フランスの田舎で暮らす

土野繁樹の歴史散歩

ドルドーニュ便り〜年の瀬(2)

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わが家の台所の壁にかかっている、逆回りで動くこの時計を奥方が買ったのは、こちらで暮らしはじめたころのことである。日本から遠路やってきた友人はたいてい「なぜ?」と尋ねる。「これは、時間に追われる東京にさよならをした象徴みたいなものよ。時間が逆に流れているみたいでしょう」と奥方は答える。

わたしも当初は戸惑ったが、慣れるにしたがって、これが普通になった。未来に向かう時の流れは地球上どこでも同じなのだが、なんだかわが家の空間だけは、時間が過去に向かって流れているような心地よい錯覚に一瞬とらわれるのである。

事実、ここでの時間の流れは実にゆったりしている。わたしが東京でニューズウィーク日本版の編集をやっていた頃は、土日月の3日間で40時間働いて週刊誌をだす、それを一年に50回繰り返す時間のサイクルだった。それに比べると、第一線を退き、自然のなかで暮らしている今は、時間の流れを測るバロメーターが春夏秋冬の四季の移ろいになった。

しかし、今年も残すところ10日。この時期になると1年があっという間に過ぎたことを思い知る。年を重ねる毎に‘光陰、光速の如し’の感が深い。

 

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凍てつく夜、ダイニング・ルームにある暖炉に火を入れる。この家は1827年築だから、暖炉も年季が入っている。人は炎になぜ魅せられるのだろう。揺らめく炎を見ていると、時の流れを忘れてしまう。あたりが優しく、親しみのある空間になる。そして、静寂と闇のなかで燃え上がる炎の前で、人は沈黙し哲学的になる。

この炎を眺めていると、同志社大学アーモスト館の寮生時代から親友だった石井信平君のことを想いだす。筑摩書房の編集者、テレビマン・ユニオンの番組製作者、ライターだった彼は才能豊かなほんもののジャーナリストだった。考え抜かれた見事な文章を書く友だった。なにより、わたしは誠実で毅然としユーモアを解する彼の人柄を愛した。

信平君が敦子夫人とわが家に滞在したことがある。彼は暖炉の炎の虜になり、朝に夕にマキを燃やし続けじっと炎を見つめていた。その信平君は3年半前にガンで亡くなった。

今宵は彼を偲んで、好きだったボルドーの赤ワインを飲みながら暖炉の炎と語らおう。

 

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サン・ジャン・ドコール教会

 

年の瀬になると、奥方とわたしは花を携えてお世話になった村の友人宅を予告なしで訪れる。今年の花はアマリリス。フォルニエ夫妻の家は教会(写真)の前にある。アンリ・ジャンは退役将軍で、教会修復委員会の幹事として、中世ロマネスク様式の教会内部の修復事業のための基金43万ユーロ(5千万円)を集めた人だ。わが奥方も唯一の外国人委員として参加したが、10年間かけたこの事業も今年の夏で終わった。

マチュア画家のニコール夫人は花にいたく感激したようすだった。コーヒーでもと誘われるのを辞退しての帰り際、ニコールは「これは、アンリ・ジャンのプレゼントよ」と、超ミニ折り紙が入っているイヤリングを指差した。

その後、フォルニエ宅から歩いて数分、コール川沿いにあるリトアニア人・バストカスさん夫妻のお宅に花を届けた。ロンはカナダのトロント大学の前人類学教授、オナは土木エンジニアで、なんでもできるスーパーウーマンだ。彼女はロンの書斎になる空間の壁に暖房シートを張っている最中だった。彼女は「明日、書棚をつくる木材を買いにいくのよ」と弾んだ声で言っていた。5年前廃墟にちかい5世紀前の家を買った彼らは、ほとんど自力で見事な住居に蘇らせつつある。この夫妻とは昔からの友達のように波長が合う。この村が結んでくれた縁である。

 

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元旦ヌーヴェル・クイジー

 

