フランスの田舎で暮らす

土野繁樹の歴史散歩

歴史探訪 その12 毛沢東の文化大革命

 

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映画「毛沢東は永遠に我らとあり」のポスター      Wikipedia

 

どの国にも狂気の時代がある。日本の場合、戦前の軍国主義の時代がそれにあたる。文化大革命の10年は、中国の狂気の時代であった。今年は毛沢東がはじめた革命50周年にあたる。

1966年8月18日午前5時、北京の天安門楼上に軍服姿の73歳の毛沢東が立つと、天安門広場の100万人の紅衛兵が大歓声を上げ,赤い表紙の『毛沢東語録』を掲げて「毛沢東万歳!」を叫び続けた。午前8時、小柄で瘠せた国防相・林彪が、全国から集まった若者たちを前に、「搾取階級の旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣のすべてを打破しよう」と呼びかけた。6時間にわたる集会のハイライトは、楼上の指導者との接見を許された学生のひとり、宋彬彬が毛沢東の腕に紅衛兵の腕章をつけた瞬間だった。これは、紅衛兵運動を毛沢東が公認し、7億の中国人に文化大革命文革)を宣言した瞬間だった。

 

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毛沢東と握手する老舎 彼の隣は京劇の名優・梅蘭芳 1960年春   Wikipedia

 

その5日後の8月23日、生涯、ユーモアとペーソスで北京の庶民を描き「人民の芸術家」と言われた作家、老舎に異変がおこる。当時、北京市文学芸術聯合会(文聯)の主席だった彼が事務所で仕事をしていると、突然、紅衛兵の一群が乱入してきた。彼らは、老舎をはじめ作家、芸術家29人を急き立てトラックに乗せて成賢街にある孔子廟に連行した。

紅衛兵は、そこで旧文化のシンボルである京劇の衣装や小道具に火を放ち、燃えさかる炎の周りに、中国を代表する文化人をひざまずかせ、侮辱し暴行を加えた。現場で指揮にあたっていた北京大学の女子学生は、老舎を見ると大声で叫んだ。「こいつが老舎よ。文聯の主席、反動のオーソリティよ」。彼は頭を殴られ、白いワイシャツに鮮血が染まった。彼の罪状はブルジョワ思想で、人民の精神を汚染したというものだった。深夜、血だらけで帰宅した老舎は妻に「明日も呼び出しを受けるだろうが。自分は決して行かない」と言った。

翌朝、老舎は3歳の孫に声をかけたあと、自宅をでた。予想どおり、家にやってきた紅衛兵は、彼がいないことに激怒した。夕方になっても、父親が帰宅しないので心配になった息子の舒乙(当時31歳のエンジニア)は、血染めのワイシャツを持って、老舎の作品の愛読者で友人の周恩来首相の官邸へ向かった。中南海で舒乙は周恩来の護衛に事情を説明し、捜索をお願いしたい、と言うと、彼は首相にワイシャツを渡し、ただちに捜索をすると約束した。

国民的作家である老舎と周恩来とは縁が深かった。1949年、中華人民共和国が樹立されたとき、老舎はアメリカで暮らしていた。新中国建設のために協力してほしいという周恩来の要請に答えて、彼は3年間の米国滞在を切り上げ帰国した。当時、中国知識人の間で、毛沢東の新中国にかける期待は大きく、彼もその一人だった。老舎は首相の期待に応えて、文学界の重鎮として文聯などの文化団体の役職につき、祖国のために働いた。

60年春、老舎は毛沢東に会い、好印象をもったようだ。主席は満州族の出身である彼に、自分は清の康熙帝に敬意を抱いている、漢文化と孔子の思想から多くを学んだ、と語った。これを聞いた老舎はわが意を得たり、と思ったにちがいない。しかし、毛の文革スローガンは、四旧の徹底破壊による新世界の建設だったから、彼のその日の発言はリップサービスの最たるものだろう。

老舎が行方不明になった翌日8月25日の午後、文聯の事務所から、彼が太平湖で入水自殺し死体があがったと、舒乙に電話があった。彼は急いで現場に向かった。その朝、湖畔で体操をしていた人が発見したという。泳ぎが出来なかった老舎は、湖に入る前に、小枝にチョッキをかけていた。そのポケットの中には眼鏡と役職が書かれていない名刺が入っていた。

目撃者によると、水に浮かぶ老舎の遺体のまわりに、毛沢東の言葉が書かれた紙きれが浮かんでいたという。警察はその紙を、遺族へ渡すことを拒否したので、その内容はいまだに謎である。舒乙は「父は名誉を重んずる人だったので、自説を曲げることはせず、潔く死を選んだのだと思う」と語っている。老舎が選んだ毛沢東の言葉は、建国の父への痛烈な皮肉を込めたものだったにちがいない。なぜ、自宅から6キロもある太平湖を、老舎は死に場所に選んだのだろう。息子は、そこは老舎の母親の旧居が近くにあった、懐かしい所だったからだと言う。

文革中に多くの知識人が自殺した。しかし、この大革命の指揮者である毛沢東は良心の咎めなど感じてはいなかったようだ。文革についての傑作といわれている『毛沢東最後の革命』の共著者、ロデリック・マクファーカーとマイケル・シェ―ン・ハンスは、次のような毛の言葉を引用している。「自殺をする人間を救う必要はない。中国は人口が多い。一人や二人いなくてもやっていける」    

