国の生活、政治、軍事、技術、経済について質問を浴びせかけてきた。
しかし、両者の間には深い溝があった。ゴルバチョフは忠実な共産主義者でソ連のシステムが生み出した人物で,サッチャーは反共主義者で、かつては「クレムリンに良心はあるのだろうか」と問い、「ない」と言いきった人物だった。このように、二人の間には、政治と文化面で大きな溝があったにのだ。
ゴルディエフスキーが集めた情報はすべてモスクワに送り、それをMI6にも渡した。それにMI6はモスクワ用の追加情報を加え彼は再び送付したのだ。例えば、石炭労働者のストライキについて賛否両論があるという具合に。英国の情報機関は議題を決定していたのである。
ゴルバチョフ訪英の仕掛け人
ゴルバチョフ夫妻はロンドンに1984年12月15日に到着し、8日間滞在した。ショッピングをし、マルクスが資本論を書いた大英図書館を見学する時間はあったが、大半の時間は首相の郊外の別邸チェッカーズで行われた二人と側近の会談にあてた。
毎晩、ゴルバチョフは翌日の会議の議題について3,4頁のメモを準備することを部下に要求した。KGBはその情報を持っていなかった。しかし。MI6はハウ外務大臣が使うブリーフィング資料を確保していた。それをゴルディエフスキーに渡し、彼はロシア語に翻訳しモスクワへ送ったのである。送る前に内容を読んだロンドンのKGB代表ニキテンコは「必要なのはこれだ」と言った。言ってみれば、二人のブリーフィング・ペイパーが同じになり「それに声がついた」ということになる。
ゴルバチョフの訪英は大成功に終わった。二人のイデオロギーの違いにもかかわらず、サッチャーとゴルバチョフは波長がほぼ同じであった。もちろん、緊張した話題もある。彼女が自由経済のメリットを彼に講義すると、彼はソ連のシステムのほうが優れている、それを確かめにロシアへどうぞ、とサッチャーを招待した。
サッチャーがソ連は炭鉱労働者のストライキに資金援助をしていると非難すると、ゴルバチョフはそれを否定した。彼女はそれが嘘であることを知っていた。10月に彼自身が140万ドルのチェックにサインをしていたのだ。
こんなやり取りもあったが、二人の関係は良好だった。首脳会談のようすを伝えるKGBの記者会見で、ゴルバチョフが「感謝し満足している」と言っているのはMI6の書いた言葉だった。
MI6のアナリストはその目的を次のように言っている。「両者ともわれわれのブリーフィング・ペイパーを使っていた。われわれは新しいことをやろうとしていた。情報を曲げることなく関係を改善し、可能性を探ろうとしたのだ。少数のスタッフでおどろくべき時間をかけて、歴史の最前線で働いた」。
多くの人々が「二人は明らかに相性がよかった」と言っている。すべての会談が終わったあと、ゴルバチョフは「非常に満足している」と語り、サッチャーも同様な発言をしている。ゴルディエフスキーはモスクワの熱烈な反応をMI6に報告した。
サッチャーはレーガンに書いた手紙に「ゴルバチョフはビジネスができる男だ。わたしは彼が好きになった。もちろん彼はソ連のシステムに忠実な男だ。しかし、彼は人の話を聞いて真剣な対話をして、彼は決定を下すことができる」と書いている。これはゴルバチョフ訪英のキャッチフレーズになった言葉だ。1985年3月にチェルネンコが亡くなり、「ビジネスができる男」ゴルバチョフが後継者に就任した。
モスクワ・センターはロンドンで政治家らしいリーダーシップを発揮したゴルバチョフに満足だった。ロンドンのKGB代表ニキテンコは仕事ぶりが称賛された。しかし、本当の功労者はゴルディエフスキーだろう。あと一歩で彼はロンドン代表の仕事が待っている。
しかし、彼には気になる暗雲があった。それは、ゴルバチョフ訪英の最中にニキテンコから声がかかり会いに行った日のことだ。ゴルディエフスキーが書いた文書を「このハウ外務大臣の報告書は良くかけている。しかし、これは英国外務省の文書のようだな」と彼に言われたのだ。
