フランスの田舎から世界を見ると

土野繁樹の歴史探訪

中国100年の屈辱 その2 「アヘン戦争」

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英軍艦に吹き飛ばされる清海軍のジャンク船 1842 Edward Duncan 画 The British Museum


1839年6月6日、アヘン撲滅作戦の指揮をとる林則徐(皇帝の特命大臣)が旗を左右に振ると、広東虎門の海浜に作られた池のなかに、没収された大量のアヘンが次々と投げ込まれ、石灰が加えられると煙を上げながら海中に消えていった。その量は2万箱1400トンもあった。この事件はアヘン戦争の引き金となる。

英国の植民地支配に抗議して起こった「ボストン茶会事件」(1773年)は
アメリカ独立への道を開いたが、不幸にも、林の果敢なアヘン撲滅キャンペーンは、中国の半植民地化への幕明けとなった。英国が仕掛けたアヘン戦争を、現代中国の高校生は西洋列強と日本による「屈辱の100年」がはじまった年として学ぶ。

 事件の背景を簡単に説明しておこう。18世紀の英国は中国からの茶の輸入で膨大な貿易赤字を抱え、妙案がないものかと探っていた。その答えが、植民地インドのケシを原料に生産したアヘンの貿易であった。1820年代から東インド会社、ジャーデン・マセソン社などの商社がアヘンの密貿易に飛びつき、莫大な利益を上げるようになり、英中間の貿易収支は逆転した。清から銀が大量に流出し、アヘン中毒者が激増する事態に危機感をもった清の道光帝(皇子もアヘン中毒で死亡)は林にその厳しい取り締りを命じたのである。

広東(当時、中国唯一の外国貿易の都市)に着任した林は断固たる処置で臨む。

彼は、中国人のアヘン業者1600人を逮捕し「アヘン持ち込みはしない」という誓約書に署名させ、それに違反する者は処刑された。アヘン吸引者も死罪となった。清はアヘンを禁じていたが空文化していた。なぜなら、外国商人は中国の役人を買収して持ち込むのが慣例になっていたからだ。これら腐敗役人も逮捕され公開処刑されている。

林は外国商人(大多数が英国人だが米国人もいた)が保有するすべてのアヘンの提出を要求する。それが拒否されると、彼は広東の外国商館を封鎖し、350人の外国人をそこに閉じ込めた。食糧と水は供給されたが、6週間後その圧力に屈し籠城していた英国高官は、商社が所有するすべてのアヘン没収に同意し、封鎖が解かれた。

この直後、林は英国女王ヴィクトリアに書簡をだし、「なんの権利があって、清の国民に有害な麻薬を売り、巨大な利益を得ているのか」とアヘン貿易の非道徳を非難し、その密貿易の中止とインドでのアヘン生産の中止を要請している。さらに、「貴国はかりにどこかの国が、アヘンを売りにきたらどうされるのか」と問いかけ「陛下は親切で同情心の深い方だと聞いている。陛下ご自身が望まないことを他の国にもなされない、と確信している」と、女王の良心に訴えている。(筆者は女王の返信の存否を調べたが分からなかった)

林のアヘン処分の4ヵ月後、英国議会で強硬派のパーマストン外相が、大英帝国の権益を守るために東洋艦隊への中国へ派遣を提案すると、賛否真二つに割れた。野党のグラッドストーン(のちに首相)は熱弁をふるい「不義の戦争」であると説いたが、投票の結果はYESが271でNOが262の僅差で派遣が決まった。この議決が中国の運命を暗転させた。

1840年6月、東洋艦隊が広東沖に着くと、防御を固めていた林の予測に反して、艦隊は沿岸を北上し天津を攻撃し、北京へ迫る勢いになると道光帝は講和をした。しかし、皇帝は紫禁城の強硬派に説得されて再び英軍に戦いをいどむ。すると艦隊は南下し、広東を撃破し上海を陥落させ、中国交通のかなめ鎮江を占領し、南京が危うくなった。南京をとられると大運河で北京へ輸送される食糧の供給が止まってしまう。ついに清朝は講和を申し入れた。最新式の英艦隊の前に、清のジャンク船団はひとたまりもなかったのだ。

1842年8月、英軍艦コーンウォリス号上で南京条約が結ばれる。上海をふくむ5港の開港、治外法権関税自主権放棄、巨額な賠償金(破棄されたアヘンの代金も含む)、香港割譲と、清はその屈辱的な条件をのまざるを得なかった。

南京条約が結ばれる2年前、道光帝は林則徐を‘開戦の責任’があるとし解任した。次の彼の任地は清帝国の西の果て新疆であった。ここで彼は左遷にめげることなく、善政をしき人々に慕われた。学者でもあった彼はイスラム文化についての文章を書き残した。林は清王朝が生んだ最も洗練され正義感の強い官僚と言われている。同僚が腐敗にまみれるなかで、その清廉潔白さは際立っていた。

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林則徐と魏源 Wikipedia


源氏物語』を英訳したアーサー・ウェイリーは、中国古典の訳者で『李白杜甫』などの著作もある天才的東洋学者だが、晩年に”The Opium War through the eyes of Chinese:中国人の見たアヘン戦争 1958年刊 “という本を編纂している。この本のはしがきで、ウェーリーは林の清廉潔白さを彼の日記を引いて書いている。たとえば、林が北京から広東に赴任する旅の各地の宿泊先で、慣例となっている地元負担を嫌い、すべて自費で払い豪華宴会を断り、同行の部下が貢物を受け取ることを禁じている。ウェーリーは林の愛国心と人柄に惚れこんでこの本を出したと思われる。(現代中国の職権を利用し蓄財に励む共産党幹部諸君は、林の愛国心を国民に煽る前に、その清廉潔白さを学ぶべきだろう!)
 