老舎が亡くなって、一月あとに国慶節があった。そのとき北京副市長であった王昆侖は周恩来に呼ばれ、老舎の未亡人を見舞ってくれないか、と言われた。王は、老舎の死に同情的な態度をとるのは危険だと思ったので、自分より首相の側近に頼まれたほうがいいでしょう、と言い断った。この慎重な王でさえ2年後には、文革の流れが変わると、7年間、牢につながれた。75年に釈放された王は、老舎の未亡人を訪ねた。その時、彼は、周恩来が遺族へ同情を寄せていたにもかかわらず、誰も見舞いに来ていないことを知った。周はリスクを避けたわけだ。

78年、共産党は老舎の名誉を回復した。公式の葬儀が行われ、骨壺には彼の眼鏡と達筆の書、ジャスミンの花が入れられた。その席に参加していた人々のなかに、周恩来夫人の鄧頴超がいた。彼女は、夫はあれほど老舎を高く評価していたのに、彼を守ることができなかったことを生涯悔やんでいた、と語ったという。

 

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処刑場に向かう巫炳源と永增蒙  1966年 8月  李振盛撮影    李振盛

 

文革が始まった1966年の春、大連生まれの李振盛は23歳。ハルビン共産党機関紙「黒龍江日報」のカメラマンだった彼は、上司の指示に従って、毎日のように革命礼賛のプロパガンダ写真を撮影していた。同僚と同じように、彼も毛沢東を敬愛し、文化大革命は「理想の社会主義国家を創るため」と信じていた。職場で、彼は造反派(文革支持派)のリーダーであった。

しかし、その年の8月、紅衛兵と民衆がハルビン極楽寺の僧侶たちを‘階級の敵’として罵詈雑言を浴びせて吊し上げ、仏像を破壊する光景を見て、彼はショックを受け、暴走する革命に疑問を抱き始めた。

李はこのように考えた。新聞社は党の方針に従って、文革のプロパガンダになる写真は掲載するが。自分が目撃した常軌を逸した暴行や処刑は無視している。これは、おかしい。ジャーナリズムは歴史を刻む仕事だ。この真実をカメラに収め,後世の中国人のために残したい。

その決意をした日から、彼は翌日の新聞に掲載する写真を現像・プリントしたあと、残業して、公表されない現実を密かに現像した。その中には、反革命の罪で、有無を言わさず処刑される人々の姿、僧侶たちが「仏典は屁みたいなものだ」と書いた垂れ幕を持たされている姿、黒竜江省の省長(知事)が「髪型が毛沢東に似ているのは、政治的野心があるからだ」という理由で、髪を刈られる姿もあった。同僚や上司が、突然、部屋に入ってきて、秘密作業が発覚するのを恐れて、李はそれらのネガをいつも新聞掲載用の写真の下に隠していた。

68年、共産党から、革命のイメージを傷つける写真と記録の提出が通達されると、李は文革の‘ネガティブな光景’含む大量のネガを、一室しかない自宅に持ち帰り床下に隠した。その年の暮、家宅捜査を受けるが、危うく難を逃れた。

69年、職場の対立する造反派から反革命のレッテルを貼られて、新婚の妻とともに再教育を理由に、労働キャンプに送られた。72年、林彪毛沢東暗殺未遂事件で文革の風向きが変わり、彼は釈放され黒竜江日報に復職し、写真部長になった。82年、鄧小平の改革開放がはじまると、国際政治学院・新聞学部の写真主任に抜擢される。

 

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黒龍省知事の毛沢東カットを刈る紅衛兵 批判集会の三角帽の犠牲者 「仏典は屁」の垂れ幕を持たされる僧侶
李振盛撮影

 

88年、中国新聞協会のコンペ写真展に、李の作品20点が展示された。これに最も関心を示したのが、ニューヨークから来訪した写真エージェンシー代表、ロバート・プレッジであった。李とプレッジは写真集の刊行について話しあった。当時は、民主化への気運が高まっていたので、絶好のタイミングだった。しかし、翌年、天安門事件が起きて、共産党は厳しい言論弾圧政策に転換する。この状況では、共産党最大の汚点を記録した写真集は発禁になる、と思い二人は刊行を断念した。

しかし、李とプレッジは諦めなかった。99年、北京の李からニューヨークのプレッジの事務所に、3万点の文革のネガが届きはじめた。それぞれの写真に、おどろくほど詳しいキャプションが書かれてあった。翌年から、アメリカの大学に招聘されていた李とブリッジが中心になって、編集作業がはじまり2003年に完了した。李が紅衛兵なみの紅の腕章をつけて、文革10年の狂乱を記録したことにちなんで、書名は『紅色新聞兵』とつけられた。

李が68年4月に撮った写真に、ハルビンの工場技術者だった巫炳源が処刑される場面がある。彼は同僚の永增蒙とともに、「北方へ」という題のパンフレットを書いたのが、毛沢東の反ソ連路線への批判である、とされ命を奪われたのだった。巫炳源と永增蒙は人民裁判にかけられ、死刑宣告が下された。二人は罪状が書かれた板を首にかけ、トラックに乗せられ、大勢の観衆が待ち受ける刑場に連行され、銃殺された。

