フランスの田舎で暮らす

土野繁樹の歴史散歩

中国100年の屈辱 その7 蔣介石の革命

 

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中国統一のシンボル「青天白日旗」

 

1960年代前半、筆者が学生だった頃、毛沢東は人気があった。当時、中国に関心がある若者は、米国のジャーナリスト、エドガー・スノーの『中国の赤い星』(1937年刊の戦後の邦訳)を読み、毛沢東とその同志のファンになったものだ。筆者もその一人だった。彼の書いた『実践論』と『矛盾論』はいずれも明快な革命哲学論だと思った。かたや、中国共産党の宿敵、蒋介石については、ほとんど関心がなかった。国共内戦に敗れた反共主義者宋美齢の夫、軍人独裁者というぐらいの認識だった。

60年代後半になると、文化大革命が起こり筆者の毛沢東観が変わった。紅衛兵を動員して、中国を大混乱に陥れた彼の責任は重い。後に、1950年代の毛沢東の「大躍進」政策が、推定3600万の餓死者を出したことを知り、衝撃をうけた。今では、中国人民共和国が樹立された1949年以降の毛沢東は、「赤い専制皇帝」だったと思っている。

長い間、筆者は蒋介石を保守反動の軍人政治家だと思っていた。しかし、Jay Taylor(ジェイ・テイラー)の蔣介石伝“The Generalissimo: Chang Kai-Shek and the Struggle for Modern China”(大元帥・蒋介石と近代化のための苦闘)を読んで、彼のイメージが一変した。非情な政治家ではあったが、蔣介石もまた孫文を畏敬し、三民主義を信奉する革命家であったことを知った。

ちなみに、同書は欧米の中国史家、新聞、雑誌の書評で激賞され、英国のエコノミスト誌は「夢中になる本だ。これまでの蒋介石と中国の内戦に関する定説が滑稽に思える」と言っている。

今回の歴史探訪では、蒋介石孫文の意思を継ぎ、北伐で中国を統一し、満州事変に直面するまでのイバラの道をたどった。筆者は、関東軍の謀略による満州事変と犬養首相暗殺が、日本軍国主義の序章になったことを、痛感している。

 

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日本留学時の蔣介石

 

孫文の後継者、蒋介石(1887―1975年)は、浙江省の渓口鎮で裕福な塩商人の息子として生まれた。9歳のとき父が亡くなり家計が苦しくなったが、母の王采玉は教育熱心で、息子に家庭教師をつけ中国古典を勉強させた。蒋介石は母の言葉に従い、15歳のときに毛福梅と結婚し、のちに蒋経国が生まれる。軍人になり祖国を救うことを決意した彼は、保定陸軍軍官学校を経て、1907年、公費留学生として、東京振武学校(日本陸軍が創設した清の留学生のための軍事教育機関)で学び、そのあと2年間、新潟の十三師団高田連隊の将校として勤務した。

彼の日本滞在は5年に及んだが、その間、故郷の先輩である陳基美の紹介で1910年に東京で孫文に会い、中国同盟会に入会している。彼は同盟会の『民報』の熱心な読者となり、ルソーやJ.Sミルの思想を知った。20年後、日本を訪れた蒋介石と会った往時の師団長・長岡外史は、彼の成功の秘密は、その強烈な忠誠心と恩義の精神にあると語っている。彼は陽明学を信奉する革命軍人指導者であった。残念ながら、滞在中に日本人の親友はできなかったようだ。

1911年10月、辛亥革命が起こると、25歳の蒋介石は高田連隊を除隊し、革命首謀者のひとりである陳基美のいる上海に向かう。彼は上海蜂起の決死隊の隊長として初陣を飾り、それ以降、陳の信任を得て義兄弟の盟を結ぶ。彼は、中国同盟会の幹部でありながら、清朝政府の軍人と結託して、陳の暗殺を謀った男を射殺するという、テロも辞さない男でもあった。

