歴史探訪 その13 毛沢東の実像
筆者の中国現代史の師匠は米国コルビー大学の先輩ジョン・ロドリック(1914-2009)さんだった。ジョンはAP通信のナンバーワンの中国通として、40年間、洞察に満ちた記事を世界に送り続けた。彼は延安時代の革命指導者をよく知る数少ない記者だった。ジョンは延安に二度、あわせて7か月(1945-7)滞在して、洞穴の町で暮らす毛沢東、周恩来、劉少奇、朱徳、江青などと毎日のように顔を合わせて取材した。
49年に中華人民共和国が樹立されたが、米中は朝鮮戦争で対峙し、その後20年以上にわたって両国間の国交は断絶していた。その間、ジョンは香港と東京からチャイナ・ウォッチを続けた。71年、米中和解の幕開けとなるピンポン外交の際には、彼は米国チームに同行して、熱望していた北京再訪を果たした。人民大会堂のレセプションで、旧知の周恩来は米国メディアを歓迎し「ロドリックさん、あなたがドアを開いた」と演説した。
ジョンの自宅は鎌倉の銭洗弁天近くの、山の上にある大きな合掌造りだった。彼の養子、建築家の滝下嘉弘さんの出身地、福井県の山村の旧家を移築したもので、千客万来だった。ジョンと滝下夫妻に度々食事に招かれ、日本の古美術に囲まれた居間で談笑し、至福のときを過ごしたことを思い出す。ジョンの温かい人柄と抜群のユーモアを思い出すと、懐かしさで胸がいっぱいになる。
中国史の目撃者
ジョン・ロドリック the Sydney Morning Herald
ジョンは晩年、『中国史の目撃者:毛沢東から鄧小平まで』(1994年)を書いた。筆者は英語タイプ原稿を読み、実に面白い回想録だと思い、当時勤めていたTBSブリタニカから出版した。『ワイルド・スワン』の著者、ユン・チャンから「この本は中国に対する深い洞察と愛にあふれている」との帯の推薦の言葉をもらった。のちに、ハーバード大学の入江昭教授(当時)から、「教材(英語版)に使っていました」と聞いて、自分のことにように嬉しかった。以下は、わが師ジョンの貴重な歴史証言である。
日本が降伏して3か月後の45年11月、31歳のAP記者、ジョン・ロドリックはゴビ砂漠に近い陝西省延安の飛行場に着いた。彼の任務は、当時、米国の仲介で行われていた、重慶での国共連合政権の樹立交渉を、共産党側から取材するためであった。飛行場から車で町に入ると、ハチの巣のような横穴住宅の光景にでくわし、彼は度肝を抜かれた。地の果てに来たような感じだったという。
延安は、毛沢東の8万の共産党軍が、圧倒的な軍事力も持つ蒋介石の国民政府軍に追われ1年間、1万キロの壮絶な逃避行を続けて、35年にたどり着いた町だった。この長征で生き残った将兵はわずか4000人だったが、10年後には、中国共産党は蒋介石に対抗する勢力になっていた。
延安に到着した翌日、ロドリックは毛沢東の代理、朱徳総司令官と会った。毛は重慶での蒋介石との一月にわたる交渉で疲れ果て休養中という。この会談には、重慶で彼が毎日のように会っていた周恩来と初対面の葉剣英が参加した。ロドリックは熱いお茶を何度もお代りしながら、彼らから政治情勢の説明を受けた。昼食後、彼は延安のメインストリートをぶらついた。そには、日常品を売るみすぼらしい店が並んでいるだけで、路上には馬やラクダの隊商が行き来していた。
延安には、秘密任務のため留守をしている林彪と鄧小平を除いて、すべての革命指導者がいた。そのなかで、抜きんでていたのは、毛沢東だった。以下は、ロドリックが描く毛沢東の肖像である。
「古い中国のロマンスと冒険譚に胸躍らせた農民の子、土臭い大読書家。教師上がりの実践的革命家、朱徳と並ぶ紅軍創設者。古典的詩人にして京劇愛好者。革命の方向と手段をめぐる説教本シリーズ(毛沢東選集など)の作者。取り巻きに親友らしい親友をもたない孤独な男。権力に餓え、猜疑心強く、お世辞をするどく嗅ぎ分けながら、抗しきれなかった男。それが毛だった」
ロドリックは公的行事では毛に何度も会っていたが、46年2月に入り、長時間の単独インタビューの機会が与えられた。毛は泥壁の平屋建ての玄関で、彼を迎え力強い握手をした。ふっくらした顔にはあの苛酷な長征をやりとげた痕跡はどこにもなく、51歳の男盛りとの印象だった。
彼は、インタビューとその後の夕食を通じて、毛は礼儀正しく、思いやりを見せたが、あたりを払うようなところがあり、長年の友、周恩来、朱徳、劉少奇でさえ彼に遠慮しているようであった、と記している。
ロング・インタビュー
延安のロドリックと毛沢東 1946年 WWP
