フランスの田舎で暮らす

土野繁樹の歴史散歩

ドナルド・キーンさん ありがとう

 

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縁台で読書するキーンさん ドナルド・キーン「お別れの会」

 

ドナルド・キーン自伝』は彼の84歳の作品である。ニューヨークのブルックリン生まれの天才的少年キーンは、18歳のとき『源氏物語』の翻訳を読んで感激する。その頃、1940年夏、ヒトラーの欧州制覇が破竹の勢いで続いていた。その絶望的な時代に、彼はアーサー・ウェイリー訳の「夢のように魅惑的な」小説を発見する。これは彼がのちに、日本の豊かな文学と文化の紹介者として“世界と日本の間の巨大な橋”を架ける、前人未踏の仕事の第一歩であった。筆者はこの本は文学者の書いた自伝の最高峰の一冊だと思う。

 

キーンさんとの50年

 

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キーンさんとケーリ一家 1962年 アーモスト館にて

 

キーンさんは、筆者の恩師、同志社大学教授のオーテス・ケーリとTBSブリタニカ社長で師匠だったフランク・ギブニーと、アメリカ海軍日本語学校のクラスメートだったから、その関係で半世紀の付き合いがあった。

オーテスは小樽生まれで日本語はべらんめえ調で、キーンさんとは生涯の友人だった。二人はアッツ島作戦で、日本兵約1000人の玉砕攻撃に遭遇し,生き残り29名の捕虜を尋問した。そのなかに小樽出身の兵隊がいて、「オーテスは簡単な尋問をしたあと、懐旧談にふけっていた。彼はすごく幸せそうだった」と彼はその日のことを書いている。

筆者はオーテスが館長をする同志社アーモスト館に3年間お世話になった。20人の寮生がオーテスの薫陶を受けたのだが、2階の風呂に彼と一緒に入るという“裸のつきあい”だった。ケーリ家とも家族同様だった。キーンさんやバーナード・リーチ(英国人陶芸家 )などを講師に招く月曜懇談会など、寮行事が充実していたのを思い出す。

1967年、筆者がメイン州のコルビー大学に留学中に、ニューヨークのキーンさんのアパートでのパーティに招待されたことがある。アーモスト館の同窓生、岡島貞一郎君が、彼と親しくしていたので声がかかったのだ。早めにいくと、キーンさんは玄関にある趣味の錦絵のことを説明してくれた。10人ぐらいの集まりで、サイデンステッカー、アイヴァン・モリス夫妻もいた。

思いがけない客は世界的ジャーナリストのジョン・ガンサーとその妻ジェーンだった。『欧州の内幕』などで知られるガンサーと話をしたが「政治家は嘘をつくから、もううんざりだ」と言っていたのを思い出す。ともあれ、この自伝を読むと、キーンさんの日本での交友関係の広さにおどろくが、アメリカでもそのとおりであった。

それから数年後、筆者はTBSブリタニカで『ブリタニカ国際大百科事典』の購読者サービスの雑誌、WORLD誌の編集長をやっていた。この仕事は自由に企画を立てふんだんに写真とイラストを使って紙面を展開できたので面白かった。キーンさんと加藤周一の対談“雑種文化の行くえ”は示唆に富んでいた。

国際交流基金の日本紹介について、加藤が「アメリカの大衆には日本を理解しているアメリカ人の学者かジャーナリストがやるべきで、大使館とか文化会館の日本人が来てやってもだめです」と言うと、キーンさんは「日本人がアメリカに来て、日本文学は素晴らしいというと、抵抗を感じるでしょう。だから、わたしが日本文学は素晴らしいといっても、全然抵抗がないですね」と大賛成している。大事なことは、自国で外国専門家を育成することだろう。

一度、フランク・ギブニーの東京恵比寿のお宅で仕事の打ち合わせをしていたら、キーンさんがやってきた。フランクが「どうですか」と日本語で言うと,キーンさんは「お蔭さまで」と答え、しばらく日本語で会話を続けていた。アメリカ海軍日本語学校を思い浮かべ、いい光景だなと思った。やがて、吉田健一がやってきて、会話は英語になり3人は食事に出かけた。おそらく銀座一丁目の「はち巻岡田」へ繰り出したのだろう。

フランクの依頼を受けて、吉田健一は『ブリタニカ国際大百科事典』のシェークスピアの大項目を翻訳し、キーンさんは「三島由紀夫」と「本多利明」(江戸時代の経済思想家 )の項目を執筆している。経世家、本多を扱う彼の筆致は冴えている。

 

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キーンさんと筆者 背景はアーモスト館 2012年6月

 