1913年の第二革命に失敗した孫文は、東京へ亡命し中華革命党を結成するが、その右腕となったのが陳であった。蒋介石も党員となり陳と共に行動する。しかし、陳は1916年5月、北京の袁世凱政府が放った刺客によって暗殺される。上海フランス租界にあった孫文の支持者・山田純三郎の家で、同志と決起計画を練っていたとき、暗殺者の銃弾に倒されたのだった。蒋介石は山田宅に駆け付け、号泣した。その日、彼は盟兄に代わって身を賭して革命を成功させることを誓った。陳は、生前、孫文宛に「自分の後継者は蒋介石である。万一のことがあれば、蒋介石をわたしと思って接してほしい」との手紙を書いていた。

しかし、孫文蒋介石を全面的に信頼するには、時間がかかった。孫文は彼の軍事的才能は高く評価していたが、短気で直情的で、納得がいかないとすぐに辞表をだす性格を懸念していた。その性格ゆえに、同僚との間で摩擦が絶えなかったからだ。

蔣介石自身も自分の欠点を自覚していた。彼は、1918年から72年まで1日もかかさず日記をつけているが、18年に自らの性格の欠点を「非情、独裁的、短気、うぬぼれ、嫉妬、傲慢・・」と列挙し、これらの欠点を直すことを誓っている。半世紀にわたって綴られた日記のなかに、自己向上を目指した反省の言葉が頻繁にでてくると、テイラーは書いている。

 

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孫文蒋介石を黄埔軍官学校校長に任命 1924年

 

孫文と蔣介石の関係が深まったのは、1922年、孫文の広東政府の転覆を謀った司令官・陳炯明のクーデター事件であった。陳は広東城を襲い孫文の蔵書をすべて焼き払い、多額の懸賞金をかけて殺害命令をだしたが、彼は危機一髪で軍艦「楚豫」に逃れた。孫文の妻の宋慶齢も農婦に変装して銃弾を潜り抜け、夫に合流した。孫文の艦隊8隻は、上海から駆け付けた蔣介石の応援を得て、陳の地上軍を60日間の激戦のすえ、広東から追い出した。

この事件をきっかけに、二人の間に深い絆が生まれたのである。クーデター、暗殺、寝返りが日常茶飯事であった軍閥割拠の時代に、蒋介石孫文の革命戦略には時に疑義をはさんだが、孫の思想と人柄を畏敬し、その忠誠心が揺らぐことはなかった。広東政府に返り咲いた孫文は、蒋介石を参謀長に任命した。

孫文革命の次の目標は国内統一だった。そのためには北京政府と軍閥を倒す北伐をやらなくてはならない。その支援を孫文は西洋列強と日本に要請するが拒否される。その中で、コミンテルン共産主義インターナショナル)のロシア人代表マリング(暗号名)は、国民党への大量の武器援助を約束した。ただし、国民党と中国共産党が合作したうえで北伐をせよ、と言う条件付きだった。孫文はそれに同意し、共産党員は個人の資格で、国民党員になり北伐作戦に参加することになった。第一次国共合作である。

1923年8月、孫文蒋介石をモスクワへ派遣した。レーニンの赤軍と党組織の研究のためであった。3か月の滞在中に、彼は陸海の赤軍を視察し、軍教育機関と軍需工場を訪れ、軍幹部と会談した。世界革命を信じる赤軍の創始者レフ・トロツキー蒋介石に、ソ連は中国革命のための武器、顧問を送り、経済援助はするが、軍隊の派遣はできない、と言った。コミンテルン幹部会議に招かれた蒋介石は「中国にはプロレタリア革命はそぐわない」と発言した。にもかかわらず、会議はそれを無視して「プロレタリアと農民の役割り」を強調する決議を採択した。彼はその日の日記に「ソ連政府は傲慢で専制的だ」と批判している。

蔣介石が帰国すると、孫文が国民党最高顧問に任命したコミンテルンのミハイル・ボロジンが、ソ連共産党をモデルに国民党を改組することに着手していた。また孫文は国民党員に、共産党員とソ連人顧問を「同志」と呼ぶよう指示した。孫文ソ連への急接近であった。蔣介石はボロジン人事が気にいらなかったようだ。庇を貸して母屋をとられると、思ったのだろう。

