フランスの田舎から世界を見ると

土野繁樹の21世紀探訪

KGBの二重スパイ:米ソ核戦争を止めた男(その1)

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世紀の二重スパイゴルディエフスキー(1976年撮影)             AP

 

『 スパイと裏切り者: 冷戦最大の諜報』(2018)を読んだ。この本はまだ訳がなく原題は“The Spy and the Traitor:The Greatest Espionage, Story of the Cold War“である。

ベン・マッキンタイアが書いたこの本について、スパイ小説の第一人者ジョン・ル・カレは表紙に「これまで読んだ本物のスパイの本で最高のものだ」と言っているが、その期待を裏切られない凄い内容だ。

主人公はKGBソ連国家保安委員会)の大佐オレグ・ゴルディエフスキーである。彼は12年間イギリスの諜報機関MI6(英国秘密情報部)のために働いたスパイで、その最大の仕事は冷戦時代に米ソ核戦争突入を止め、冷戦の終結を早めたことであった。その貢献に報いるために、英国女王は彼を叙勲し、レーガン大統領はホワイトハウスで謝意を伝えている。

ゴルディエフスキーの最後の地位はイギリスのKGB のトップ であった。その職に就任したばかりの彼に、モスコウから突然召喚状がくる。MI6は正体が暴かれたのではないかと心配するが、彼は自分で戻ることを決定する。モスコウの空港から自宅のアパートへ到着し、ドアを開けようとすると、かけた覚えのない3番目の鍵が開かない。その瞬間、彼はKGBが証拠を探すために侵入したことを知る。

召喚状が来る前日、ソ連のスパイになるCIA 高官がワシントンでKGB高官と会い、彼の名前を明かしたのであった。その日から、疑惑の人となった大佐は取り調べと厳しい尾行の対象となった。このままでは逮捕され処刑されると思った大佐は、MI6が作った命賭けの脱出計画の開始の合図をする。その息をのむ脱出ドラマの詳細はあとで紹介する。

筆者ベン・マッキンタイアは英国のタイム紙の副編集長でコラムニスト、スパイ関係の著作に『キム・フィルビー:かくも親密な裏切り』(2015)や『英国の二重スパイ・システム:上陸を支えた欺瞞作戦』(2013)などがある(筆者は6年前にこの本を読み、彼の才能にうなった記憶がある)。

ベン・マッキンタイアはタイム紙の仕事でゴルディエフスキーと顔馴染みになり、MI6が提供した隠れ家で、150時間にわたって彼とインタビューをしている。彼はロシア人の記憶力に舌を巻いている。

彼はまたMI6の関係者全員とインタビューをしている。本来なら、MI6の全ての活動は部外秘で、スタッフは誓約書にその旨サインしているからインタビューは出来ない。だが、これは特例で上層部の了解があったのだろう。証言をしたスタッフは本の中では偽名だ。

彼は ゴルディエフスキーは異色のスパイだという。ほとんどのスパイは、政府の戦略的政策に影響を与える情報 とは関係はない。しかし、大佐のKGBに関する情報量と質は戦略的価値と言う点で際立っていた。MI6が最も知りたいKGB核戦略についてのナマの声が取れたのだ。

今回のエッセイでは、筆者は ゴルディエフスキーがどのような経過を経てスパイになったのか、彼がいかにして核戦争を止め冷戦終結を早めたのか、MI6が英国ロシア大使館と組んで成功させた彼の脱出計画の内容を紹介してみよう。

 

フルシチョフスターリン批判

 

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1956年、スターリンの大粛清批判の演説をするフルシチョフ      Vlamir Vize

 

ゴルディエフスキーはKGBの将校の息子として1938年10月に生まれた。 父アントンは一年中KGBの制服を着る忠実なソ連市民で、兄ヴァシリ―もKGBの将校であった。彼の二人の結婚相手もKGBのスタッフであった。ゴルディエフスキー家はこのスパイ集団が暮らすアパートで、将校用の特別食を与えられ、休日には他のスパイの家族と付き合う生活だった。彼はKGB一家の息子だった。

高校の卒業成績は一番で、語学力に優れドイツ語をマスターしている。17歳でエリート校のモスクワ国際関係大学に入学し、翌年の1956年にフルシチョフスターリン批判、雪解けを体験する。この雪解けで政治犯は釈放され、検閲制度は緩やかになった。

ゴルディエフスキーは興奮し「人間の顔をした社会主義」をテーマにした演説を録音して仲間に公開した。そこには自由と民主主義を擁護するくだりがあり、それを聞いた仲間はびっくりして、二度とそんなことは言ってはダメだと忠告した。彼は青くなり、誰かが告げ口するのではと心配した。なにも起こらなかったが、KGBの内部にもスパイがいたのだ。

 

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エリート大学のゴルディエフスキー       Private Collection

 

モスクワ国際関係大学はソ連では最もエリート校と思われている。外務省が運営する大学で外交、科学、経済、政治とスパイのことを学ぶ。もちろん、共産主義のプリズムがかかっている。世界最大の56ヶ国の外国語が教えられるが、優れた才能がある者は外国に行くチャンスがある。

ドイツ語が流暢なゴルディエフスキーは英語を学びたかったが、希望者満杯で諦め、KGBの兄のアドバイススウェーデン語はスカンジナビア諸国へのカギだ」に従った。彼は外国に行くことを切望していたのだ。そのうち彼はBBC ニュースとVoice of Americaのロシア語版を秘密裏に見るようになり「真実 の断片」を知るようになった。

彼は19歳のときクロス・カントリーの走者のクラブに入部した。長距離を走ることは自己鍛錬になり、一人で走るのは誰にも邪魔されずに考えることが出来る、と思ったからだ。こうして彼はモスクワの公園や通りを走りまくった。背があまり高くなく、一見厳しく見えるが、談笑するとハンサムな彼は女性の間で人気があった。しかし、内側には硬い決意が隠されていた。