2時間半の会見の冒頭、毛は、国共連立政権交渉の仲介の労をとるトルーマン米大統領を称賛した。しかし、米国は蒋介石をあまり信用してはいけない、「彼はこれまで,なんども約束を破ってきたからね」と言った。ロドリックは、毛が話しながら、自分の目をのぞきこみ、まるで自分がどんな男かを探っているようで、居心地が悪かった、とも書いている。
毛はその会見で「私はアメリカ革命、ワシントン、ジェファーソンに深い影響を受けた。社会主義はあのようなブルジョア革命を経るべきだ」「マルクス主義に接するまでは、アメリカ民主主義を礼賛していた」と語り、管理された資本主義と社会主義的民主主議が良い、と繰り返し言った。しかし、20年後に同じことを劉少奇と鄧小平が提唱すると、毛は彼らを「走資派」として弾圧したと、ロドリックは皮肉っている。
インタビューの終わり近くで、毛は彼に意外な質問をした。「中国は巨大な農業人口を抱えている。農村ではあらゆる消費財がいるが、配送網がない、答えは通信販売業者ではないだろうか。米国のシアーズ・ローバックやモンゴメリー・ワードは中国ビジネスに関心はあるだろうか」。ロドリックは「彼らは関心があると思う」と答えた。
ロドリックは二度の延安長期滞在中、毛と度々会った。時々、二人は護衛一人連れて、ほこりっぽい通りを散歩した。ある日、彼は歩きながら、10年前に、蔣介石が毛の首に25万ドルの懸賞金をかけ、それがまだ有効なことを思いだし、おかしかったと回想している。毛は彼を数回、京劇に招いた。これは厳しい日々のなかのささやかな息抜きだった。毛と江青、朱徳、劉少奇などの党指導者は最前列に陣取り、ロドリックはそのすぐ後ろの席に座った。舞台の上のいにしえのヒーローとヒロインに皆が夢中になっていた。しかし、見物人のほうが登場人物よりはるかに冒険に満ちた人生を送っているのに、と彼は思ったという。
土曜日の夜には、党の会議ホールで、ダンス・パーティが開かれた。出席するのは高級幹部とその家族に限られていた。小さなバンドがワルツやフォックススロットを演奏するのに合わせて、つぎのあたった綿服の踊り手が床で舞った。46年1月、この恒例のダンス・パーティの席で、ロドリックは毛沢東からソ連の士官学校の制服を着た息子の毛永福を紹介された。
彼らはよくディクシー使節団(米国軍事使節団)の代表部へやってきた。そこのホールで、年代ものの米国映画が上演され、毛、朱、周は常連だった。毛のお気に入りはチャーリー・チャップリンとローレルとハーディの喜劇だった。
江青の復讐
ディクシー使節団の施設内にあったロドリックの洞穴住居は20平方メートルで、木製の固いベッドがあり暖房は小さな火鉢だけであった。洗面器と水差しはあったが、風呂とトイレはなく、凍てつく寒さのなか外に出て用を足した。彼の住居には電球があったが、ほとんどの延安の住民は灯油ランプとローソクだったという。
39年に延安で毛と結ばれた江青はかれの三番目の妻だった。二番目の妻、賀子貞は苛酷な長征の無理がたたって心身ともに病みモスクワで療養中だった。彼女は献身的な党員だったので、党幹部は毛と江青との結婚に反対した。上海で浮名を流した映画俳優の江青は主席のファーストレ・レーディにはふさわしくないとの理由だった。しかし、毛は幹部の反対を押し切り結婚する。
ロドリックが延安で会った頃の彼女は、謙虚さと礼儀正しさを兼ね備えた、控えめを絵にしたような女性であったという。彼は、京劇の上演会場で、空港で、毛主催の夕食会で、江青とよく顔を合わせた。彼女はつつましやかで微笑を浮かべ、毛のそばにいるだけで幸せという風情だった。文化大革命期に地金をあらわすことになる、烈火のような性格を隠していたのだろう。毛と結婚したとき、幹部に「政治には口をださない」と約束させられた恨みを忘れてはいなかった。
ロドリックは、結婚に反対した劉少奇が文革中に、江青の標的になり非業の最後を遂げたのは偶然ではない、彼女は軽く見られたことを昨日のことのように覚えている女性だった、と言っている。彼は党諜報機関の親玉、康生と知り合いになったが、後に重きをなすようになったのは、二人の結婚に賛成したことが大きいと言う。
劉少奇は瘠せて中背、ほとんど墓のような厳粛な顔をしていた、とロドリックは初めて彼に会ったときの印象を記している。そのとき劉は47歳、危険にさらされながら、彼はいくつもの偽名を使って共産党系の労組を組織したナゾの人物であった。彼は劉と2日間で16時間にわたるインタビューをした。劉はささやくような声で、自分の人生を語り、中国の未来について語った。