国共合作で北伐を成功させるためには、国民党の軍を緊急に近代化する必要があった。そのために孫文は、広東から20キロ離れた黄埔に国民党軍官学校(黄埔軍官学校)を建て、1924年5月、蔣介石を校長に任命する。スタッフは国共合作を反映して、共産党からは政治部副主任に周恩来、教官に葉剣英、陳誠、国民党からは汪兆銘胡漢民などが名を連ねていた。いずれも、のちに歴史上の人物になる人々だった。ソ連は建設資金を提供し、軍事教官を派遣し全面的に協力した。蔣介石は、日本とフランスに6年間留学した27歳の周恩来の能力と誠実さ、洗練さと礼儀正しさを高く評価していた。この時以来、イデオロギーはちがっても、二人の間には信頼関係があり、後にそれが大きな役割を果たすことになる。

蔣介石は、一期生500人を前に三民主義に命をかけろ、軍の規律を大事にせよ、と講話した。国民党の軍創設の仕事に情熱を傾ける蔣介石の姿を見て、孫文は「将来、彼はなにかをやりとげるだろう」と言ったという。黄埔軍官学校の卒業生たちは、のちに蒋介石の強力な支持母体となった。10年後の西安事件で、蒋介石の部下であった周恩来と黄埔卒業生7000人は、決定的な役割を果たすことになる。

その頃、蒋介石は息子の経国のことが心配だった。国事に奔走する父親にかわって、母親が彼を育てた。経国が10歳のとき蒋介石が離婚し、彼は上海に呼び寄せられ、父の愛人・姚治誠と暮らしはじめた。彼女は経国をわが子のように可愛がって育てたという。経国が中学生のとき、日本の工場で起きた労働争議で労働者が射殺されると、彼は抗議行動のリーダーとなり、頻繁にデモに参加した。それを理由に彼は放校される。その頃から経国は共産主義に傾倒し、15歳の彼はソ連留学の希望を父親に伝える。はじめ蔣介石は反対するが、結局それを承諾した。留学先は設立されたばかりのモスクワ中山大学だった。その後、経国はソ連に12年間滞在し、ロシア人妻ファイナと共に苦難の歳月を過ごすことになる。そして、運命の神は彼を西安事件の切り札にするのである。

 

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上海クーデターで処刑される共産党員           青幇のボス杜月笙

 

1925年、孫文が亡くなると、国民党内の汪兆銘の左派(容共)と蔣介石の右派(反共)の対立がはじまり、国共合作のシンボルである黄埔軍官学校でも国共教官間の意見の相違がめだつようになった。汪兆銘は、孫文の死に立ち会い、彼の遺言を筆にした革命家で、われこそ孫文の後継者と思っていたので、蒋介石の最大のライバルであった。

翌年の1926年3月に起こった中山艦事件で、両者の間の不信感が決定的なものになる。この事件は、広州に停泊する中山艦が砲門のカバーをとり、戦闘態勢に入っているとの報告を受けた蔣介石が、国民党左派と共産党によるクーデターと疑い、広東に戒厳令を布き、共産党員50人を逮捕し、ロシア人顧問を追放した出来事だった。共産党は、党を弱体化するための蒋介石の自作自演の陰謀だと、非難したが、コミンテルンの記録によると、張本人は汪兆銘だったことが確認されている。

その年の7月、蒋介石は国民革命軍司令官に就任し北伐開始を宣言した。年末までに北伐軍は1億7000万の中国人が暮す7省を制覇した。しかし、北京入城によって北伐が完了するまで8年の歳月が待ち受けていた。


1927年は蒋介石と中国にとって極めて重要な年であった。第一の出来事は上海クーデター、第二は、蒋介石宋美齢の結婚であった。

4月12日に起こった上海クーデターは、蒋介石による共産党の徹底的な血の弾圧だった。広東と長砂では、上海以上の粛清が行われた。その結果、国民党と共産党は完全に袂を分かち内戦に入る。それ以降、西安事件で第二次国共合作が成るまで、10年間の内戦が続いた。蒋介石の非情な粛清を欧米の新聞は“上海の虐殺”と呼び非難した。

