フランスの田舎で暮らす

土野繁樹の歴史散歩

中国100年の屈辱 その10 1937年 南京の生き仏

 

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犠牲者の顔写真ククリーン                 南京大虐殺記念館

 

南京事件は、おそらく日本の歴史のなかで最も恥ずべき出来事であった。「聖戦」の名で、書くのも語るのも憚られる蛮行が行われたことを、いまでは多くの日本人は忘れている。そして知らない。知っているにしても、うすらぼんやりとだ。それだけではない。南京事件はなかった、それほどの大事件ではなかった、という説が大手を振るってまかり通っている。

今回の歴史探訪では、幻説と事件の矮小化がなぜ誤っているかを、内外の信頼できる史料を駆使して証明してみよう。史料のなかで、とくに重要なのは、南京安全区委員会の長であったジョン・ラーベの『日記』である。ドイツ人ビジネスマンでナチス党員であったラーベは、南京市民、難民20万人を救った。このヒューマ二ストの日記を読むと、ドキュメンタリー映画の説得力がある。後半で、中国人でも日本人でもない、この第三者の証言を紹介する。

 

なぜ、日本人はなぜこの事件に沈黙し忘却してしまったのか,なぜ知ろうとしなかったかは、極めて重要なテーマである。作家、辺見庸さんは『1937:イクミナ』(2015刊)で、南京事件を封印した戦後ニッポンを厳しく批判している。彼は「おそらく、近代の日本人は、侵略され征服される人々の身になって、切実に考える知性と想像力がまったく足りなかった」と言う。

60年前に、そのことに気付いた作家、堀田善衛は中国の知識人の眼でみた南京における日本人と日本軍の姿を、小説『時間』に書いた。堀田の分身である主人公、陳英諦の手記は、勇気あるニッポン人論でもある。筆者がおおいに啓発された、この二人の作家の主張を紹介しよう。

 

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左から長谷川清(支那方面艦隊司令長官)、松井石根、(中支那方面軍司令官)、
朝香宮鳩彦(上海派遣軍司令官)、柳川平助(第10軍司令官)  毎日新聞

 

12月11日、大本営は「中支那方面司令官は海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」との命令を下し、現地軍の独断専行を正式に追認した。同時に、松井岩根は中支那方面軍司令官に任命され、その指導の下に、二人の軍司令官、朝香宮鳩彦と第10軍の柳川平助が南京攻略作戦を実施する体制が整えられた。昭和天皇のいとこである朝香宮上海派遣軍司令官に任命され、12月7日に現地に着任した。

松井は最高司令官ではあったが、一日も早く南京陥落をするための作戦指揮だけで、軍隊の食糧補給、軍紀の取り締まりなどを統制する機関も将兵もおらず、上海派遣軍と第10軍にまかせっぱなしとなった。これが、南京事件の温床になった。南京攻略戦には20万の日本軍が投入されたが、『日本憲兵正史』によると、「配属憲兵はわずか102名に過ぎなった」とあるから、軍紀違反など取り締まることはできない。デタラメだ。

両軍の司令官が厳格に軍紀を保つ者であったら、統制はとれていただろうが、軍中央の命令などどこ吹く風で、将兵の蛮行を黙認、いや奨励さえしていたのである。

毎日新聞の委託従軍記者として、南京攻略戦を取材した大宅壮一は、杭州湾に上陸した柳川は「山川草木、全部敵なり」とゲキを飛ばしていたと言っている。柳川は総攻撃前に「イペリット弾(毒ガス)と焼夷弾で南京市街を廃墟にせよ」と本気で提案するような男であった。

朝香宮が、上海派遣軍司令官として現地に着任して以来、配下の将兵の戦争犯罪を止めようとした形跡はない。それどころか、彼の直属の部下、第16師団長・中島今朝吾との関係を考えると、黙認あるいは蛮行を奨励していた疑いもある。1920年代に、二人はフランスで出会った。朝香宮はパリ郊外にあるサンシール陸軍士学校に留学し、中島はパリの日本大使館駐在武官であった。それ以来親しい仲であったという。

前号の最後に、朝香宮と柳川のいる席で、松井が日本兵の蛮行を泣いて諌めたシーンを、読者は覚えているだろうか。その時、松井は「或る師団長の如きは『当たり前ですよ』と言った」とあるが、それは中島のことであった。南京事件で、最も忌まわしい戦争犯罪は捕虜の大量虐殺であった。「捕虜は作らぬ方針」を公言し実行した中島は、南京が陥落した12月13日の日記に次のように書いている。

 
 だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片づけることとなしたるも、千、五千、一万の群衆となればこれが武装を解除することすらできず、ただかれらがまったく戦意を失い、ぞろぞろ付いてくるから安全なるものの、これがいったん騒擾せば、始末にこまるので、部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じて、13日はトラックの大活動を要したり。
 後にいたりて知るところによりて、佐々木部隊だけにて処理せしめもの約一万五千、太平門における守備の一中隊長が処理せしもの約一三00、その仙鶴門付近に集結したるもの約七、八千人あり、なお続々投降しきたる。
 この七、八千人、これを片づくるには、相当大きな壕を要し、なかなか見当たらず、一案としては百、二百に分割したる後、適当の箇所に誘きて処理する予定なり。(『南京戦史史料』)