彼は毛と同じ湖南省出身、教師の息子で兄は孫文と交友があった。「兄が語ってくれた話と、兄が持っていた孫博士の手書きのパンフレットに心躍らせたものですよ」と彼は言った。19年、モスクワへ行き東方大学で労働問題を学んだ。帰国して労働組合を組織しはじめて毛と知り合いになった。長征中は「私たちは何か月も草を食べた」とその辛苦を彼に語っている。劉が党のナンバー2であることを報道したのは、ロドリックだった。
そのインタビューで、劉はうんざりするほど毛を礼賛したが、将来、毛との路線対立をうかがわせる発言をしていた、と彼は回想している。「わが党の現路線は政治的経済的デモクラシーです」「私有財産と私企業を否定し、わが国に一つの階級だけを作る政策は、今日わが党が反対しているものです」と劉は力説したという。後者の発言は劉が大胆不敵にも毛の階級闘争を否定しているものであった。「今のところ、私たちはソ連の経験よりもアメリカ革命―ジェファーソンとリンカーンーとフランス革命から、その産業、農業、文化改革とともに学ぶところの方が多い」とも彼は語った。これを読むと、彼が漸進主義者だったことがわかる。ロドリックは、この主張故に劉は命を奪われた、もし彼が権力を握っていれば、中国の運命は違ったものになっていただろう、と書いている。
ウィットと知性
周恩来 blog.ifeng.com
ロドリックが周恩来に会ったのは、重慶での記者を招いた昼食会の席であった。そのときの印象を「共産革命に身を投じてすでに24年。中国共産党の闘争、陰謀、詐術、殺人のすべてに首までどっぷりつかっていながら、並の人間とはどこか違っていた」と彼は回想し、清朝高官の家に生まれた周は洗練され、自信に満ち、才気煥発で、よく笑った、その立ち居振る舞い、疑問の余地のない誠実さに称賛と尊敬を呼ぶ何かがあった、と記している。
彼が二度目に周に会ったのは、重慶の四川料理店での小人数での昼食会だった。周は時々、通訳の英語を直した。その日、彼はアメリカが国共連合政府樹立の仲介をすることを希望すると言った。もし、この交渉についてコメントが欲しければ、いつでもお答えすると言ったので、ロドリックは周の事務所に一日に1度は訪問し取材した。
周は人間の行動のあらゆる側面を探ることに熱心な、飽くことを知らぬ好奇心の持ち主だった、毛沢東はこれほど有能な外交官を他に求めることはできなかっただろう、延安の共産党が尊敬の対象になったのは周のおかげである、とロドリックは敬意をこめて書いている。
中国史の目撃者ロドリックは、毛沢東のパーソナリティをどのように評価していたのだろう。「私が延安で、またその後出会った共産党員のなかで、毛は最も冷たく、計算高いという印象を受けた。朱徳には温かさ、周恩来にはウィットと知性、劉少奇には誠実さ、鄧小平にはいたずらっぽいユーモアがあった。彼らといるのは楽しかった」と。
76年、周恩来と毛沢東が相次いで亡くなった。毛が死んだ日、パリ滞在中のロドリックはそこから長文の記事を書き世界中の新聞がそれを掲載した。彼は毛の生涯は功罪半ばすると書いた。さらに、こう書いた。
毛は基本的に、自らの体内に相克する矛盾を抱え込んだ不安定な人物だった。彼は中国を搾取と貧困から救うというミッションを担い、燃えるような希望をもって人生をスタートし、多大な業績をあげた。人間としての暗部があれほどでなければ、その業績はさらに大きなものになっていただろう。彼は最も親しい友人にさえも疑い深い目をむけ、ライバルを許さず、批判を毛嫌いした。
彼の国家観は高邁だが、救いがたいほどロマンチックだった。その基礎をなすものは、輝かしい文明の継承者たる中国人民は、外国の支援がなくとも、貧しく遅れた祖国を独力で産業時代に押し上げることができるというナイーブな信仰だった。これは、中国を30年にわたって外部社会から孤立させ、発展を阻害した致命的な誤りだった。
晩年、彼は高慢になり「神の高御座に登る誘惑に身を委ねてしまった」。その結果、人民大衆の願いや正義への願望に疎くなった、とロドリックは結んでいる。
ある日、鎌倉の邸宅で、わが師ジョンは「毛の死を知ったとき、なんの感慨もなかった。しかし、周の死は本当に悲しかった」と筆者に語ってくれた。
主治医の「赤い皇帝」回想記
毛沢東の主治医(1955-76の22年間)であった李志綏が書いた『毛沢東の私生活』(1996)ほど「赤い皇帝」の姿を赤裸々に描いた本はない。これは毛王朝宮廷の生活の記録であり、著者が至近距離で見た、中国民衆が現人神と崇めた男のポートレートである。この本は、世界中の毛沢東礼賛者の幻想を吹き飛ばした。残念ながら中国では禁書である。
李ははじめ主席を敬愛していたが、しだいに毛の政策と人柄に疑問を抱くようになり、ついには幻滅し、米国へ移住したあと、次世代のために沈黙を破りペンをとった。ここでは、大躍進から文化大革命までの間に、李が体験したことのごく一部を彼自身の言葉で語ってもらおう。