クーデターは用意周到に計画され実行に移されている。

3月26日、北伐軍が占領した上海に蔣介石が入城した。4月5日、フランスから帰国した汪兆銘が上海に到着し、共産党総書記、陳独秀と会談。蒋介石と国民党の長老による共産党の影響排除の訴えにもかかわらず、汪兆銘国共合作の原則を確認する声明を発表した。それを知った蒋介石は、軍と青幇(上海の巨大ギャング組織)のボス杜月笙に、共産党員粛清の準備をするように指示する。青幇のボスと蒋介石は義兄弟の誓いをするほどの仲で、蒋介石政権の影の部隊とも言える存在だった。

中国共産党創設者のひとり、張国燾の著作によると、蔣介石が北伐で南昌を攻撃していた3月1日、武漢の国民党政府の左派と共産党蒋介石逮捕を謀つたという。これを知った蒋介石共産党弾圧を決意したのだ、と張は言っている。

4月9日、上海に戒厳令が布かれる。
11日、蒋介石、国民政府支配下の省の共産党員を国民党からパージする秘密指令をだす。
12日未明、青幇の組員が共産党事務所を襲い、国民革命軍が労働者民兵武装解除をする。その過程で、300人が死傷。
13日、労働組合員が蒋介石批判の大集会を開く。数千人の学生と労働者が軍司令部の前で抗議デモ。軍は発砲して鎮圧、100人の死者をだす。上海臨時政府、労働組合など共産党のコントロール下にある組織の解散を命じる。1000人の共産党員が逮捕され、300人が処刑された。

欧米の記者は、血の粛清を実施した司令官・白崇禧を「共産党員の首切り人」(事実、蛮刀で斬首した)と呼んだ。上海の労働者60万人を組織した共産党上海代表である周恩来も逮捕されたが、釈放されている。蔣介石が白に釈放の指示をだしたといわれている。蔣介石は、処刑するには惜しい男と思ったのではなかろうか。

当時、蒋介石の息子、経国はモスクワ中山大学留学中で共産主義を信奉しトロツキーに心酔していた。上海クーデターを知った彼は激怒し、父親に絶縁状をたたきつけた。これは国際ニュースになった。蔣介石の心境は複雑だったにちがいない。

 

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蒋介石宋美齢の結婚

 

蔣介石は国民党の左右の対立を解消するため、汪兆銘に妥協して軍最高司令官を辞任することを宣言し(3か月後に復帰)、9月に来日し40日間滞在した。目的は日本の有馬温泉に滞在中の宋美齢の母に会って、結婚の許可を得るためだった。

以前、蒋介石宋美齢にプロポーズし断られていた。5年後、宋美齢に再会した彼は「夜も昼も彼女のことばかり想っている」と日記に書くほどの恋の病にとりつかれた。その情熱にほだされた宋美齢は結婚に同意したが、母親のマダム宋は、彼は離婚しているし愛人もいた、それにキリスト教徒ではない、との理由で二人の結婚に反対していた。

蔣介石は鎌倉でマダム宋に会い、その思いを伝え、二番目の妻であった陳潔如の離婚同意書も見せた。さらに、聖書を読みキリスト教を勉強することを約束したが、信者になるかは分からないと正直に言った。それを聞いたマダム宋は娘の結婚に同意したのだった。

1927年12月、蒋介石宋美齢は上海の宋家の邸宅で、キリスト教による結婚式を挙げた。その後、マジェステック・ホテルの大ホールで1000人以上の客を招待した中国式の披露宴が開かれた。その席で、蒋介石夫妻は、国民党の青天白日旗に囲まれた孫文の写真の前で、三度深々と頭を垂れた。そのあとに、結婚の誓いのセレモニーがあり宴会が続いた。その日、蒋介石は41歳、新妻は29歳だった。

蔣介石にとってこの結婚はすべての面で幸いだった。美齢は魅力的で美しく、米国の大学で学んだコスモポリタンで、そして中国有数の資産家の娘だった。10年後にはじまる長い日中戦争の間、彼女は中国のスポークスパーソンとして、その立場を英語で世界に訴える役割を鮮やかに果たすことになる。

彼女は付き合いやすく、話好きだった。蔣介石は強面で質実剛健で、ユーモアとは縁がなかったから対照的である。だが、妻の影響だろうか、彼は公開の席で笑顔を見せるようになる。家庭では美齢は夫をダーリンと呼び、蒋介石は妻をダと呼んだ。