この日記は、第16師団が処刑しようとした中国軍の投降兵、敗残兵は、13日だけで2万3000人を越えることを、語っている。

12月13日、第10軍司令官・柳川は「各兵団は城内にたいして砲弾はもとよりあるゆる手段をつくして敵を殲滅すべし」と配下の部隊に命令をくだした。南京城外を大軍で完全包囲した日本軍は、城門と城壁の破壊口から城内に突入し徹底的な「残敵掃討」を行った。米国人記者A・Tスティ―ルはそのようすを報道している。

 アメリカ西部でジャックラビット(大ウサギ)狩を見たことがある。それは、ハンターがウサギを取り囲み、しだいに追い詰めていき、最後は、ウサギは殴殺されるか、撃ち殺されるのだった。南京での光景はまったくこれと同じでその標的は人間だった。逃げ場を失った人々はウサギのように無力で、戦意を失っていた。その多くはすでに武器を放棄していた。
 日本軍が街路をゆっくり巡回して、走ったり疑わしい動きをする者なら誰でも、機関銃と小銃で射殺するようになると、敗退し闘志を失った軍隊はいわゆる安全区(難民区)になだれこんだ。そこは掃討を受けていない最後の地区のひとつであったが、一方、街路は地獄であった。(「シカゴ・ディリー・ニューズ」1938年2月4日)

 

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南京の中国人捕虜        Wikipedia

 

集団虐殺を軍司令部が直接命令したという証言もある。松井司令官の専属副官であった角良晴が次のように回想している。以下は、吉田裕教授の秀作『天皇の軍隊と南京事件』から引いた。

 12月18日朝、第6師団から軍の情報課の電話があった。「下関に支那人約一二、三万人居るが、どうしますか」情報課長、長勇中佐は極めて簡単に「ヤッチマエ」と命令したが、私は事の重大性を思い、このことを軍司令官に報告した。軍司令官は直に長中佐を呼び「解放」を命じられたが、中佐は「支那人の中には軍人が混じっております」という。軍司令官は「軍人が混じっていても, 却って紀律を正しくするために必要だ」と強く「解放」を命じられたので、中佐は「解りました」と返事をした。私は長中佐の過激な性格と、過去の命令違反の行状を考えて、さらに中佐の言動に注意していた。
 ところが約一時間くらい経って再び第6師団から電話があった「支那人をどうするか」であった。長中佐は再び前回同様「ヤッチマエ」と命じた。私は軍司令官に報告することができなかった」(『証言による南京戦史』)
 
なぜ角副官は松井司令官に報告できなかったかは、分からない。ならず者参謀・張に威圧されたのだろうか。ことを荒立てたくなかったのだろうか。ともあれ、最高司令官の命令をいとも簡単に覆して、虐殺命令を発した長の行動は、究極の下剋上であった。軍の紀律はトップから崩壊していたのである。

吉田教授は、この虐殺命令で犠牲になったのは、東京裁判に提出された南京地方法務検察官の報告にある、約6万の中国軍民が下関・草鮭峡で集団殺害されたという証言に該当すると推定している。

第114師団は、投降勧告を行って捕虜にした中国兵を殺害している。12月12日から翌日にかけて、南京城壁の南側で1500人の捕虜をどう扱ったかを、同師団の第66連隊第一大隊の「戦闘詳細」は次のように記している。

 12月12日午後7時ごろ 最初の捕虜を得たるさい、隊長はその三名を伝令として抵抗断念して投降せば、助命する旨を含めて派遣するに、その効果大にしてその結果、わが軍の犠牲をすくなからしめたるものなり。捕虜は鉄道線路上に集結せしめ、服装検査をなし負傷者をいたわり、また日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ、さらに伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり。

その夜の「戦闘詳細」には、捕虜を洋館に収容し、徴発米を炊いて彼らに食事を支給した、とあるから、大隊長は降伏した敵兵を人間として扱うつもりであったのだろう。しかし、事態は一変する。

 13日午後2時、連隊長より左の命令を受く。旅団命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は十数名を捕縛し逐次銃殺してはいかん。

 13日夕方 各中隊長を集め捕虜の処分につき意見の交換をなさしめた結果、各中隊に等分に配分し、監禁室より五十名宛連れ出し刺殺せしめることにせり。各隊とも午後5時準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後七時三十分刺殺終わり。連隊に報告す。第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。

捕虜に助命を約束しておきながら、刺殺するという背信行為を行ったのは、柳川平助が率いる第10軍下の師団であった。これは重大な戦時国際法違反であったが、旅団長はそれを無視して全員刺殺命令をだした。その背景には、柳川司令官の「捕虜皆殺し」方針があったといえる。この非道な虐殺事件は、柳川のそれまでの常軌を逸した言動の延長線上にあるものだった。「皇軍」には武士道などなく、とっくに死んでいたのである。