クリスマス休暇で娘の恵実がストックホルムからやってきた。彼女はスウェーデン環境省の役人で地球温暖化対策を担当している。今月ドーハで開催された国連気象変動会議(COP18)など、海外出張が年間100日というから相当タフな仕事だ。しかし、元気なので安心した。彼女が持参した奥方の故郷スコーネ(スウェーデン南部)の塩漬ハムや胡椒クッキーは、わたしの好物でもあるのでありがたい。

クリスマスの朝、毎年わたしたちは教会のミサに行く。今年はひさしぶりにドルドーニュの首都ペリギューにあるサン・フロン教会に行くことにした。ここは、ビザンチン世界にタイム・スリップしたかと錯覚するような5つのドームで知られ、サンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼路の一部として世界遺産に登録されている。

サン・フロン教会だけではなく、どこの教会でもクリスマスの日にいつも心を動かされることがある。それはミサが終ると、前後左右に座っている、見知らぬ人同士が黙って握手する光景だ。信者でないわたしも力強く握手をする。これほど気持ちが和むことはない。

毎年、猛スピードでやってくる大晦日。年越し蕎麦とシャンパンで‘行く年、来る年‘を祝うわが家の行事は、結婚以来だからもう40年近くも続いている。シャンパンは意外に蕎麦と相性がいい。これこそ東西グルメ文化の融合!

横浜で暮らしていた頃は、港の汽笛やNHKの流す除夜の鐘で正月を迎えたが、ここにはサン・ジャン・ドコール村の教会の鐘がある。なにしろ11世紀に教会が建てられて以来、鳴り続けてきた音色である。

仏鐘に 諸行無常の 響きあり (2012・12・20記)

 

 

ドルドーニュ便り-芸術誕生の地(1)

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サン・ジャン・ドコール村

 

筆者が上記のタイトルで2007年、白水社ふらんす誌に12回寄稿したのが、暮らしシリーズの事始めであった。これが好評で、同誌のインターネット版で番外編として3年間続 け、その後も、2012年からLGMIと一緒に3年間継続した。

内容は江戸時代のようなペースでの暮らし、村人との愉快な交流、四季の移ろい、それに 時評と旅行記である。今回、その大量のエッセイから面白いものを選択し公開する。毎月2回で一回分が平均2000字の内容は、気楽な歴史散歩である。読者の皆さん、どうぞお楽しみください。

 

芸術誕生の地(1)

 

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ラスコー洞窟画     17000年前の作品

 

わたしは10 年前から、ひょんなことからパリから南500キロのところにあるドルドーニュ県の小さな村で、一年の大半を妻と二人で暮らしている。ドルドーニュは、珍味フォアブラの産地、クロマニヨン人の描いたラスコー洞窟画、1000の城で知られている。わが家の周りはまったくの田園地帯で、数軒隣家があるだけだ。1キロ近く歩くと、中世の風情を色濃く残す人口300人の村サン・ジャン・ドコールがある。そこには11世紀の教会と15世紀の城が建っている。教会の鐘の音が時を告げ、村役場の三色旗がたなびく生活空間のなかでの暮らしは快適だ。 

 

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わたしはフランスとは縁のない男だった。いわば純粋英米派であった。というのも、英国で誕生したブリタニカ百科事典、米国の週刊誌ニューズウィーク日本版の編集をしていたからだ。30年間、仕事を通じてアングロ・サクソン文明の視点で世界を見てきたのだが、当地の田舎暮らしでフランス文明の視点が加わった。そのおかげで、世界を見る目が微妙に変わったと思う。

 

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筆者 村の花祭りの準備

 

フランス語は、こちらで暮らしはじめる前に、横浜日仏学院の週3時間のコースに半年通っただけで、まっくのゼロ(雑誌Elleのタイトルがなにを意味するか知らなかった)からの出発であった。奥方はフランス語ができるので、日常生活に支障はなかったが、当初、わたしの村人との交流はBonjour(ボンジュール)一本槍だった。今ではルモンド紙を購読(理解度は50%))し、テレビ・ラジオのニュースを苦労して聞いている。しかし、まだレベルの高い会話はできない。