筆者がキーンさんに最後にお目にかかったのは、2012年6月の同志社アーモスト館開館80周年記念日だった。彼は「日本、京都への思い」と題するテーマで、大いに語ってくれた。主催は同志社アーモスト・クラブの後輩が献身的にやってくれ、聴衆者は1500人、800人はお断りの大盛況だった。

「ケーリさんも永井道雄さんも亡くなられてさびしいですね」(筆者 )「ほんとうにそうですよ。親しい友人がみんな逝ってしまいました。なぜ、わたしだけが生きているのかよく分かりません」(キーンさん)。これは、講演後の夕食会の席での会話だが、キーンさんらしい自然体のユーモアに思わず声をあげて笑ってしまった。

シェークスピアによると、一つの目で笑い、もう一つの目で涙して語る、これが最高のユーモアだという。キーンさんのユーモアにはいつもその香りがある。人生の酸いも甘いも体験した人の諧謔と軽みがある。

彼のユーモアとウィットに栄光館の満員の会場はたびたび笑いに包まれた。とりわけ「さきほど拝見した(平和主義者の)キーンさんの鉄兜と銃を構えた写真は、どんな瞬間に取られたのですか」との北垣宗治名誉教授の質問に「あれは芝居です」とキーンさんは鮮やか切り返した。これに聴衆は大爆笑!

翌朝、彼はアーモスト館内にある無賓主庵を訪れた。飛騨高山にあったこの民家は、1953年、彼が京都に初めて来たときの下宿で、当時は今熊野にあった。それを、同志社が記念事業として移築したものだ。60年後、ドナルド・キーンは鬼怒鳴門となり、愉快だったあの時代を思いだしていた。ここで一緒に暮らした親友の永井道雄のことも。

以下の文章は、キーンさんの青年時代を描いたものだ。日米戦争の激戦地を経て、ケンブリッジ大学で講師として、日本文学を担当する。しかし受講生は数えるほどしかいなかった。平和主義者、コスモポリタンが書いた自伝に従って、一人の熱き心の青年の足跡をたどってみよう。

 

キーン少年の開眼

 

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ヨーロッパの旅から帰るキーン少年 先頭から4人目の客  Chronicles of My Life

 

1933年、9歳のキーン少年は、父親を説得してヨーロッパの旅に出た。はじめは頑として聞かなかった父が、3時間にわたる彼の泣き落とし戦術に手をやいて、降参した結果だった。このパリ、ウィーンなどを訪れた旅は、彼の視野を限りなく広げたようだ。大西洋を渡って最初の寄港地はアイルランドのコープだった。誰かにもらった地元の新聞広告に「わが社のコーヒーをお飲みください。紅茶もおいしいですよ」とあった。アメリカでは世界一のコーヒーをどうぞ、となるのだがこの「低姿勢ぶりが面白かった」という。これは文化の違いを発見した初めての体験だった。

来る前は「どうして、外国語なんかを勉強しなくてはならないのか、とかねがね疑問に思っていた」のだが、ある事件でフランス語を勉強しなくてはと思うようになる。彼は父親の仕事仲間の娘と自動車の座席に座っていた。彼女は英語がしゃべれない、彼もフランス語がしゃべれない。キーン少年ができたのは、彼が知っているただ一つのフランス語の歌「修道士のジャックさん」を唄うことだった。キーンさんは、この時以来外国語に惹きつけられてしまったと書いている。かくして、彼はコスモポリタンへの第一歩をこの旅で学んだのだ。

 

大学教師のモデル

 

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カール・ヴァン・ドーレン                      Wikipedia

 

彼の伝記のスタイルはこんな軽妙な調子だが、以下は筆者が最も印象に残った箇所を、解説を加えながら紹介してみよう。まずはキーンさんの教師のモデルを見てみよう。その秘訣は「ノートを見ないで講義する」であるが、その体験はコロンビアとハーバード時代に学んでいる。

キーンさんは16歳でピュリッツアー奨学金(4年間学費無料 )を得て、コロンビア大学に入学した。小中校の成績はいつも一番で、飛び級をしてこの年で大学生となったのだ。その試験合格の秘訣は「抜群の記憶力で、教科書はほとんど記憶した」というから驚異的だ。

しかし、スポーツが不得意で、体力では大人と少年の違いがあるなか、なにか秀でたことをやろうと、学校の雑誌編集長になり短篇小説を書いたりしたが、それは学校での孤独の埋め合わせにはならなかった。キーンさんの両親は15歳の時に離婚したので、母親と小さい場所に移り、大学までの往復が地下鉄で3時間もかかった。