 

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日本軍の南京包囲      『南京の日本軍』藤原彰

 

日本軍が南京城内に突入し中国軍の「残兵殲滅」作戦が開始された。捕虜になることを怖れた中国兵の城内からの脱出がはじまった。それを見た城内の市民はパニック状態になりも、続々と脱出していった。数万の軍民の群衆が南京城壁の北側にある?江門から逃れ、長江(揚子江)と城壁の間に挟まれた場所に集った。そこへ、長江の上流と下流から日本軍が殲滅作戦を展開した。

京城北側の下関に到着した、第16師団の歩兵第33連隊の「南京付近戦闘詳細」は、次のように記録している。
 
 12月13日午後2時30分 前衛の先頭下関に達し、前面の敵情を捜索せし結果、揚子江上には無数の敗残兵、舟筏その他あらゆる浮物を利用し、江を覆いて流下しつつあるを発見す。すなわち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し,江上の敵を猛射すること二時間、殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す。(『南京戦史史料集』)

1.5キロ先の長江対岸まで辿り着こうとしている、敗残兵と難民の大群を海軍の艦隊が襲いかかった。以下は、第一掃海隊の12月13日の記録である。

 沿岸一帯の敵大部隊および江上を舟艇および筏などによる敗走中の敵を猛攻撃、殲滅するもの約一万に達し・・・終夜江上の敗残兵の掃蕩をおこないたり。
海軍省教育局「事変関係掃海研究会記録」)

笹原十九司教授は、この掃討作戦に出会い九死に一生をえた中国人将校・陳頤鼎にインタビューし、その回想を記録している。「長江に漂う中国人将兵が日本軍の餌食となった・・戦友たちの無数の死体がたえず近くを流れていく。長江の水は血でそまり、凄惨な光景は見るにたえなかった。軍艦上の日本兵たちが、長江を漂流する戦友たちを殺戮しては拍手し、喜ぶ姿も見えた。このときの怒りは、生涯忘れることができない」(笠原「南京防衛軍の崩壊から虐殺まで」)

海軍も大量虐殺に加担した咎をまぬがれない。

 ここらで、日本軍を迎え撃った蒋介石の対応を追ってみよう。

3か月にわたる上海防衛戦に敗れたあと、蒋介石とその幕僚は、戦争が長期戦になることを覚悟し、11月中旬に開かれた最高国防会議で、国民政府の首都を南京から重慶に移すことを決定した。しかし、南京防衛については蒋介石参謀総長・何応欽などの幕僚との間に、意見の違いがあった。

幕僚の大多数は、南京防衛は地理的に防衛が困難である、今後の持久戦を考えると南京にこだわらず、一定の抵抗をしたあと撤退すべきだ、と主張した。しかし、蒋介石は、短い期間であろうと死守すべきだと主張し譲らなかった。その理由は、首都の陥落は、国民心理に重大な影響を与える、国父・孫文の墓・中山陵を守らなくはならない、であった。

彼が死守に固執したのは、在中ドイツ大使トラウトマンの和平工作に期待をかけていたからでもあった。日本政府はトラウトマンに和平の斡旋を依頼し、その条件―華北の非武装地帯の設定、排日取締り、満州国の承認などを提示していた。蒋介石は当初はためらっていたが、日本軍が南京へ迫るとその条件をのむ決意を固めていた。しかし、受諾を通告したときには、時すでに遅かった(経緯については後述)。

11月18日、蒋介石は南京死守を決定し、唐生智を防衛軍司令官に任命した。この決定は大きな悲劇を生むことになる。

日本軍20万が南京に猛スーピードで進軍してくるなか、中国軍は上海戦に参加した将兵7万に加えて、農村から徴兵された新兵8万の15万体制で、防衛戦に臨んだ。しかし、新兵は銃など手に取ったことはなく、一からの訓練をしなくてはならなった。

12月1日、蒋介石はと宋美齢は南京で結婚10周年を祝った。彼はその日の日記に「結婚して10年になる。しかし、この国と党の前途は、極めて困難だ。10年後にどうなっているかは、分からない」とその不安を記している。

12月6日、日本軍先陣の砲弾が南京城内に届くほどの距離に迫ってきた。南京死守作戦の陣頭指揮をとるつもりだった蒋介石は、総統がここで命を失っては、中国は持久戦を闘えない、と側近に説得されて脱出を決意する。7日午前5時、蒋介石夫妻を乗せた米国人パイロットが操縦する飛行機が廬山に向かった。同時に、国民政府と南京市の要人はすべて揚子江をさかのぼり首都を脱出した。

その日、唐生智防衛軍司令官は焦土作戦を命じた。日本軍の利用を防ぐために建物を焼き払う作戦である。その範囲は。南京城壁の周囲1~2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある村落と民家の焼却であつた。この作戦の犠牲になった農民と市民が、城内の南京安全区に流れ込んだ。