李は、その日のことを次のように書いている。「死刑宣告を受けた巫炳源が、空を見上げて“この世はあまりに暗すぎる“と大声で叫び眼を閉じた。処刑されるまでその眼は閉じられたままだった」

 

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李羨林        互动百科     壁新聞を貼る学生    Wikipedia

 

北京大学の東アジア言語学部教授だった李羨林は、インド古典文学の世界的権威であった。彼は87歳のときに『牛棚』(牛舎)を書いた。この本は、文革の狂気を描いた秀作といわれている。同書には、反革命のレッテルを貼られ、大学キャンパス内の「牛舎」(中国の多くの都市にあった家畜小屋のような劣悪な牢の通称)につながれた李と同僚の学者、大学幹部の体験が描かれている。毎日、紅衛兵に家畜のように追い立てられ労働し、『毛沢東語録』を繰り返し朗読させられ、肉体的、精神的なサデステックなまでの虐待を受ける地獄の世界が、描かれている。

李は執筆の動機を、長い間、知識人の誰かが文革体験を本にするだろう、と期待して待っていたが、誰も書かないのでペンをとったと言っている。同世代の沈黙にしびれを切らした彼は、文革をほとんど知らない若い世代に、この狂気の時代を伝えるために書いたという。1998年、北京でこの本は出版され、李が愛国者で、有名な学者、エッセイストとして知られていたので、評判になりかなりの部数が売れた。しかし、当局は、この本をメディアが大々的に取り上げることを禁じた。文革はタブーであるからだ。

李は山東省の貧農のこどもとして生まれ、奨学金清華大学を卒業し、10年間ドイツのゲッチンゲン大学で、サンスクリットなどを学び博士号を取り、1946年に帰国した。北京大学の東アジア言語部長となった彼は、49年に中華人民共和国が樹立されると、多くの教育ある人々と同様に、毛沢東政権への期待を抱いていた。

彼は政治には興味がなく、関わりたくなかった。しかし、共産党政権下ではそうはいかない。毛沢東の中国では、誰も局外者であることは許されないからだ。彼は、過去の無関心を反省し、マルクス主義を勉強し、50年代に共産党員になった。李は党の決定には従い、異論は許されない政治キャンペーンに積極的に参加した。57年の反右派運動で、50万人以上の知識人が迫害されたが、李は標的からはずれ生き延びた。その理由は、彼が貧農出身で党路線に忠実だったからだろう。

66年5月、文革がはじまり、北京大学のキャンパスは紅衛兵が支配する無法地帯となり、学者と大学幹部が「走資派」(資本主義容認派)として批判集会で吊し上げにあった。それに加えて、毛思想の解釈をめぐって紅衛兵が二派に分かれて争い、学内は大混乱に陥った。事態におどろいた李は慎重に行動したが、致命的な過ちを犯す。主流派の紅衛兵グループのリーダーに哲学科教員の聶元梓がいたが、李は彼女の言動が粗暴なことが気に入らず、別の紅衛兵のグループを支持した。

すると、すぐに聶の配下が李の自宅を襲い、家具を破壊し書斎を荒し、彼が反革命派であるという言いがかりをつけるための‘証拠書類’を押収していった。この瞬間から、彼の人生は地獄になった。

聶は北京大学反革命派を弾劾する文革第一弾の大字報(大文字の壁新聞)を書き、それを毛沢東が公に支持した、お墨付きリーダーだったから相手が悪かった。李は、長時間の批判集会で怒鳴られ、殴られ、唾をかけられ、拷問された。教え子と同僚は自己防衛のために、彼を裏切った。彼はあまりの屈辱と拷問と裏切りに耐えかねて、自殺をしようとした。しかし、実行に移そうとしたその瞬間に、ドアのノックの音がして思いとどまった。

批判集会でのストレスで李の睾丸は膨れ上がり、脚を閉じることも歩くこともできなくなった。しかし、紅衛兵は彼にレンガ運びを強要したので、李は、一日中、這いながら作業をした。やっと軍の病院で治療することが許されたので、2時間這ってたどり着いた。ところが、黒衛兵(聶元梓の率いる紅衛兵の敵)であると言う理由で治療を拒否され、彼は這って労働キャンプへ帰っていった。

紅衛兵による批判集会は、集団暴力による自己批判強制の場であった。李は毛が徹底的に使った自己批判制度について語っている。筆者は、当時の中国を理解するための、極めて重要な点だと思うので紹介しょう。

共産党員になるために、李は次のように自己批判書を書いた。共産党が日本軍と戦っている時、自分はドイツで学問をしていた。これは、利己的で愛国的ではない。共産党の政策は理想主義に基づき、気高い。だから、政治を避けてきた自分は間違いを犯した。これからは、人民の一人として働きたい。

李はこの本のなかで、キリスト教徒の罪の意識に似たこの罪悪感は、恥の感情となり、共産党とその偉大なるリーダー毛沢東を崇拝する、大きな心理的動機になったと告白している。思えば、無神論の国の‘神’がつくった思想改造のための自己批判制度は、まことに巧妙な統治システムであった。人民とともに「毛沢東万歳」を叫んでいた李は、9ヵ月にわたる牛舎体験し、後に4人組裁判で真相が明らかになるまで、これに気付かなかったのである。

