フランスの田舎で暮らす

土野繁樹の歴史散歩

マクロン大統領の実像 救国の人か蜃気楼か

 

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フランス大統領エマニュエル・マクロン              Washington Post

 

エマニュエル・マクロンは半年前、第二次世界大戦以来、政権を担ってきた左右の既成政党を打ち破り、フランス史上、ナポレオンに次ぐ若いリーダーになった。1年前に、彼が大統領選に立候補したとき、誰も彼の勝利を信じる者はいなかった。この奇跡のような政治ドラマに世界中が沸いた。

マクロン大統領の誕生でEU(ヨーロッパ連合)は救われた。もし国民戦線マリーヌ・ルペンが勝っていたら、フランスはEUを離脱し、この国はトランプ化していただろう。イギリスは国民投票EU離脱、アメリカはトランプを大統領に選ぶという“国家的ハラキリ”をしたが、フランスは理性の選択をしたと言える。

フランスはマクロンの登場でダイナミックに変貌し始めている。とくに外交においてそうだ。彼はプーチンとトランプを相手にして一歩も引かない。しかし、見解はちがっても信頼関係をつくる努力をする。彼は大統領になって間もなく、プーチンをベルサイユ宮殿に招いた。最高の歓待はしたが、共同記者会見でプーチンを前にして「選挙キャンペーン中に、ロシアがわが陣営にサイバー攻撃をかけフェークニューズを流した」と言ってのけている。

トランプが国連アメリカ・ファースト路線の演説をした2時間後、演壇に立ったマクロンはそれを全面的に否定する国際協調路線を主張した。しかし、彼はいまや世界の嫌われ者になったトランプを夫妻で、フランス革命記念日に招き大歓迎するという鮮やかな外交を展開した。タイム誌は“ヨーロッパの次のリーダー”と題するマクロン特集をし、その抜群の英語力を称賛している。

マクロンは心からのヨーロッパ主義者である。彼はフランスの将来はEUの発展とともにある、と信じている。習近平の中国、トランプのアメリカよりEUの価値観は優れている、と信じている。彼はアテネのピュニクスの丘とパリのソルボンヌ大学でEU改革の構想を語った。ドイツのメルケル連立政権の樹立に失敗して、これまでのリーダーシップに衰えがみられる今、マクロンはEU蘇生の主役になりそうだ。

彼は内政では、雇用創出(現在の失業率10%)を推進するための、労働法改正法案を猛スピード成立させた。この法案は歴代の大統領が法制化を試み失敗しているから、マクロンはその最大の難関を突破したことになる。彼は議会で圧倒的多数を占める与党「共和国前進」の支持を背景に、痛みをともなう改革に邁進するだろう。ともあれ、マクロンは、フランスの経済改革を成功させなければ、EU蘇生のイニシアチーブはとることはできないことを良く知っている。

そのフランスとヨーロッパの未来を肩に背負ったマクロンとは何者か。筆者はこのテーマで書くつもりだった。しかし。フランスの作家エマニュエル・カレールの『マクロンとの一週間』を読み最高に面白かったので、翻訳して読者に紹介することにした。筆者のニューズウィーク日本版時代のモットー“下手な書き下ろしより、優れた翻訳記事を”の実践である。

この若き大統領のポートレートの書き手、カレールは作家、脚本家、映画監督として知られる。『口髭を剃る男』などの小説は邦訳もあり映画化されている。20世紀のカフカと言われるSF作家フィリップ・ディック(映画「ブレードランナー」と「高い城の男」の原作者)の伝記も書いているから幅が広い。

マクロンを1週間密着取材しインタビューしたカレールは、遠慮会釈なくその実像を描くが、筆致は温かい。マクロンの年上の妻ブリジットとのインタビューはとりわけ味がある。

このルポルタージュから浮かび上がるマクロン像は、卓越した知性と教養の人、優れた戦略家、鋭い歴史感覚のある政治家、そして、ブリジットの存在の大きさだ。エリゼ宮の大統領執務室のデスクに置かれている写真は、マクロンが最も尊敬する救国の人ドゴール将軍と最愛の妻ブリジットの写真だけである。

以下の『マクロンとの一週間』はイギリスのガーディアン紙にカレール氏が寄稿した“Orbiting Jupiter: my week with with Emanuel Macron” by Emanuel Carrere(2017年10月20日)の抄訳である。同紙と著者に心から感謝したい。