しかし、コロンビアは.キーンさんに教師のあるべき姿を学ぶ場になった。マーク・ヴァン・ドーレン英文学教授は「驚くべき先生で、学者で詩人であった」と言い、自分の教師としての50年は彼がモデルだという。ヴァン・ドーレンは講義では一切ノートを使わず、学生にとって一番大事なことは「作品を読み、それについて考え、なぜそれらの作品が古典とされているかを、発見することだった」。

授業は毎週4時間あり、毎週2つか3つの古典文学か哲学、たとえばプラトンの『饗宴』、アリストテレスの『倫理学』などを読んだ。これで、フランス語、スペイン語に加えて、ギリシャ語も堪能になったが、最初のテストでBをもらいショックだったという。

もうひとつの喜びは、ハーバード大学でウィリアム・フン教授の杜甫の詩の講義だった。ある日、杜甫の長編詩を身をそらして福建語で暗誦する、フンの眼に涙が浮かんでいた姿をみて、キーンさんは自分もこんな教師になりたいと思ったという。

逆にアメリカで最も有名なロシアのセルゲイ・エリセーエフ教授の講義には失望した。東京での夏目漱石との交流で知られる彼の講義を期待していたのだが、旧いノートを読むだけで、内容は無味乾燥なものだった。ある日、コロンビア大学角田柳作先生の名前が挙がったことがある。するとロシア人教授は「どうしてそんな男を雇ったのだろう」と言った。「角田先生はあなたより10倍も日本文学について知っている」と言いたかったが、キーンさんは気持ちを抑えて何も言わなかった。

キーンさんは大学の講義では一切ノートを使わず作品を語った。何十年後、ある学生が「学んだ内容は忘れてしまったが、先生の情熱は良く覚えている」と言ったという。

 

源氏物語』に心を奪われる 

 

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ウェイリーの6冊本の『源氏物語』が完訳 1933年

 

1940年春、ドイツ軍が電撃作戦を開始した。あっという間に、デンマークノルウェーに続き、オランダとベルギーが占領され、ドイツ軍はフランスを守ると思われたマジノ線を簡単に迂回し、フランスの半分は占領された。イギリスは連日の空爆で逆転の可能性はほぼないと思われていた。

その頃、キーンさんは「ナチスの征服に関する最新ニュースは怖くて読めなかった」と言っている。戦争への憎悪、ナチスへの憎悪で、漢字の勉強も手がつかないほどであった。その彼に、まったく予期せぬことが起こり「最悪の時期に救いの手が差し伸べられた」のであった。

当時、ニューヨークのタイムズ・スクエアに売れ残りの新古書を専門に扱う本屋があった。キーンさんはそこで”The Tale of Genji”という本に巡り会う。日本に関する本であることは分かったが、なにが書いてあるか知らないまま読み始めた。その本は『源氏物語』2冊本49セントで、安いと思って買った。

キーンさんは『源氏物語』に心を奪われる。そして「アーサー・ウェイリーの翻訳は夢のように魅惑的で、どこか遠い美しい世界を鮮やかに描きだしている」と書いている。彼はこの物語と自分の生きている世界を比べてみた。

源氏物語では対立が暴力になることはなく、戦争もない。しかし、彼はこの本を「楽しみ」のために読んだわけではない。「自分がこの本のページを開いたのは、世界のすべての嫌なものから逃れるため」だった、と正直に気持ちを伝えている。

さらに、光源氏について次のように語っている。彼はヨーロッパの叙事詩の主人公のように戦士ではない。「源氏は多くの情事を重ねたが、ドン・ファンのように征服した女のリストに興味はなく、人間であってこの世を生きることは、避けようもなく悲しいことであった」。

キーンさんはこの世界最古の心理小説を読んで、浮世の世界を発見したのではなかろうか。本居宣長が源氏について言った「もののあわれ」に引き込まれたのだと思う。

源氏の2部の最後は、心の支えであった紫の上が死に、彼の光輝く容姿も世人の徳望する姿も昔のままであったが「人並みすぐれてはなやかな生涯であったが、また悲しさも人並み以上のわが生涯であった」と述懐し、52歳で出家する。

筆者はウェイリーの『源氏物語』を読んだが、登場人物の愛、憎しみ、孤独,嫉妬などの感情が、まるで現代人と同じであることを発見した。人の心は1000年経っても変わっていない。

 

海軍日本語学校の特訓 

 

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米国海軍日本語学校  草書を学ぶ    University of Colorado at Boulder Libraries

 

キーンさんは19歳まで日本語がしゃべれず、よく読めなかった。それを克服したのが海軍日本語学校の勉強だった。世界と日本の架け橋になるための、土台がここで出来た。しかし、これを生み出したのは、皮肉にも戦争だった。