李は2009年に亡くなった。彼と親しかった北京大学の同僚が、次のようなエピソードを回想している。1989年、天安門広場民主化を求める学生がハンガーストライキに入ると、李と北京大学の同僚は連帯の意思を示すために、広場へ向った。李は学生の漕ぐ三輪車の後部座席に座り、市内を駆け抜けていった。「ナンバーワン教授 李羨林」のバナーが付いた三輪車が広場に到着すると、学生は78歳の李を大歓声で迎えた。

天安門広場の虐殺のあと、北京大学の教授会で、党の指示により全員がその立場を表明することを迫られた。李の順番がくると、彼は「聞かないでくれ。あれは、愛国的な民主化運動だったと、答えるだろうから」と言った。何日か後に、彼はキャンパス内にある住宅からタクシーに乗って、地区の公安局を訪れた。「わたしは北京大学の東アジア言語学部教授です。天安門広場へ2回行き、学生を激励しました。わたしを学生と一緒に収監してください。わたしは70歳をこえています。もう生きるのが嫌になりました」と彼が言うと、公安警察官はおどろき大学へ電話した。これまた、びっくりした北京大学の幹部が公安局に駆けつけ、李をキャンパスに連れ帰った。

 

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天安門楼上で紅衛兵に手を振る 周恩来毛沢東林彪 1966年8月   Wikipedia

 

毛沢東はなぜ中国全土を大混乱に陥れることになる、文化大革命をやったのだろう。歴史家は二つの理由を挙げる。第一は、大躍進政策の大失敗で実権を奪われた毛の権力奪回のための手段、第二は、彼が信じる永久革命階級闘争、反資本主義路線の継続であったと言う。

この革命にいたるまでの背景を手短に説明してみよう。

毛沢東の目指した中国を工業化して「15年以内に英国を追い越す」という大躍進政策(1951-61)は、少なくとも3000万人という未曽有の餓死者をだす悲劇を生み出した。しかし、国民はそれを知らなかった。建国の父・毛沢東の威信は高く、彼の意向に逆らう共産党幹部はいない中、59年夏、ただ一人、毛の無謀な経済政策を正面切って批判したのは、貧農出身の彭徳懐元帥であった。

しかし、彼は毛の逆鱗にふれ国防相の職を解かれ、その後任に元帥・林彪がつく。その後、大躍進政策の失敗が明らかになると、毛沢東自己批判国家主席を辞任し、新主席・劉少奇と鄧小平が実権をにぎり経済の立て直しをやりはじめた。しかし、棚上げされた毛沢東は、彼らの経済路線は資本主義への道を開くと危険視し、権力奪還の機会を虎視眈々とうかがっていたのである。

天安門の100万人集会の半年前、共産党中央の粛清がはじまっていた。その最初の犠牲者は、総参謀長・羅瑞卿であった。3月、彼は3階建ての屋上から身を投げ自殺を計ったが未遂に終り、半身不随になった。その2ヵ月後、北京市の文化部長(「人民日報」前編集長)?拓が自殺した。その6日後、毛の政治秘書・田家英も自殺した。彼らは長年、毛に仕え、彼の性格もイデオロギーも良く知り、政治学習と自己批判を重ねてきたにもかかわらず、反革命の烙印を押されての自殺であった。

中国の政治、文化、教育、軍、経済の中枢が腐りつつある、それは修正主義者が巣食っているからだ、と考えた毛は、これまでの功績がどうあろうと、自分に反対する者は粛清する決意を固めていた。毛は側近と密議を重ねた。その側近グループは、国防相・林彪、毛夫人・江青、スピーチライター・陳伯達、情報機関長・康生、首相・周恩来で構成されていた。

66年はじめ、江青は毛の意向をくんで北京の有名作家の一団を攻撃しはじめた。ブルジョア思想で汚染されていると批判された作家のなかに、郭沫若もいた。彼は日本でも良く知られる、新中国を代表する作家であった。彼は党の常務委員会で突然「私がこれまで書いてきたものは、価値がない。すべて焼き捨てるべきだ」と自己批判した。政治に文学が屈した異様な場面だった。生き延びるために、過去の作品を全否定した郭沫若には、二人の息子が文革で死ぬという悲劇が待っていた。巴金など多くの作家が生きるために文革路線に追随したから、自己批判を潔よしとせず、死を選んだ老舎は例外だった。

ともあれ、文化大革命と称する革命は文化とは非なるもので、血にまみれた20世紀最大の悲劇のひとつであった。戦略家の毛はその革命をするために、時間をかけて準備している。62年に林彪を国防相にして、軍をコントロール下に置き、江青を文化責任者に任命し、芸術・文化をプロレタリア文化一色にする機会を狙っていた。

林彪毛沢東に絶対忠誠を誓い、64年、人民解放軍の将兵向けに『毛沢東語録』を刊行し、毛崇拝の音頭をとった。文革時には、赤い表紙のポケット版『毛沢東語録』語録は紅衛兵のバイブルになり、すべての中国人の思想・行動の指針となったかから、その影響は巨大である。44億冊が印刷されたという。

のちに非業の死をとげる毛の後継者、劉少奇は、自分も粛清されるとは思っていなかったようだ。その証拠に、彼は羅瑞卿の自殺未遂について「自殺をするなら、アタマから突っ込まなくてはだめだ」と冷笑し、鄧小平も「女性選手の下手なダイビングみたいだ」と皮肉っていたから、その時点では毛沢東の意図に気付いていなかった。