 

作家カレールのマクロンとの一週間

 

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サン・マルタン島を視察するマクロン                Quest-France

 

サン・マルタン島

 

その男は汗をかかない。わたしは9月12日、フランス領サン・ルマルタン島でそのことを発見した。島は数日前ハリケーン・イルマで壊滅的な打撃を受けていた。倒れた樹木、吹き飛んだ屋根、瓦礫の山のグラン・カーズ村を、フランス大統領・エマニュエル・マクロンは3時間歩き廻った。息苦しくなるほどの暑さのなか、下水道から溢れ出た汚物の匂いがしていた。わたしを含めてマクロンの同行者は、みんな汗びっしょりで、シャツは濡れていた。しかし、彼は汗をかいていなかった。腕まで巻き上げられたマクロンの白い優雅なシャツは完璧な状態だった。深夜、われわれ同行者は疲れ果てていたが、彼は元気溌剌だった。いつでも初対面の人と握手をする準備ができていた。

マクロンと会う人はみんな同じ体験をする。彼の鋭い青い眼は、相手を凝視し眼をそらすことはない。彼の握手は二段階方式である。はじめは普通の握手だが、次はこの会合は特別だとでも言うように、だんだん握力を強めていく。同時に、その視線に熱が入ってくる。トランプとの初会合でもそうだった。ただし、これは腕相撲のようになったが。やがて、もう一つの手は相手の腕か背中に触れる。そして、彼はその出会いが終わるのを惜しむかのように、ゆっくり握手の力を緩めていく。この技で支持者はますます彼を好きになる。敵に対してもマクロンは同様のアプローチをするが、ときに劇的な効果を生む。

矛盾は彼を刺激し、攻撃されると活気づく。政府が救援物資を送るのが遅すぎた、と批判する人々に、マクロンは穏やかに忍耐強く、政府は予想できる限りのモンスーン対策を講じていたが、これほどの異常気象をコントロールはできない、と説明する。そして、彼のトレード・マークになった言葉「同時に」と言い「わたしがサン・マタンに来たのはあなた方の怒りを聞くためだ」と静かに語りはじめた。

すると、マクロンの前にリラと名乗る若い女性が立ちはだかり、彼を激しく攻撃し始めた。あなたは犠牲者の苦しみなどなんとも思っていない、あなたのアイロンの効いたシャツと目立たないネクタイは並の品にみえるが、それは超高級品に違いない、テレビカメラの前で、ただ演技をするために来たのではないか。彼女のあまりの激しさに、マクロンの周りにいた島の住民の一群からブーイングが起こり「大統領にそんな言い方はないだろう」と一人の男が言った。並の政治家だったら「皆さんはわたしを応援してますよ」と反論しただろうが、マクロンは違った。彼にとってリラの発言は挑戦だった。

彼はリラの手を取った。その表情はといえば、わたしは今回の取材中にしばしば目撃したのだが、二つに分断されていた。右半分は眉毛にしわを寄せ、決意と威厳を示していた。それは、なにごとであろうと自分は歴史を意識してやっている、という印象を与える。左半分は礼儀正しく、楽観的で、いたずらっぽい。わたしがいるのだからうまく行くよ、という印象を与える。

5分いや10分、彼はリラの憤慨に耳を傾けた。マクロンには次の予定があるので、側近は心配でたまらない。いつもこうだ。まるでボスは時間がいくらでもあるように思っている。だが、ボスは彼だからしかたがない。

マクロンはリラを説得できないのでは?と周りの者は疑いはじめた。というのも自信をつけた彼女が気取って「もう面倒になってきたわ」と言ったからだ。それに対してマクロンは、これ以上はない魅力的な笑顔を浮かべながら「そうだと思っていたよ」と答えた。それを聞いたリラはニッコリ笑った。その瞬間から彼女は折れてきた。話し合いが終わり、二人は和解の握手をした。彼女は、思い直したのか「手を放してちょうだい。もうやめて」と言った。

わたしにはこの場面は、彼女がその怒りの主張にこだわる必死の抵抗のように思えた。マクロンはしばしばウィンクをする。わたしにもした。彼が大統領になったのは政治的奇跡だと思う人がいる、一方では、彼はいずれ消えていく蜃気楼だと思う人もいる。しかし、彼をどう思おうが、衆目の一致するところは、彼は極めて魅力的な男であるという点だ。