CIA、KGB二重スパイを突き止める
CIAの玄関 getty images
バートン・ガーバーはCIAのソ連部長でKGBのエクスパートであった。1980年のモスクワのCIA代表になり、83年の初めにワシントンに戻り、このスパイ組織で最も重要な部門の責任者になった。やせて長身の彼の趣味はオオカミの研究という変わったものだった。
凄腕CIA長官ビル・ケーシーの下で、彼はソ連国内で100の秘密活動を展開し、20人に以上のスパイの活動を指揮していた。そのなかにKGB将校はいたが、ゴルディエフスキーのようなスパイはいなかった。
ガーバーは世界のCIAはなんでも知る権利があると思っていたので、ロンドンのCIA代表にMI6から秘密の男のことを聞き出してほしいと要請した。クリスマス・パーティの席でCIA代表が居丈高な態度で「その男の背景について教えてくれないか。彼の情報が頼りになるか確認したいんだ」と訊くと、MI6の男は首を振り「その男のことは誰にも言えない。しかし彼の情報には全面的な信頼をしている」とガードが堅かった。
ガーバーはMI6が教えてくれないなら、CIAの威信をかけて秘密の男の名前を探してやろうと思った。上司の許可をとった彼は、1985年はじめCIAの取り調べ官に指示をだしスパイ・ハントに乗り出した。試行錯誤を重ねながら、3月には秘密の男の名前はゴルディエフスキーであることが判明した。これはCIAのMI6への小さな勝利であった。MI6はこのことをまったく知らなかった。
1983年、エイムズはさしたる貢献もしていなかったが、CIAのソ連・東欧部門の防諜責任者に任命された。彼のCIAの経歴は一段階上がったが、まだ満足のいくものではなかった。その頃、彼はコロンビア人のロザリオと付き合っていたが、のちに結婚する彼女の浪費で四苦八苦していた。
それに離婚にかかる費用も高かった。エイムズの新しいキャッシュ・カードは5,000ドルの赤で、車は古いボルボで通勤していた。毎日やっている秘密の仕事に比べると、給料が年収45,000ドルではあまりに安すぎるではないか、と彼は不満だった。
ケーシーCIA長官のおかげで,ソ連部門の規模は拡大し、エイムズは活発なスパイ活動の実態を知る立場にあった。その結果、彼は危険な情報活動にたずさわる20人以上のすべてのスパイの名前を知っていた。
彼はCIAがモスクワ郊外の電話ケーブルを盗聴し大量の情報を集めていることも、核爆弾を積んだシベリア鉄道を通過する列車を認識できることも知っていた。MI6のトップ・シークレットであるライアン計画の情報源は、おそらくはKGBの二重スパイではないかと思うようになった。
防諜責任者としてCIAの秘密を知るようになったエイムズは、ワシントンのバーでバーボンを飲みながら、借金を返して新車も買う方法を考えていた。
エイムズ、CIA情報を売る
オルドリッチ・エイムズ Wikipedia
エイムズはKGBにCIAの秘密を売ることにした。ゴルディエフスキーは金には無関心だったが、彼にとって金がすべてであった。彼はソ連大使館に電話して軍縮専門家のセルゲイ・チューバキンと面会の約束をした。彼がCIAに寝返る可能性がある言う理由で、エイムズは事前にCIAとFBIから面会の許可を得ていた。
4月16日午後4時、彼はメイフラワー・ホテルのバーでチューバキンを待っていた。そこで、ウォッカ・マティーニを3杯飲んだが、1時間たっても彼は来なかった。
ホテルを出たエイムズはすぐ近くにあるソ連大使館へ向かい受付にKGB代表スタ二ツラブ・アンドロソフ将軍(仮名のクロ―二ン)に宛てた包みと手紙を置いていった。自筆で書かれた手紙には「わたしはアルドリッチ・エイムズです。仕事はCIAのソ連防防諜課長です。ニューヨーク時代のわたしの仮名はアンディ・ロビンソンでした。以下は、現在、ソ連でCIAのために働いている3人のスパイの名前です。この情報と引き換えに、わたしは5万ドルが必要です」とあった。
