香港:民主派の反撃
香港議会をとり囲む民主派の大デモ Wikipedia
100万人の香港市民が6月9日に「逃亡犯条例」の撤廃を求めて平和的デモを行ったとき、その要求は唯その一点だけだった。しかし今や、行政長官の直接選挙を要求する運動にまで発展している。この要求は運動の核心にある北京の共産党政権への不満が表面化したものだ。そのきっかけとなったのは、7月1日の夜.若い活動家の一群が香港議会(立法会)に侵入し、中国と香港の関係を称えるタブレットから中国名を消し、直接選挙を要求したからだ。
この抗議行動の過激化は、7月21日、中国政府の出先機関「香港連絡弁公室」に波及し、中国の国章を汚した。その直後、暴力団「三合会」の無差別な民主派への攻撃事件にまで発展した。中国軍部は、国家を侮辱することは許されない、治安回復のために、香港に駐屯する人民解放軍8,000~10,000の介入を示唆し脅しをかけている。香港返還以来、このような警告は一度もなかったことだ。
現状が混迷し続けるなか、筆者は“香港:民主派の反撃”で次のことを取り上げている。
まずは、香港最後の総督クリス・パッタンが見た“「1国2制度」の危機”についてのエッセイを紹介する。50年続くはずのそのアイディアは、鄧小平の「水際だったが想像力による」と彼は褒めているが、それを否定する習近平への批判は厳しい。香港との約束を守らない国をだれが信用できるのか、これは中国の夢へ暗雲をもたらすだろう、と痛烈だ。
“呑みこまれる香港”では、香港人が中国化される恐れを書いた。たとえば、1997年に香港のGDPが中国の18,4あったのが、昨年は2,7%である。返還時、香港の株式市場への中国企業参入率は1,51%だが、いまや67%だ。その上、北京の共産党独裁の政治的圧力は強まっている。
“議会占拠の衝撃”では、なぜ香港の若者は怒り、惨めなのかを『南華早報』と『ニューヨーク・タイムズ』の取材を基に書いた。香港の貧富の差は拡大しジニ係数で最高値の0,539である。一人当たりの平均居住空間は4,45平方メートルだ。大学を出ても将来がない層が出現している。
香港市民が中国への決定的な不信感を持ったのは、”香港の消えた書店主“事件だった。この事件を追った『ニューヨーク・タイムズ』のアレックス・パルマ―記者は、迫真の長編ルポを書いたが、ここではその抄訳を紹介する。これが中国の司法制度の実態だ。
中国はなぜこのような行動をとるのか。その背景にあるのは漢民族主義だ。漢民族と国籍は一体化している。何世代も前に、外国へ移住した漢民族の一家のことを、中国政府と国民は自分の身内だと考えている。しかし、香港の若い世代で自分を中国人と思っている人は3%しかいない。“漢民族主義と香港人”で論じている。
最後に、“デニス・ホーの果敢な戦い”では、香港の人気歌手の中国を相手にした戦いを紹介しよう。雨傘運動に参加して以来、彼女は中国本土のビジネスから徹底的に締めだされている。なぜ、彼女が香港人のために「自由の戦い」を続けるのか。このことを探ってみた。彼女の優れた10分演説を添付したのでどうぞ。
「1国2制度」の危機
香港最後の総督 クリス・パッテン James Yuanxin Li
クリス・パッテンは英国最後の総督(1992-97)と呼ばれた男だ。英国が中国に香港を返還する交渉を担当し、香港基本法をまとめるのに功績があった。BBCのインタビューで、彼は「『逃亡犯条例』阻止が香港の自由の最後の戦いだ」と言っている。そのパッテンが6月14日に英『ガーディアン紙』に寄稿している。書かれた日は100万人の抗議デモの後で16日の200万人のデモが始まっていないときだ。林鄭月娥行政長官が条例案の審議を中断したのは15日だった。
寄稿の中で、基本法の精神である「1国2制度」のアイディアは、鄧小平の「水ぎわだった想像力の賜物だった」と言って賞賛している。鄧は「中国は今後50年間、香港の政治体制を変更しない」と確約し、香港の法の支配、言論の自由を保障、高度な自治に同意し、中国は外交、防衛に関して主権を取り戻すという役割分担だった。
基本法の制定に参加した香港人のマーティン・李は、「鄧小平は50年で片付かねば、あと50年延長してもよい」と言っていたという。
パッタンは現在の「1国2制度」の実態を次のように描く。
英国が香港を去って10年間は、多少のことはあったがうまく行っていた。中国は国連の国際条約になっている中英共同宣言の文言を守り、2047年までそのままで続くと思っていた。その後2011年、中国の示唆で香港政庁は愛国教育を強化する法案を出そうとしたが、これは洗脳教育だと考えた学生による猛烈な抗議運動にあい挫折している。
その後、二つのことが起こった。習近平が党総書記、国家主席になり、鄧小平の多くの政策を逆行させ、中央支配を強化して中国国内の反対派の弾圧を強めた。習近平は、行政長官を自由選挙で選出する「雨傘運動」の要求を阻止し、北京の合意を条件にした選出方法を押し付けた。それ以来、事態は悪化をたどっている。