 

冒険が始まった

 

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フランス「前進」党の集会                     L‘Express

 

マクロンが大統領になって数か月後、早くも彼を見放したプロの評論家は、彼を化粧した伯爵、誇大妄想家、国王気取り、金持ちのための大統領と、さしたる根拠もなく呼んでいる。しかし、マクロンはそれをまったく気にしない。逆に、彼が日々直接コンタクトする人々こそ、マクロンのパンとバターである。彼と握手をした人々は彼に投票するか、マクロン主義に宗旨替えする。しかし、彼はフランス全国民と握手をするわけにはいかない。ともあれ、マクロン主義とはなんだろう。

まずは、彼の経歴を吟味してみよう。3年前、マクロンは一般にはまったく知られていなかった。しかし、フランスの政治、金融、メディアを牛耳るパリのエリート集団の間では、よく知られた存在だった。このエリート集団は近親相姦と言っていいほど、密接に絡みあっている。彼はかつてその集団に属していたのだが、まるでそんな前歴がなかったかのように振る舞い、今では彼らを見下している。

マクロンは30歳でロスチャイルド銀行の投資部門スタッフとなり大いに稼ぎ、34歳でフランソア・オランド大統領の内閣に入り副事務総長となった。収入は銀行時代の10分の1というから、彼の人生の目標はカネではない。その頃、わたしはオランド新政権をテーマにしたドキュメンタリーを見たのを思いだす。大統領以下閣僚の面々は黒いスーツに身を固めしゃちこばり、まるで“ぬいぐるみ”のようだった。このミイラのような一団のなかで、ただ一人、才気煥発、生き生きした、揉み上げの男がいた。それが、エマニュエル・マクロンだった。その日、わたしは彼の名を覚えた。

その2年後、その若者は経済、産業、デジタル担当相になった。オランドはマクロン社会党の重鎮を扱うのが巧いので、理想の息子だと言っていたという。党内での彼のあだ名は“老人のお気にいり”だった。彼の支持者である老人たちは、政治の世界で名を成すには、まず選挙区を選ばなくてはならない、なにより大事なのは議員に選出されることだ、と彼にアドバイスした。しかし、マクロンはそのアドバイには従わなかった。彼は慣行や常識には関心がなかったからだ。

大統領選挙が近づいてきた。誰もが選挙はこれまで通り、社会党共和党国民戦線の間で戦われると思っていた。しかし、選挙からちょうど1年前の2016年4月、経財相マクロンは彼の故郷アミアンの町で、新政党En Marche!(前進!)を立ち上げた。しかし、その旗揚げ会場では空席がめだっていた。政党名のイニシアルEMは党首Emmanuel Macronのそれであることを、評論家が気付くのは、その日からだいぶ後のことである。彼らはマクロンの野心と信念を知らなかったのだ。

一月後、彼はオランドに辞表をだす。マクロンの知性とカリスマは知られてはいたが、その時点では、誰一人として彼が大統領選挙に勝利すると思った者はいなかった。いや、ごく少数を除いてと言うべきだろう。新政党「前進」の旗揚げ会場に集まり、党員になった人々にとって、それは1940年、ロンドンでシャルル・ドゴールの呼びかけに応じて「自由フランス」に参加した人々の体験と重なる。誰も勝利を信じていなかったのに、彼らは運動がスタートした日からその冒険に参画していたのだから。

なんという冒険だろう。この男は人生でただ一度の公選、それも共和国大統領選に挑戦し勝った。マクロン第二次世界大戦以降、フランスを支配してきた政党は、左右ともに瀕死状態であることを見ぬき、フランス人になにか新しいことを提供する時が来たと考えたのだ。現在われわれの目前で起こっているのは、新と旧、自己満足と開放、慣例と大胆、保守と進歩の間の衝突である、と彼は言う。もちろん、マクロンは新、進歩、開放、大胆を代表する。彼はまた自分は右でも左でもないと言う。普通この発言は右を意味するのだが。それはともかく、正確には彼は「同時に」右と左であると言えるのではないか。

 

ジュピター大統領

 

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マクロンと閣僚                       Open Democracy

 

さて「同時に」という平凡な日常語がいまや、マクロンをからかう時は別だが、フランスでは気軽に使えなくなっている。なぜなら、マクロンがこの退屈な言葉を、哲学用語の高みに持ち上げたからだ。彼はなにか考え始めると、自分の意見はこうだが、反対意見はどうだろう、と考える。彼にとって、物事を反対者の眼で見ることは必須条件だ。