一流のマージャンの打ち手
1955年5月、私は、中南海のプールサイドで木製のベッドに横たわり、本を読でいる毛沢東と初対面をした。主席は英国製の巻きタバコをシガレット・ホールダーですっていた。医者の私がタバコをやることを知った毛は「喫煙は深呼吸の練習になるとは思わんかね」と彼独特のユーモアで私を煙にまいた。こんなやりとりで、気楽になった私に毛は「君は中学をでて完全にアメリカ式の教育を受けた。英語も教えてくれるな」と言ったので、それを引き受けた。そのあと夕食に招かれた。帰宅した私は、偉大な人物の主治医になったことを誇らしく思い、天にも昇るような心地であった。
その数日後の深夜、毛沢東のもとへ出頭せよとの連絡があった。私がかけつけると護衛官が「主席が眠られないので、先生とお話がしたいそうです」と言った。中南海にある主席邸は清朝の乾隆帝時代に建てられた建物で、主門の扁額には乾隆帝の直筆で「豊沢園」とあり、毛の居住区は「菊香書屋」と呼ばれ、美しい庭園に囲まれていた。
私が主席の寝室に入ると、彼は巨大ベッドが横たわっていた。ベッドの3分の2には書籍が積み重なっていた。のちに私は、寝室にある大きな四角形のテーブルが執務デスクと食卓をかね、ほとんど一人で食事をとり、毛夫人、江青とは完全な別居生活であることを知る。
その夜、毛は中国は世界に、漢方、小説『紅楼夢』、マージャンという三大貢献をしたという話をした。「いいかマージャンを見くびっちゃあいけない」、このゲームは戦略のゲームだと強調した。のちに私は彼が一流のマージャン打ちであることを知った。おまけに、毛の相手はたいてい美しい娘で、マージャン台の下では自分の足をつかってあの足、この足とからませて、ふざけるのがお得意であることを発見する。毛の卓越した政治・軍事戦略は、マージャン、『孫子』の兵法、『三国志演義』から生まれたと思う。主席が私を相手にした深夜談義は数えきれない。
大読書家
毛は大読書家だった。彼が夢中になって読んだのは中国史で、愛読書は歴代王朝の盛衰を記述した『二十四史』であった。彼はそれを繰り返し読み、現在の政治状況を過去のそれに重ねて見るという読み方をした。毛沢東は秦の始皇帝(BC3世紀)を高く評価していた。中国の民衆は始皇帝が儒者を生き埋めにし、古典を焚書したことで彼を憎んでいたが、毛にとって皇帝は中華帝国建設の障害を除いただけで、それは枝葉末節のことだった。
毛沢東は中国の故事から政治操作を学び、古代の宮廷の権謀術数を手本にした。中国史からの影響はマルクス・レーニン主義よりはるかに強かった。毛は中国の統一と再興を目標に掲げた革命家ではあったが、その手法を過去に求めた。私には、毛が「近代化」という言葉を使った記憶がなく、彼はいつも往時の栄光ばかりを語り続けていた。
赤い皇帝に刃向った男
58年夏、毛沢東がはじめた大躍進の失敗で、中国は飢餓の最中にあった。私は、江西省の廬山に向かう長江を下る船上で、毛の政治秘書・田家英から、彼が河南省と四川省の現地調査をし、目撃した悲惨な状況をはじめて聞いた。数百万人が餓死しかけていると知り、ショックを受けた。
毛とその側近は7月1日に風光明媚で知られる廬山に到着し、主席はかつて蒋介石の別荘であった建物に滞在した。政治局拡大会議がはじまって9日目。毛は大躍進の路線は正しい、失敗はあったが、授業料と思えばよいと言い、出席者の意見を聞かずに席をたった。毛の言動には、これ以上の批判は許さないとの警告がこめられていた。しかし、副総理・国防相の彭徳懐だけは議論を続けた。
その前日、彭は毛に手書きの長文の私信をだしていた。その書簡の内容は、大躍進の成功面を称えながらも、人民公社の問題点を指摘し、煉鋼炉(下記の註)政策によって大きい損失があり、全体としてはプラスよりマイナスの方が大きい、とあった。あとでそれを読んだ私は、思慮深く、バランスがとれ、責任を問うようなものではないと思った。彭は政治的な陰謀とは無縁の朴訥、誠実な生粋の軍人で、勇気ある人物であった。他の党幹部とちがって毛沢東をまったく恐れていなかった。
(註 英国に追いつくための鉄鋼大増産のキャンペーン。農家の裏庭に煉瓦とモルタルで手製の高炉をつくり鉄鋼を生産するという無謀な政策。1億人の農民が60万箇所で鍋や釜を炉に放り込んで生産したが、鉄の塊ができるだけだった。異常な生産目標が設定されたため、農民は農作業どころではなくなり、収穫もできず大飢饉の原因になった。3000万人以上の餓死者がでた。)