雨傘運動から5年、運動のリーダーは弾圧され、“誤った見解”を持つ人々は政治活動を禁じられている。メディアと大学の言論の自由は少しずつ削られ、北京は香港で暮らす人々を誘拐して本土へ連行している。しだいに浸食される香港の自由を守るために、人々は「逃亡犯条例」に反対しているのだ。
このように、中国が要求する「逃亡犯条例」は「1国2制度」の原則を崩すものだ。香港返還にあたって英国政府が主張したのは、外相、マルコム・リフカインドの次のような声明だー「『逃亡犯条例』の制定は、協定を結ぶ相手国の法制度、罰則、人権の基準が受け入れ可能な場合に限る」。90年代においても現在においても、中国はこの原則のレベルに達していない。
林鄭行政長官は法案の投票を延期して、コミュニティの代表と協議すべきだ。北京がプロパガンダと市民外交の違いを認識できることを望む。北京は独立派のことを懸念しているかも知れないが、わたしも民主派の人々の多数も独立に反対している。
そして、以下の結びの言葉でこの寄稿をしめている。
中国の未来は世界の信頼にかかっている。もし、中国が香港との約束を破るようなら、他のことで、世界はこの国を信用することが出来るだろうか。現在のように、個人の人権を信じない新興スーパーパワーが出現している時代に、このことを期待するのは難しいことかもしれない。しかし、これは中国の夢の未来にかかわる暗雲でもある。
呑みこまれる香港
日経新聞が“香港デモ1か月,噴き出す不満のワケ”という記事を7月9日に掲載した。その記事のなかに“中国化への不安、政治も経済も”の見出しで、返還から22年間で中国の存在感が拡大したことを図解している。
まずは中国GDPと香港GDPの比較がある。1997年の中国GDPは9650億ドルで、2018年には13兆4470億ドルだから約14倍の成長、それに比べて香港GDPは同年の比較で1770億ドルから3630億ドルで2倍強である。1997年に香港GDPは中国GDPの18.41%もあったのが、2018年には2.7%に下落している。また香港に上場する企業の中国企業の割合は、同期間で1.5%から67%で圧倒的な伸び率だ。さらに中国本土から香港を訪れる観光客数は240万人から5200万人に大拡大している。
この圧倒的な中国経済の飛躍に、香港の人々は、このままでは「中国に呑みこまれてしまう」という不安に駆られている。そのうえ、習近平の「1国2制度」政策の無視だから始末が悪い。1997年当時は、香港の人々は、中国は民主主義へ向かうという希望を抱いていた。中国の経済成長が続けば民主主義を望む中間層が増えると期待していた。
しかし、中国の高度成長は貧富の差を拡大し、共産党と結び付いた特権富裕層を生み出した。彼らは香港で株式や為替市場で巨利を稼いだ。その結果、「1国2制度」は中国の特権富裕層にとっても格好の安全地帯となった。しかし今年1月、共産党指導者の資金運用をしていた中国人が本土へ連行される事件が起きた。習近平が腐敗の取り締りを始めた結果、中国富裕層のための「1国2制度」は消えてしまった。ここでも、共産党がすべてを支配する、という習近平の独裁哲学が優先したようだ。
議会占拠の衝撃
議会に乱入した急進派学生 Wikipedia
『南華早 報』の国際版のSouth China Morning Postは7月12日に、“なぜ香港の若者は怒り、惨めなのか”という長い記事を掲載している。立法議会の窓ガラスを破り、議場に侵入した若者は、3代の行政長官の肖像画を破壊し「香港はまだ中国ではない」、「自由」などの文字を壁面にスプレーで吹き込んだ。議長席には英国旗を置き、その後ろにある中国と香港の関係を称えるタブレットの中国名は消されていた。これまでにない抗議行動の過激化である。
事件の3日後に、ある社会調査機関が「なぜ、高い代償を払ってこの反法案運動をやっているのか」と議会侵入をした人々に聞いた。最も賛同を得たのは「大人は仕事のこと住居のことなどいろいろな計算をする。われわれには、正しいか誤っているかの判断基準しかない」。支持を得たもう一つの答えは、彼らが生まれた環境への猛烈な不満だった。それは「労働環境の悪さ、住むところなし、民主主義なしで、他の国では普通なのに香港にはない」だった。
事件から2日後、捨身の若者に同情を寄せる母親の会がデモをした。彼らの主張は「若者はなにも悪いことをやっていない。彼らはわれわれが敢えてやらないことをやっただけだ」。また、「香港人は感謝すべきだ」と3人の息子がいる64歳の男性が言っていた。
5.58平方メートルのミニアパート Tyrone Su Reuter
香港の住宅価格は世界的記録を出すほど破格に高く、貧富の差も広がっている。2016年には所得分配の不平等の指標であるジニ係数が45年間で最高値の0.539となった。筆者は香港人の住宅事情について報道したTV番組(BBCなど)をみたが、一般市民の暮らすスペースの狭さに仰天した。