それでは、この「同時に」原則を現実の政治に応用するとどうなるのか。それは、20世紀に第三の道と呼ばれた中道政治である。過去、この国で多くの人々がそれを夢見てきたが、実現されることはなかった。しかし、マクロンはその確信と驚くべき幸運に恵まれ実行に移そうとしている。

ナポレオンは初対面の将校にいつも「君はラッキーな男か」と質問したという。最高権力者になったマクロンは、ナポレオンと比較されることを嫌がる気配はない。オランド前大統領が再選を諦めた理由のひとつは、マクロンの立候補だったが、その心境は「彼は手順よくわたしを裏切った」というところだろう。社会党候補となったべノア・アモンは好漢だが、あまりに軽量すぎた。保守派候補フランソア・フィヨンは連続スキャンダルとウソで勝利のチャンスを自ら潰してしまった。

大統領選第2ラウンドに残ったマリーヌ・ルペンは、マクロンと対決したTV討論でその無能さをさらけだし、いわば焼身自殺をしてしまった。かくして、39歳という共和国史上最年少の国家元首になったマクロンは、国際的スターになった。フランス政界はびっくり仰天した。元大統領ニコラ・ザルコジは、面食らうほどの謙虚さで「手法は同じだ。しかし、俺よりはるかにうまい」と言ったという。

選挙キャンペーン中に、オルリアンでマクロンは変わった。そこで、神のお告げを聞きただ一人で立ち上がり、フランスを救った田舎の無名の少女ジャンヌ・ダルクを、彼は称賛し自らの運命と比べている。しかし、マクロンはエリート校、国立行政学院卒、銀行家、高級官僚、大臣の経歴がある究極のインサイダーである。にもかかわらず、彼はインスピレーションを受けたアウトサイダーに変身したのだった。

彼は8000人の聴衆を前にした演説の終わりに、半分眼を閉じ「わたしはあなた方を愛す」と絶叫した。彼の前任者オランドは“ノーマル”大統領になると宣言したが、国民が大統領に望む資質はノーマルではないことを、マクロンは知っていた。彼の答えはノーマルの対極「わたしはジュピター大統領になる」(ジュピターはローマ神話に登場する天界を支配する神)だった。

マクロンが大統領なって半年が過ぎたいま、マクロン主義とは何かがますます問われている。彼はその魅力によって大統領になり、フランスに希望をもたらした。イギリスと同じように、フランスはかつて世界パワーであった。その地位を取り戻す夢を国民に約束したこの若きリーダーは、世界の羨望の的になった。

フランス人の気分は高揚した。しかし、数か月後には支持率が66%から32%まで落ちた。(註、凋落の理由はジュピター・スタイルへの反感と、痛みを伴う経済改革法案への反対だった。しかし11月の世論調査ではその仕事ぶりが評価され46%に回復)マクロンは、ステーツマンがなにかを早急に実施しようとすれば、人気が落ちるのは避けられない、と言う。そして、マクロンの側近は改革とは言はず、変貌という言葉を使う。マクロンは開口一番わたしに「わたしがフランスを変貌できなければ、状況は悪化するだろう」と言った。

 

ミネルバのふくろう

 

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プニュクスの丘で演説するマクロン               The Guardian

 

わたしはこの記事を書くためにマクロンとその側近と1週間を共にした。それは、アテネからサン・マルタン島までの旅だったが、その間にジュピターをインタビューしたのである。天界を支配する人だから、もちろんインタビューは航空機のなかで行われた。大統領機内はふつう宮廷のような雰囲気なのだが、この機内は超クールだった。

というのも、マクロンの側近グループは30代の若者で構成され、彼らは通常50代の人々がやる仕事をこなしていたからだ。彼らはボスに習って、率直で気楽なスタイルだが、すべてのことをコントロールしようとしていた。マクロンは気楽な人なのだが、自身の歴史的役割をひとときも忘れてはいなかった。彼が初の公式外国訪問先に選んだのが、ギリシャだったのは偶然ではない。

わたしの考えでは、この旅は大きな挑戦だった。大統領はギリシャ人が彼の口から聞きたいことを話さなければならない、これはすなわち問題はドイツにあると言うことだ。しかし、彼はアンゲラ・メルケルの神経を逆なですることはできない。わたしはこれをマクロンにぶつけてみた。