1941年12月7日、キーンさんは友人とステッセン島にハイキングへでかけた。帰りにマンハッタン島に戻ってくると、一人の男が新聞を売っていた。その新聞の見出しに“日本がハワイを攻撃し、フィリッピン空爆される”だった。二人は、いつもの客寄せだと思い、笑っていた。だが、彼が家に帰ると、それは真実であることを知る。翌日、大学へ行き、ルーズベルト大統領が宣戦布告をするラジオ放送を聞き、長年の悪夢が現実になったことを知った。

コロンビアの学生は召集か、志願するかで軍隊へ入り、教室はからっぽだった。キーンさんは自分も軍隊に入るのかなと思ったが、銃剣をもって戦う姿は想像できなかった。そんな時、海軍の日本語学校が翻訳と通訳の候補者を応募していることを知る。

しかし、自分の日本語は辞書を使って簡単な新聞記事が読めるくらいで、しゃべるのは一言半句できず、聞くのもぜんぜんできなかった。キーンさんは「自分の限界を痛いほど分かっていた」ので、海軍省に手紙を書いた。しばらくして、ワシントンから合格通知がきて、ニューヨークからカリフォルニア大学まで汽車で5日間かけて行った。

キーンさんはその頃の気持ちを「自分の平和主義と海軍入隊ということに、何の矛盾も感じなかった。わたしは日本語を勉強にいくのだ」と書いている。

海軍が指示した大学の日本語学校のある建物で、彼は集まっている人々を見渡し「これが仲間になる人々かと思ったが、まさかその中に終生の友になる男がいるなど、考えもしなかった」と回想している。

授業は相当きつかったようだ。日本語の知識によって分けられ、6人以上のクラスはなかった。授業は週6日、1日4時間で、毎週土曜日が試験。毎日2時間が読解、1時間が会話、1時間が書き取り。さらに翌日の授業に備えるのに少なくとも4時間の予習が必要だった。学生は約30人だった。

先生は日本で学校教育を受けた、日系アメリカ人の「帰米」であった。先生と生徒はすぐ仲良くなった。日本語学校で使われた教科書は、日本に駐留していた米国海軍士官のために、長沼直兄が作ったものだった。この教科書は軍事的なことだけでなく、できるだけ完全かつ多様な日本語の知識が入っていた。

生徒は二つのグル―プからなっていた、日本に滞在していた宣教師やビジネスマンの息子たちと、学業成績が良く、特に語学に優れた者だった。学生は良く勉強したが、その最大の理由は、自分の大学が最高であることを証明する競争であったと思われる、と教師キーンさんは観察している。

11か月後、クラスは卒業した。キーンさんは卒業生代表として日本語で30分に渡って「告別の辞」を語った。彼は「一年前は一言半句しゃべらなかった日本語で・・」と、その喜びを噛みしめている。

 

玉砕の島で生まれた友情

 

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銃を持つキーンさん(左上)とオーテス・ケーリ(右上)   DAC

 

キーンさんは戦地アッツに送られ、玉砕を体験する。ここは、オーテス・ケーリとの友情が生まれた島でもあった。アーモスト館でオーテスは「キーン君」と呼んでいたのを思い出す。彼流の最も親しい友人の呼び方だった。

1943年2月、海軍日本語学校の卒業生の多くは真珠湾に派遣された。キーンさんが配属されたのは、ガダルカナルの戦いで、押収された文書を翻訳する部署だった。ある日、大きな木箱に入っている悪臭のする文書に気がついた。そこには血痕のついた兵士の日記もあった。キーンさんは日記を翻訳し始めた。彼は「これらの日記は時に感動的で、兵士の最後の日々の苦闘が記されていた」と書いている。

それらの日記には、アメリカ人に当てた英語の伝言が記してあった。家族に渡してほしいと。キーンさんはこれらの日記を机の中に隠していたが、見つかって没収された。彼にとって「これは痛恨の極みだった」。彼は「わたしが最初に知りあった日本人はこれらの日記の筆者だった。もっとも出会った時には、すでに皆死んでいたわけだが」とこの体験を結んでいる。

 

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オーテス・ケーリ  真珠湾で 1945年      DAC

 

翻訳局で働きはじめて数か月後、キーンさんはある作戦に派遣された。オーテス・ケーリが彼を相棒に選んだという。オーテスは小樽の小学校に通っていたから日本語は抜群だったが、書かれた日本語はキーンさんのほうが上だったから、良い相棒だった。二人は、白い軍服を準備するようにと言われ、行き先は暑い国だと思っていた。

サンディエゴの快適なホテルで数週間過ごした後、旧い戦艦ペンシルヴェニアに乗った。当然、南に行くと思っていたのに,船が進むにつれ大気が冷たくなった。アラスカのコールド・ベイで軍用輸送船に乗り換え、ここでアッツ上陸作戦に参加することを知る。