 

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劉少奇      Wikipedia     鄧小平     Wikipedia

 

しかし、5月に毛の側近グループが執筆した「5・16通達」(のちに「16条」)が党中央委員会に提出されると、彼の意図が明白になる。その通達には「修正主義者との路線闘争が最も重要な課題である。これに、党と国家の未来、世界革命の未来がかかっている」とあった。これは、プラグマティズムで経済改革を推進する劉や鄧への不信任宣言であった。

江青長春橋、姚文元(「四人組」の3人)などから成る「16条」起草チームは、その直後に「中央文化大革命小組」として公認され、絶大な権力を行使することになる。この組織は、毛の個人的なツールであった。5月の通達は31回も書きかえられ、8月8日に中央委員会の「プロレタリア文化大革命に関する決定」となった。「16条」は「文革とは人々の魂に触れる大革命」と定義し「ブルジョワ階級はすでに転覆されたとはいえ、いまだに搾取階級の旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣を用いて大衆を腐食し、人心をとらえ、復活をもくろんでいる」「今回の運動の重点は、党内で資本主義の道を歩む実権派である」と、その標的を定めた。

革命の運動方法について「16条」は毛の「革命はティーパーティではない。革命とは暴力である。ひとつの階級が他の階級を打ち倒す、過激な行動である」を引き「騒乱を怖れてはならない」と書いた。これは紅衛兵が‘革命の敵’に暴力を振るう免罪符ととなり、「革命無罪」という言葉も生まれた。革命の敵は四旧だけではなかった。黒五類と呼ばれる地主、富農、反動分子、悪質分子、右派も、徹底的に迫害された。

毛がどのようにして政敵を粛清したか、を探ってみよう。彼はまずは学校に的を絞った。第一弾は前述の紅衛兵による北京大学の指導部を批判する壁新聞だった。これが、清華大学に飛び火し、全国の中学、高校、大学に広がっていった。66年6月、上海に例をとると、8万8千の壁新聞が貼られ、270万人が参加し、1400人が階級の敵の罪で吊し上げられた。毛はこの若き同志たちが自由に革命に参加できるよう、6月中旬に、中国全土の学校の閉鎖を命じた。

その結果、1億の小学生、1300万の中高生、50万の大学生が好き勝手に暴れまくったのである。文革派ではない党幹部が、各キャンパスに工作隊(党がトラブル・スポットへ送る特別班)を派遣して、秩序回復を試みたが、毛はその活動は紅衛兵と大衆の革命精神を阻止するものである、と言い、警察の介入を禁じた。毛は彼を信奉する若者を「造反有理」(謀反こそ正しい)「司令部を攻撃せよ」(司令部すなわち劉少奇と鄧小平)という言葉で煽って、権力奪回に成功したのだった。文革で中央委員会委員の3分の2が粛清されたから、そのすさまじさが分かる。

ここで、毛がどのような方法で、劇的に展開する文革の流れを把握して、指示を与えていたか、を探ってみる。日々の動きに関する秘密報告は、彼が特別列車で移動中でも、上海、杭州武漢の邸宅にいるときでも、毎日、北京から専用機が飛び、車で届けられていた。報告の中には、各地で党幹部、作家、教師などが、三角帽を被され、首に罪状をかけられ、殴られ、ときには殺される批判集会のことも入っていた。

中央調査部と呼ばれる、秘密情報機関が果たした役割は大きい。中国のべリア(スターリンの悪名高い秘密警察長官)と呼ばれた側近の康生がこのスパイ組織を仕切り、重要情報を毛に直接報告した。『毛沢東最後の革命』の著者は、この組織はナチスゲシュタポソ連のチェッカーに似ているという。その主な任務は、共産党幹部の裏切り、スパイ活動、敵と共謀をチェックするためだった。

諜報員は、工場、オフィス、学校、国家機関とあらゆる階層に潜りこんで、情報を集めていた。例えば、毛の劉少奇追い落としのために、調査部は90人の中央委員の言動を調べ、700人の軍将校が18ヵ月かけて証拠集めをしている。中央調査部は別称「耳目」と呼ばれていた。これは、歴史家・司馬遷が漢の皇帝が全国に張り巡らせたスパイ網につけた名前だが、赤い皇帝の現代版だった。

 

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江青       Wikipedia      康生      Wikipedia

 

毛沢東はどのように紅衛兵を扇動して革命に火をつけたのだろう。北京大学を舞台にして起こった事件を追うと、その彼の手口がよく分かる。5月中旬、康生は中央調査部の幹部である妻の曹較欧を北京大学へ派遣した。彼女は学内左派のリーダーとコンタクトをとり、学長・陸平とその一派を追い落とす秘密任務を帯びていた。彼女は昔から知っている哲学科教員・聶元梓(李教授を牛舎に入れた人物)に会い情報交換をし、学生を動員して、陸平一派を修正主義者として弾劾することを相談した。

5月24日に曹の許可を得て、聶が書いた大字報が校内大食堂の壁に貼りだされた。内容は、陸平派は陰謀を企てている危険な修正主義者だ、とあり「党中央を守れ、毛沢東思想を守れ、プロレタリア階級独裁を守れ」と書かれてあった。これは文革壁新聞の第一号となった。