二人の性格はまったく違っていたが、お互いに魅かれていた。権力と金の政略結婚だというシニカルな見方もあったが、そうではなかった。美齢の姉,孫文の妻だった宋慶齢蒋介石が嫌いだったが、二人については「ラブ・マッチ」だと言っていった。

富豪の末娘として育った宋美齢は、贅沢をすることに慣れていた。お抱えのドレス・メーカーなど、お付の者を何人も雇っていた。60人ものスタッフを従えて、旅をしたこともあるというから桁違いである。姉の宋慶齢は彼女と仲がよかったが、質素でまったく違っていた。

独立心が強く読書家で行動力がある美齢は、蒋介石が最も信頼するアドバイザーとして国家の運営に深く関わることになる。周恩来が、コミンテルン宛の1941年の報告書に、宋美齢について次のように書いている。「彼女は国際関係と財政問題について影響力がある。蔣介石より彼女は民主的で、抗日戦争と第二次国共合作を支持している」

 

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張作霖          張作霖爆殺事件の現場               河本大作

 

日本滞在中の11月2日、蒋介石田中義一首相と会談した。彼は田中に、国民党政府は北伐を継続し中国統一をめざすが「日本はこれに干渉せず、支援することを希望したい」と要請した。田中は、まずは長江以南の統一をめざすべきではないか、と応じた。すると、蒋介石満州を含める中国の統一こそが東亜安定の条件だと答えた。(孫文は日本の協力が得られるのであれば、満洲は割譲してもよいと考えていたから、“政策転換”と言える)蔣介石の日記には「田中は自分が中国統一という言葉を述べるたびに、さっと顔色を変えた」とある。

その理由は、日本政府の対中基本方針とは相いれないからだった。政府は、6月に開かれた東方会議で、満蒙は日本が「20億円の国費と10万同胞の血」で獲得した生命線である、その「権益は手放さない」、軍事力によってそれを守る、と決定していたからだ。

蔣介石はその会談のあと日記に「中日間の合作はあり得ない。日本はわれわれの革命の成功を許さず、わが革命軍の北伐の行動を妨害し、中国の統一を阻止するであろう」と書いている。かくして彼は、もはや英国ではなく、日本の帝国主義的野心が中国にとって最大の脅威である、と確信したのである。


1928年5月、蒋介石の北伐軍が、満州軍閥張作霖が支配する北京に迫ると、田中首相は、満州を除き国民政府の中国支配を受け入れると表明した。日本軍の後ろ盾を失った張作霖は、北京防衛をあきらめ、奉天軍に満州への撤収を命じ、6月3日、彼自身も大元帥の軍服を身にまとい、特別列車で奉天に向かう。二日後、列車が奉天駅に到着する直前に、日本軍が線路に仕掛けた爆弾で張作霖は暗殺された。

当時、日本では「満州某重大事件」として報道されたが、国民には真相は知らされなかった。事件は関東軍の河本大作大佐による謀略で、背後には東京の参謀本部陸軍省がいたことを、国民が知るのは戦後の東京裁判であった。河本大佐は軍法会議にかけられることもなく、軍を退職することで一件落着となりこの事件は闇に葬られた。4年後に満州事変が起こると南満州鉄道の理事となり返り咲いている。お国のための暗殺の功労者へのご褒美というところだろう。

謀略の目的は、言うことを聞かなくなった張作霖では日本の国益が守れない、北伐軍の仕業に見せかけて、別の軍閥をかついで日本主導の満州独立政府を樹立しようというものであった。海千山千の張作霖より若い息子の張学良のほうが御しやすい、という思惑もあった。

28歳の後継者、張学良は、関東軍の謀略である証拠(爆弾取り付けに同意したが、怖くなり逃亡した中国人アヘン患者が、事件のすぐ後に張に告白)を握っていたが、その素振りは見せずに奉天軍の総参謀長に就任する。関東軍の期待に反して、彼は実は熱烈な愛国者で、父の暗殺から2週間後、蒋介石に電報を打ち南京政府へ忠誠を誓うと伝えたのである。

 

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1925年の中国軍閥の勢力圏。青が孫文       北伐軍を率いる蔣介石
の革命派軍閥でオレンジがその他の軍閥

 