7月16日、白いバスローブを着て素足にスリッパをはいた毛は、政治局常務委員会を別荘で開いた。廬山にきていたのは劉少奇、周恩来、朱徳、陳雲だけで、鄧小平は脚を骨折し北京で入院中、林彪は神経衰弱で欠席していた。毛は次のように発言した。党外の右派分子が大躍進を批判しているが、いまや党内の者まで批判している。その一人である彭徳懐の書簡を、同志諸君に配布するのでよく吟味してもらおう。もし党が分裂するなら、自分は新党をつくる。軍が分裂するなら新軍をつくる、と彼は言い放った。毛の考えを知った出席者の発言は慎重だった。
彭の書簡の写しは小グループの会議でも配布された。少数だが、元帥の見解を支持する人々もいた。総参謀長の黄克誠、湖南省第一書記の周小舟、毛の政治秘書・李鋭が賛同した。李鋭は、この書簡は大躍進の問題点を鋭く指摘し、党幹部の間にある率直な批判をこばむ雰囲気を粉砕した、と論じた。外務次官の張聞天は、毛批判の急先鋒だった。主席は口癖のように、異論を表明する勇気がいる、首が飛んでも皇帝然とした高慢をへこますべきだ、と言ってきたではないか。これは正しい「われわれは、自由に自分の意見を言うことができる雰囲気をつくる必要がある」と言い彭を支持した。
7月23日、毛沢東はふたたび政治局拡大会議を招集し、彭書簡の要点のひとつひとつに反論を加えた。彭の立場はブルジョア的幻想であるとし、大躍進政策はマイナスのほうが大きいとの評価を非難した。会議は緊張した。毛の発言中、彭は講堂の最後列に黙って座っていたが、腹の中は煮えくり返っていた。会議の前に、彼は毛とさしで会い、私信をなぜ断りもなく、全員の配ったのだと詰問したが、毛はずるい言い訳をした。拡大会議での毛の発言に激怒した元帥は、席を蹴って議場をあとにした。
毛はスピーチをすませ外にでると、彭にばったり出くわした。私はその場にいた。毛が「彭首長、あらためて話しあおうじゃないか」と言うと、真っ赤な顔をした彭が「もうあらためて話しあうことなどない。話し合いはたくさんだ」と言い捨てて立ち去った。その後、彭とその支持者は右派分子であるという毛沢東の告発を受けて、彭徳懐批判の大合唱がはじまった。最高決定機関、党中央員会が召集され、副総理・国防相である彭の解任が決定され、その後任に主席に絶対忠誠の林彪が就任した。
私は廬山会議での出来事にショック受け、胃潰瘍になった。食事ものどを通らず、内出血がとまらない。毛の政治秘書が、みるに見かねて、毛から離任の許可を取ってくれた。私が離任のあいさつのため、毛の別荘を訪れた。すると、彼は中国最高の北京病院へ入ることを勧め、一日も早い全快を祈ると言った。同時に、「廬山会議の出来事は他言無用だよ」「党の決定に従いたまえ」とクギをさした。廬山のつづら折りの山道を下り、空港へ向かう車の中で私は、中国と党への夢は消え去り、自分の抱く毛沢東像が崩壊したことを痛感していた。
毛沢東の女たち
ご機嫌の赤い皇帝 Wikipedia
新中国では社交ダンスが退廃的、ブルジョワ的だという理由で禁止されていた。ところが、天安門広場のメーデーの祭典(1965)のあと、毛主催のダンス・パーティに招待されたので、私はおどろいた。毛と私が会場の主席邸に隣接する「春蓮斉」に入っていくと、毛は十数人の若い美女に囲まれダンスをせがまれた。バンドはフォックス・トロット、ワルツ、タンゴなどを演奏し、主席はかわるがわる若い女の子を相手に踊った。毛のステップはゆっくりで重々しく、ダンスといえる代物ではなかった。
数年たって、私はようやく、中南海で週2回、中国各地にある毛の別荘での頻繁に開かれるダンス・パーティの真の目的を知ることになる。娘たちは毛沢東の夜伽の相手をするのが、お目当てだったのだ。61年、春蓮斉の一室に毛が‘一休み’のための木製ベッドが入れられたが、主席がダンスの途中で、気に入った若い女の手をとってその部屋に入っていく光景を、私はなんども目撃している。
毛の乱交は年々エスカレートしていき、3、4人を相手にベッドで戯れることもあった。彭徳懐は解任される前年に、政治局の会議で毛は皇帝のように振る舞っていると非難したが、主席はその警告を無視し、側近は各組織の文化工作隊から若くて魅力のある娘を供給し続けた。寝室で毛の相手をした女たちには、毛の特別口座からつつましい謝礼が支払われた。社会主義の新中国で、毛は有数の金持ちだった。なぜなら、『毛沢東選集』などで巨額の印税を稼いでいたからだ。
毛は歴代皇帝と同じように、快楽のためだけではなく、数限りなく若い娘と交われば長生きできると信じていたようだ。マルクス・レーニン主義者が道教の信者になったというわけだ。若い女たちは、毛から性病(陰部ヘルペス)を移されてもそれを誇りに思い、彼の性的能力を畏敬していた。ひとりの娘は「あの方は、何をおやりになってもすごいわ。ただただしびれちゃうの」と私に告白した。
