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フランスの田舎から世界を見ると

土野繁樹の歴史探訪

中国100年の屈辱 その5「孫文と宮崎滔天」①

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辛亥革命 南京太平門の戦い 1911年  T. Miyano画 . Wellcome Library

 

1897年8月下旬、宮崎滔天は友人、陳少白の横浜外人居留地の宿泊先で孫文にはじめて会った。のちに「中国革命の父」「国父」と呼ばれる孫文は、当時、日本ではほとんど無名の人であった。滔天は運命的ともいえるその日の出会いを自序伝『三十三年の夢』に詳しく書いている。

早朝、髭面の大男、滔天が友人の家を訪れると孫文はまだ就寝中であった。しばらくすると、彼が起きてきて応接室へ招きいれた。彼は寝間着のままで、顔も洗っていないようだった。滔天はその無頓着さにおどろき、この小柄な革命家のマナーにいささか失望を覚えた。

 女中が「洗面のお湯が出来ました」と孫文に促すと、彼は「しばらく」と言って出ていった。一人になった滔天の心に「この人は4億の中国民衆の指導者になる器だろうか。この人を助けることが、自分の志を遂げることになるのだろうか」という疑念が浮かんでいた。

再び姿を現した孫文は髪をなで、洋服を着こなした端正な紳士であった。しかし、自分が期待していた貫禄がないと思いながら、次のような単刀直入の質問をした。(二人の会話は筆談と英語が行われたが、筆談紙が熊本県荒尾市の滔天の生家、現在は宮崎兄弟資料館に保存されている)

「君の支那革命を以て志となすは僕曾て之を知れり、但未だ其詳を知らず、願わくは君の所謂革命の主旨と、之に付帯する方法手段の詳を聞くを得んか」と滔天が問うと
「余は人民自ら己を治むるを以て政治の極則なるを信ず、故に政治の精神に於いては共和主義を執る、然り、此一事を以てして直に革命の責任を有するものなり」と孫文は力強く答えた。

この問答のエッセンスを現代語で言うと、滔天の「君の革命の主旨とは何か」との問いに「正しい政治とは、人民の自治である。したがって、自分は共和制を信じる。自分は革命家として、ただこの事を目指している」と孫文は打てば響く明快さで応じたということになろうか。

続けて孫文は言う。清朝は三百年にわたって人民を愚弄し、官僚は人民の血を吸って蓄財することを旨とし、今日のような国家衰弱の状況に至っている。この悲惨な現状を傍観するわけにはいかない。自分は非力だが、立ち上がった。しかし、残念ながら蜂起に失敗した、と率直にその心情を吐露した。

これを聞いた滔天は「初めは処女のようだった彼は、いつの間にか脱兎のようになり、その言葉は重く熟し、終わりには猛虎が吠えるようであった」と記している。

さらに、孫文は西洋列強の餌食となっている祖国を憂い「自分は世界の一市民として、人道の擁護者として、傍観することはできない」と語り、わたしは浅学菲才だが、革命の先駆となって時代の要請に応えようとしている。諸君もわが党の志を助けてくれ。支那の4億の民を救い、アジアの黄色人種の屈辱をすすぎ、天下の人道を回復し擁護する道は、わが国の革命を成就することにある。この事業を成すためには、刃をもって打ち砕くしかない、と説いた。

理路整然とし、義と情熱があり、飾らず率直な孫文の言葉に滔天は感動した。孫文の主張は、滔天が信じる「四海一家・人類同胞」の理念と「世界の貧民救済」の夢と合致していたので、ここに同志ありの思いだった。孫文は話を終えると、穏やかな眼差しで微笑した。「まるで幼児や小娘のように天真爛漫、隠すものなどなにもない」笑顔が滔天の胸をうった。

かくして、彼は自分が孫文をはじめ外見だけで判断したことを恥じ、これは「東洋的観相学の旧弊」の病であったと反省している。その日から彼は、孫文に全幅の信頼と友情を寄せ生涯の盟友となった。孫文にとっても、中国革命の荒波を共にする盟友を得た忘れがたい日となった。その時、孫文は31歳、滔天は27歳だった。