5月のはじめソ連大使館のチューバキンが、エイムズに電話して「5月15日に大使館で一杯やって、そのあと近所のレスタラントで昼食をどうですか」と連絡があった。実は彼はKGBではなく、この件にかかわりたくなかったのだが、KGBにねじこまれたのだ。
3週間前にエイムズの手紙を受け取った大使館は、その重要性を理解し、防諜部門のボス、ヴィクトル・チルカーチンが本部に長文の暗号の電報を打った。それ読んだ第一総局長のクリュチコフはKGB議長ヴィクトル・チェブリコフと相談し、議長はただちに5万ドルのキャッシュを準備することを命じている。
その日、大使館に着いたエイムズをロビーで待っていたのはチルカーチンだった。エイムズを地下の小さな会議室に案内し、笑いながらジエスチャーで、ここは盗聴されているかも知れないので会話は筆談でやろうと書き、ノートを渡した「われわれはあなたの申し込みを受け入れる。このことに非常に満足している。これからはチューバキンを仲介にして話し合いをやろう。このあと彼と昼食をしたあとで金を渡す」とあった。そのノートの裏にエイムズは「了解、ありがとうございます」と書いた。
しかし筆談は続いた。新たにリクルートされたスパイに担当官が尋ねる質問がある。それは、われわれの組織に侵入した者を知っているか、である。エイムズはその質問を予測していたに違いない。彼は24人以上のソ連のスパイの名前を知っていたし、その中にはソ連大使館の二人もいた。そして、最も重要な英国が抱えているスパイのことも知っていた。彼が裏切ったCIAのソ連のスパイの多くは一月後に逮捕、粛清された。
裏切り者はエイムズ
タイム誌のカバー・ストーリー Time
後にエイムズは、あの時点で自分はゴルディエフスキーとは知らなかったと言っている。2005年に刊行されたチルカーチンの回想録によると、ゴルディエフスキーの名前を知ったのは「ワシントン在住の英国のジャーナリスト」からの通報であったと言っている。しかし、CIAは「すべての点でKGBの偽情報だ」と否定している。
この本の著者マッキンタイアは、大多数の情報アナリストは「エイムズがロシアとの初期のコンタクトで、MI6の最強のKGBスパイがいることを暴露した」と語っている。そのうえで、次のような結論をだしている。「エイムズが始めてソ連大使館を訪れ地下の会議室で筆談をしたとき、そのことに触れたのはほぼ間違いがない。たとえ、名前を知らせなかったにしろ、これだけでKGBの狩猟犬にとっては十分だった」
エイムズが地下の”沈黙の会話“を終え、ロビーでチューバキンと会い昼食に出かけた。二人はレストラント「ジョーとモー」でしばらく軍縮について話をした。エーミスが3,4杯マティーニを飲んだ頃だろうか、彼は英国のKGB二重スパイのことを話した。のちに彼は「記憶がおぼつかないが」と言いながら、これを確認している。
食事が終わったあと、チューバキンは紙袋を「この資料は先ほど話した新聞の切り抜きだ。興味があると思ったので」と言いエイムズに渡した。これはFBIが会話を盗聴している場合に備えたものだった。
二人は握手をして別れ、エイムズは車を走らせ、ポトマック川が見える景色の良いとろに止まり袋を開けた。そこには、500ドル紙幣が100枚入っていた。彼は満ち足りた気持ちになった。
その一月後、エイムズはスパイの歴史上で最悪の罪を犯した。アメリカのソ連スパイ24人以上をKGBに売り渡したのだ。ジョーウジタウンのレストランで、彼はチューバキンにその名前と証拠が入っている大きな紙袋を渡し、その情報は直ちにモスクワへ伝わった。しばらくして、モスクワは彼に「おめでとう。君は100万長者だ」と祝電を送っている。エイムズがスパイ・ビジネスで稼いだ金は総額で400万ドルと言われている。