1928年7月6日、蔣介石は北京の碧雲寺にある孫文の陵墓を参拝した。北伐軍の軍閥司令官、国民党の幹部、南京政府の要人が見守るなか、蒋介石はガラスの棺のなかの孫文の遺体の前に立ち、声をあげて泣いた。そして、孫文に“北伐の成功”を報告し、革命事業を成就することを誓った。

全国統一をした蔣介石は、孫文の意思に従い首都を北京から南京に移し、北京を北平と改称した。中国18省のうち満州の東三省を除いて中国は国民政府の統治下になったのである。しかし、これで中国が安定した国家となったわけではなく、それ以降も蔣介石は、軍閥の反乱と共産軍との内戦に悩まされ続ける。

南京を首都にした蔣介石は、張学良に青天白日旗を満州に掲げることを提案した。張学良がそれに同意すると、田中首相南京政府と同盟しないようにと厳しく警告した。すると若き元帥は、クールにこの決定は満州人の意思であると返答する。

南京政府の国務院の一員に任命された張学良は、12月29日青天白日旗を奉天に高々と掲げ、日本の満州への干渉を拒否したのであった。その結果、田中首相はやむなく満州は中国の主権下にあることを認めることになる。しかし、軍部の「満州は日本の生命線」という主張はくすぶり続けた。

満州の全権を握った張学良は、彼の父の参謀長であった楊宇霆が、日本軍の協力を得てクーデターを謀っているのではと疑っていた。翌年1月になり、彼は楊を夕食に招待する。晩餐が終わると、張学良はちょっと失礼と言いアヘンを呑みに姿を消した。すると護衛が入ってきて楊と側近を射殺した。またしても暗殺!政治イデオロギーとは関係なく暗殺は、当時の中国では政敵を倒す手段であったことが分る。

南京に首都を移したあとも、蒋介石に不満をもつ軍閥が反乱を起こすたびに、張学良はその鎮圧にあたった。後に、彼はインタビューで、中国の統一にために「あの頃、わたしは全身全霊をささげて蔣介石を助けていた」と語っている。張学良は蒋介石が最も信頼する盟友として、南京政府の陸海空軍の副総司令に就任した。

 

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石原莞爾        満州国は独仏を合わせた国土と人口3千万   溥儀    
            の日本の植民地であった

 

1931年9月18日、満州事変がはじまった。関東軍将校が奉天郊外の柳条湖で満鉄路線を爆破し、それを張学良の軍の仕業と偽り、関東軍を出動させ満州全土を占領した謀略による軍事作戦だった。それを計画し実行した中心人物は関東軍作戦参謀の石原莞爾である。

石原莞爾の大義名分は、満州を中国人にまかせるより、日本の植民地にしたほうが日本人だけでなく中国人のためにもなる、満州国を建設し、五族(日中満朝蒙)協和の王道楽土をつくる、というものだった。この満州を日本の植民地にするための作戦に、軍首脳の一部は密かに同意を与えていた。

若槻礼次郎首相と軍中央は当初は不拡大方針をとり、関東軍をコントロールしようとしたが、現地はそれを無視して進撃し満州を占領した。政府はその既成事実を追認し、臨時軍事費を認めることになる。関東軍の独断専行で行われたこの作戦を、当初は軍の謀略と疑い不拡大を主張していた昭和天皇まで「関東軍はよくやった」という内容の勅語をだしている。このあたりから、日本は“結果よければ、手段は問わない”の国になったのではなかろうか。

満州事変を日本の新聞はどう報道したのだろう。半藤一利さんの『昭和史』によると、事変の前までは、主要紙は関東軍の満蒙問題については非常に厳しい論調だったが、柳条胡事件が起こると関東軍支持に豹変したという。例えば、東京朝日は号外で「暴虐なる支那軍が満鉄線を爆破し、わが鉄道隊を襲撃したが、わが軍はこれに応戦した」と書いた。評論家の阿部慎吾は「各紙とも軍部の純然たる宣伝機関と化したといっても大過なかろう」と新聞の満州事変報道を批判している。

関東軍奉天攻撃を知った張学良は、南京にむかう船上にあった蔣介石に指示を仰いだ。答えは、「現地の判断に任せる」だった。張は退却を決定する。当時、満州に駐留している関東軍は1万人で、張学良の奉天軍は20万。将兵の数では奉天軍は絶対的に優勢だが、武器装備と戦術では日本が圧倒的に勝り、隣りの河北省と朝鮮から増派できる体制ができていたからだ。