 

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孫文  Wikipedia               宮崎滔天    Wikipedia

 
孫文と滔天の七転び八起きの革命人生を語る前に、彼らの略歴を紹介しょう。まずは、孫文。彼は1866年に広東省香山県の貧しい農家に生まれた。父の孫観林は出稼ぎでマカオに行き靴職人となり、帰郷して楊氏と結婚し土地を借り農業にたずさわった。孫文の兄、孫眉はハワイのオアフ島に出稼ぎに行き農場で働き、独立して牧畜業を経営し資産家となった。

孫文は13歳のときこの兄を頼ってハワイに行き、名門ミッション・スクールのオアフ高校で学びキリスト教徒となった。この高校はオバマ大統領の母校でもある。その体験を後に「米国で、わたしは文明的な政府とは何かを学んだ」と語っている。かくして、彼は東西文明を同等に深く知る稀な中国人となった。5年間の留学を終えて帰国した孫文は、香港医学校で学び医者となりマカオで開業した。そこでの彼は貧しい患者からは診察料をとらない「マカオの赤ひげ先生」だった。

だが、凋落する祖国を憂う孫文は医者の道を断念し、中国の病を治す革命家になることを決意する。(この転身は仙台で医学を学んでいた魯迅がそれを断念し、文筆で救国を目指したのに似ている)。彼は1894年、ハワイで興中会を立ち上げた。そのスローガンは「駆除韃虜、恢復中華、創立合衆政府」(満州族清朝を倒し、漢民族を再興し、連邦政府を樹立しよう)だった。

翌年の日清戦争のあと、孫文は義兄弟となった陳少白などと謀り最初の広州蜂起をするが失敗し、お尋ね者となった彼は香港から脱出し横浜経由でハワイへ舞い戻った。汽船が横浜停泊中に、辮髪を切った彼は清朝と決別し、爽快な気分になったという。

しばらくハワイに滞在したあと、孫文は米国本土へ渡り各地の華僑に興中会への支持と寄付を訴えた。その後、彼は大西洋を渡りロンドンを訪れる。到着から10日目,休日を楽しんでいた孫文の身に異変が起こる。香港時代の恩師、カントリー博士宅へ向かっていた彼は公道で3人の男に拉致され、清国公使館に監禁されたのだ。治外法権の公使館で消される危険を感じた孫文は、外部とのコンタクトを試みるがいずれも失敗しその運命を覚悟した。

彼の絶体絶命のピンチを救ったのは、公使館の英国人使用人コックの義侠心だった。彼はカントリー博士に連絡をとり、グローブ紙が孫文の監禁をスクープ報道したので大騒ぎになり、英国外務大臣が即時釈放を要求した。英国世論の圧力で、自由の身となった彼は「清国の革命家」として世界中に知られるようになった。孫文はロンドンに6か月滞在し、その間に拉致監禁の体験談“Kidnapped in London(ロンドン誘拐記)”を刊行しベストセラーになった。そして、彼は毎日のように大英図書館に通い読書に明け暮れた。当時、同館のスタッフだった若き日の博物学者、南方熊楠と彼の間に友情が芽生えたという意外なエピソードもある。

孫文はロンドンに別れを告げ、カナダに入り華僑に興中会への支持を呼びかけ、組織つくりをしたあと、バンクーバーから横浜へ向かう。横浜へ到着したのは1897年8月だった。彼の来日の目的は、アジアで最も早く近代化した日本からその秘訣を学び、あわよくば中国革命への支援を得て、清朝打倒の前進基地にすることであった。そんな期待を胸にして横浜の波止場についた孫文は、一週間後に滔天に出会ったのだった。

 

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熊本県荒尾の宮崎家で筆談する孫文と滔天           宮崎兄弟記念館

 

滔天(本名は寅蔵)は宮崎長蔵とサキの第十一子として、1871年に熊本県の荒尾村で生まれた。宮崎家は地方でも有数の旧家で、小作人を雇って米を作り大きな山林を持っていた。滔天は幼い頃、幕末に武芸者と知られていた父から「豪傑になれ、大将になれ」とよく言われたという。長蔵は義侠心に富み、1年の収益の3分の1は貧者に施せとの家訓まで残している。義侠心のかたまりみたいな男だった滔天は、この父の血を受け継いだ。