12月10日、総司令官・松井岩根は、南京防衛軍司令官に投降勧告をする。しかし、唐生智は拒否した。午後7時、彼は全軍に「南京防衛の最後の戦闘に突入した。各部隊は陣地と存亡を共にする決心で、死守せよ」と命じ、指令なく陣地を放棄・撤退した者は厳罰に処す、司令長官部の許可なしの、部隊の渡江を禁じた。これは、退路を断って戦う決意表明であった。

日本陸軍の総攻撃がはじまり、海軍の空爆は激しさを増した。10日の午後から12日まで壮絶な攻防戦が展開され、13日未明に南京城は陥落した。

蒋介石は12日正午に、唐生智に撤退命令を出した。電話でそれを伝えた総統の側近は「今夜中に撤退をすべきだ」と言ったが、唐は「南京死守を命じているので、急に撤退命令をだすと混乱する。明日の夜には撤退する」と答えた。この判断が運命の分かれ目となった。

13日未明に南京城内に侵入した日本軍による掃討作戦で、南京防衛軍は崩壊し、敗走、退却がはじまり大混乱となった。唐は13日正午に幕僚会議を開き撤退命令を下す予定だったが、混乱でそれが午後5時になった。しかし、ときすでに遅く、城内外で追い詰められた中国人将兵の前には苛酷な運命が待ち受けていたのである。

午後9時、10数万の将兵と推定4-50万の市民・難民を置き去りにしたまま、唐生智は司令部の幹部とともに最後の小汽船で南京城を脱出した。

 

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南京国際安全区委員会のメンバー ジョン・ラーベ(中央)     Web.library.yale.edu

 

防衛軍から見放され、日本軍の蛮行の犠牲になる中国人を守るために、立ち上がった外国人がいた。彼らは南京安全区(難民区)をつくり、20万人の市民と難民を受け入れ、日本兵による暴行、殺人、強姦、略奪を最小限にとどめたのだった。彼らは命がけで、その誰から頼まれたわけでもない仕事を、昼夜兼行でやった。その「聖域」の広さは3.8平方キロで、金陵大学、日本大使館、アメリカ大使館もあった。

彼らの動機は蛮行への義憤とヒューマニズムであった。南京安全区国際委員会はビジネスマン、宣教師、大学教授、YMCA書記、医師などで構成されていたが、その献身的努力は歴史に刻まれる偉業となった。同時に、彼らは南京事件の目撃者となった。彼らは中国人でも日本人でもない第三者だったから、これら外国人が残した報告書、手記、手紙、記録映画は、信憑性が高い事件の証言となった。

証言のなかで、とりわけ重要なのは委員会代表のドイツ人ラーべの日記である
この日記は“Der Gute Deutsch Von Nanking(善きドイツ人)“(1997年)として出版され、世界的ベストセラーとなった。邦訳は『南京の真実』として刊行されている。ラーべは日本の同盟国ドイツ・ナチスの熱烈な支持者であったが、稀に見るヒューマニストであった。昨春、日本で自主公開された映画「ジョン・ラーベ:南京のシンドラー」は、彼の日記を基にした感動的なドラマだ。

ラーベは船長の息子としてハンブルグに生まれ、故郷の貿易代理店の店員として働いたあと、アフリカのモザンビークの首都で英国の会社で働いた。1911年、ハンブルグに本社があるシーメンスの社員となり、27年間、南京で暮らし仕事をした。1931年、同社の南京支社長となり、工場を管理し、電話、発電機、医療機器を販売した。南京事件の直前、ほとんどすべての外国人が首都を脱出するなかで、ラーベは残ることを選んだ。ラーベは、中国人社員を見捨てるわけにはいかない、第二の故郷となったこの国の人々を見殺しにするわけにはいかない、とその理由を書いている。のちに南京の難民はラーベを「生き仏」と呼んだ。

ドイツ語原本を編集した外交官で歴史家のエルヴィン・ヴィッケルトは「ラーベは素朴な人間だった。親切で,謙虚で、人に愛された。健全な常識の持ち主で、どんな辛いときでもユーモアを忘れなかった」と書いている。英語は完璧で、フランス語も堪能だったが、中国語は苦手だったという。

以下、平野卿子さんが訳した『南京の真実』(講談社 1997刊)ラーベの日記に沿いながら、その貴重な目撃証言を抜粋・要約して紹介してみよう。

 11月19日 国際委員会が発足した。主要メンバーは鼓楼病院のアメリカ人医師、金陵大学の教授など、全員宣教師だ。難民区を作ろうといのがその目的だ。つまり、城壁のなか、あるいは外に中立地帯をつくり、万一砲撃されたとき、非戦闘員の避難所にしようというのである。なにもわからず飛びこもうというのではない。覚悟の上だ。どうか許してくれ、ドーラ(註:ラーベの妻)。こうするしかないのだ。(註:ラーベは22日に国際委員会の代表に選ばれた)