『ニューヨーク・タイムズ』(2019年7 月22日)が香港の人々の住居の狭さと生活の苦しさを描いている。21万人が暮す違法の分割アパートの平均居住空間は4.45平方メートルで、人々は「棺桶」と呼ぶ。香港人全体の平均居住空間は15平方メートルだ。パリの平均が36平方メートルだから半分以下だ。家賃は、ニューヨークやロンドンの半分の広さで、それより高い。住民の5人に1人は貧困層で、最低賃金は4.82ドルで、世界で最も貧富の差がある都市なのである。
アパートを購入するには、年収の20年分がかかる。バンクーバーは年収の13倍、ロンドンは8倍、ニューヨークは5倍だから、これも平均的市民にとっては高嶺の花だ。だから、若い世代で両親と同居しているのは珍しいことではない。
国立病院で働く27歳の看護師のフィリップ・チャンは両親のアパートに妹と同居している。「北京はなにも保障していない。例えば、言論の自由だ。フェースブックなしで暮らしていけるのか」と将来への不安を語る。
「逃亡犯条例」デモに参加しているケネス・梁は大卒で55歳の警備員である。彼は「教育があれば、収入もよいと思ったものだ。しかし過去20年はそうはならなかった」と言う。彼は週6日、毎日12時間、時給5.75ドルで働いているが、9平方メートルの部屋代を払うのがやっとのこともあるという。異常に長い労働時間で働く彼は、部屋の狭さを「最悪だ」と嘆いている。
香港当局も安い公共アパートを建設して賃貸しているが、とうてい需要には間に合わない。昨年の夏、当局はある団体からゴルフ場を住宅アパート建設用に提供してはどうかとの提案を受けた。対象はゴルフ会員2,600人のための54コースのゴルフ場であった。話がまとまれば、3万6,000人の住宅地になるところだったが、当局は5分の1の土地を提供することに決定した。
ともあれ、政治スローガンを掲げてデモをしている人々、とくに若い層は、住宅事情に苦しみ、希望を失い、香港政府が自分たちのためではなく、大手開発業者、大手企業、北京のために働いていると思っているようだ。
”香港の消えた書店主“
誘拐された林栄基は中国の司法制度の実態を暴いた Sim Chi Yin The New York Times
香港市民が中国への決定的な不信感を持ったのは、2015年に起こった書店主とその同僚4人の誘拐事件だった。言論の自由のある香港の出版業者は、本土では禁書になっている本を刊行し売っていたのだが、中国側が関係者を誘拐し本土で監禁し圧力をかけ、香港の禁書ビジネスを壊滅させたのだ。以下は、『ニューヨーク・タイムズ』(2018年4月13日)のアレックス・パルマー記者が書いた、長編ルポ“香港の消えた書店主”の抄訳である。香港の人々にかつてない衝撃を与えた、中国の司法制度の実態を紹介しよう。
警官が笑わなかったとき、林栄基はトラブルに巻き込まれたことを知った。過去20年、香港の銅鐸湾書店主である林は、中国本土に密輸入するのが発覚したとき、いつも無頓着を装い、まったく知らなかった、申し訳ないと詫びをいれ、警官たちにタバコを振る舞い、冗談を言って一件落着となるパターンで切り抜けてきた。
その日、林は政治スリラー、煽情、暴力小説、歴史シリーズ本など雑多な本を運んでいた。長い間、本の中には中国中央宣伝部が禁制品にしているものもあったが、それまで当局はとやかく言うことはなかった。深圳(しんせん)から30キロの林の小さな書店は繁盛していた。 薬局と高級下着店に挟まれた書店に、本土からのツーリストが詰めかけた。中には共産党員がお忍びで、党内の粛清、権力争い、クーデターの情報を求めてやって来た。これらの内容はいずれも党の歴史から消えているものだった。林は禁制品のセンセーショナリズムとスキャンダルを区別して、噂と真実の違いを見極めようとしていた。
他の書店主は本土でビジネスをするのを避けていたが、林は検閲が少ない場所を選んで中国へ入っていた。2012年にただ一度だけひっかかったことがある。6時間にわたる友好的な尋問のあとに、注意を受け釈放された。
2015年10 月24日、林の人生が逆転した。彼は香港と本土の間にある税関に入ると突然、別室に同行を求められた。ドアを開けると30人の警官が彼を取り囲み、そのままバンに乗せられ警察署で取り調べがはじまった。林は、二人の刑事のひとりは3年前、同じ場所で6時間の尋問を受けた李であることに気付いた。李の隣にいた国家警察に属する年配の男が質問を浴びせかけた。
途中で、年配の男が中座すると、林と李ふたりだけになった。気まずい空気を破るように、林が3年前のことを思い出して冗談を言った。すると、李は感情を爆発させ「おまえは中国の制度を妨害している、自分は特別捜査班のひとりで、香港の違法出版を壊滅するのが、私の役目だ」と言った。林はショックを受け言葉を失った。
その日から8か月、林は、国境を越えて中国批判をする者とその協力者を黙らせる、手段を選ばない中国当局の、犠牲者のひとりとなった。この国内外の中国批判封じ込めのキャンペーンは、北京の権力の新時代と歩調を合わすものであつた。