わたしは彼が「核心をついてますね」と言うとは思わなかったが、次のように答えた「ギリシャ危機はヨーロッパ危機で、その対応を誤った。ギリシャの指導者のウソを罰する代わり、われわれは国民を罰した。彼らの唯一の誤りは指導者のウソを信じたことだ。この危機がもたらしたヨーロッパの亀裂は大きい。だから、わたしはその原因であるアテネに行き、デモクラシーについて語りたい」

アテネの中心にあるプニュクスの丘で、彼はデモクラシーについて演説した。そこは古代ギリシャの時代、市民が集まり挙手をして法律と予算を決めた場所だった。その日、丘の背後にある夕陽を浴びたアクロポリスの神殿が、得もいえぬ美しさで輝いていた。プニュクスの丘で60年前、偉大な作家でドゴール政権の文化相だったアンドレ・マルローが歴史に残る名演説をしたが、マクロンはそれを意識していたと思う。彼はマルローと同じように、ヴィジョンを語り,哲学を語った。

彼の演説はギリシャ語で始まった。特訓のお蔭で、その2分間の現代ギリシャ語は立派なものだった。これで、聴衆の緊張が解けた。彼はすぐに好みのテーマ、ヨーロッパに入った。ヨーロッパ人の主権を、国家主権主義者と呼ばれる臆病なおぞましい部族の手に渡したくない、と彼は語った。さらに、これらの右翼ポピュリストは世界を遮断し、栄光ある孤立を望んでいる、と批判した。

30分間にわたる優れた演説のクライマックスで、彼は次のように語っている。「われわれは今どんな世界に生きているのだろうか。それはヘーゲルが言う“ミネルバのふくろうが飛び立つ時”である」。マクロンはこの比喩を説明しなかったが、彼は聴衆の哲学的洗練のレベルを過大評価していたようだ。

ミネルバは知恵の女神、ふくろうはそのシンボル。ヘーゲルによると、ふくろうは黄昏時に飛び立ち歴史の戦場跡を訪れるという。分かりやすく言うと、哲学は過去に起こったことを論じることはできるが、猛スピードで変化する現在は語れない、ということになる。マクロンは「ミネルバのふくろうには知恵がある。しかし、いつも後ろを振りかえっている。なぜなら、未知の世界に眼をむけるより、そちらのほうが容易で心地がいいからだ」と言った。

演説のあと、わたしは彼に非常に良かったと言った。すると、まるで誰よりもあなたにそう言ってもらうと嬉しい、という感じだった。そのあと、特別な意図があった訳ではないのだが、ギリシャ首相アレクシス・ツィプラスの話も良かったですよ、言うと彼の青い眼が一瞬陰った。その時、なにか急ぎのことが起こり彼はその場を去った。わたしは心からマクロンの演説は実に良かったと思っていた。それに、いまの時代にヘーゲルを引用する国家元首は稀だ。彼はスピーチライターの書いた原稿を読み上げたわけではなく、内容を理解したうえでの引用だった。

プニュクスの丘の演説の翌日、マクロンギリシャの知識人グループと昼食を共にした。これらの知識人はフランス文化崇拝者だった。彼らがフランスの偉大な詩人ボードレールランボーの作品を引用すると、彼はそれぞれの詩の一節が終わったところで、次の節をそらで朗々と詠じていた。彼は本当に詩が好きなのだと思った。

 

奇妙なエピソード

 

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このエッセイの著者、エマニュエル・カレール           The Guardian

 

わたしはその教養の深さにおどろいた。しかし、マクロンにも欠点があるはずだと思い探し始めた。いわば鎧の隙間探しだ。彼には政敵がいる。しかし、個人生活に関するゴシップはほとんどない。彼がゲイであるという噂があったが、本人も妻ブリジットもさらりと優雅にユーモラスに否定した。だが、ひとつの奇妙なエピソードがある。それは、彼がへまをした話なのだが、人間的で面白い。