 11月25日 もう一度、昔の故宮宝物を救いだす手伝いをするとは。夢にも思わなかった。わたしのトラックを坑立武さんに提供した。なんと1万五千箱もの故宮宝物を港へ運ぶことになったのだ。そのため抗さんはありったけの車を集めた。政府はこれを漢口に運ぶつもりだ。これが日本人の手に落ちるようなことになれば、北京へ持ち去られるだろう、と言ってみな心配している。とはいっても、もともとこれは北京にあったのだが。

 12月8日 馬市長が昨日いなくなり、われわれ委員会が難民区の行政上の問題や業務を何から何までやらざるをえなくなったいま、私は事実上の「市長代理」のようになったわけだ。まったくなんてことだ。(註:委員会は、運営資金の調達、食糧の確保、治安維持、収容施設の確保、ゴミと糞尿の処理などに取り組んだ)

 何千人もの難民が四方八方から安全区へ詰めかけている。貧しい人たちが街をさまよう様子を見ていると泣けてくる。まだ泊まるところが見つからない家族が、日が暮れていくなか、この寒空に、家の陰や路上で横になっている。われわれは全力を挙げて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。いまだに引き揚げない(註、中立地帯である安全区からの中国兵の撤退が進まない)。城壁の外はぐるりと焼き払われ、焼け出された人たちがつぎつぎと送られてくる。(註:ラーベは自宅の難民を海軍の空爆から守るため、どでかいハーゲンクロイツの旗をつくり地上に広げていた)

 12月9日 参謀本部の大佐が安全区を縮小しろといってきかないので、私は辞任するといって脅かし、唐将軍が約束を破ったために難民区が作れなかったと、ヒトラー総統に電報を打つといってやった。大佐は考え込み家に帰った。あまり当てにしていなかったが、唐将軍に会って説得しようということになった。なんと唐は承知したのだ。燃えさかる下関を通り抜けての帰り道はなんとも凄まじく、この世のものとは思われない。

 12月12日 紫金山の大砲はひっきりなしに響いている。あたり一面、閃光と轟音、突然、山がすっぽり炎につつまれた。家や火薬庫が火事になったのだ。紫金山の燃える日、それは南京最後の日。昔からそういうではないか。
 真夜中になって、わたしはベッドに横たわった。ふしぶしが痛い。48時間というもの、寝る間もなかったのだ。うちの難民たちも床につく。事務所には30人、石炭庫に3人、使用人用の便所に女と子どもが8人,残り100人以上が防空壕か外、つまり庭や敷石の中庭で寝ている!

 

 

 12月13日 日本軍は昨夜、いくつかの城門を占領したが、まだ内部には踏み込んでいない。委員会本部に着くとすぐ、国際赤十字協会をつくり、私も役員になった。委員会のメンバー3人で野戦病院に行く。砲弾が激しくなり医者の看護婦も患者を放り出し逃げてしまっていた。われわれはその人たちを大ぜい呼び戻した。赤十字の旗が病院の上にはためくのを見て、みな再び勇気をとりもどした。

 われわれはメインストリートを用心しながら進んでいった。手榴弾を轢いてしまったが最後、ふっとんでしまう。上海路へと曲がると。中国軍の3部隊をみつけて武装解除し、助けることができた、この人々を外交部と最高法院へ収容した。鉄道部にあたりで、400人の部隊に出くわした。彼らは武器を捨てることに同意した。われわれはまだ希望を持っていた。完全に武装解除していれば、捕虜になっても、それ以上の危険はないだろう、と。

 町を見まわってはじめて被害の大きさがよくわかった。1~200メートルおきに死体が転がっている。調べてみると、市民の死体は背中を撃たれていた。多分逃げようとして背中を後ろから撃たれたのだろう。日本軍は10人から20人のグループで行進し、略奪を続けた。それは実際にこの目でみなかったら、とうてい信じられないような光景だった。彼らは窓と店のドアをぶち破り、手当たりしだいに盗んだ。中山路と太平路の店もほとんど全部やられていた。

 元兵士を1000人ほど収容していた最高法院の建物から4~500人が連行された。機関銃の射撃音が何度も聞こえたところを見ると、銃殺されたにちがいない。あんまりだ。恐ろしさに身がすくむ。日本軍につかまらないうちにと、難民を125人、大急ぎで空き家にかくまった。韓は、近くの家から。14,5歳の娘が3人さらわれたといってきた。日本兵は私の家にも何度もやってきたが、ハーケンクロイツの腕章を突きつけると出て行った。

 12月15日 朝の10時、関口鉱造少尉来訪。少尉に日本軍最高司令官にあてた手紙の写しを渡す。作日14日、司令官と連絡がとれなかったので、武装解除した元兵士の問題をはっきりさせるため、日本大使館の総領事、福田氏篤?に手紙を渡した。(註:「南京安全委員会はすでに武器を差し出した中国軍兵士の悲運を知り、大きな衝撃をうけています・・・捕虜に対する一般的な法規の範囲、ならびに人道的理由から、これらの元兵士に対して寛大なる処置を取っていただくよう、重ねてお願いします」との内容の書簡)