都会育ちのわたしにとって、田舎暮らしそのものが初体験だった上に、選んだ場所がフランスの奥深い田舎だったので、そのインパクトは新鮮かつ強烈だった。この村での暮らしと東京時代とを比べて、なにが一番違うかと言えば、時間についての感覚だろう。ここでは、とにかく時間がゆっくり流れるのである。

 

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丘の上のわが家

 

わが家は、1827年に建った石造り240㎡の平屋である。建築様式は17世紀から19世紀前半に流行したシャルトルーズと呼ばれるもので、昔は地方のブルジョワや地主の住居や別荘であったようだ。壁は70㎝もあるから頑丈で真夏でもクーラーはいらない。食堂の暖炉には建築時のままの鶏や豚を丸焼きにする装置があり、いまでも利用できる。歳月を経て屋根の赤瓦は薄茶色となり、壁は淡い灰色に変色し、玄関の入り口にある石垣には苔がむしている。ここで暮らしていると、百年前、二百年前、いや千年前もそれほど昔とは思えない。

村の広場に立って、ロマネスク様式の円いドームの教会、4つの尖塔がある城を眺めていると、中世世界にタイムトラベルをしている気分になる。教会はフランス革命時には荒れ果て、干し草の倉庫になっていたという。現在の城主ド・ブモンさんは貴族の末裔で16代目、37年間、村長でもあった。教会に隣接して大きな屋根で覆われたオープン・スペースがあるが、ここは昔のマーケットだ。いまでも夏祭りのダンスや教会コンサートあとのパーティの会場として使われている。広場の中心には、20世紀二つの大戦で戦死した村出身の兵士21名の名前が刻まれた慰霊碑がある。眼前に歴史がある。日常生活のなかに過去が生きている。

 

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ラスコーの洞窟画

 

わが家から車で20分のところに、クロマニヨン人が暮らしたヴィラ―の丘がある、その丘の下には鍾乳洞があり19000年前に描かれた洞窟画がある。ラスコーの壁画に比べると、画の数はすくない が、夏になると観光客が訪れる 。ここの人を襲う野牛や青い馬を見ていると、現代人の祖先クロマニヨン人を身近に感じるのである。

クロマニヨン人と言えば、横浜に住んでいたころスウェーデン人 の奥方と交わした会話を思い出す。ある日、彼女はフランスの雑誌の不動産広告を見ながら「このドルドーニュの家、素晴らしいわね」と弾んだ声で言った。わたしは「いいね」と答えたものの、彼女がまさか本気だとは思わなかった。

翌日からヤードは、その地がいかに面白いところかを語りはじめた。ワインが美味しく、風光明媚で、英仏百年戦争の地で・・と説得にかかったのである。「フランス語ができないから、無理だよ」と言うわたしに、彼女は「勉強すればできるわよ。それにドルドーニュは人類がはじめて文明化し芸術に目覚めた土地なのよ。ラスコーの洞窟画のこと知ってるでしょう」と言ったものだ。心機一転、まったく新しいことをやりたかったわたしに、この一言は効き目があった。わたしは文明と芸術と言う言葉に弱い。(2007・4・1記)

 



著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。

KGBの二重スパイ:モスクワ脱出か処刑か

 

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脱出計画が始まった瞬間                           The Times

 

モスクワのアパートに到着したゴルディエフスキーが発見したのは、ドアが開かないことだった。3番目のカギを使ったのはKGBの捜査班に違いないと思った瞬間、彼は背筋が寒くなった。自分の運命はこれで終わりだと思った。逮捕されすべての秘密を告発するまで、尋問を受け処刑されるだろう。

しかし、しばらくすると、KGBを知っている彼は次のように考えた。彼のスパイの全貌を知っているのなら直ちに空港で逮捕され、今頃はルビャンカの地下の牢獄だろう。彼が疑われているのなら、まだ確固たる証拠がないからに違いない。