曹は壁新聞の写しを康生に渡し、彼はそれを杭州にいた毛へ送った。それを読んだ毛は、6月1日に全文をラジオで放送し、人民日報などに掲載することを指示した。これをきっかけに、北京の街は、昼夜を問わず毛沢東と新指導部を支持するデモが行われた。紅衛兵を中心にするデモは、建国のヒーロー毛沢東が攻撃されている、守ろう、という気分に満ちていた。その10日後に、毛は前述した全国の学校を閉鎖する指示をだしたが、その理由は生徒・学生が「階級闘争」に専念するためであった。

北京大学の事件を、後に聶は康生が裏で「革命の火を煽りたてた」と言い、毛沢東自身も、数か月後に「あの大字報を放送させて、大騒ぎを引き起こした」と語っているから、綿密に計算されたトップダウンの革命劇の序章であった。

紅衛兵のなかで、最も熱烈な文革支持者は疑うことを知らない1300万人の中高生だった。彼らは毛を崇拝するあまり、各地で暴行を働き殺人まで犯している。生徒が教師を殺害する事件の第一号は、8月5日、北京師範大学付属のエリート女子校で起こった。このエリート校には、毛沢東劉少奇、鄧小平の娘も学んでいた。

犠牲になったのは、副校長の卞仲耘だった。彼女は50歳の党員、4人の子どもの母親で、49年からこの学校に勤務していた。過激化したキャンパスの紅衛兵は「毛沢東思想に反対するものは、誰であろうと、とことん叩きのめす」と大字報を貼り、副校長を標的にした。彼女は批判集会で吊し上げられ、撲殺された。罪状は根拠のない反革命行為と毛沢東への不敬だった。不敬の理由は、地震が起きたら校外へできるだけ早く逃げなさい、と卞仲耘が指示したとき、一人の生徒が「教室の毛沢東肖像画はどうなるのですか」と尋ねたが、そのときの答えに熱意がなかった、というものだった。

大字報のコピーのビラに覆われた彼女の死体は、手押し車に置かれ病院に運ばれた。夫が駆け付けたが、誰もなにが起こったかを語らず「死因不明」で処理された。その後、この殺人に関与した者は誰ひとりとして、その責任を追及されなかった。この事件の2週間後、毛沢東が100万人の紅衛兵天安門楼上で接見した。そのとき、彼の腕に紅衛兵の腕章をつけた17歳の宋彬彬は、北京のエリート女子校の副校長殺害事件のリーダーの一人だった。現場には鄧小平の娘もいたという。

 

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下仲耘と二人の子ども 王晶尭  謝罪する元紅衛兵 左から3人目が宋彬彬     新京报

 

50年後の今年、米国籍をとりMIT研究員となった宋彬彬は、母校を訪れ下仲耘の銅像に深々と頭を下げ謝罪した。しかし、下の夫・王晶尭は「妻の死の真相が明らかになるまで、謝罪は受け入れることはできない」と語っている。毛沢東に洗脳された少年、少女によって、理由もなく拷問、殺害された人々の遺族の傷は深い。

文革の暴力のスケールを推定してみよう。以下は、『毛沢東 最後の革命』から引く。80-90年代に人民解放軍が集めた調査記録を基にした研究によると、66-71年の5年間に、農村地帯だけで3600万の人々が迫害されているという。その内、75万から150万が殺され、ほぼ同数が重傷を負った。同教授によると、死者の大多数は紅衛兵の暴力や紅衛兵間の武闘によるものではなく、68年に林彪軍事独裁体制を敷き、‘反革命派’を武力鎮圧したときのものだった。

例えば、内モンゴルでは、68年に反革命の容疑で80万の人々が迫害され、その内、2万人が殺害され、12万人が不具者になった。北京に近い河北省東部では、国民党の地下組織のメンバーである容疑で8万4000人が迫害され、拷問で3000人が殺害された。雲南省では45万人が標的になり7000人が死亡し、その原因は全員が「追い込まれての自殺」になっている。

これに都市部の犠牲者数が加算されると、さらに増えるが、史料が少ないので推定が難しい。今春、刊行され好評の”The Cultural Revolution”で、香港大学教授フランク・ディケーターは死者総数150-200万と推定しているが、英国のエコノミスト誌などはこの数字を使っている。

前記の文革史の権威、ハーバード大学のマクファーカー教授はガーディアン紙に「私が思うに、文革で最も恐ろしい側面は、党主席が国全体を混乱に陥らせたということばかりではない。スタートのピストルが鳴らされるや、中国人がお互いに対して極度に残酷になったということだ」と語っている。ちなみに、習近平の娘はハーバード大学留学中に同教授の学生だったから、文革の悲惨さについて学んでいる。

文革開始から2年、毛沢東が煽った紅衛兵による流血事件はやまず、中国はマヒ状態になった。68年夏、毛は事態収拾のために、北京大学の聶元梓、清華大学の?大富など紅衛兵の代表を、人民大会堂に招き会談した。毛のわきには林彪周恩来など党と軍のトップが控えていた。彼はその席で、紅衛兵の暴力のせいで民衆が離反した、秩序回復のために、大学へ人民解放軍を進駐させるつもりだ、と言った。これは紅衛兵運動への死刑宣告だった。このUターンで、紅衛兵の時代は終わった。