毛沢東の10年来の愛人、張玉鳳は、主席の相手をした女性のなかで特異な存在だった。私が毛から聞いた話によると、張は旧満州の出身で母親が家政婦をしていた日本人医師との密通で生まれたという。毛は日本人との混血だと知ってスパイではないかと疑ったが、やがて彼が最も信頼する側近になった。張は毛と平気で口論をする気の強い女だったが、彼は魅かれていた。
晩年、主席がろれつが回らなくなり、張玉鳳が彼の言うことが理解できる唯一の人間になったとき、絶大な権力を振るうことになる。毛の女たちは、彼との関係を盾にしだいに傲慢になっていったという。李はその典型的な例が江青であり張玉鳳であった。
劉少奇の吊し上げ
67年夏、江青の4人組が実権をにぎり、紅衛兵が暴れ放題の北京はほとんど無秩序となった。毛沢東は内戦を思わせる騒乱調停のため、武漢へ旅立った。主席がいない中南海は、もはや安全地帯ではなくなった。紅衛兵は党幹部の居住地区を囲み、中南海の赤い壁には大文字の壁新聞がはられ、数千人の学生が劉少奇打倒のスローガンを叫びはじめた。
7月18日、私の執務室に警護官が飛び込んできて、かつては毛の後継者だった劉少奇が、国務院講堂の外で「批判闘争」にかけられている、という。私が現場にかけつけると、劉少奇と夫人の王光美は群衆の真ん中に立たされ、書記局のスタッフにこづかれたり、蹴られたり、殴られていた。やがて、劉は「ジェット式」姿勢(両腕を背中にねじ上げられ、前かがみにされて、顔を地面ちかくまで押し付ける)をとらされ、蹴られ、平手打ちにあった。中央警護団の将校や兵士はただ見守るだけで、誰も制止しなかった。私は見るにしのびなくなり、その場を立ち去り、鄧小平夫妻と陶鋳夫妻の住居へ向かった。両夫妻は批判闘争にかけられ、群衆に押され、こづかれ、怒鳴られていたが、殴られてはいなかった。
党最高幹部への吊し上げがあって3日後、武漢から上海に移動した毛一行に合流するようにとの指示があった。上海の西郊賓館に着き、私は毛の気管支炎の発作を治療した。そのあと、主席は私に北京の状況を尋ねたので、劉、鄧、陶に加えられた暴行を報告した。毛は無言だった。その夜、再び毛から中南海のようすを、話すように求められた。私が話しおわると、毛は「あいつら(4人組)、おれの言うことをきかんのだ」と言った。三人の指導者には手をかけるな、と注意したのに「連中はそれを無視した」とも語った。私はそれを聞き、毛は指示していないと思った。しかし、毛沢東は江青を止める措置を講じようとはしなかった。
忠実な臣下、周恩来
13年ぶりに開かれる69年4月の党大会が近づくと、党内は緊張した。毛によって劉少奇は党から除名され、鄧小平も追放され、党の中枢機関は壊滅状態となり、各省の党指導者の大半は職を失っていた。各省の行政は人民解放軍が支配する「革命委員会」の手中にあった。その結果、党内での林彪国防相の影響力が飛躍的に大きくなり、同盟関係にあった江青との関係がほころびはじめていた。
ある夜、私は親しい友人・王東興(主席付き警備主任)の家で周恩来と顔を合わせた。周はちょっと話があると私を脇によび、主席が党最高指導部の構成についてどう言っているか、知りたがっていた。私は正直に知らないと答えた。その席で私は江青から毒殺の疑いをかけられ、散々な目にあった経験があるので、周に「文革当初から、江青は総理を標的にしていました」と警告した。すると、周はとり乱し「何十年も私は江青の助けになるなら、なんでもやってきたのに」と言い、このやりとりを口外しないようにとクギをさした。
周恩来は中国のどの最高幹部よりも、毛沢東に忠実でありつづけた。ときにまごつくほどであった。66年夏の天安門広場での毛の第8回目の紅衛兵接見の計画―250万人の紅衛兵をどう誘導するかを、周は地図を床に広げて、カーペットのうえに膝をついて説明していた。毛は立ってタバコを吸いながら、首相が床に這いまわるのを冷ややかに眺めていた。周恩来ほどの人物のその屈辱的な姿を見て、私は目のやり場に困った。毛沢東は周恩来に絶対忠誠を求め、それが得られなければ、周はまちがいなく失脚させられただろう。
毛沢東には人間的な感情が欠如していた。いちど上海で私は主席の隣に座り、雑技(サーカス)を見物していたところ、まだ年端もいかない曲芸師が突然足を滑らして重傷を負った。観衆は息をのんで悲劇にたちすくみ、子供の母親は悲嘆にくれていた。ところが、毛はまるで何事もなかったかのように、気遣いすら見せず談笑しつづけていた。いや私の知るかぎり、幼い曲芸師の運命について問い合わせすることさえしなかった。私は主席の冷血漢ぶりが理解できなかった。多分あまりに多くの死を見てきたために、人間の苦難に無感覚になってしまったのではなかろうか。