2017年10月、全国代表大会で習近平は共産党の役割について「党は国家のすべての場所で、あらゆる分野においてリーダーシップを行使する」と宣言した。数か月後、政府は主席の任期を廃して、習近平が終身でトップを務めることになり、同時に、中国中央宣伝部がすべての印刷メディアを監督することになった。
北京の警察署で取り調べを受けた翌朝、林は目隠しと手錠をされて13時間の旅をした。彼は知らない町で、罪状を知らないまま拘束されたのだった。次の日の朝、独房で彼は自分が香港から消えたことを知っている人がいるのだろうか。家族はどう思っているのだろうか。先妻も深圳のガール・フレンドも、なにも知らないのではないかと思った。
中国の禁書本が香港から消えた Wikipedia
林は何年も独立の書店を経営していた。2012年に小さな出版社に経営権を売り渡したが、社名も社長と経理もそのままだった。巨流傳媒公司が禁書市場に参入したタイミングは絶妙だった。その頃、野心溢れる中央委員で重慶市のトップ薄煕来が、習近平に対抗する次期主席候補と噂され始めていた。しかし、薄煕来が、彼の妻の英国人ビジネスマン、ネイル・へイウッド殺害容疑に関与したことで、裁判が始まり事態は逆転した。2年後、妻は殺人罪で薄煕来は腐敗の罪で問われ党籍を剥奪された。世界が見守る中で、未来の主席候補は没落したのである。
林の書店にとって、薄煕来の没落は中国の権力闘争の内情を明らかにする絶好の機会であった。薄に関する情報が最高潮に達したとき、銅鐸湾書店はスキャンダル本をあらゆる角度から取り上げ販売した。香港全体で100冊の単行本がでたが、その半分は同書店からでている。書店は大いに潤い、共同経営者の桂民海(グイミンハイ)は2013年だけでも、100万ドルの収入があったと言われる。夜が明けると、林は陰気な男、高から尋問を受けた。林の顧客は誰か?彼らはどんな本を買うのか?どれぐらいの頻度でやってくるのか?これが何週間も続いた。2016年1月、拘留が2月以上も続いたあと、林は“本の不法販売”で起訴されていると、通知された。
そして、取り調べの対象は巨流傳媒の正体不明の作家になった。『習近平と愛人たち』、『党の七つのタブー』(言論の自由、司法の独立など)、『徐才厚』(収賄の疑いで習近平から党籍剥奪された軍人)は「誰が書いたのだ」と高は林に尋ねた。林は「自分は本屋で知らない」と答えた。事実、作家が誰であるかの秘密は出版社もほとんど知らない。突然、林の取り調べは終わり、独房で一人の生活が始まった。「一日中、誰とも口をきかない日が長く続き、彼らは私を破壊しようとしている」と思ったという。
2016年1月、林は知らなかったが、彼の失踪は噂になり、巨流傳媒の他の社員とオーナー4人も消えていなくなっていた。しかし、独房の林は自分だけのことだと思っていた。逮捕から数か月後、その年の3月、取調官から一定の条件で罪を認めれば、出獄できるかも知れないと言われ、林はサインをした。すると数時間後、彼は深圳行きの汽車に乗せられ、到着すると高級ホテル、キリン・ヴィラが宿泊先であった。翌日の夜、林が瀟洒なダイニング・ルームに行くと、おどろいたことに巨流傳媒の3人の同僚が待ち受けていた。
3台の監視カメラがすべての会話を記録しているので、消えた共同経営者スウェーデン国籍の桂民海の運命については触れられなかった。食事が進むうちに林と他の二人は中国南東部の都市、寧波市にある同じ刑務所で取り調べを受けていたことがわかった。もうひとりの出資者、李波は寧波市の郊外で尋問を受けていた。林は李がその席で「協力すれば、すぐにでも釈放される」と言っていたのを記憶している。李は3人の同僚に巨流傳媒を解散する“手切れ金“だと言って10万元(15,300米ドル)を渡した。その時、林はこれで助かる、ラッキーだと思ったという。
林は別の市へ移され、香港へ戻る条件を提示される。香港へ帰りしだい警察へ出頭しすべては誤解だったと言い、すぐに李波の家に行きコンピュ―タを開け、発行人の顧客リストと作家リストを中国側に渡すというものだった。それにもうひとつ、書店を続けるにあたって、中国のスパイとして顧客リストの詳細を明記して渡すということもあった。林はそれらの条件に直ちに同意した。「あんなに長い間、監獄にいて、彼らの考えかたになってしまっていた」と林は言っている。
閉鎖された銅鐸湾書店を訪れた林栄基 Sim Chi Yin ? The New York Times
6月の朝、香港に到着した林は警察署で危険は一切なかったとの報告を済ませ、直ちにPCを受け取りに李波の家に向かった。そこで、やっと二人は自由に話せるようになった。林の書店は陳と言う男が買い、すぐに閉店したという。李は自身についても、巨流傳媒の駐車場で誘拐されたと話したが、中国側の要求どおりにしろと言った。
その夜、ホテルの部屋で林は中国当局との約束を破り、携帯電話で事件のことを調べはじめた。ニュースを追う林は仰天した。英語、広東語、マンダリン、フランス語、スペイン語で事件のことが溢れていた。自分のこと、巨流傳媒の同僚のことが繰り返し書かれてあった。香港が林の誘拐の実態を知り、市民の間で恐怖と怒りが燃え上がっていた。見出しは“かつてない誘拐”、香港の“消えつつある自由”とあった。何千人もの人々が“消えた書店のスタッフ”の釈放を求めてデモをする写真があった。林は忘れ去られるどころか、話題の中心人物になっていた。