この手紙と司令官にあてた手紙に対する返事は、次の議事録(15日午後)に記す(註:日記には、安全区の治安維持、食糧供給、電話、電気、水道の復旧などについて、日本軍特務機関長との会談での合意事項が記されている。捕虜の処遇については、日本軍は「中国兵士を徹底的に捜索する」が「武装解除した中国兵士を我々は人道的立場に立って扱うつもりである」とある)

午後、日本軍が、武器を捨てて逃げ込んできた中国兵を連行しようとした。彼らは二度と武器をとることはない、とわれわれが請け合うと、ようやく解放された。ほっとして本部にもどると、恐ろしい知らせが待っていた。さっきの部隊がやってきて、今度は1300人を捕まえたというのだ。スマイルとミルズの私の3人でなんとか助けようとしたが、聞き入れられなかった。およそ100人の武装した日本兵に取り囲まれた、とうとう連れていかれてしまった。射殺されるにちがいない。人々が獣のように追い立てられるのを見るには身を切られるように辛い。だが、中国軍のほうも、済南で日本軍捕虜2000人を射殺したという話だ。 

12月16日 朝、8時45分、日本大使館の菊池氏から手紙。今日の9時から「安全区」で中国兵の捜索が行われると伝えてきた。いまここで味わっている恐怖に比べれば、爆弾投下や大砲連射など、ものの数ではない。安全区の外にある店で略奪を受けなかった店は一軒もない。いまや略奪だけでなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区のなかにもおよんできている。

 たったいま聞いたところによると、武装解除した中国兵士がまた数百人、安全区から連れ出され銃殺されたという。その内、50人は安全区の警察官だった。兵士を安全区にいれたというかどで処刑されたという。
 
 下関へいく道は一面死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。交通部は中国人の手で焼き払われていた。邑江門は銃弾で粉々になっている。あたりは文字どおり死屍累々だ。日本軍が手を貸さないので、死体はいっこうに片付かない。安全区の管轄下にある紅卍字会(民間の慈善団体)が手をだすことは禁じられている。

 銃殺する前に、中国人元兵士の死体を片付けさせる場合もある。我々外国人はショックで体がこわばってしまう。いたるところで処刑が行われている。

12月17日 アメリカ人の誰かがこんな風に言った。「安全区は日本兵用の売春宿になった」と。当たらずといえども遠からずだ。昨晩は1000人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも100人以上の少女が被害にあった。いま耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとするとその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の非道だけだ。

 

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日本軍の空爆から難民を守ったハーケンクロイツ旗   映画「ジョンラーベ」のシーン

 

12月18日 最高司令官がくれば治安がよくなるかもしれない。そんな期待を抱いていたが、残念ながらはずれたようだ。それどころか、ますます悪くなっている。

 中国人が一人、本部に飛び込んできた。押し入ってきた日本兵に弟が射殺されたという。言われたとおりシガレットケースを渡さなかったから、というだけで!近所の日本兵が駆け込んできた。妻が暴行されかかっているという。日本兵は全部で4名だということだった。われわれはただちに駆けつけ、危ないところで取り押さえることができた。

 12月19日 日本兵が6人,塀を乗り越えて庭に入ってきた。門扉を内側から開けようとしている。なかのひとりを懐中電灯で照らすと、ピストルを取り出した。だが、大声で怒鳴りつけ、ハーケンクロイツ腕章を鼻先に突きつけると。すぐひっこめた。全員また塀を乗り越えて戻っていくことになった。おまえたちはそれで十分だ。なにも扉を開けてやることはない。

 12月20日 午後6時、ミルズの紹介で、大阪朝日新聞の守山特派員が訪ねてきた。守山記者はドイツ語も英語も上手で、あれこれ質問を浴びせかけてきた。さすがに手慣れている、私は思っているままをぶちまけ、どうかあなたのペンの力で、一刻も早く日本軍の秩序が戻るよう力を貸してほしいと訴えた。守山記者は言った「それはぜひとも必要ですね。さもないと日本軍の評判が傷ついてしまいますから」いまこうしているうちにも、そう遠くないところで家が次々と燃えている。

 12月21日 日本軍が街を焼き払っているのはもはや疑う余地はない。たぶん略奪や強奪の跡を消すためだろう、昨夜は,市中六ヶ所で火がでた。
 
 午後2時、ドイツ人やアメリカ人全員―つまり外国人全員が鼓楼病院前に集結して、日本大使館へデモ行進を行った。アメリカ人14人、ドイツ人5人、白系ロシア人2人、オーストリア人1人。日本大使館あての手紙一通を手渡し、その中で人道的立場から以下の3点を要求した。①街をこれ以上焼かないこと。②統制を失った日本軍の行動を直ちに中止させること。③食糧や石炭の補給のため、必要な措置をとること。デモ参加者は全員が署名した。われわれは日本軍の松井岩根司令官と会談し、全員が彼と握手した。