陸軍の兵隊は冬の装備だったので、二人はそれを要求したが、「海軍の人間には何も与えられない」という冷たい答えが返ってきた。二人がアッツ島に上陸したとき、島は雪景色で、夏の軍服でブルブル震えていた。

アッツ島は日本軍の最初の“玉砕”の場であった。5月28日、約1000人の日本兵アメリカ軍に猛攻撃をかける。一時はアメリカ軍が苦境に陥るが、結局は、日本軍は勝利の望を捨て集団自決を遂げた。キーンさんには「なぜ日本兵は、最後の手榴弾アメリカ兵に投げずに、自分を殺すことに使ったのだろう」と書きそれが理解できなかった。

二人はエイダック島に移り、1日12時間にわたって、キーンさんはアッツ島の押収文書の翻訳をし、オーテスは捕虜の尋問をした。キーンさんは2人の友情を「ケーリとわたしは1日24時間、数メートルの範囲内にいたが、お互い苛々したことがなかった。2人が友人である証拠だった」と書いている。 

 

沖縄戦から原爆投下 

 

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アメリカ兵と沖縄のこども       Official U.S. Marine Corps

 

ある日、ハワイ海軍司令部に通訳一団が召集され、沖縄行が告げられた。レイテ島に集結した艦隊は、千三百隻以上の世界最大規模であった。沖縄上陸前にキーンさんは死に直面する。デッキに立っていた彼は空に黒い点をみつけ、それが大きくなり神風特攻機であることを知る。しかし、彼は動けなかった。急降下してきた神風は隣の船のマストにぶつかり、水中に沈んだ。危ないところだった。

沖縄上陸は1945年4月1日だった。ある師団が語学将校を探していることを知り、キーンさんは志願した。10人の日系アメリカ人が部下にできたが、命令の出し方を知らなかった。仮に、危険地帯に行くにしても、一番強い命令は「わたしと一緒に戦線に行きたい人はいますか」だった。そして沖縄で戦闘は何か月も続いた。夏が暑くなると、いたるところに腐敗した死体の臭いがした。

キーンさんは約1000人の捕虜を連行した船に乗って、ハワイに戻った。その捕虜は日本兵と沖縄の民兵が半分、後の半分は朝鮮人労働者だった。ハワイに着いたのは8月だった。通訳仲間の5人の将校がいる家に戻り嬉しかった。そこで、彼はラジオで広島に原爆が投下されたことを知る。すぐに、捕虜収容所に行くと皆知っていた。彼らがどんな惨めな気持ちでいるかが想像できた。

その夜、キーンさんはグァムに到着した。2度目の原爆が長崎に投下され、トルーマン大統領が「嬉々として」発表していることにショックを受けた。この投下を正当化できる理由はなにもなかった。数日後、玉音放送があった。キーンさんは雑音がひどいので、天皇が戦争の継続か終結か、どちらを伝えたいのか分からなかった。3人の捕虜の眼に涙が浮かんでいるのを見て、天皇の言葉の意味を知った。

キーンさんは日本に派遣される順番を待ちに待ったが、その機会は訪れなかった。彼と上官の関係が悪かったからだ。彼は上官の冗談に一度も笑ったことがなく、そのことを根にもつ上官は、報復に日本行の望を断ったのだった。代わりに、彼は中国の青島行を命じられた。

 

語学将校の篤い人情

 

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オーテス・ケーリと式場隆三郎(左から2人目)   1945年         DAC

 

青島に3か月、キーンさんは駐留した。そこでの最後の仕事は戦争犯罪人の調査だった。それがいやになってハワイへ戻ることを申請した。飛行機が厚木に着くと「ハワイの原隊へ復帰せよ」との命令書を見せるように言われた。夢にまで見たいと思っていた日本を、見られないことは耐え難いことだったので、自分の原隊は横須賀だと伝えると、将校はこの説明を受け入れた。

滞在先はハワイの語学将校がいる東京の有楽町ビルを思い出し、そこを拠点とした。キーンさんは日本にいることだけで興奮した。美術館や劇場、神社仏閣を見たかったが、ハワイの捕虜や中国の日本人家族に会い、彼らの無事を伝えることを優先した。中国で親しかった四谷の友人の家は、爆撃でやられ地下室で暮らしていた。湘南まで行ったこともある。文学と音楽を話し合ったハワイの捕虜「佐藤」を探し回ったが結局だめだった。