翌朝、林は当局との約束で中国へ戻ることになっていた。バックパックにコンピュータを入れて彼は駅についた。タバコの火をつけた。続けてもう一本吸った。巨流傳媒の仲間は中国に家族がいる。林は「気軽なのは自分じゃないか」と思った。そして、若い頃読んだ香港の愛国詩人、舒巷城の知識人の覚悟を謳った詩を思い出した。
三本目のタバコを吸い終わり、林は公衆電話でかつての顧客で政治家の何俊仁に連絡した。数時間後、彼は香港立法議会の記者会見室で数百人の記者、写真家、TVカメラの前に立ち、1時間以上、逮捕と拘禁の体験について語った。この会見で、香港が恐れ疑っていたことが明らかになった。「あなたにも起こるかも知れない」と林は言った。
林が誘拐された時、禁制品の本は香港の巨大スーパー、コーヒー店、コンビニで売られ、街中に溢れていた。しかし、彼が失踪すると独立書店が恐れて配本を中止して、中国系のスーパーをはじめとして禁制品が消えてしまった。作家は沈黙を強いられ、新聞は微妙な問題には触れない。巨流傳媒のオーナー桂民海は、一時はタイで誘拐され釈放された。中国内の旅行は自由とされていたのに、今年の1月(2018年)、スウェーデン外交官に伴われて北京行きの列車に乗っているのを再び誘拐された。スウェーデン政府がこの件を問いただすと、中国は誘拐を否定した。桂は間もなくTV収録ビデオで自分の犯罪を告白し詫び、スウェーデン外交官から汽車に乗るよう言われ騙されたと言った。
最近、林に会ったとき、彼は台湾かアメリカへ行くことを考えたが、香港は生まれ故郷だし止めたと言っていた。そのとき彼は香港の将来について「いずれ香港は中国のものになるだろう。なにせ、彼らは武器と監獄をもっているからね」と言っていた。
2018年4月13日記 アレックス・パルマー
(註: しかし、2019年4月、林は「逃亡罪条例」の成立が近いことを知り、台湾へ緊急避難の“亡命”をした)
漢民族主義と香港人
中国大使ロック、盲目の陳光の手をとる Wikipedia
2015年、中国本土のエージェントの手で香港とタイから誘拐された5人の書店関係者のうち、2人は外国籍である。マネージャーの李波は英国のパスポート、タイの保養地で誘拐された桂民海はスウェーデンのパスポートを所持していた。両国の大使館は二人に接触することを数週間も否定されていた。中国はその理由を二人は本質的に“中国人”だからだという。これが香港だけでなく、世界の他の場所に及ぼす影響は大きい。
漢民族主義は中国国家のアイデンティティである。漢民族と国籍は一体化していると言ってよい。何世代も前に、外国へ移住した漢民族の一家のことを、中国政府と国民は自分の身内だと考えている。だから、外国との関係が緊張する原因になる。
この緊張が公式の場で大っぴらになったのは、オバマ政権が任命したゲリー・ロック駐中大使の場合だった。先祖が広東州の中国人のロックは、ワシントン州の知事を2期つとめ、そのあとオバマの商務長官だった。2011年、彼が北京に赴任したとき、中国の大使では誰もやらない、飛行場でスターバックスのコーヒーを自分で買うことが話題になった。さらに、彼の気取らないバックパック姿に中国人はおどろき人気大使となった。
ところが、彼が赴任中に起こった盲目の人権活動家、陳光誠のアメリカ亡命に直接関与したので関係が悪化した。2012年、ロックは陳が山東省の田舎から必死で逃れてきたのを、人権尊重の立場で本気になって助けたのだ。最終的に当時北京を訪問していた国務長官ヒラリー・クリントンの中国指導部との話合いで亡命が容認されたのだが、空港で陳の手をにぎるロックの姿を見た中国人の中には、彼を裏切り者と思った人もいた。先祖がおなじなのに、政府の方針と違うではないかと。
2013年11月、大使としては短い2年半の赴任期間を終え、ロックはワシントンでお別れ記者会見をした。彼はそこで、自分の仕事で最も誇りに思うのは、中国人のビジネスマンなどへのビザ発行を、最大100日から3-5日にしたことだと言った。また、「中国は中立の司法制度、有能な弁護士集団、賢明なリーダーシップ、なにより法の支配を必要としている」と言い、ウィグル、チベットの反体制指導者の会合にも言及している。
同日、それに反発した中国の国営ラジオ局は「ロックは黄色い皮膚の白い心のバナナ男だ」と侮辱していた。それに対する記者会見中のロックの答えは「わたしはアメリカ人だ。この国の偉大な価値観を誇りにしている」であった。アメリカの理念と中国の漢民族優先の次元の違う対立である。
『ニューヨーカー』誌の記者に中国系アメリカ人のヤーヤン・ファンがいる。筆者が注目している中国専門家だ。以下は、彼女が2014年の雨傘運動以来のレジスタンス運動の先頭にたって戦う歌手デニス・ホー(何韻詩)から聞いた話である。