彼が8歳のとき、熊本の自由民権運動の中心人物であった、長兄の八郎が西郷隆盛西南の役に参画して戦死した。八郎は中江兆民の弟子でルソーの『民約論』を愛読し「自由」「平等」「民権」を信じる27歳の青年だった。滔天は長兄死すの知らせを聞いた父が、涙をこらえながら息子たちに「よいか、今後一生,官の飯など食ってはならぬぞ」と言ったのを憶えている。

16歳のとき、滔天は地元の中学から徳富猪一郎(蘇峰)が主宰する大江義塾に転校するが半年後に上京し、東京専門学校(現早稲田大学)英語学科で学ぶ。その頃、キリスト教に魅かれ番町教会で洗礼を受けた。彼は自叙伝のなかで「余は毎日曜日に教会へ至りて説教を聞き、賛美歌を歌い、バイブルを研究するを以て無上の楽しみとした」と書くほどの熱心な信者になり、キリスト教の「四海一家、人類同胞」の精神を学んだ。

18歳の秋、凶作が続き学費が送れなくなったと故郷からの知らせで、彼は荒尾に戻る。そこで滔天が見たのは農民の窮状だった。ある日、宮崎家に数十人の小作人が押し掛け、年貢減免を涙ながらに嘆願する姿を目撃し、数日後に小作人の妻の「働けど、働けど貧しい暮らし」の打ち明け話を聞いて衝撃を受ける。この時、信仰によって救われるより貧困を救うことのほうが大事ではないか、という疑問が湧いたという。数年後、彼はキリスト教から離れた。

滔天が中国革命を生涯のテーマとすることを決断したのは1891年の夏だと言われる。その頃、彼はのち妻となる前田ツチと別れ、友人と共にハワイに移住して資金をつくり勉強するつもりだった。荒尾でそれを聞いた兄の弥蔵は、長崎で移住を計画中の弟に「ソコヲ動カズワガ到ルヲマテ」と電報を打った。長崎で弥蔵は、どうせ日本を脱出するのなら、俺のいう支那革命を二人で一緒にやらないか、と誘ったのだ。

以前から弥蔵は滔天に、自由民権一家に生まれたからには何事かを成し遂げたいと言い、中国を中心にしてアジアを解放するという大構想を語っていた。世界はますます弱肉強食になり、アジア人の人権など誰も顧みない。アジアの中心は中国だ。この国に革命が起こり共和国になれば、白人の帝国主義を打倒する根拠地となる。自分はその大任を担う中国人を探し、その人を助けたいと。

夜を徹して二人はこの壮大な計画を語り合い、決意を固めた。

翌年、滔天は長崎から上海に旅立つ。夢にまで見た中国大陸の風景を見た彼は泣いた。しかし、4,5年滞在して中国語を学び革命に取り組むという計画は、無残にも挫折する。なぜなら、出航前に友人へ貸した滞在費がいくら催促しても戻ってこなかったからだ。騙された彼は2月後、すごすごと荒尾へ戻ってくる。そこで、滔天は別れたツチが自分の子供を身ごもっていることを知る。彼女が一人で子供を育てる覚悟だったことを思うと一言もなかった。二人は結婚し生まれてきた息子を龍介と名付けた。龍介はのちに、日本中を沸かせた大正天皇の従妹で歌人柳原白蓮と駆け落ちした、白蓮事件で知られることになる。

滔天は兄。弥蔵と中国革命を助けることを誓ったものの、その後の4年間は「無為であった」と言っている。が、なにもなかった訳ではない。その間に起きた、弥蔵の死は痛恨の出来事であった。中国革命の同志、末永節、平山周と共に日本人移民を連れてシャムに行き、そこでコレラに罹ったものの命拾いをし、帰国すると敬愛する兄の病死を知った。滔天は、その哀しみを「余が活動の源泉は枯たり」と記している。

 

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犬養毅孫文と滔天、頭山満(左から)     Wikipedia

 