KGBは極めて法律に忠実な組織であった。大佐を拷問にかけるには厳重なルールがある。スターリンが無実の人々を粛清した時代の反省からこうなったのだが、85年には証拠で犯罪を示し裁判で判決を受けるシステムが出来上がっていた。

彼はアパートのカギを管理しているKGBのカギ屋のおかげで、部屋に入ることができた。盗聴、盗撮の装置があることを確認した彼は、なにごともないように振舞うことにした。逃亡の詳細が隠されているシェークスピアの本は無事であった。その日、彼は直属の上司ニコライ・グリビンの自宅に電話をしたが妙によそよそしかった。

翌朝、彼はKGB本部へ出勤した。グリビンは彼に「君はトップ二人に会ってロンドンの状況を説明するのだから、その準備をしておいたほうがいい」と言った。彼はそういう指示だったので準備はできていると答えた。

夕方、彼はKGBのボスからの連絡を待っていたが、なにも声がかからなかった。3日目、グリビンが早めに帰宅するので、途中まで送るよと言われたので「ボスから電話があるかもしれない」と言うと、彼は「今晩、ボスから連絡はないよ」と言われた。

ゴルディエフスキーはロンドンの妻レイラに電話をした。彼女は二人のこどもは元気にやっているという、そしてしばらく話した。モスクワで何が起こっているか気づいていないようだった。この電話はKGBとしMI6が盗聴していた。 

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KGBの二重スパイ;米ソ核戦争を止めた男 (その2)

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ソ連の水爆実験(1955)                               You Tube

 

1978年夏、デンマークからモスクワに帰任したゴルディエフスキーは、第3局の部長ヴィクトル・グルミコに離婚して結婚することを報告した。すると、彼は「これですべてが変わるな」と返答した。やはり、KGB文化では離婚はご法度だったのだ。望んでいた副部長どころか、人事部に配属されこの局の歴史を担当することになった。のちに、彼は4年近くにわたるこの期間について書くことはないと言っているから、左遷の味をかみしめていたに違いない。そして、MI6との接触はまったく切れていた。

それでもカムバックを期して、英語の勉強を熱心に続けていた。当時のソ連で手に入るチャーチルの『第二次世界大戦史』やフレドリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』などを読んでいる。特に気にいったのは、サマセット・モームの小説で、英国情報機関のアシェンデンに惹かれている。また、キム・フィルビーの報告書をロシア語に翻訳することもやっている。

1982年6月、ゴルディエフスキーは長い左遷を解かれロンドンへ赴任し、MI6の二重スパイの仕事を再開する。その年、世界は冷戦が熱くなり核戦争に追い込まれる気配を示してきた。それを発見したのは彼だった。クレムリンが本気で西側が核の先制攻撃をすると考えている兆しを探知したのだ。クレムリンは真剣そのものだった。

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KGBの二重スパイ:米ソ核戦争を止めた男(その1)

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世紀の二重スパイゴルディエフスキー(1976年撮影)             AP

 

『 スパイと裏切り者: 冷戦最大の諜報』(2018)を読んだ。この本はまだ訳がなく原題は“The Spy and the Traitor:The Greatest Espionage, Story of the Cold War“である。

ベン・マッキンタイアが書いたこの本について、スパイ小説の第一人者ジョン・ル・カレは表紙に「これまで読んだ本物のスパイの本で最高のものだ」と言っているが、その期待を裏切られない凄い内容だ。

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カミュが愛した女優カザレス

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カミュとカザレス 彼女のアパートで                 Paris Review

 

1944年 6月5日、アルベール・カミュは30歳で、表の顔は舞台の演出家、裏の顔はレジスタンス紙『コンバ』の編集長だった。マリア・カザレスはスペイン首相の娘で将来を嘱望される21歳の女優だった。