2010年、フランスで最も尊ばれているルモンド紙の経営が悪化し売りにだされた。あまり例がないのだが、同紙の定款は買い手を決める権利をジャーナリストに与えている。複数の候補が名乗りをあげたので、ジャーナリストはその対応に追われていた。そんなある日、編集局に機敏な若者マクロンが現れた。彼はロスチャイルド銀行の投資バンカーだと自己紹介し、ルモンド紙に敬意を抱いているので報酬なしでアドバイザーになる提案をした。ルモンドのスタッフは彼に好感をもち、その提案を受け入れた。ジャーナリストの代表が、ロスチャイルド銀行のオフィスが閉まった夜遅く、マクロンを訪れ買い手の相談をした。

ルモンド紙の買収を競り合ったのは二つの強力なグループだった。マクロンが反対したグループのアドバイザー、アラン・ミンクは政界の黒幕で、過去40年間、隠然たる影響力を行使してきた毀誉褒貶のある人物だった。そのグループの弁護士のなかにはマクロンの嫌いな弁護士がいた。

買い手が決まる前、同紙の記者アドリアン・トリコルノがシャンゼリゼ近くのビルに用事で訪れた。たまたま、そのビルにはミンクの豪華なオフィスもあったのだが、彼がそこに到着すると、なんと玄関からミンクとマクロンが一緒に出てきたではないか。

そのあと起こったことは、トリコルノの言葉を信じるしかないのだが、彼は信頼できる記者だし、マクロンは否定もしていないので事実だろう。マクロンは両股をかけて敵側にアドバイスをしている現場を見られパニック状態になった。彼は背を向けてビルに入り、急いで階段を登っていった。トリコルノは彼のあとを追った。最上階でやっとトリコルノは彼に追いつき対決した。マクロンは携帯電話をかけているふりをしていたが、これは子供だましのジェスチャーだった。記者は「やあ、エマニュエル!われわれは友達なのにお互いハローも言わないのか」と皮肉たっぷりに言ったという。

 

削除された発言

 

わたしが大統領府からマクロンに同行しインタビューをする許可を得たとき、当然ながら刊行前に記事は見せないとの約束だった。しかし、一つだけ条件があった。それは大統領の発言の直接引用については見せるということだった。これは報道機関の慣例で、インタビューされた人を守り、ジャーナリスを守る方法でもあるので、わたしはこれに同意した。しかし心残りなこともあった。というのも、アテネへ向かう飛行機の中で30分、カリブ海から帰国する飛行機の中で1時間行ったインタビューのなかで、実に力強くで美しい発言があった。しかし、その真実をつくセンテンスは削られていた。

その代わりに 直接引用ができるセンテンスは、わたしにとっては退屈で様式化されたものだった。その例を挙げてみよう。

「わたしはフランスは崖っぷちにいると思う。いや、墜落する危険もある。フランスがこの悲劇的な状況でなければ、わたしが選挙で勝利することはなかっただろう。わたしは嵐のなかでリードする運命にある」「国家をどこかへ牽引するには、すべてのコストを見積もり、決して諦めず、ルーティンに陥ってはならない」「フランスはシニカルな国ではない。エリートがそう考えるだけだ。ファランスはポスト・モダン社会ではない」

とはいえ、彼との会話は面白かった。若々しい声で語る内容は自然で説得力があった。なにより表現力があると思った。マクロンの弁舌の魔力にかかったのだろうか。わたしは半分いや4分の3はその内容に同感したのだった。わたしの同僚作家ミシェル・ウエルベック(註、ベストセラー『服従:2022年にマリーヌ・ルペンがフランス大統領になる』)が次のように言っている。「わたしはマクロンにインタビューを試みた。しかし、率直にいうと、雄弁な人からリアルなこと、真実を引きだすのはできない相談だ」

 

小説のなかの人物

 

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マクロン夫妻                           Wikipedia

 

わたしは引き続き彼の弱点を探し続けた。誰にも弱点はある。影の部分、秘密、うつの症状・・・・。わたしの作家としての仕事はそれを見ることだ。マクロンの場合、それがよく分からない。しかし、なにかあるはずだ。いや、あってほしい。わたしは彼に直接聞いた。するとマクロンはすこし驚いたようだった。彼はちょっとためらった後で「わたしの弱点?それは閉所恐怖症かもしれない」と答えた。その後すこし考え込んだ後で「それは物理的な意味でない。わたしの閉所恐怖症は人生においてという意味だ。閉じ込められることが耐えられなくて、外の世界に出ないではいられないのだ。だから、普通の人生が送られない。わたしの弱点は心の奥底で普通の人生を嫌っていることだろう」