モスクワからの召喚状が来る
5月16日、エイムズがソ連大使館で初会合をした日の翌日、KGBの代表ゴルディエフスキーはモスクワから至急電報を受け取った。「代表任命についてKGB議長ヴィクトル・チェブリコフと第一総局長ウラジーミル・クリュチコフと重要な会合を行うため、2日以内にモスクワへ戻って来てほしい」。これを読んだ彼は刺すような痛みを感じた。
ゴルディエフスキーは直ちにMI6の仲間に電話をして緊急会議を要請した。彼が隠れ家に着くと、すでに担当官シモン・ブラウンは待っていた。MI6とゴルディエフスキーは48時間以内にモスクワの召喚に応じるのか、あるいはそれを拒否して家族と英国へ亡命するのかを決めなくてはならない。4月28日彼が代表に就任して以来、モスクワは奇妙になにも言ってこない。彼は暗号文で書かれた秘密電報をまったく受け取っていなかった。
もし、彼がスパイであることを知っているのなら、KGB第13部の拉致のスぺシャリストを使って、ロンドンで誘拐してモスクワへ連れて行かないのか。召喚状の送り主はKGBトップの二人だが、これは警告なのか朗報なのかを、彼は判断がつかなかった。
MI6ではこの件について緊急会議が会長クリス・カーウェン、MI5のソ連圏責任者ジョン・デボレル、ブラウン担当官が集まり行われた。しかし、とくに警戒をする必要はないだろうとの結論だった。彼と最も親しいプライスとブラウンも,またスパイ活動を中止する理由はないと考えていた。しかし、最後の選択はゴルディエフスキーにまかせるべきだという点で一致した。現実には、モスクワはほとんど知らなかったのだ。
このスパイ事件を担当したのはK局の防諜の取調官ヴィクトル・ブダノフで「KGBで最も危険な男」と言われた人物だった。彼は1980年代に東ドイツでKGB将校として、情報機関内の腐敗を情け容赦なく摘発したことで知られる。その頃の部下にウラディミール・プーチンがいた。
ブダノフは自分のことを、報復ではなく法律のために働いている探偵と思っていた。後にその哲学を「われわれは常に法律に従った。わたしはソ連の法律を破って仕事をしたことは一度もない」と言っている。彼がスパイを逮捕するのは、証拠が集まり演繹的結論がでたときだった。
そのころ彼は、上司から名前不明のKGBのスパイがいる、もし英国のスパイならロンドンということになると聞いていた。また、ニキテンコからはゴルディエフスキーが怪しいということも聞いていた、それにエイムズからの情報もある。しかし、彼だけが容疑者ではなかった。ニキテンコもプルシコフも怪しまれていた。ほかにも容疑者がいたので、ブダノフはゴルディエフスキーを特定するまでには行っていなかったのだ。
モスクワへ戻ることを決意する
その夜、ゴルディエフスキーとMI6の仲間は隠れ家に再び集まった。プライスはスモーク・サーモンとパンの夕食を準備した。テープレコーダーが廻っていた。担当官のブラウンは置かれた状況を説明した。:危険を予測するような証拠はないので、これは平常のモスクワの召喚状だろう、もしゴルディエフスキーが亡命する気なら、MI6はあなたと家族の安全を生涯保障する。
もし任務を続けてくれるのなら、英国はあなたに永久に借りができる。担当官は次の言葉でしめた。「もし、状況が悪いというのならやめてほしい。これはあなたが決めることだ。もしあなたが行くというのなら、われわれは脱出計画を発動する」
一つのことを聞いても、まったく違って聞こえるのは不思議ではない。ブラウンはモスクワ行きを諦めてもよいと言ったと思い、ゴルディエフスキーはモスクワ行を指示されたと思ったのだ。彼は名誉ある引退を示唆されると思ったが、それはなかった。MI6本部はブラウンにそのことを指示していなかった。最後の決定は彼に任されたのだ。