オーテスも9月に日本に帰ってきて同様のことをしていた。彼の場合には“英霊”からの手紙を届けることだった。着いた翌日、彼は電通ビルに上田碩三編集局長を訪ね、義弟の”幡さん“の手紙を渡し「生きていてくれて本当によかった」と喜んでもらえた。

次の”冥土の便り“は市川の式場隆三郎(有名な精神科医)だった。玄関で手紙を受け取ると式場は「しかし、義弟はもう死にました」と無感動に言った。オーテスは「日付を見てください」と言うと。それでやっと本物であることが分かり、式場は感動で全身をふるわせていた。これほどハワイの語学将校の人情は篤かったのだ。(オーテス・ケーリの『真珠湾収容所の捕虜たち』より)

キーンさんが日本に滞在したのは1週間だけで、観光をしたのは日光だけだった。違法を心配したキーンさんは横須賀指令部へ行き、自分が誤解していたと報告し、原隊はホノルルにあると言うと、あっさり受理された。

翌日、木更津の埠頭へ行った。船が真っ暗な湾に向かって動きだした。デッキに立っていたキーンさんの眼に、突然、朝日を浴びてピンク色に染まった富士が姿を現した。キーンさんは感動のあまり、涙がでそうになった。「日本を去る前に,富士を見た者は、必ず戻ってくる」と言う言葉が本当であってほしいと思った。しかし、キーンさんが日本を見たのは、それから8年後のことだった。 

 

アラビア語ペルシャ語

 

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角田柳作                     早稲田大学

 

この頃のキーンさんは、東京裁判の通訳になる一歩手前で辞めているほど、日本に行きたくて仕方がなかった。ハワイの語学将校の仲間が東京で仕事をしていることへの焦りがあったのだろうか。それが、英国への留学で一挙に逆転する。5年間の留学中に日本文学を研究し、後日に備えたのだった。彼はそんなことになろうとは思ってもいなかったが。

キーンさんがハワイに戻ったのは1945年のクリスマス直前だった。翻訳局はもぬけの殻で、通訳の多くは日本に行っていた。ニューヨークに帰ってきた23歳のキーンさんはなにをするかまったく考えていなかった。アメリカの大学で、日本の文学や歴史の教師の職はなく、彼はこのまま日本語の研究を続けて自分の運命を信じることにし、コロンビア大学の角田先生の下で勉強することにした。大学には4、5人の元語学将校がいて、彼らと西鶴の『好色5人女』の全編を読み、大学院での修士論文に本多利明を書いた。

しかし、日本に行きたくて仕方がなかった。一時は、東京の戦犯裁判の通訳にと思ったこともある。しかし、合格したがぎりぎりのところで、中国青島の体験を考えて断った。中国語を6か月やったので、中国へ行こうと思ったが、政情が不安定であきらめた。こんな中で、ハーバード大学のことが浮上した。

しかし、角田先生にどう話せばいいのだろう。思い切ってこの計画を話すと、彼は仏教の修行僧がひとつの修行場から次の修行場に行く「遍参」(ヘんざん)で行けと言ってくれた。この言葉はキーンさんは嬉しかったにちがいない。はじめて、彼が先生に会ったときの、学生は「一人で十分です」と同じように。

ハーバードで、日本史の助教授で、青年のようなすがすがしい人、ライシャワーに会ったのは幸いだった。彼の一番の傑作、円仁の日記に関する第二作を、一般人のために刊行することを聞いてキーンさんは感銘を受ける。その当時、一般のために学術書を書く人は少なかった。これは、キーンさんがライシャワーから学んだことだった。

キーンさんは、ハーバードでのGIビル(復員兵援護法)で支払われている授業料が切れることになり、教職の仕事を探したがギリシャ語の先生しかなかった。誰かが英国で勉強するヘンリー奨学金のこと教えてくれた。この奨学金の趣旨からして、日本語研究はムリだろうと思い、アラビア語ペルシャ語を選び応募した。

すると驚いたことにケンブリッジから合格通知が来た。ケンブリッジの東洋学部の教授に、二つの言語を勉強するつもりだと言うと、彼はやんわりと教授に迷惑をかけることになるよ、とたしなめられた。これで、キーンさんは、1年間なんでも自分の好きな研究ができると思うと、天にも昇る気持ちだった。

もし、アラビア語ペルシャ語をキーンさんが勉強していたら、世界と日本を結ぶ名作”Anthology of Japanese Literature“(『日本文学選集』)が書かれたかどうかは分からない。

 

『日本文学選集』はロングセラー

 

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『日本文学選集』                      Jason P. Hyland

 