自分が望む人生を送れるのは、ある程度まではいいことだ。しかし、共和国の大統領になるのはまったくノーマルではない。それに、マクロンとのやり取り自体が普通ではない。彼をよく知っているフランスの作家フィリップ・ブソンが、マクロンを描いた本のタイトルは『小説のなかの人物』である。わたしは言いえて妙だと思う。

そのなかに次のような一節がある。「この男は実に温かく、存在感がある。実に多くの人を知っている、彼を知る人も多い。しかし友人はいない」。わたしはマクロンに「これは本当か」と尋ねた。マクロンはそれに答えて、それは正確ではない、多くはいないが何人かの親友はいる、自分にとってプライベート・ライフは絶対に必要だ、と言った。この答えの前に彼は「わたしの最高の親友はわたしの妻だ」と口走っていた。

マクロンは人たらしロボットみたいな人間で、豊かな感情などないと思いがちだ。しかし、良く考えるとその逆であることに気付く。この若い野心家のテクノクラート、すべての人が耳にしたいことを語る男は、ラブ・ストーリーの英雄でもあるからだ。このストーリーをフランス人は好きだ、とくに女性が好きだ。マクロンが好感をもたれる理由の大きな要素だと思う。

女性にとってこの出来事は、何世紀も続いている男社会への復讐のドラマでもあった。男が24歳も違う若い妻を持つことはノーマルなことだが、その逆は考えられないことだった。この掟を破り24歳年下の男と結婚したブリジットの態度はまったく自然だ。そして、彼女の夫は、初めて会ったときと同じように彼女を愛している。

 

高校生と教師

 

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高校生エマニュエルと教師ブリジット              Service de Press

 

ブリジット・オージエールは地方都市の中流の上層階級に生まれ、銀行員と結婚し3人の子供(夫の連れ子)を育てた。彼女がフランス語教師として、アミアンにあるイエズス会が運営するラ・プロヴィダンス高校に赴任したとき、教員室では一人の驚くべき才能の生徒の話でもちきりだった。その生徒の名は15歳のエマニュエル・マクロンだった。彼もまた中流の上層階級の出身で、両親は二人とも医者だった。彼はハンサムで、礼儀正しく、長髪だった。マクロンは同級生といるより年上といるほうが心地よさそうだった。

オージエール夫人は演劇クラスも教えていた。マクロンはそのクラスで学び、彼女に夢中になり、2年後にブリジットの心をつかんだ。ランボーの詩に「17歳の君は、まだ真剣ではない」という一節があるが、ブリジットはそれを引用しながら「17歳のエマニュエルは真剣だったわ」と、わたしに笑いながら言った。高校生が美しい教師に恋をしてそれを告白するのは珍しいことではない。しかし、22年後にその高校生と元教師がまだ一緒で、その高校生がフランスの大統領というのは稀有なことだ。

わたしはアテネに向かう飛行機のなかで二人を観察した。彼らはファルコン7X型ジェット機の中央部に座っていた。わたしの席は彼らから3メートル離れたところにいた。二人は非常に親密だった。マクロンがトイレに立つとき、笑顔でブリジットの肩に手を触れると、彼女は見上げて笑顔で応じた。彼らはしばしばお互いを見つめ合い手を握り合う。これは特筆すべき光景だ。感動的でさえある。

しかし、この親密さはセレブ雑誌のためのポーズに見えないこともない。はたして、これはショーなのだろうか。綿密に計算された演出なのだろうか。すべてのことが、あまりにスムーズに行っていると、その裏でなにか隠されているのではと思う。しかし、こんなにも長い間、そんな演技を絶え間なく続けることはできない。

マクロンという人物はどこまでが本物で、どこまでが演技なのか、についての議論が四六時中されているが、わたしが二人を30分間観察した結論は、マクロンのブリジットへの思いが正真正銘であることは間違いない。これは、彼女についても言える。

わたしはアテネからの帰国便のなかで、ブリジットの隣に座りインタビューをしたが、出だしはまずかった。というのも、わたしはまだマクロンの弱点にこだわっていたので、否定的な質問から入ったからだった。

あなたの夫は、自分の人生は運命に導かれていると考えていますね、とわたしが言うと、彼女はそれを肯定した。質問を続けた。運命が暗転したとき、彼はどう反応すると思いますか。例えば、あの有名なナポレオンのロシアからの退却のような運命に直面する、と思いますか。この不吉な問いに、いつもは陽気な彼女の表情はくもり動揺したのが分かった。