援軍を得た関東軍満州の都市を次々と占領していく。しかし、蒋介石は無抵抗のまま中央軍を派遣しなかった。彼は中国軍の実力では戦っても勝算がない、負ければさらに国は弱体化する、互角に戦えるまで臥薪嘗胆するしかない、まずは共産党を内戦で破り、ほんとうの中国統一をして、そのあとで侵略者と対決しよう、と考えていた。

しかし、蒋介石の共産軍殲滅作戦はてこずり、その後6年間、日本軍との全面的対決を避けたため、日本の屈辱的要求を次々とのむことになる。例えば、長城線を越えて北京のある河北省に侵入してきた日本軍に、中国軍は停戦を申し入れ、中立地帯をつくることに同意する。日本はこれで、満州南京政府との間の緩衝地帯を確保した。その後も、日本軍は華北5省を準満州国化していくが、蔣介石は反撃をしなかった。

翌年1932年3月、日本軍が支配する満州国が樹立された。その傀儡政権の元首には、清朝のラスト・エンペラー溥儀が就任したが、次候補には孔子の子孫も上がっていた。満州国が建国される5か月前、奉天特務機関長の土肥原賢二が天津の邸宅にいた溥儀を拉致連行した。土肥原は皇帝復帰をためらう溥儀をあの手この手で脅し、港までオープンカーのトランクに入れて運び、彼を乗せた船は遼東半島の営口に着く。

そこで待ち受けていたのは土肥原の部下、甘粕正彦関東大震災のときに、大杉栄夫妻とこどもを虐殺した憲兵隊長)だった。溥儀は大連と奉天で幽囚されたあと、満州国の首都、新京に移され関東軍の操り皇帝になった。当時の特務機関はKGBやCIAなみの謀略のダーティ・ワークに長けていた。土肥原の特務機関は謀略だけではなく、麻薬販売にも力を入れ、関東軍の機密費の資金をつくっていた。

奉天特務機関の任務のひとつは、ソ連極東軍の情報収集で、そのために土肥原はスパイ養成学校を作った。その卒業式で、彼はロシア人スパイの生首を見せて「君たちもこうならないよう、鋭意努力ほしい」と言ったという。このような事実を知ると、土肥原の特務機関は、上海のギャング杜月笙の青幇なみ、いやそれ以上の組織だったことが分る。土肥原は戦後の東京裁判で謀略と中国人虐待の罪で死刑になった。

 

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東京朝日の一面 1932年5月16日       拡大する中国戦線

 

1931年12月、若槻の後継首相になった犬養毅は、軍部の暴走を憂慮して、事態を打開するため、組閣の翌日、滔天の盟友だった菅野長知を南京に密かに派遣した。菅野は行政院長(首相)の孫科(孫文の息子)に会い、中国の宋主権を認め、日中共同内閣による経済開発を提案し、了解を得た。菅野はその旨、東京に電報を打つが返事がこない。対中強硬派の書記官長(官房長官)の森格がにぎり潰し軍に知らせたので、その案は吹き飛んでいた。

犬養は友人の上原勇作元帥に「支那問題は俺はいささか経験がある。だからこれは俺にまかせてくれ。若い軍人がいろいろやっているが、君はそれを抑えてくれ」という主旨の手紙をだした。それを読んだ陸軍大臣荒木貞夫は「犬養はけしからん、満州事変をやめようとしている」と言い憤慨した。

二人を任命したときには、犬養は彼らを抑えることができると思っていたのだろうが、これが命取りになる。

1932年5月15日夕刻、海軍の青年将校と陸軍の士官候補生9人が、首相公邸にピストルを手に乱入した。士官候補生のひとりが、奉天の張学良の司令部の金庫にあった犬養の張への手紙を振りかざし、彼を糾弾すると、77歳の犬養は落ち着きはらって「話せば分かる」と言い、闖入者を応接室に案内した。そこで、首相が口を開こうとすると、ひとりの将校が「問答無用」と叫び、銃弾が発射され、そのあと首謀者の三上卓海軍中尉が頭部に一発撃った。これは日本のデモクラシーの暗殺でもあった。