1897夏、横浜で滔天が孫文に会った直後、彼は孫文を進歩党代議士、犬養毅(のちに5・15事件で暗殺された首相)に紹介する。政界きっての支那通の犬養は孫文に大いに同情し玄洋社アジア主義の結社)の創設者、頭山満と盟友のジャーナリスト古島一雄と相談して、早稲田の自宅近くに家を借りて住まわせた。孫文の生活費は、1年にかぎって玄洋社の平岡浩太郎が引き受けた。

平岡は筑豊炭鉱のオーナーで頭山満の資金源でもあった。かくして、政界に隠然たる影響力をもつ頭山と憲政の神様の犬養は、孫文の日本での身元引受人のような存在となった。滔天は自叙伝のなかで、敬愛の念を込めて犬養を木翁、頭山を雲翁と呼んでいるが、二人は彼にとってもよき相談相手でスポンサーだった。

その年の秋、滔天は孫文を故郷の暮らしを見てもらいたいと思い荒尾に招待した。ツチによると孫文は酒もタバコもやらず好物は鰻と鶏で、10日間の滞在中、彼はほとんど読書して過ごしたという。ある宴席で、犬養が孫文に「趣味はおありかな」と尋ねると、彼は「革命です」と答えた。犬養が「他には」と言うと、照れくさそうにWomanと言い あとは読書だと答えている。滔天に同じ質問をすると、彼は「革命」「酒」「女」と答えたのではなかろうか。

孫文の盟友となった滔天は、翌年、玄洋社の九州日報の番外記者となった。編集長は古島一雄で、サラリーはないが好きなものを書け、ただし酒代はだすという条件だったが、その酒代の高さに社長は悲鳴を上げたという。だが、彼は孫文の前述の“Kidnaped in London”を「幽囚録」と題して翻訳連載しこの地方紙の評判を高めた。連載記事は『倫敦被難記』として本になり、孫文の名が日本で知られるようになる。

 

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康有為、光緒帝、西太后(左から)Wikipedia

 

滔天が番外記者として働いていた1898年6月、中国では光緒帝の戊戌維新がはじまっていた。明治維新をモデルにした政治改革を皇帝のブレインとして実施したのが、康有為とその一番弟子梁啓超であった。康有為は改革派知識人として知られ、広州で私塾「万木草堂」を開き弟子を育てていた。彼は中国近代化のための大胆な改革案「変法自強論」を清朝政府へ上奏し続けていたが、それが28歳の開明的な光緒帝の目にとまり、この異色の英才は官職を得て清朝版“ペレストロイカ”に取り組んだのだった。

7月下旬、滔天は犬養から至急上京せよ、との電報を受け取る。中国で起こりつつあることを調べてほしい、という要請だった。犬養からもらった大金を懐に、平山周は北京へ、滔天は香港から孫文派の本拠地、広東へ向かう。辮髪姿になり広東に逗留していた彼に香港から「北京大乱,スグ帰レ」の電報が入った。光緒帝の戊戌維新は、西太后のクーデターによってわずか100日で幕を閉じたのだった。

改革は取り消されすべて旧に復し、光緒帝は幽閉され、改革派の官僚は逮捕され、中心人物は処刑された。清朝守旧派が誰よりも逮捕・処刑したかった康有為と梁啓超は命からがら脱出する。この救出劇に手をかしたのが、北京の総領事、林権助と英国領事官ブランドルだった。林は梁啓超を天津から日本の軍艦に乗せ呉に送り届け、ブランドルは康有為を上海から英国の軍艦で香港に送り保護した。

広東へ行く前、滔天はしばらく香港に滞在したのだが、そこで彼は孫文の「興中会」の会員と康有為の弟子たちとも親しく付きあった。二つグループは対立していた。なぜなら、孫文派は「滅満興漢」(満州族の王朝打倒、漢民族の国家再興)をスローガンにし、康有為派は清朝を守り立憲君主制を樹立すると宣言していたからだ。だが、北京のクーデターはそんな対立を吹き飛ばした。