しかし、彼女はそんなことに屈服するような人ではない。二人の間に重い空気が漂ったその時、タイミングよくシャンパンが全員に配られた。その日はスタッフの一人トリスタンの誕生日で、ブリジットが音頭をとりみんなでハッピー・バースデーを唄い乾杯した。彼女はブロンドの髪をなびかせ、笑みを浮かべながらでトリスタンに「あなたへのプレゼントはわたし達よ」と言った。わたしは思わず、これは彼女のアミアンの教室での光景ではなかろうか、と思った。

彼女は生徒の間で人気抜群の教師だった。クラスが終わったあと、生徒が彼女を囲み、スタンダールやフローベルについて語っている光景が浮かぶ。彼女は教職から引退しているが、「ちょっと知ったかぶりをする」教師くせが抜けないと言う。例えば、普通なら「夫に代わって、それは話せないわ」というところを「わたしはプロソポーピアは嫌いだわ」と彼女は言う。(註、プロソポーピアはギリシャ語で不在の人を代表しての意)

彼女は親切にも冒頭のわたしの質問に応じてくれた。「夫とわたしは正直に言って、敗北に直面したことはないけれど、数々の逆境と戦ってきたわ。わたしたちの関係について、意地の悪いコメント、嘲笑、ゴシップがあったけど、これに二人は勇敢に朗らかに立ち向かったおかげで、強くなった」と彼女は言った。そう言ったときのブリジットは楽しそうだった。ブリジットを知る人は皆わたしに、彼女は朗らかで感じのいい人だと言ったが、その通りだった。

インタビューの終わりに、彼女は演劇クラスに関する素敵なエピソードを話してくれた。ブリジットと若きマクロンは舞台の演題を探していた。二人はナポリの戯曲家エドゥアルド・デ・フィリッポの作品が気にいったのだが、一つ大きな問題があった。というのも、クラスの生徒は25人もいるのに、作品の登場人物は5人しかいないのだ。マクロンは、問題ありませんと言って、脚本を書き直し20人が登場する舞台になった。まだ、その作品のビデオが残っているので、彼女は見たいと思っているが、夫も見たいと言うので、一緒にみることにしているという。

 

明日のためのシナリオ

 

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                        The Economist 2017・11・9

 

多くの知人と同様に、わたしのマクロンへの反応は三段階を経ている。選挙キャンペーン中には「なにかが起こりつつある」と思い、投票が迫ってくると「マクロンに勝って欲しい」と思っていた。(彼に投票したのは恵まれた階層の人々だが、わたしもその一人であることは自覚していた)彼が権力を握ると「マクロンが成功すればいいな」と思っている。しかし、彼が成功すると、実際にはなにが起こるのだろう?歴史はどう変わるのだろう?フランスはどう変貌するのだろう?彼はこの国を企業家とスタート・アップの国にしてしまうのだろうか?効率こそすべての国になるのだろうか?そのあとは、彼にとってフランスは舞台が小さすぎるので、ヨーロッパの改革に挑戦するのだろうか?

すべてのことが可能である。いや、不可能ではない。あまりにも早く巨大な権力を得た彼がおかしくなるリスクもある。あるいは、彼は第三の道を歩もうとして、現実に直面し失敗した政治家の仲間入りをし、平凡な大統領になる可能性もある。これは、彼自身が最も心配していることである。「もし、わたしがフランスを大きく変貌できなければ、なにもしないでいるより、さらに状況は悪化するだろう」と彼は言う。この危機感に突き動かされて、マクロンはフランス全体を変えるシナリオを書き、ブリジットと二人でそれを演出しようとしている。

 

筆者はこの記事を書くにあたって、以下のエッセイ、インタビュー、記事のお世話になった。“Orbiting Jupiter: my week with with Emanuel Macron” Emanuel Carrere著 2017・10・20(全体の70%を生かし抄訳)、“Emmanuel Carrere, The Art of Nonfiction” Susannah Hunnewell インタビュー The Paris Review 2013 fall、“Running Europe The spotlight shifts from Germany to France” The Economist 2017 ・9・30、 “Le macronisme applique a l’Histoire” Bastien Bonnefuus et Solenn de Royer記者, Le Monde 2017・11・11

 

 

フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。