フランスの田舎から世界を見ると

土野繁樹の21世紀探訪

マクロン大統領の実像 救国の人か蜃気楼か

 

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フランス大統領エマニュエル・マクロン              Washington Post

 

エマニュエル・マクロンは半年前、第二次世界大戦以来、政権を担ってきた左右の既成政党を打ち破り、フランス史上、ナポレオンに次ぐ若いリーダーになった。1年前に、彼が大統領選に立候補したとき、誰も彼の勝利を信じる者はいなかった。この奇跡のような政治ドラマに世界中が沸いた。

マクロン大統領の誕生でEU(ヨーロッパ連合)は救われた。もし国民戦線マリーヌ・ルペンが勝っていたら、フランスはEUを離脱し、この国はトランプ化していただろう。イギリスは国民投票EU離脱、アメリカはトランプを大統領に選ぶという“国家的ハラキリ”をしたが、フランスは理性の選択をしたと言える。

フランスはマクロンの登場でダイナミックに変貌し始めている。とくに外交においてそうだ。彼はプーチンとトランプを相手にして一歩も引かない。しかし、見解はちがっても信頼関係をつくる努力をする。彼は大統領になって間もなく、プーチンをベルサイユ宮殿に招いた。最高の歓待はしたが、共同記者会見でプーチンを前にして「選挙キャンペーン中に、ロシアがわが陣営にサイバー攻撃をかけフェークニューズを流した」と言ってのけている。

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歴史探訪 その18 米中関係の行方 トランプvs習近平

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ツキディデスの罠?                       Wikipedia

 

北京再訪

筆者は、先日、37年ぶりに北京を訪れた。1980年の北京は人民服と自転車の灰色の世界だったが、高層ビルと車が溢れるカラフルな近代都市に大変貌していた。なにせ、1980年の中国のGDPは世界の2%で、今ではアメリカの16%を追い抜き18%(IMF)だから、その大躍進のスピードには仰天するしかない。

5月の滞在中、習近平新シルクロード計画「一帯一路」の大国際会議が開かれていて、工場が閉鎖され、連日の青空でラッキーだった。いつもスモッグに悩まされている北京の知人は「毎日、国際会議をやってくれたらなあ」と嘆いていた。

1980年、筆者はブリタニカ国際年鑑の編集長をやっていた。今は亡き師匠フランク・ギブ二―が、前年、鄧小平に90分のインタビューをして、それをまとめた「近代化への確信」というタイトルの寄稿記事が入った年鑑(日本版)を、当時、創立されたブリタニカ中国版百科事典の編集局へ渡すのが任務だった。

編集局へ連絡すると、滞在先の友人のAP支局長ジョン・ロドリックのアパート兼オフィスに梁編集次長(清朝末の開明派ジャーナリスト梁啓超の孫)がやってきて、本を渡ししばらく懇談した。彼が、大学でフランクリン・ルーズベルト大統領のニューディールを研究したと言っていたのを覚えている。

編集局を表敬訪問したいと思い、彼にその希望を伝えると、「お客を迎えるようなオフィスではないので」と断られたが、今から思うと、よほど粗末なオフィスだったのだろう。

表敬訪問はできなかったが、姜椿芳総編集長から、妻とともに北海公園にある宮廷料理店に招かれ、西太后のお好み料理をご馳走になった。忘れがたい愉快なひと時だった。その日の編集長以下4人の幹部は全員、文化大革命の犠牲者で紅衛兵に虐待され入獄体験のある人々だった

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歴史探訪 その17 天安門事件③

 

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中国国家博物館                                             Sim Chi Yin for The New York Times

 

1989年6月4日の朝、人民解放軍が学生と市民を虐殺したとのニュースを聞いた、ペリー・リンクは(『天安門文書』の監修者、プリンストン大学名誉教授)自転車に飛び乗り、友人である方励之夫妻のアパートへ向かった。ドアをノックすると李淑嫻夫人が現れ、怒りで体を震わせながら「彼らは狂っている。ほんとうに、狂っている」と繰り返しつぶやいた。方励之は机に向かっていた。物事に動じない彼も、ショックで沈着さを保つのに苦労しているようだった。夫妻の友人たちが電話で、二人は“反革命動乱”の扇動者リストのトップに指名されているようだから、一刻も早く逃げたほうがよい、と警告した。方は「ここは、わたしの家だ。なにも悪いことはしていない。出て行く理由がない」と拒んだ。しかし友人たちの重なる忠告に従って、数時間後に姿を隠した。

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歴史探訪 その16 天安門事件②

 

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人民解放軍の戦車に対峙する「無名の反逆者」 長安街 1989・6・5  Jeff Widener AP

 

1989年6月3日、北京市内に入った戒厳部隊と学生・市民の間に最初の衝突が起こった。軍の兵士を待ち受けていたのは、学生と市民の頑強な抵抗だった。市内のいたる所で軍の車両の前進が妨害され、転覆させられ、タイヤに穴があけられた。天安門広場へ向うトラック部隊が市民に行く手を阻まれ、孤立した兵士の小グループが群衆に囲まれ暴行を受けた。軍需品を満載したバスが中南海近くで停車させられ包囲された。人民大会堂、国務院ラジオ・映画・テレビ部、共産党中央宣伝部に大群衆が集まった。

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歴史探訪 その15 天安門事件1989 ①

 

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天安門広場の大抗議集会 1989年5月30日          Wikipedia

 

筆者がはじめて北京を訪れたのは1980年春だった。北京空港はがらんとしてほとんど乗降客はおらず、壁には社会主義リアリズムの労働者賛歌の巨大な絵画がかかっていた。街を行き来する人々はほとんど人民服で、庶民の交通手段は自転車だった。乗用車はあまり見かけず、閑散とした天安門広場を公用車「紅旗」が走っていたのを思い出す。滞在先は、中国現代史のわが師ジョン・ロドリックのAP支局兼マンションだったから、快適で楽しかった。

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歴史探訪 その14 ニクソンと毛沢東 1972

 

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NIXONMAO  Nothing New Since Nixon Met Mao        Transmition6-10

 

1969年1月、ホワイトハウスの主になって1週間後、リチャード・ニクソン大統領はヘンリー・キッシンジャー安全保障担当補佐官を執務室に呼び、以前から構想していた対中和解政策を説明し、中国訪問の可能性を探るように指示した。執務室からでて来たキッシンジャーは、大統領主席補佐官ハリー・ハルデマンに「これは無理だね」と言っているから、当初は関心がなかったようだ。泥沼化したベトナム戦争の終結と米ソ核軍縮が、ニクソン新政権の最大の課題だったので、キッシンジャーの反応は不思議ではない。

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歴史探訪 その13 毛沢東の実像

 

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Andy Warhol 作                         Wikipedia

 

筆者の中国現代史の師匠は米国コルビー大学の先輩ジョン・ロドリック(1914-2009)さんだった。ジョンはAP通信のナンバーワンの中国通として、40年間、洞察に満ちた記事を世界に送り続けた。彼は延安時代の革命指導者をよく知る数少ない記者だった。ジョンは延安に二度、あわせて7か月(1945-7)滞在して、洞穴の町で暮らす毛沢東周恩来劉少奇朱徳江青などと毎日のように顔を合わせて取材した。

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