そのあと紅衛兵は、農村や工場で働くために下放された。それから7年間、大学卒業生を含む1200万の都市青年が地方へ送られた。内モンゴル、新疆などの辺境の省へ大量の青年が送られ、苛酷な条件下で長い歳月を送った。

悪夢のような文革時代を、習近平以下の中国共産党リーダー全員が、10代、20代のときに体験し、最高決定機関である政治局の7人の内5人が下放を体験している。習の父親・習仲勳は副首相だったが、文革紅衛兵にひどい吊し上げにあい、長年、幽閉されていた。習自身も15歳のときに下放され、陳西省の貧しい村で、7年間暮しているから、彼は文革の狂気をよく知っている。しかし、習は国民が文革から学ぶことを拒否している。

 

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天安門毛沢東肖像                 Masa

 

現代中国では、文革はどう扱われているのだろう。一言でいうと、タブーである。今年の5月16日は文革スタートから50年周年の日にあたったが、共産党機関紙の『人民日報』はそれを完全に無視し、テレビも他の新聞も沈黙を守っていた。習近平政権は、メディアが文革をテーマにし報じることを禁じている。歴史家が文革について公の場で論じることもご法度だ。

なぜ文革がタブーなのか。過去30年間、紅衛兵について研究しているシカゴ大学の王友琴(元紅衛兵)は「共産党は、文革の暗部が明るみになると、国民が政治システムに疑いを抱くことを心配している」と語っている。習近平は‘不都合な真実’が暴かれると、とくに毛沢東の果たした役割が知られると、共産党支配の正統性に傷がつき、政権の土台が揺らぐことを怖れている、ということだろう。

しかし、文革の犠牲者のトラウマは癒えていない。以下、ガーディアン紙のトム・フィリップ記者が伝える二つのレポートを紹介しよう。

昨年の暮、人気のテレビ歌謡番組「中国の星」でタブーを破る異変が起きた。シンガ―・ソングライターの楊楽が、文革で家族が苦しんだ歌「あれから」を唄ったのだ。

わたしが少年だったとき、わが家は6人家族だった。父はハンサムで、ママは若くて美しかった。でも、文革で5人になった・・・

楊楽の父親は当時37歳の人民大学の講師だった。彼は、紅衛兵に尋問、拷問されたあと、屋上から飛び降り自殺をした。父親が亡くなったあと、母親は家財を売り、血を売り4人の子どもを育てた。彼の兄弟は再教育のため田舎へ下放された。のちに、母親は再婚し遠くへ行った。その家族の物語を詩にして彼はギターを弾きながら唄った。

会場は静まりかえり、審査員の眼から涙がこぼれた。彼はその歌で、人気歌手になった。文革はタブーだが、政府はこの歌を黙認した。検閲官の父親文革の犠牲者だったのかもしれない。

50年前、紅衛兵によって惨殺された父をもつ、元教師の陳は、「あなたは紅衛兵を許すことができるか」とフィリップ記者に尋ねられると、アタマを横に振り「彼らに言うことなどなにもない」と言った。

彼の父は当時37歳、6人の子供の父親で北京鉄鋼公社に勤務していた。現在でも不明の罪で、かれはティーンエージャー紅衛兵に、ラヂエーターに縛られ、鉄パイプで殴り殺されたのだった。その犯行現場(学校)で、陳の母親もまた拷問を受けていた。血まみれになり帰宅した彼女は「お父さんはもう帰ってこない」と子供に言った。当時23歳の陳は「われわれはどんな過ちを犯したというのだ」と、母親に尋ねたという。

50年後、陳はこう語った。「紅衛兵は、四旧(人民を毒する旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣)と黒五類(階級の敵である地主、富豪、反動分子、悪質分子、右派)の打倒をスローガンに掲げていたが、私の家族はどのカテゴリーにも属していなかった。それなのになぜあんなことが起こったか分からない」。

歴史上の大革命に比べて、文革が特異なのは、数千年に渡って育んできた、中国人の価値観と文化・伝統・慣習・思想が破壊の対象になったことだ。紀元前から中国人の道徳の中心であった孔子の教えもまた、反革命思想であるとされ、ゴミ扱いされた。毛沢東の旧いものはすべて破壊して、「美しい新世界」を創ろうというユートピア思想は、結果的には、子が親を告発し、教師と知識人がリンチにあう、という異常な世界をつくりだしたのである。

紅衛兵の歴史的遺産の破壊は、イスラム国によるそれの比ではない。彼らは山東省曲阜にある孔子廟を襲い、大量の古文書、由緒ある石碑をはじめ‘封建制の遺物’を燃やし粉砕した。北京では、市が指定した歴史文化遺産6843件の内、4922が被害を受けている。作家の巴金は、文革の犠牲者のひとりだが、この四旧撲滅キャンペーンによる破壊を「精神的ホロコスト」と呼んだ。彼は、二度とこの悲劇を繰り返さないために「文化大革命博物館」を建てることを提唱したが、実現していない。

 

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孔子像 (燕趙園)      Wikipedia

 