犬養の親友で盟友だった古島一雄は、5・15事件で犬養が殺された理由は満州問題で、彼が軍部と対立していたからだと断言している。首相は「陸軍の若い連中のクビを30人くらい切ってしまえば統制はできる。それには自分が総参謀長の了解を得て、それを陛下に申し上げる」と側近に言っていたが、おそらくそれを森格が軍にもらし、このテロ事件が起こった、と示唆している。

現役の将兵が一国の首相を暗殺すれば、軍法会議で死刑を判決されるところだが、5・15事件の被告への刑はいずれも軽く、三上卓は10年で釈放されている。前年には3月事件、10月事件というクーデター未遂事件があったが、闇から闇へと葬られ、当事者たちはほとんど罰せられなかった。

世論は昭和維新をスローガンに掲げる5・15事件の被告に同情的で、堂々と彼らを支持する軍首脳もいた。加藤寛治海軍大将は、執行猶予で釈放された被告のひとりに「君たちはじつに気の毒だった。僕がやらねばならないことを君たちがやってくれた。ほんとうに相すまない」と言っている。5・15事件は法治を葬った。

犬養暗殺の前には民間右翼によって浜口雄幸首相、井上準之助前蔵相、三井合名の総帥の団琢磨が暗殺されている。井上と団の暗殺は「一人一殺」の血盟団を率いる僧侶、井上日召の配下の仕業であった。これらの暗殺には陸海軍の将校がからんでいた。

井上には無期懲役の判決がでたが、1940年に恩赦で釈放された。オドロクベキことに、釈放された井上を近衛文麿荻窪の邸宅,荻外荘に迎え入れ一室を与えている。一国の首相が、テロの首謀者を歓迎する――こんな世にも奇怪な光景が堂々とまかり通っていたのである。  

テロの時代の到来に、政治家、財界人、言論人は怯え委縮し、まるで日本帝国陸海軍がニッポンを占領したような状況となった。当時、ニューヨーク・タイムズの東京支局長だったヒュー・バイヤスは日本の政治を「暗殺による統治」と呼んだ。満州事変と5・15事件以降、日本の政党政治は崩壊し、軍部が政治の主導権を握るようになり、中国侵略の道をひた走ることになる。

 

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聖書と十字架  Wikipedia

 

蔣介石は宋美齢の母、マダム宋に鎌倉で約束したように聖書を読んだ。旅をするときは、たいてい聖書をたずさえていた。美齢と結婚して3年後、彼は宋家が属する上海の教会で洗礼を受け、熱心なメソジスト派キリスト教徒になった。のちに台湾の教会の牧師が、なぜ彼がキリスト教に魅せられたかを語っている。蒋介石は道徳を行動で示せというキリストの教えは、陽明学知行合一の教えと同じで、彼の恥の概念とキリスト教の原罪と贖罪は重なる、と考えていたという。

聖書のなかで、彼が最も惹きつけられたのは、想像を絶する苦難の連続にめげず、神を信じ続けたヨブの物語であったという。蔣介石は苦難に直面するたびに、ヨブのことを思いだしたにちがいない。日本軍の侵略に抗することができない屈辱に耐えながら、彼は中国を三民主義の国にするという信念を持ち続けた。

次回の歴史探訪では、1936年12月に起こった西安事件を取り上げる。
張学良によるクーデターで、拉致監禁された蒋介石の運命を世界中が固唾を呑んで見守った。この事件がなければ、毛沢東の中国制覇はなかったかもしれない。中国史の流れを変えたこの政治ドラマの内幕を紹介する。


註:筆者はこの歴史探訪記を書くにあたって、以下の著作にお世話になった。“The Generalissimo: Chang Kai-Shek and the Struggle for Modern China”(大元帥、蒋介石と近代化のための苦闘)Jay Taylor著 2009年刊、『蒋介石保阪正康著 1999年刊、『昭和史』半藤一利著 2004年刊、『一老政治家の回想』古島一雄 1969年刊、”Government by assassination” Hugh Byas著 1942年刊

写真のクレデットはすべてWikipediaです

 

 

フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。