「香港は同じ子宮のこどもである」―これは北京の人々が大好きな言葉だ。親孝行を大事にする文化圏において、政治的忠誠につながる言葉である。中国のソーシャル・メディアでは共産党は寛大な母親だと思われている。事情があって香港に養子をだしたが、こどもは甘やかされて恩知らずに育ってしまった。
それを、共産党は温かく見守っている、という見方だ(中国本土では反「逃亡罪条例」デモのことはブロックされている)。 中国版ツイッター、ウェイボーで29歳の男は「香港人は民族的プライドがない。わが国は彼らをスポイルしてしまった。香港は彼らに任すとしたのは最大の誤りだった。香港の大学を管理することから始めよう」と言っている。
最近、『人民日報』の系列である『環境時報』の胡錫進編集長もまた子宮論に賛成のコラムを書いた。香港は長年、英国と西洋の養子であった。こどもが生物学的に本当の両親のもとに戻ってきたとき、養子の両親はどうすればよいのか。「もし彼らがこどもを愛しているのなら、本当の両親と話し合い、新しい環境に馴染むことを勧めるべきだ。介入はだめだ。本土と香港の運命はひとつだ。体でいうと、香港は本土の肉体の一部である。」
ところが大多数の香港の人々は“漢民族はひとつ”の考えを拒否している。とくに若い層になると、彼らは香港人で中国人ではないと思っている。香港大学が行った今年1月の世論調査によると、自分は中国人と思っている人が11%で、71%が中国市民であることを誇りに思っていない。18-29歳の若い層では、わずか3%しか自分は中国人としか考えていない。この層の共産党嫌いは圧倒的だ。ちなみに2000年以降で、自分は中国人と答えるのが一番高かったのは2009年で、一般市民で40%弱、若者層で30%である。リーマン・ショックでアメリカ経済が大打撃を受けたのに中国経済は順調に成長路線を続けたことへの誇りが要因であろう。
その後、中国人気は下がり続けて現状に至っている。その理由は習近平の登場による国内言論統制の強化である。例えば、2013年に決められた大学で教えてはならないこと7つがある。これは、「人類の普遍的価値」「報道の自由」「公民社会」「公民の権利」「共産党の歴史的誤り」「特権資産階級」「司法の独立」である。香港人はこれらをデモクラシーの基本的権利であると教わっているから、香港人のアイデンティティになるのは当然だろう。
雨傘運動の黄之鋒(ジョシュア・ウォン)は、ヤーヤン・ファンとのインタビューで「アイデンティティと言う意味で、われわれの両親は中国人そのものだった。だが、われわれには中国人意識はない。なぜなら、共産党への忠誠心がないからだ」と言っている。そして、もうひとりの羅冠聡(ネイサン・ロー)は「われわれが感じているように香港人は感じている。かつてないことだ」と付けくわえた。
香港の看板は漢字、歩いている人は中国人、食べ物も中華料理だから大陸の都市と変わらない。しかし、良く見るとビクトリア朝のゴシック建築、通りの名はチャンセリィ・レーン、ブリストル・アベニュー、フェンウィク・ストリートである。人名もアーサー、ヘンリー、ジョンだ。
英国はアヘン戦争で勝って以来、香港を植民地として経営してきた。自由経済、自由なプレス、議会、独立の裁判、株式市場などを組織してきたが、香港人はその中で育ってきた。義務教育で広東語と英語が国語となっているから、バイリンガルが基本である。その環境で育ってきた人々の世界認識は、中国本土の情報管理体制のそれとは根本的に違っている。香港人は英語がうまい。すでに触れた民主主義の父、マーティン・李から歌手のデニス・ホーまでその英語力は抜群だ。雨傘運動を率いたジョシュア・ウォン(黄之鋒)などの学生の英語もうまい。
香港の人々は広東語で北京はマンダリンで、発音の違いはフランス語とイタリア語の違いがあるといわれている。『ニューヨーカー』誌のヤーヤン・ファンが香港を訪れて体験した、この言語ギャップのことを書いている。マンダリンしか話さない彼女がタクシーに乗ると、大抵の場合、運転手がよそよそしいことに気がついた。その理由は、本土の中国人は安全ベルトをしないので、注意をするのがうんざりだということだった。マンダリンでなんでも通じると思っている中国人は何者だ、ということだろう。
デニス・ホーの果敢な戦い
中国に挑むデニス・ホー イラストTyler Comnie 写真 Fisher Jing-Ping Yu The New Yorker
ホーは雨傘運動があるまで、香港の歌手で映画にも出演する人気者だった。両親は二人とも教師で、1977年に彼女は香港で生まれた。1988年、彼女が11歳のとき家族はカナダのモントリオールへ移住した。移住の理由は「中国への恐れがあったのではないか」とホ―は回想している
少女時代の彼女は東洋のマドンナと呼ばれたアニタ・ムイ(梅艷芳)に夢中になる。歌手で俳優の彼女にファンレターを毎週書き、ムイの曲を暗記し演奏をするようになった。1996年、彼女が審査委員だった香港の新人登竜門「新秀歌謡大賞」に、ホーは応募して見事に優勝する。香港で歌手として出発しようと決心した彼女は、両親と兄とともに故郷に舞い戻った。のちにモントリオールで学んだことは「わたしの価値観、独立心、原則、反逆心のルーツだ」とあるインタビューで言っている。