筆者は李志綏の文庫本(上下2巻)を読んで、毛沢東観が根底から覆された。李によると、毛は自らを「無法無天」(自分こそ神であり法律である)であると言い、自分は中国史上「最も偉大な皇帝」であると思っていたという。誇大妄想とはこのことだろう。
なるほど中国の伝統は皇帝崇拝である。しかし、経験豊かで有能な党の指導者たちが狂気に走った「皇帝」と闘わなかったという事実は残る。孟子は「君に大禍あれば則ち諌め、之を反復して聴かざれば、則ち位を易う」―天命を失った君主は降位させろ、と言っているが、彼らはそうはしなかった。
マルローの毛沢東観
ニクソン米大統領は、72年2月の歴史的な訪中をする数日前、64年に中国を承認したドゴールの右腕でフランスの作家アンドレ・マルローを、ホワイト・ハウスに招いてアドバイス求めている。ニクソンは訪中準備のために読んだ本の中で、彼の著作 “Anti-Memoirs”(反回想録)の中国革命のリーダーについての記述が一番参考になったと書いている。
以下は、ニクソンの『ニクソン回顧録』にあるマルローが語る毛沢東の肖像である。毛と中国を理解するヒントになる、と思うので紹介しよう。
大統領執務室で行われた対話の冒頭、ニクソンは「数年前だったら、中国の指導者は米国大統領との会談に合意しただろうか」と尋ねた。するとマルローは「この会談は必然的だったと思う」と答えた。そこでニクソンが「ベトナム戦争にもかかわらずですか?」と問うと彼は「はい、それにもかかわらずです」と言い「中国のべトナム戦争への関与はペテンだ。中ソが蜜月関係にあったときには、ソ連兵器が中国領土内を経由してベトナムへ送られていたが、それ以外にパキスタンにもベトナムにもなにもしていない。中国の外交は見事なウソで展開されている。中国人自身、それを信じていない。彼らにとって重要なのは中国だけ、そう中国だけだ」
「毛にとって、中国はオーストラリアのような(孤立する)大陸で、大事なのは中国だけだ。もし、中国がザンジバルのスルタンを受け入れる必要があれば、どうぞと言い、同様にアメリカ大統領の訪中が必要であれば、どうぞと言う。」
ニクソンがマルローに毛の印象を尋ねると、こう答えた。「5年前会ったとき、毛は核戦争を恐れていた。自分が死んだあと、米国あるいはソ連の10個の原爆が中国の工業地帯に投下されると、中国は50年昔に後戻りする。しかし、中国が6個の原爆を持っていれば、誰も中国を攻撃できない。アメリカは自分に対してけっして原爆を使わないだろう、と言った」
その時、マルローは毛の真意が理解できなかったと語り、ニクソンにアドバイスをしている。彼と対話するとき、あとで分かるのだが、最も重要なのはその発言のなかの理解できない点だ、と強調した。
ホワイト・ハウスのニクソン家で開かれた晩餐会で、マルローは毛へのアプローチをアドバイスした。「大統領閣下、あなたの相手は想像を絶する人生を送ってきた男です。そして、(米中会談は)人生最後の大仕事になると考えている。閣下は、彼があなたに向かって話していると思うだろうが、彼は実は死に向かって語っている。この旅は貴重です」
ニクソンは毛が逝くとどうなるのか、とマルローに尋ねた。「それへの答えは、彼が私に言った“後継者はいない”にあると思う。彼がこの言葉に込めた意味は、自分も含めてチャ―チル、ドゴール、ガンジーなどの偉大な指導者は、天下大乱の時代が生んだ人物で、自分の後継者はいない、と言ったのだと思う」
「私は一度、毛に“あなたは自分自身を、16世紀の偉大な中国の皇帝たちの後継者と思っているのではありませんか”、と尋ねたことがあります。すると彼はこう答えた“もちろん、私は彼らの後継者です”と。大統領閣下、あなたは理性的に行動する方ですが、毛はその枠をこえています。彼にはなにか魔術師的要素があります。彼のなかにはヴィジョンがあって、それにとり憑かれています」
その後コーヒーを飲みながら、マルローはニクソンに「あなたがやろうとしていることは、今世紀で最も重要なことの一つです。15世紀の大航海時代の探検者が特定の目的地を目指して航海したのに、着陸地はまったく違った場所だった。これから、大統領がされることは、予期されているとは全く違う結果を生むかもしれません」と言った。