その日、カミユは彼女を誘い友人の宴席に出席した。そこはジャン・ポール・サルトルと妻シモーヌ・ド・ボーヴォワ-ルの自宅で、昔はヴィクトル・ユーゴーの愛人のアパートだった。

ボーヴォワ-ルは、カザレスは綺麗で独立心の強い人だったと日記に残している。深夜、カミュは自宅のアパートでカザレスとはじめて愛を交わした。その日、6月6日はドイツ軍との戦いを逆転するために、連合軍が20万の兵士を動員し、ノルマンディー作戦の第一弾を敢行した日であった。

二人の関係は4年間の断絶の後、1960年冬にカミュがあの突然の自動車事故で亡くなる日まで続き、彼らの交流は秘密のラブレター865通の手紙に綴られている。

このラブレターが入った『書簡集』の素材は、女優カザレスがカミュの娘カトリーヌに譲ったもので、彼女は長い間ためらっていたが、彼女の編集で2017年にガリマール社から刊行された。手紙、絵葉書、電報が入った1300頁の大作だ。

カトリーヌの母が1979年に亡くなったあと、彼女は意を決してカザレスに面会を求めた。二人はすぐ打ち解けて、旧知のようにカミュのことを遅くまで語りあったという。

彼女は手紙のすべてを読んで心が軽くなった。この『書簡集』の序文に「彼ら二人に、ありがとう。手紙を読めば、ただ二人が存在したがゆえに、この地上はより広く、空間はより煌めき、空気は軽くなる」と結んでいる。

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カミュの哲学:非暴力の平和主義者

 

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アルベール・カミュ                          Henri Cartier-Bresson

 

「おそらく、どの世代も世界を作り替えることに責任を感じていることでしょう。しかしながら、今の世代の場合は世界を作り替えることではないのです。その任務のもっと大きいもの、つまり世界が自分自身を破壊してしまうことから守ることなのです」。

この言葉は、アルベール・カミュが1957年のノーベル文学賞授賞の記念講演で語ったものである。当時の世界史年表を開いてみると、この年、ソ連がスプートニック衛星を打ち上げ、EECが結成されローマ条約が結ばれている。しかし、米ソ核戦争の脅威は暗雲のように漂っていた。

彼が『ペスト』を刊行したのは1946年であった。フランスがナチスに占領され解放から1年後に、5年かけてこの本を完成させている。当然、この『ペスト』はヒトラーのナチズムで、本人も全体主義下にある市民の苦しみと連帯を描きたかったと言っている。

しかし、この本の主人公はアルジェリアのオランで黒死病と戦う医師の物語のスタイルをとっているから、不条理の状況にある人々がペストを共感することができるのだ。

不条理という言葉はカミュによると「この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物ぐるいの願望が激しく鳴り響いて、この両者がともに相対峙したままである状態である」という。

現代のペストとはなんだろう。中国の武漢で始まったコロナヴィールスの猛威はまさにニュー・ぺストである。そして弾劾を逃れ暴れまくるトランプの不条理のペストなど数多くある。そのなかで、スウェーデンの少女ツウィンべーリが始めた「世界が自分自身を破壊してしまうことから守る」気候危機への対応は最重要な問題だ。これはもう後がない。

筆者はこのエッセイでカミュの経歴を紹介し、米国見聞録を描き、名作『ペスト』のハイライトを披露し、最後に共産主義をめぐるサルトルとの論争を見てみたいと思う。

彼の思想には非暴力の平和主義がある。その思想を守るために死ぬまで孤立したが、あくまで守りぬいた。最後に述べるように、共産主義は不毛であるという点については、歴史は彼が正しかったことを証明している。

彼のフランスでの人気は高い。フィガロ紙によると、クラシック読者のなかでモーパッサンモリエール、ゾラにつぐ第4位である。これは彼の文学者としての才能を示すものだろう。読者のみなさんにぜひ、地中海の太陽と海に魅せられたカミュの本を読んでいただきたいと思う。

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