何分もの間、ロシア人はなにも言わなかった。そして「われわれは瀬戸際にいる。今これを中止するのは、わたしの任務、これまでやってきたことの放棄になる。これにはリスクが伴う。しかし、控えめなリスクだ。わたしはそれに挑戦する。モスクワに戻ろう」と言った。
一人のMI6将校はその発言を聞いて「彼はわれわれが任務を続けてほしいと思っていることを 知っていた。それに勇敢にも乗ったのだ」と言っている。
プライスは脱出計画についてゴルディエフスキーにもう一度説明した。彼はソ連とフィンランドの国境近くの再会場所(836地点) の写真を見て、これは冬に撮影されているが、夏になると緑が多くて識別できるだろうか、と再び疑問を投げかけた。プライスはモスクワ大使館の関係者に連絡しすべての計画を確認しその日のための準備をした。
1985年5月18日、KGBは翌日のゴルディエフスキーの到着に備え、ブダコフは彼のレニンスキー大通りのアパートに捜索班を派遣した。しかし、犯罪に関連するものはなにもでてこなかつた。ただし、禁書になっている西側の書物があった。シェークスピアのソネット詩集に関心を寄せる者はいなかった。
ブダコフはゴルディエフスキーの個人ファイルを読んでいて、最近の出来事で気にことがあった。それはロンドンに赴任してきて仕事ぶりが悪いので、送り返す話がでていたのに、急に出来が良い報告書がでてきたことだった。それに彼の上司二人チトフとグックが英国政府から追放されている。その時点でブダコフが、ニキテンコが発見した彼の報告書が、英国外務省のブリーフィングのコピーであったことを、知っていたかは分からない。
状況証拠からするとこれは相当に不利な状況だが、結論をだすまで決定的ではない。その時点では彼には確固たる証拠がなかったのだ。彼はゴルディエフスキーを現行犯で逮捕するか、あるいは完全自白をするまで待とうと思った。
日曜の午後、ゴルディエフスキーは妻と二人のこどもにキスをした。もう彼らには会えないかもしれない。妻のレイラにはいつもより長くキスをし、二人のこどもにはいつもよりきつく抱きしめたは。彼はタクシーに乗ってヒースロー飛行場に向かった。
5月19日の午後4時、ゴルディエフスキーは覚悟を決めて,モスクワ行きアエロフロート便 に乗り込んだ。 (続く)
このエッセイを書くにあたって、以下の著作、ヴィデオ、記事のお世話になりました。とりわけ、ベン・マッキンタイアーさんの秀作に感謝を捧げます。”The Spy and The Traitor:The Greatest Espionage Story of the Cold War”, Ben Macintyre Penguin Random House UK 2018 , 「霧の中の歳月・大韓航空機撃墜事件」NHKスペシャル 1983・ 9・23放映、“Betraying bandits” Gordon Corera The Spectator 2018・10・6
(その1)でこの本には邦訳がないと書きましたが、6月8日に『KGBの男:冷戦史上最大の二重スパイ』ベン・マッキンタイヤー著、小林朋則訳で中央公論新社 から2020年に刊行されています。筆者が訳書の存在を調べたのはそれ以前でした。小林さんの労作に敬意を表します。
【フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39】
著者プロフィール 土野繁樹(ひじの・しげき) ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。
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