ニクソン回顧録には、マルローの別れ際の言葉が誇らしげに書かれている。「わたしはドゴールではないが、彼なら閣下にこう言うでしょう。“あなたの企てを理解している人々は、あなたに敬意を表する”と」。
世界的作家マルローは青年時代に中国とベトナムに滞在し、27年上海で起こった共産主義者の蜂起を描いた小説『人間の条件』などアジア三部作を書いている。だから、彼の中国現代史への理解は深く、生涯この国に関心を持ち続けた。
筆者はその彼の「中国人にとって大事なのは中国だけだ」という言葉に注目したい。どの国の人も愛国心はもっている。しかし、中国人はそれが強烈であり過ぎる、とマルローは言っているのだと思う。米中雪解け外交の立役者ヘンリー・キッシンジャーは、今月号のアトランティク誌のインタビューで「中国にとって、外国は常に朝貢国であった」が、その中華思想は現代も続いていると示唆している。筆者は二人の言葉を、現代中国の漢民族ナショナリズムへの警句ととった。
もう一つは、マルローがニクソンの訪中は歴史的出来事だが「予期せぬ結果を生むかもしれない」と言っている点だ。ニクソン・キッシンジャーの戦略的目的は、中国接近によってソ連を牽制し、米国が主導権を握って三角外交をするというものだった。これは見事に成功するのだが、訪中が導火線となり、今日のような米国と肩を並べる中国の興隆までは、予期してはいなかっただろう。
以下、20世紀最大の外交ドラマの一つ、ニクソン訪中の内幕を探訪してみよう。
ピンポン外交
荘則棟とコーエン Wikipedia
世界を驚かせた米中和解のドラマは、71年4月、名古屋で開催された世界卓球大会で幕を開けた。優勝した中国チームが米国チームを招待し、アメリカ選手が北京で大歓迎を受け雪解けがはじまった。
米国チームの団長が名古屋の会場で「メキシコやカナダが招待されているのに、なぜわれわれはだめなのでしょう」言ったことが、北京に報告されると中国外務省はその可能性を検討した。その結論は時期尚早であった。周恩来は毛沢東に文書で招待しない方針を進言し、主席は同意した。
大会会場で、米中選手間の微笑ましい交換風景があった。自国のバスに乗り遅れた米国選手コーエンが、中国選手を運ぶバスに乗せてもらい、スタジアムに駆けつけた。バスの中で、世界チャンピオンの荘則棟が団長の制止にもかかわらず、絹のスカーフを彼に贈り、お返しにヒッピーのコーエンがビートルズの曲“Let It Be”の文字入りのシャツを贈ったのだった。
閉会式の前日の夜、そのニュースを知った毛は「荘則棟はピンポンがうまいが、外交もたいしたものだ」とお付きの“看護婦”に言った。深夜、毛は突然彼女を呼び、外務省に直ちに連絡し米国チームを招待するように指示した。のちに毛は、小さなピンポン球が大きな地球を動かすのに使われた、と言っている。
AP記者ロドリックは4半世紀ぶりに中国に入る3人の米記者のひとりだった。北京入りして4日目、米国チームは中国チームと1万8千人の観衆を前に試合した。中国チームは男子は5―3、女子は5-4で勝った。ロドリックは「卓球王国の中国は米国をさんざん打ちのめすこともできたが、そうはしなかった」それは「中国風の最高の礼儀だった」と書いた。米国の団長も同意見だった。
ロドリックは人民大会堂で開かれた周恩来のレセプションに出席した、周は大勢のゲストのなかから彼を見つけだし「ようこそ北京へ、ロドリックさん、ずいぶん久しぶりですね。延安に比べてどうですか」と言った。彼は延安の洞窟住居を思いだしながら「いくらか進歩がありますね」と笑顔で答えた。(続く)
筆者はこの歴史探訪記を書くにあたって、以下の著作と記事にお世話になった。『中国史の目撃者:毛沢東から鄧小平まで』ジョン・ロドリック著、山田耕介訳 1994、『毛沢東の私生活』李志綏著、新庄哲夫訳 1996, ” The Memoir of Richard Nixon” Richard Nixon著 1978、“Seize the Hour: When Nixon met Mao”Margaret MacMillan著 2006,”Unmasking the Monster” Jonathan Mirsky著 The New York Review of Books 1994・11・17号、
【フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39】
著者プロフィール 土野繁樹(ひじの・しげき) ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。
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