 12月22日 軍の放火はやまない。わが家の難民はいまだ増えるいっぽうだ。私の小さな書斎だけでも6人が寝ている。オフィスと庭も見渡すかぎり難民で埋まっており、燃えさかる炎に照らされてだれもが血のように赤く染まっている。今数えただけでも、7ヵ所で火災がおこっている。

 私は日本軍に申し入れた。発電所の作業員を集めるのを手伝おう。下関には発電所の労働者が54人ほど収容されているはずだから、まず最初にそこへ行くようにと言った。ところが、なんとそのうちの43人が処刑されていたのだ!それは3,4日前のことで、しばられて、河岸へ連れていかれ、機銃掃射されたという。政府の企業で働いていたというのが処刑理由だ。これを知らせてきたのは、同じく処刑されるはずだったひとりの作業員だ。そばの2人が撃たれ、その下じきになったまま河に落ちて、助かったということだった。

 12月24日 鼓楼病院を訪ねた。地下の遺体安置室に入った。昨夜運ばれたばかりの遺体がいくつかあり、それぞれ、くるんでいた布をとってもらう。なかには、両眼が燃え尽き,頭部が完全に焼きこげた死体があった。民間人だ。ガソリンをかけられたという。7歳くらいの男の子のもあった。銃剣の傷が4つ。ひとつは胃のあたりで、指の長さくらいだった。痛みを訴える力すらなく、病院に運ばれてから2日後に死んだという。

 この1週間、おびただしい数の死体を見なくてはならなかった。だから、こういうむごたらしい姿をみても、もはや目をそむけはしない。クリスマス気分どころではないが、この残酷さをこの目で確かめておきたいのだ。いつの日か目撃者として語ることができるように。これほど残忍な行為をこのまま闇に葬ってなるものか!
 
 わが家の難民は今では602人。なんとこれだけの人間が庭(たった500平方メートル)と事務所に寝泊まりしているのだ。シーメンスの従業員、わが家の使用人、その家族をいれると650人くらいになるだろう。

 ドーラ、子どもたち、孫たち!今日、私のために祈ってくれていることだろう。そう思うとかぎりなく癒されるのだ。この2週間、ただ苦しみしか味わわなかったのだから。私もおまえたちのために心で祈っている。世にも恐ろしい光景を目にして、私たちはふたたび子どもの頃の無垢な信仰へと立ち返った。神よ守りたまえ。私たちがいま味わっている苦しみを、いつの日かお前たちが味わうことにないように!ここに残ったことを悔いてはいない。そのために、多くの人命が救われたのだから。だが、それでも、この苦しみはとうてい言葉に尽くせない。

 

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ジョン・ラーベAlchetron   難民からラーベに渡された感謝状    『南京の真実

 

 12月26日 素晴らしいクリスマスプレゼントをもらったぞ。夢のようだ。なんたって600人をこす人々の命なのだから。新しくできた日本軍の委員会がやってきて、登録のために難民を調べ始めた。男は一人一人呼び出された。しかし、すべてはうまくいった。だれひとり連れていかれずにすんだ。隣の金陵中学では20人以上が引き渡されなければならなかった。私は神に心から感謝した。

 ミス・ミニ・ヴォ―トリン(金陵女子文理大学の教師)に、恐ろしい事件がおこった。彼女は自分が庇護する娘たちを信じて、めんどりがひなを抱くようにして大切に守っていた。日本兵の横暴がとくにひどかったころ、わたしはミニを見たことがある。400人近くの女性難民の先頭に立って収容所になっている大学につれていくところだった。

 日本当局は、兵隊用の売春宿を作ろうというとんでもないことを思いついた、何百人もの娘でいっぱいの大学ホールになだれこんでくる男たちを、恐怖のあまり、ミニは両手を組み合わせて見ていた。ところが、そこへ唖然とするようなことが起きた。上品な紅卍字会のメンバーが、なみいる娘たちにやさしく語りかけた。すると,驚いたことに、かなりの数の娘たちが進みでたのだ。売春婦だったらしく、新しい売春宿で働かせられるのをちっとも苦にしていないようだった。ミニは言葉を失った。

 12月28日 あいもわらず、放火がくりかえされる!今日、ほうぼうから新たな報告が入った。あまりの恐ろしさに身の毛がよだつ。こうして文字にするのさえ、ためらわれるほどだ。日本大使館の役人はわれわれの立場をもうすこしましなものにしたいと思っているようだ、だが、同じ日本人同士でも、こと軍部が相手だと歯が立たないらしい。初めて大使館へ来たとき、いみじくも福田総領事が言っていた。「軍部は南京を踏みにじろうとしています。けれども、我々はなんとかしてそれを防ぎたいと考えています」残念ながら福田、田中、福井のだれひとりと、軍部の考えを変えさせることはできなかった!