香港に到着した康有為は亡命先を英国にするか、日本にするかで迷っていた。彼の弟子が滔天に面会を求め、康の意向とは言わずに「先生は日本へいくべきだと思うが、日本領事は受け入れるだろうか」と尋ねた。康はなぜ直截に、日本に亡命したいのだが政府は受け入れるだろうか、と言わないのか、と滔天は気にいらなかった。しかし、彼は日本領事に康の意向を伝えると、しばらくして日本政府は亡命を許可した。

亡命が決まると康は滔天に面会を求めてきた。二人は筆談をしたのだが、滔天は彼の見事な論理と説得力に舌を巻いた。しかし、その後の彼の発言にがっかりする。「日本の壮士はロシア皇帝や李鴻章の暗殺を試みたが、その意気の壮烈さは歴史上比類がない。彼らの力をかりて西太后を暗殺したい。どうだろう」と康が問う。それへ滔天の返答は剛速球だった。「それは簡単だ。しかし、こんな大事をなぜ日本の志士に頼むのか。君には3千人の弟子がいるというではないか。その中に一人もいないのなら、僕がやる」と啖呵を切ったのだ。それを聞いた康はすぐに話題を変えた。

数日後、弟子の一人が滔天を訪ねてきて、別れのあいさつをした。西太后暗殺の使命を帯び北京へ旅立つという。滔天は香港の波止場で彼が乗った汽船を見送りながら涙を流した。しばらくして、彼は暗殺計画が発覚してその青年が処刑されたというニュースを聞く。

10月上旬、滔天に付き添われた康有為は河内丸で神戸に到着し、汽車で東京へ向かう。新橋駅に梁啓超が出迎えていた。その月の下旬、孫文が滔天の旅館に訪ねてきて、康を紹介してほしいと言う。すぐに二人は横浜から東京の康の宿泊先に出かけたのだが、彼は孫文に会おうともしなかった。光緒帝の恩寵をうけた自分は、清朝打倒を目指す孫文には会えないと考えたのだろう。立場の違いはあるが、彼を慰めようと思った孫文の気持ちを思うと康は狭量であった、と滔天は言っている。

康にも援助の手を差しのべた犬養は、両者の仲介を試みたがうまくいかなかった。かくして、滔天が夢見た革命派と改革派の大同団結は実現しなかった。来日して3か月後、康はカナダへ亡命し孫の「興中会」と対抗する「保皇会」樹立した。

 

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エミリオ・アギナルドとフィリピン独立を潰す米国 戯画の作者不明  Wikipedia

 

1899年春、横浜の孫文の住居に、フィリピン独立運動の指導者、エミリオ・アギナルドの腹心マリアン・ポンセが彼を訪ねてきて、米国を相手にした独立戦争への援助をしてほしいと訴えた。フィリピンは230年間スペインの植民地であったが、米西戦争がはじまりアギナルドが革命政権を樹立すると、米国はそれを承認した。ところが米国は戦争に勝つと、彼を裏切りフィリピンを植民地にしたので、対米独立戦争がはじまったのだ。日本政府に援助を申し入れ断られたパンセは、思い余って孫文に救いを求めたのだ。

孫文は快諾した。フィリピンはアジア民族だ。列強支配から独立するための戦いを支援し、成功すればその勢いで中国革命にとりかかろうーと彼は考えたのだ。孫文は滔天にその話を打ち明け「君の手で、武器をフィリピンに送る手段はあるだろうか」と聞いた。

滔天は犬養に相談すると、事業家で政治家の中村背山にやらせてみろと言われる。犬養は「中村は糖尿病で余命があまりないので、功をあせっている。おそらく糖尿病的勇気でこれを受けるだろう」とその理由を言った。滔天が中村を訪ね武器購入の件を話すと、中村は即座に全面的な支援を約束した。

中村は非公式に軍部から銃一万挺、弾丸5百万発、大砲一門、機関銃十丁などを入手し、それを輸送する1400トンの布引丸を三井物産から購入した。1899年夏、この貨物船は門司で武器を積みフィリピンへ向かって出航した。ところが、布引丸は上海沖で暴風雨のため沈没した。船があまりにオンボロ船だったのも沈没の原因と言われている。