“Anthology of Japanese Literature“は1955年にアメリカで刊行された本で、日本文学を学ぶ人々のガイド・ブックである。いまだこの442頁の本が、外国では刊行されて愛読されているから驚くべきロングセラーだ。キーンさんが『古事記』から現代作家の作品まで講義で扱うようになったのは、コロンビア大学からだ。しかし、その”準備“はケンブリッジ大学の時代にやっていたと思われる。彼はケンブリッジに5年いて、講師として文学と歴史を教えていたが、その時の蓄積がこのような本を生む背景にあった。

彼は前書きの巻頭に次のように言っている。

「日本文学は英文学と同じ長さの歴史を持っている。そして、取り扱うジャンルは、あらゆる分野にわたっている。小説は世界で一番長く、詩は一番短い。信じられないような、ささやきに似た示唆から、派手極まりない大言壮語まである。この豊かな文学はより良い理解と評価がいる」

彼は日本文学が世界文学の重要な一部を果たしていることを、普通の人に知ってもらうためにこの本を書いた。内容は、教室でのノートなしの講義と同じように、自らの作品について思うことを、情熱を込めて書いている。

フランク・ギブニーは1955年のニューヨーク・タイムズ紙にこの本の書評を寄稿した。その一部を紹介しよう。「キーンはこの本の大部分を自分で翻訳しているが、その結果、正確さと文章の優雅さが、選集をより魅力のあるものにしている」と書き、「彼の選択は、偉大な小説『源氏物語』、仏教の色彩が強い『方丈記』、近松門左衛門の戯曲作品、江戸の滑稽本東海道中膝栗毛』のように、素晴らしい。彼の作品への見方は心を打ち、深い。この本を読んだ者は、日本人を不可解な東洋人とはいうことが出来ないだろう」

 

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フランク・ギブニーの『日本の5人の紳士』

 

フランクの著者紹介には1953年にベストセラー『日本の5人の紳士』を書いたとあるが、この本は戦後はじめて日本人を実物大に描いた本として評判になった。皇太子の家庭教師であった作家のヴァイニング夫人が賞賛した作品だ。この本も再版されている。フランクは実在の人物で、キーンさんは文学で、ステレオタイプの日本人像を打ち破ったのだ。

キーンさんはこの本を基に『日本文学の歴史』(中央公論社 18巻)をだしたが、これは1964年のソ連旅行で出会った、レニングラード大学日本語教授エフゲーニア・ピヌス の示唆によるものだった。彼は、はじめは自分の個人的解釈と評価だけでよい、と考えていたのだが、本格的な文学史となると、基本的事実なくしては成り立たない、との彼女の示唆に思い直したからだった。英語版がでたのは25年後のことだった。しかし「この構想の転換はソ連旅行最大の賜物だった」とキーンさんは言う。

 

ケンブリッジの幸せ

 

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のどかなケンブリッジ風景                      Wikipedia

 

キーンさんのケンブリッジ生活は孤独なときもあったが、楽しい時代だった。美しい田園風景のなかで、思索と構想を練る時だった。もうひとつの文化を知り、コスモポリタンに磨きがかかった。

キーンさんが暮した初めての寮は「ケンブリッジで一番寒い部屋」で、食事はひどかった。一週間21回の食事のなかでニシン料理が14回の時もあった。しかし、料理のすべてに優雅なフランス語のメニューがついていた。

学生たちは政治的に保守派で、身だしなみがよく、マナーもよく、初めは友達になれないと思っていたが、彼らは親切で必要なときには助けてくれた。

最初の年に体験した忘れがたい事件はケンブリッジではなく、イタリアで起こった。博士論文「国姓爺合戦」の原稿をほぼ書き終え、手書き原稿とタイプライターを持って、アメリカの友人の招待を受けローマに向かう途中で起こった。キーンさんは列車がミラノ駅に着いたとき、隣の男に新鮮な空気を吸いたいので、荷物を見てくれないかと頼んだ。10分後に帰ってくると、男もスーツケースも消えていた。なんということだ、初めから書かなくてはならない。

ケンブリッジに帰ったキーンさんは、友人の一人にこのことを話した。ほどなく彼の母親から手紙がきて、学期がはじまるまで毎日昼食へ招いてくれたのだ。 別の友人は温かい部屋を用意してくれ、もうひとりはタイプライターを準備してくれた。絵画と音楽の詳しいディッケンズ夫人は、キーンさんの友人だった息子ウィリアムズが登山事故で亡くなると、彼をもうひとりの息子のようにしてくれた。博士論文を友達に見せたら「前よりずっと良くなった」と激励してくれた。