香港の最大手局TVBでのホ―の出だしは芳しくなかった。TV番組のホステス、シリーズものの端役などをやっていたある日、歌を唄えと言われた。それはこどもの漫画番組のためのもので、彼女は怒り“ハードロック調”で歌った。それが、意外に当たったのだ。激励されたホーはデモテープをムイに送ったら、彼女はそれを気に入り実習生にしてくれた。
ムイのソングライター、彼女の番組に出演することで、ホーのプロフィールが上がって行った。そして、ホーは恐れを知らないボスの生き方から学んだようだ。ムイは苦労人で熱心な民主派の支持者だった。天安門広場の弾圧から逃れる人々を救うための秘密ルートへの資金を提供していた。しかし、2003年、ムイは40歳でガンで亡くなった。国民的英雄を失った香港人の悲しみは深かった。
この悲劇から立ち直ったホーは、大手レコード会社から次々と広東ポップの作品をだし、いくつもの賞を獲得し、香港のミュージック界で最も有名な一人になった。2008年年、ホーは自分のスタジオを持つ。その年、まだタブーであった精神病をテーマに“てんやわんやの10日間”を唄った。中国マーケットでの初アルバムの中に反体制派の作家、劉暁波に捧げる“シベリアのウインタ―・スウィート”を入れている。
2014年にホーは雨傘運動に参加した。警官の催涙弾へ対抗するための雨傘によるレジスタンスは世界の注目する事件となった。学生が中心となって北京のお膳立てで選ばれる行政長官を、自由選挙で選べという要求を掲げての79日間の運動であった。
ホーの勇敢な行動は彼女の政治的確信からきている。2012年、彼女は女性スターとしてゲイであることを公にした。これは文化的に保守的社会において、誰もやったことがないことだった。そして、雨傘運動のデモを見に行ったホーは、学生たちの香港の自治を守るための真摯な態度にうたれ抗議行動に参加した。座り込み中にホーと仲間の歌手は 運動の象徴歌になった“雨傘を揚げよ”を唄って参加者を励ました。そして、失敗となる抵抗が終わる日に、ホーが逮捕される姿をビデオで見ると、この運動が長く続くことを暗示している。
北京の報復は徹底的だった。中国では新人スターであった彼女の収入源(中国公演100回)はたちどころに消えた。その頃のホーの収入の80%は大陸からであった。中国の国営放送は彼女を”好ましからざる人物”のレッテルを貼り、他のメディアは“香港の毒”と呼ぶ。それ以来、彼女の曲はインターネットから消え、名前はソーシャル・メディアから抹殺された。
人気抜群のホーの広東ポップ Wikipedia
その後の彼女の生き方は、ヤーヤン・ファンが言う「北京が香港の自由を切り崩そうとするとき、彼女は香港の象徴となり、追い詰められると、勇気を持って、戦いに挑む存在となった」
ホーはあるインタビューで、北京の反応をどう受け取ったかと、尋ねられたことがある。彼女は「皆はホーはこれでおしまいだ、と思ったようだ」と言い、大変だったことを認めている。2016年、フランスの大手化粧品会社ランコムが北京の圧力に負けて、香港大スタジアムでシリーズ公演のキャンセルを言ってきた。ボーは「これは自分の信条に反する」と思いキャンペーンで対抗した。
その結果、300のローカル会社の支援を受け、5万枚の切符を数時間のうちに売ってしまった。北京の圧力に屈して、ホーのコンサートを中止したランコムの“叩頭”ビジネスに怒ったファンが、街中の販売店にデモをしたので、社は一時閉店を余儀なくされた。彼女のファンの忠誠心が本物だったのだ。それ以来、彼女は自分の会社をつくって公演を続けている。
ホーは2016年のBBCが選ぶ100人の女性のひとりになった。選択の理由をBBCは、広東ポップの象徴で民主派の運動家である彼女の「歯に衣を着せない批判をファンは称賛し、それは中国共産党の怒りを買った」と言っている。そして、BBCは彼女の「他にチョイスがないと言うなかれ。誰にもチョイスがある」との言葉を引用している。
スイスのジュネーブで開かれた国連人権理事会にホーが出席した。7月19日のことである。わずか2分間の演説だったが、迫力があった。この短い演説中に2度も中国代表から抗議がでて中断された。「内容が国連憲章に違反」、「1国2制度について侮辱的発言」で退場を要請したが、議長は聞かず演説は続行した。筆者にはいやがらせであるように聞こえた。日本語で翻訳入りのサイトが利用できるhttps://www.youtube.com/watch?v=1cCnD6ot_mUので演説内容の詳細にはふれないが、彼女は最後に爆弾宣言をしている。国連は香港の人々を守るために、中国共産党による人権の蹂躙を理由に、「国連人権理事会から中国を除外することを求めた」のである。直球の要請であると筆者は思った。