この沈没事件で孫文と滔天の計画は挫折し、彼らの失望は大きかった。それだけではなく、事件は意外な展開をする。中村に背信行為の疑いがでてきて、滔天は犬養と相談して調査をしてみると、中村は使い古しの武器を安値で買い、書類を偽造して巨額の金を着服していたことが判明する。この裏切りは滔天の人生を劇的に変えることになる。

 

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孫文(中央左から二人目)と日本の友人たち 滔天(後列中央)
内田良平孫文の右) 1899年5月東京にて  上海孫中山故居記念館

 

孫文のもとへ朗報が飛び込んできた。香港で滔天と陳少白が、香港で秘密結社の三合会や哥老会の首領と興中会の幹部と会談し、孫文を総会長とする「興漢会」を結成したという報告である。それまで孤軍奮闘していた孫文が、革命を目指す三派をまとめて指導する体制ができた意義は大きかった。滔天はその大連合の立会人になったのだから、大いに意気が上がったことだろう。

1900年暮、この大連合結成で勢いづいた孫文は、義和団の乱後の北京の混乱に乗じて武装蜂起の地を広東省の恵州に定め、準備を開始した。滔天の同志、内田良平黒龍会主幹)と福本日南(のち九州日報主筆)は、戦闘が始まると義勇軍を組織して、駆けつけることを約束した。

孫文の決意を知った犬養と頭山は東京で壮行会を催した。その時、犬養は孫文シンガポールにいる康有為と和解し大同団結すべきだとアドバイスした。孫文はそれに同意し、康を説得するために滔天をシンガポールへ送る。しかし、滔天が康に面会を求めると弟子が来て「師は多忙でお目にかかれません。用件はなんなりとわたしが承ります」と言うので怪訝に思い聞きただすと、滔天が康を暗殺しにきたとの噂があり、周りが警戒しているのだという。滔天は怒り驚いたが、康に丁寧な手紙を書き面会を求めた。

ところが、翌日、シンガポール警察が来て彼を逮捕したのだった。康有為派の通報だったのだろう。暗殺の容疑で裁判にかけられた滔天は「5年間の入国禁止」となり国外追放となった。事件が決着した裏には、急ぎ駆けつけた孫文の華僑コネクションを使った必死の工作があった。ともあれ、孫と康の大合同はまたもや幻の計画で終わってしまった。

滔天ともども国外追放となった孫文佐渡丸で香港に着くが、香港政庁が上陸を拒否したので動きがとれず、船上で孫文は日中の幹部を集めて軍事会議を開く。このまま、恵州蜂起を実施するのか、延期かで激論が交わされた。その時、すでに広東に600人の同志、日本に300人の義勇軍が待機していた。日本側は全員が挙兵を主張したが、孫文は頑として延期を唱え譲らない。

滔天は憤激して「僕はもう君とは行動を共にしない」と言うと、孫文も怒り「君はいつの間にこんな馬鹿になったのか」とやり返す。すると滔天は「君はいつの間にこんな臆病になったのか」と罵る。すると孫文は「君は僕が臆病者でないことを知っているではないか。僕が命を惜しまないことも知っている。それなのにどうしたのだ」と言った。その時、孫文の目には涙が浮かんでいた。二人は沈黙し、軍事会議は結論がでないまま散会した。

深夜になって甲板にでた日本人の同志が、水上警察船が佐渡丸を見張り、船内にも警官が監視していることに気付いた。これでは九龍へ上陸して恵州へ向かうことはできない。孫文は正しかったのだ。滔天と日本人同志は孫文の部屋へ行って詫びた。そして、一行は日本に戻り蜂起計画の練り直しにかかった。(続く)

註:筆者はこの歴史探訪記を書くにあたって、以下の著作のお世話になった。『三十三年の夢』
宮崎滔天著、島田虔次・近藤秀樹校注 1993刊、『龍のごとくー宮崎滔天伝』上村希美雄著 2001年刊、『革命いまだ成らずー日中百年の群像』(上・下巻)著 2012刊、『孫文革命文集』深町英夫編訳 2011刊、“The Japanese and Sun Yat-sen”Marius B. Jansen著 1954刊

 

 

フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。