キーンさんは「ミラノの泥棒に感謝すべきだったかもしれない」と言っている。この伝記には同じような箇所がなんどかでてくるから、これが彼の人生観だろう。

彼は3年目に日本語の会話の授業を担当した。びっくりしたのは、会話の教科書が『古今集』序だったことだ。したがって、キーンさんの授業も珍妙なものになった。たとえば、ある学生は「まじめな男」というところを「ひたすらなおのこ」と言っていた。自分の日本語も、3年間も話していなかったから怪しいものだった。

バートランド・ラッセル教授との交歓もある。授業のあと、キーンさんはラッセルに一冊の本のサインを頼んだ。すると、彼はそのペンを使って他の学生の本にサインを続けた。それが終わったあと、彼は待たせたことを詫び、ビールを飲みに行こうと誘ってくれた。帰りがけにラッセルは「お若いの、君と話すと実に楽しい。講義が終わるたびに、一緒にビールを飲もうじゃないか」と言ってくれた。

ラッセルとキーンさんが二人で歩いているのを見た友人が、あんなに嬉しそうな顔をした人間をみたことがない、と言った。キーンさん面目躍如の場面である。彼は英国文化の懐の深さを学んだにちがいない。

 

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アーサー・ウェイリーとキーンさん ケンブリッジのキングス・カレッジにて 1953?

 

ケンブリッジ時代にキーンさんは、よく列車で1時間半乗ってロンドンへ出かけた。しばしば、英国博物館の近くに住んでいたアーサー・ウェイリーを訪ねた。あの信じられないほど美しい英語で『源氏物語』を訳した彼は、キーンさんにとって「インスピレーションの源泉」だった。キーンさんは第二のウェイリーになる夢があり、日本語と中国語を同時に勉強していたが、途中で日本語ばかりになりあきらめた。

会う人ごとに、ウェイリーは話すのが難しいと言っていたが、実は退屈するとそれを隠そうとはしなかったからだ。たとえば、客があまりに退屈だったので、公園に行き二人で本を読んだという。逆に、知り合いがあまりに多すぎて「変わり者」のコレクターと呼ばれた。ジャワの踊り子の一団、スイスの教師に、自分は日本文学を教えていると言うと「ウェイリーを知っているか」と聞かれたこともある。

キーンさんはウェイリーは天才であると言っている。サンスクリットモンゴル語、ヨーロッパ主要言語を知っているのは、言語学者としてではなく、世界の文学、歴史、宗教に限りない興味を抱くひとりの人間としてであった。キーンさんが彼に初めて会ったのは、ケンブリッジアイヌ叙事詩ユーカラ」についての講義をした時だった。当時60歳だった彼は「ユーカラ」を訳す喜びのためにアイヌ語を学んだのだった。この美しい翻訳はキーンさんが持っていたアイヌへの間違った印象を根本から覆したという。

骨を埋める覚悟だったが

キーンさんは『自叙伝 決定版』で「ケンブリッジに骨を埋める覚悟をしていたので、どこか他の土地へ行って、より充実した研究生活を送ることなど、思いも浮かばなかった」と書いている。1年目の学期の終わりに、彼はハラウニ教授に、この大学の教員になるつもりはないか、と誘われた。彼はアメリカの大学の助教授になることを受諾して、給与はケンブリッジより5倍あった。しかし、彼は「ケンブリッジを離れる気がしなかった」と言い助教授のオファーを断った。2年目、准講師から正講師になるためには、東洋の言語をふたつ教えなくてはならなかった。中国語はルールがありダメだったので、日本語と朝鮮語にして、朝鮮語を勉強した。

大学での生活は学者にとって理想的であった。教えるノルマは軽く、休暇は6ヵ月もあり、日本関係の図書もキーンさんの必要を十分に果たしていた。ただ一つの大きな不満は、学生数の少なさだった。彼は日本文学に自分が熱中していることを、学生に伝えたかったのだ。1952年の春、キーンさんはケンブリッジで日本文学について5回の連続講義を行った。講義の参加者は少なく、毎回6人から10人が200人の教室に座っていた。その時、彼が辿り着いた結論は、しかし「自分の人生には日本語しかない」だった。

翌年、彼は1年の契約で日本留学をする。この時から、キーンさんは“世界と日本の間の巨大な橋”を架ける仕事を本格化する。それもほぼ一人で。

キーンさんの「お別れの会」が4月10日、東京青山葬儀場で行われた。その日、筆者ははるかフランスの田舎から原稿を東京へ送り、彼の安らかな眠りを祈った。キーンさん、万感の思いをこめて、ありがとう!

筆者はこのエッセイを書くにあたって英語版”Chronicles of My Life an American in the heart of Japan”と日本版『ドナルド・キーン自伝』のお世話になりました。キーンさんの流れるような見事な文章と、角地幸男さんの素晴らしい訳に感謝を捧げます。

 

 

 

フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。