その2月前の5月、ホーはオスロ・フリーダム・フォーラムに招かれて話と曲を披露した。この組織は10年前に設立された、ニューヨークに本部がある世界的に有名な人権団体である。今年の5月ホーはそこで、香港の状況と自分の役割を10分で話した。素晴らしい出来であった。https://www.youtube.com/watch?v=KXeqW22YaaAは彼女の人となりを理解する格好のスピーチだった。
なかでも筆者の印象に乗ったのは、雨傘運動を体験し「自分たちは英国人でもなく、中国人でもなく、香港人であることを知った」と言う点だった。この香港人アイデンティティは学生が共通にもっているもので、今の困難な状況のなかでレジスタンスをする原動力になっている。
ホーはそのあとでギターを抱えて自作のノルウェーの歌を唄う。歌詞は“何も見えない”北欧の極夜の暗闇からはじまる。前半は“すべてのものを失った” 者の冬の物語だ。後半は一筋の陽光に希望を見出し、やがて“雪が解ける”時代がやってくるという春の物語だ。“われわれは再び立ち上がることが出来る。その時、太陽の下でわれわれのやることを記録しよう”で歌を終えている。
ホーの唄は香港の人々が心の中で夢見ていることだ。このエッセイで香港人が直面する極めて困難な問題に触れたが、筆者はホーの勇気と不屈の精神に感動し励まされた。
香港空港が若い抗議者の抵抗で閉鎖 8月12日 New York Post
しかし、情勢は激しく動いている。民主派の「逃亡犯条例」の完全撤廃、警察の暴力行為を調べる独立調査委員会の設置などの要求を、林鄭行政長官はかたくなに拒み続けている。それに怒った民主派の抵抗はエスカレートし、林鄭には警察の力でレジスタンス勢力を抑え込むしか手段がないようだ。事態の鎮静化の兆しは見えない。
国際情勢を眺めて見ると、香港の民主化を応援する立場にある英国は、EUからの離脱問題で振り回されそれどころではない。日本は安部首相が大阪G20サミットで、習近平主席に「香港は自由な繁栄が重要」と伝えたが、それ以上のことはやっていないようだ。トランプ大統領は8月14日に「香港問題に人道的対処を」とツイッターで習主席に呼びかけ、中国の力による介入をけん制しただけだ。英米日は香港の人々のために共通の価値観を守る支援をすべきだろう。
不吉なことは、北京が抗議行動を「テロに近い」と8月13日に断定したことだ。そして、状況はソ連が崩壊する前に起こった「カラー革命(花や色が反ソ革命の象徴)に似てきた」とも言っている。その上で、香港の人民解放軍の投入の可能性をも示唆している。しかし、軍の導入は北京の評判を限りなく落とす最後の手段だから、いまのところ恫喝だと考えたほうがよい。
しかし、民主派と北京が妥協せずに自己の主張を固執すれば衝突しかない。事態が悪化した場合は、林鄭行政長官による徹底的な民主派の弾圧が行われるのではなかろうか。警察による大量の民主派の逮捕、親民主派ビジネスや大学への圧力だ。
香港の民主主義運動の父と呼ばれるマーティン・李は「われわれは岐路に直面している。香港の未来、すなわち香港の民主主義は、次の数か月になにが起こるかにかかっている」と言う。筆者は彼のかつての言葉「われわれが戦い続けるなら、困難な状況であろうとも、チャンスがある。わたしは民主主義を信じている。この制度は香港だけでなく、中国を含めるすべての国にとって良い制度だ」を確信している。万感の思いを込めて、香港の民主派の人々に賢明な反撃を続けてほしいと願っている。
参考文献 筆者はこの記事を書くにあたって。以下のエッセイのお世話になりました。“Denise Ho Confronts Hong Kong’s New Political Reality” Jiayang Fan 2019・1・21 The New Yorker, “The Case of Hong Kong’s Missing Booksellers” Alex W. Palmer 2018・4・3 The New York Times Magazine、“Tiny Apartments and Punishing Work Hours: The Economic Roots of Hong Kong’s Protests” Alexandra Stevenson andJin Wu 2019・7・22 The New York Times、“Protests Put Hong Kong on Collision Course With China’s Communist Party” Javier C. Hernandez and Amy Qin 2019・8・12 The New York Times
【フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39】
著者プロフィール 土野繁樹(ひじの・しげき) ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。
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