1937年12月30日付けで、ジョン・ラーベは上海にいる妻のドーラへ手紙を送った。以下はその要旨。

 昨日、日本大使館から君の心のこもった手紙を受け取った。私がここでどんな目にあったか、いまのところ話すわけにはいかない。けれども、我々22人の欧米人はみな元気だ。韓一家も。だから安心してくれ。インシュリン(註:ラーベは糖尿病だった)はまだ予備がある。そちらも心配はいらない。クトゥ―号の荷物はどうなった?なにしろ日記が全部そのなかに入っているのだから。やらなければならないことがたくさんある。すぐに「市長のポスト」を取り上げられてもちっとも悲しくないよ。いや、そうできるなら喜んで!近いうちに君に会えるといいのだが。心からの挨拶とキスを(検閲なんかくそくらえだ!)

年が明けてもラーベの苦闘は続く。それを日記に書きとめた。「市内にはいまだに何千もの(中国人の)死体が埋葬されずに野ざらしになっている。なかには犬に食われているものもある。この28日間というものずっと、遺体を埋葬させてほしいと福田総領事に頼んできたがだめだった」(1938年1月7日)。「南京が日本人の手に渡って今日で一ヵ月。私の家から約50メートルほど離れた道路には、竹の担架に縛りつけられた中国兵の死体がいまだに転がっている」(1月12日)。

「日本の方々の高貴な感情、サムライの精神に訴えたい。サムライは数々の戦いで非常に勇敢にお国のために戦いながらも、もはや身を守る力のない敵に対しては、「武士の情け」を示した、つまり寛容の精神だったと聞き及んでいます(日本大使館の晩餐会の席でのスピーチ)」(1月16日)。「ローゼン(ドイツ大使館員)とかなり長い間市内をまわった。日本軍はなんとひどい破壊のしかたをしたのだろう。あまりのことに言葉もない。以前、南京の3分の1が焼き払われたと書いたが、あれは思い違いだったのではないだろうか。まだ、十分に調べてないが、半分が廃墟と化したと言ってよいだろう」(1月17日)「中国人兵士の死体はいまだに野ざらしになっている。いつまでこんなことが続くのだろう」(1月26日)

『ノース・チャイナ・デイリー・ニューズ』ロンドン発 1938年1月29日。「吉田茂・駐英大使は懐疑的:大使は本日インタビューで、中国で日本兵による言語を絶する残虐行為が行われたとの報道に、遺憾の意を表明した。わが国の軍隊がかくも自制心を失い、伝統に反するとはきわめて考えにくいことである。わが国の歴史始まって以来そのようなためしはなかった。日本軍は非常に規律正しい、と」ラーベの切り抜き(1月30日)


「中国の新年。難民が庭で整列して、三度おじぎをしてくれた。彼らから縦横3x4メ―トルの赤い絹の布を渡された。そこには「ラーベ先生、あなたは生き仏です」と書かれてあった。まだ隠居さえしていないうちから、生き仏にされるとは!6週間もの間。わが家の前に打ち捨てられていた中国兵の死体が。ようやく埋葬されたと聞いて、胸のつかえがおりた。(1月31日)。「局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこらじゅうで見かける。吐き気がして苦しくなる。70歳を越えた人さえなんども暴行されているのだ」「ギュンターさんの報告をみると、南京だけが日本兵に苦しめられているのではないことがわかる。強姦、殺人、撲殺。同じような報告が、四方、八方から入ってくる。日本中の犯罪者が軍服を着て南京に勢揃いしたのかと言いたくなる」(2月3日)

 日本軍は南京安全区・国際委員会を南京国際救援委員会に改称し、その機能を実質的に停止した。(2月18日)ラーベは英国砲艦ビーにのって上海へ向かった。(2月23日)「昨日の午後2時に上海へ入港した。税関桟橋を通ったとき、ドーラの姿が見えた。誰もが私を英雄のように扱う。こそばゆくてたまらない。外面から言っても内面的にも、英雄的なところなどなにひとつないのだから。ほめそやされるたびに、あの美しい詩が頭に浮かんでくるーハンブルグの若者が溺れた仲間を助けた。助けてもらった仲間の父親が夕方訪ねてきて礼を言った。「君は命の恩人だ」「命の恩人だって?よしてくれ」こう言って、若者はくるりと背をむけた。(2月28日)

3月16日、ラーベ夫妻は、上海からコンテ・ビアンカ・マーノ号で祖国へ旅立った。

(続く)

註:筆者はこの歴史探訪記を書くにあたって、以下の著作にお世話になった。『南京事件』笹原十九司著 1997年刊、『南京の真実ジョン・ラーベ著:平野卿子訳 1997年刊、『天皇の軍隊と南京事件』吉田裕著 1986年刊、『南京の日本軍』藤原彰著 1997年刊、 “Japan’s Imperial Conspiracy” David Bergamini 1971, “The Rape of Nanking” Iris Chang 1997, “China’s War with Japan,1937-1945”  Rana Mitter 2013

 

 

フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。