林則徐の親友に魏源という優れた学者がいた。彼は官僚としてアヘン戦争を体験し、清はこのままでは西洋列強の餌になり滅びると思い、『海国図志』50巻(1842年刊)を著わし世に問うている。この書は、林が西洋の海洋国家の実態を知るために、学者グループに委託して編者した調査報告を基に、魏源が資料を集め書き下ろしたものである。西洋事情をつまびらかにして、清の敗戦の理由を明らかにして、その対策「夷の長技を師とし以て夷を制す(外国の先進技術を学び、その侵略から国を守る)」を提示している。

魏はこの本を書くために、アヘン戦争中に清軍の捕虜になり首かせ,足かせをされた英軍将校を相手に質問し貴重な証言をえている。魏の「英国はなぜ強国になったか」という質問に、将校は「英国は島国で小さい。したがって、海上貿易に頼るしかない。そのため船舶建造技術が発達し、武器製造技術が発達した」と答えた。魏はこれに深い印象をうけたようだ。魏は清国を再興するためには「富国強兵」しかないとの結論に至る。

富国強兵は魏のオリジナルな考えではなく、紀元前3、4世紀にすでに韓非子商鞅などの法家思想家が提唱している、と前記の『富と力―中国の21世紀への長征』著者シェルとデルリーは言う。国家運営の秘訣は‘国を富ませ強い軍隊をもつことだ’とする法家思想は、孔子儒家の思想‘徳と仁をもって国を治める’とは根本的に異なっていた。法治と徳治の違いである。

法家の考える国家運営とは具体的にどんなものであったのだろう。主要産業は
国有で商業は私有、社会秩序維持のためには厳罰でのぞむ、権威主義体制で国家がリードする、というものだった。この思想は現代中国の国家運営哲学とあまりに似ているのにおどろく。中国共産党は法家思想家の忠実なる弟子であるように見える。

不幸なことに、18世紀中頃の紫禁城の保守的な宮廷官僚は、中華思想にこりかたまり本気で‘中国は世界の中心で外国から学ぶべきものなどない’と思っていたので、魏の富国強国策に耳をかすことはなかった。彼らは、時代が変わったことを理解していなかったのだ。

南京条約が結ばれる1年前の夏、林則徐は家族と共に新疆に向かう旅の途中で、鎮江で魏源と再会し一夕を共にする。二人は祖国の敗け戦を哀しみ、西洋の脅威に対抗する軍事改革を語りあった。そして、中国の衰退を前になにもできない自分たちの非力を嘆いた。その夜、魏は左遷され僻地へ向かう親友に捧げる詩をつくっている。

 君と再会し 胸が熱くなり 言葉がない。嵐のなか いまの我らは 身をまるめた虫のようだ。 時は流れる 龍を殺す方法を 学んでいたあの頃の二人の努力は なんだったのだろう。 君と僕は3年間も 彼らの手法を学んだ しかし北からも南からも 脅威が迫っている。もし北京にもどる 機会があれば 我らは再び 海防戦略に集中しよう。ただ一夜 我らは共にすごし 明日は別れる 喜びと悲しみで 心乱れる。だが 鎮江の月を 無駄にすべからず 酒は朋友の苦境を慰める
 
魏源の憂国の書は、同時代人に影響を与えることはなかった。彼は晩年、家族に別れを告げ仏門に入り生涯を終えた。林則徐は皇帝に呼び返され、太平天国の乱を鎮圧する任地に行く途中で亡くなった。

彼らが唱えた「富国強兵」は二人の死後、中国再興を目指す思想家と政治家のスローガンとなった。

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ペリー艦隊の横浜来航 1854  Wikipedia


‘清、英国に惨敗’のニュースが、長崎経由で清の商人によって幕末の日本に伝わると、江戸幕府と武士階級は大きな衝撃を受けた。あの大帝国があれほど徹底的にやられるとは、思ってもいなかったからだ。南京条約の2年後の1844年に、早くも昌平黌の斉藤竹堂が『鴉片始末』という小冊子を書き、これが幕末の読書人の間で評判となった。戦闘場面や登場人物の描写が鮮明だったので、書写されよく読まれたという。警告の書であったが、幕府の鎖国政策の転換を促すまでにはならなかった。

1853年、ペリーの黒船が浦賀沖にやってくる。これは鎖国日本への超弩級のチャレンジであった。砲艦外交にどう対応するか。清の二の舞にならないようにするには、どうすれば良いのか。これは、幕府だけでなく勤王の志士の最大の関心になった。その問題意識に答えたのが魏源の『海国図志』であった。

黒船来航から4年目で、『海国図志』抄訳版が21種類もでているから、この本への関心の高さがわかる。佐久間象山吉田松陰坂本竜馬西郷隆盛高杉晋作も読んで大いに発奮したというから、インパクトの大きさがわかる。かくして、魏源の富国強兵路線は、中国ではなく明治維新政府がいち早く実行し、近代化を遂げることになる。明治維新から30年も経たないうちに、朝鮮半島の支配権をめぐって、日本と清は戦火を交えた。次回は、日本の勝利に終わったこの戦争が、日中両国に与えた影響を探ってみよう。

 註:筆者はこの歴史探訪記を書くために、以下の著作、記事、映画を参照した。”Wealth and Power-:China‘s long march to the twenty-first century(富と力―中国の21世紀への長征)Orville Schell とJohn Delury共著 2013刊,”Lin Zexu:Letter of Advice to Queen Victoria 1839”,Digital China Harvard, 映画「阿片戦争―The Opium War」?晋監督1997年、「歴史は生きているーアヘン戦争はどう伝わったか」朝日新聞記事 2007年6月25日 

 

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著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。