さて、文革中はあれほど批判された孔子はどうなったのだろう。毛が死んだあと、獄死した劉少奇の名誉が回復されたように、彼もまた復権を果たしている。 2004年に中国政府は孔子学院を設立した。世界中に中国語と文化を普及するのがその目的である。毛があれほど敵視した孔子は、中国文明のシンボルとして復活した。中国がソフトパワー戦略の目玉として推進してきた孔子学院は、いまや世界の500の大学などと提携している。しかし、北京の介入は学問の自由を束縛するという理由で、ストックホルム大学、シカゴ大学などの大学は、提携を打ち切っている。

2011年1月、天安門広場の一角に巨大な孔子像が建てられた。盛大な開幕式が行われたが、数か月後には、突然、近くの公園に移された。ネット空間では、その理由をめぐって様々な憶測がされたが、その一つに「孔子が巨額の賄賂をとったという疑い」で当局は像を移動した、というのもあった。真相は分からない。いったんは許可したものの、党中央は、天安門楼の壁に掲げられている毛沢東の肖像と、ひと昔前にはあれほど批判した孔子の像が、同一空間にあるのは、天下に過去の恥をさらすと考えたのではないだろうか。

孔子山東省曲阜の廟で、共産党のご都合主義―文革中は旧悪のシンボル、今は調和と安定を唱えた賢者―を嘆いているのではなかろうか。秦の始皇帝が『論語』を焚書したように、「赤い皇帝」毛沢東孔子を弾圧した。そして、中国歴代の王朝が儒教を政権のイデオロギーとしたように、習近平政権も共産党独裁体制を守るために、孔子の忠孝や中庸の思想を利用している。

たしかに、孔子は国に忠を尽くせと言った。しかし、一方で「民無信不立」(民に信頼がなければ国は成りたたない)と言い、支配者が権力を乱用し、民を弾圧すれば、知識人は命を賭けて彼らを批判する義務がある、とも言っている。だから、孔子は「わが教えをつまみ食いするな」という心境だろう。

なぜ10代の紅衛兵が教師を殺害することができたのか。今回の歴史探訪をしていて、これが筆者の最大の「なぜ」だった。元紅衛兵の告白をいくつか読んでみると、当時の彼らの心理状態がいくらか分かる。

紅衛兵は、毛沢東が両親より大事な人と思っていた。みんな彼を守るためには死んでもいいと思っていた。毛は「司令部を砲撃せよ」と言い、すべての権威を否定し革命をせよ、とゲキをとばした。紅衛兵にとって、身近な権威は教師であった。革命のために、旧思想に毒されていると思われる教師は、侮辱され暴行され、ときに殺害された。そして、いくら暴れても「革命無罪」であった。

どこの国にも、歴史の暗部がある。日本は戦前の侵略戦争の残虐行為(例えば南京事件)を直視していないが、同様に、中国政府も国民も同様に文革を直視していない。戦後、ドイツはナチス時代を直視した。この国の心理学者トマス・プランケルは著作『中国人の魂の光景』で、過去の暗部に決着をつけた国では、歴史家や知識人が、事実をオープンに語ることで、ためらう政治家と大衆を説得したという。このプロセスが中国で起こっていない。共産党文革を直視することを禁じているので、起こそうにも起こせないのだ。

この現象は、日中間の歴史認識のギャップにも影響を与えている。中国政府は愛国教育の一環として、学校で戦前の日本の侵略戦争について時間をかけて教える。しかし、自国の政府の誤った政策で、どれほどの破壊と犠牲者をだしたか、誰の責任なのか、を教えていない。

前回の「辺見庸 1937」で指摘したように、日本の問題は、戦前、軍が中国でなにをしたかを忘れてしまったことだが、中国の問題は、学校で西洋と日本の帝國主義による「百年の屈辱」は学ぶが、自国の狂気の時代を教えないので、新世代はバランスのとれた母国像が持てないことだろう。筆者は日中相互不信の背景には、この両国の‘記憶喪失’があると思う。

今年の春、鄧小平時代の文化相で小説家の王蒙が、ある改革派の雑誌に寄稿し「中国には、文革の現実を説明する避けがたい責任がある。国民はこれをやるべきだ。党もやるべきだ。これは、歴史と世界に対する義務である」と言っているが、中南海のリーダーは聞く耳を持たなかった。

毛沢東文化大革命は、中国3000年の文明を否定する、とんでもない革命だった。革命は何のためにやるのか。大衆の幸せのためである。となると、毛のやったことは、それこそ反革命ではないか。

 

“Who controls the past controls the future. Who controls the present controls the past” George Orwell ”
「過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする」 英国の作家 ジョージ・オーウェル

 

著者はこの歴史探訪記を書くにあたって、以下の著作と記事にお世話になった。『毛沢東最後の革命』(上下)ロデリック・マクファーカー、マイケル・シェーンハルス共著 2010刊、” Le dernier jour de Lao She” Harold Thibault Le Monde 2016・7・28、“A Panoramic View of China’s Cultural Revolution” Sim Chi Yin New York Times 2012・9・10, “China: Surviving the Camps” Zha Jianyin New York Review 2016・1・26 , ”China‘s Great Terror” Jonathan D. Spence New York Review of Books 2006・9・21、 “The China is still denial about its “spiritual holocaust” The Economist 2016・5・14, “ The, The Analects of Confucius”  Simon Leys著 1997刊、

 

 

フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。