クラブの走者の仲間にチェコスロバキアの留学生スタニスラフ・カプランがいた。すでにプラハのカレル大学の学位がある彼のことを、ゴルディエフスキーは「彼はリベラルで共産主義について強い懐疑の念を持っていた」と後に書いている。二人は一緒に走り、若い女性を追いかけ、ゴーリキ公園のチェコ・レストランで食事をした。

KGBは大学構内に事務所を持ち、二人の将校が新人獲得に当たっていた。1961年の始めゴルディエフスキーはそこから声がかかり,ルビャンスカヤ広場にあるKGB本部近くの建物に行った。中年の女性がドイツ語で彼を丁寧にインタビューし、その語学力を褒めてくれた。KGBは彼をリクルートしたのだった。

 

ベルリンの壁の衝撃

 

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冷戦の象徴:ベルリンの壁の建設                bloglovin.com           

 

1961年8月12日、彼は東ベルリンの郊外カールスホルスト到着した。そこで、6ヶ月間をソ連大使館で通訳として働き、仕事を学ぶプログラムに参加するためだった。その頃、東ドイツ共産主義の圧政を嫌った3.5百万人の国民が、西ベルリンに脱走するという大変な事態に陥っていた。

翌日、ブルドーザーの騒音で目を覚ました彼は、東ベルリン当局がベルリンの壁を建設している現場を目撃したのだった。コンクリートと鉄条網の240キロメートルの壁を、当局は“ファシストから国民を守る壁”と呼んだが、実際には国民を閉じ込めるための境界線だった。この境界線を越えて西側へ逃れようとする者は衛兵が容赦なく射撃した。

23歳のゴルディエフスキーはこの壁の建設にショックを受けたが、KGBの命令を黙々と遂行した。権威を恐れる気持ち、従順に命令に従う習性がその頃の彼にはあったのだ。

ある日、KGBから彼に連絡があり、東ベルリンに住むドイツ夫人に接触し、情報提供者としての仕事を続けてやるつもりがあるかを確認してほしいと言ってきた。花束を持って その家を訪ねた彼はお茶の接待を受け、その意思ありの答えを得た。後から分かったことだが、その訪問は「テストを受けていたのは、彼女ではなくわたしの方だった」(ゴルディエフスキー)という。

クリスマスが来て、当時ライプツィヒにいた兄のヴァシリーがベルリンの弟を訪ねてきた。オレグは壁の建設で感じた東ドイツの状況を兄に話す気持ちはなかった。彼はKGBの将校として、そのような迷いはイデオロギーに反する,と言うに違いないと思ったからだ。弟は兄の仕事の内容をほとんど知らず、兄に自分の仕事の内容を話すつもりはなかった。

二人はバッハの「クリスマス・オラトリオ」を聴きに行った。その演奏にオレグは「痛く感動した」。彼はこれに比べると、ロシアの現状は「精神的砂漠」だと思った。バッハは退廃的でブルジョワだと断定されて禁止されていたからだ。

東ドイツで暮らした半年は、彼に非常に大きな影響を与えている。ヨーロッパのイデオロギー対立がもたらしたベルリンの壁による象徴的な分断、ソ連では味わえない文化の果実の発見である。

 

詩人の警告

 

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エフトゥシェンコのスターリンの後継者批判     gettyimages

 

モスクワに帰ったゴルディエフスキーは、1962年7月31日にKGBに報告するように指示を受けた。彼はなぜ納得できないイデオロギーで、自分を強制する組織で働くのだろうか。その理由はKGBの仕事は魅惑的で、外国に行けるからだった。それに秘密は人を引きつける力がある。同時に彼は野心があった。KGBは変わるかも知れない、彼自身が変わるかも知れない。ロシアも変わるかも知れない。そして、給与も特権も悪くない。

市民としての最後の夏休みを、彼は カプランとKGB黒海沿岸の保養地で過ごした。カプランはチェコに帰って国家情報機関StB(国家保安部)で働く前に、ひと月滞在を延長してこの保養地にやってきたのだ。

二人は将来、同盟国のスパイとしてソ連ブロックのために協力することになる。松林の中でキャンプを張り、毎日走り、泳ぎ、肌をやき、女と音楽と政治を語りあった。カプランはますます共産主義のシステムに批判的であった。ゴルディエフスキーはカプランの危険な分析を聴きながら、カプランがここまで自分を信用していることに誇りを持ち「われわれの間には理解と信頼がある」と思った。

チェコに帰ったカプランから手紙が届いた。楽しかった夏の思い出への礼状のあとに「君がこちらにきたら、プラハのパブのワインを空にするまで飲もう」とあった。そして『プラウダ』紙が掲載したエフゲニー・エフトゥシェンコのスターリン批判の詩のオリジナルが欲しいので送ってくれないか、との依頼があった。

ロシアで最も影響力のある詩人の一人が“スターリンの後継者”を謡い、彼の弾圧、圧政を批判し、その路線を支持する後継者がいる、これを許してはならない、という内容だった。カプランは正確を期するために、オリジナルが欲しいと言っているが、これは口実であった。スターリンの後継者を狙う勢力に抗して「立ち上がらなくてならない」(エフトゥシェンコ)、これはわれわれが語っていたことではないか、と友人に伝えたかったのだ。

 

スパイ学校101の猛訓

 

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KGBの学生;空手の猛練習                     gettyimages

 

KGBの「赤い旗」はモスクワから北へ80キロにある森に囲まれたエリート・スパイ学校だ。暗号名は101学校、研修期間は1年間である。彼はそこに入学した。120人のKGB幹部候補生はソ連のスパイ技術のすべての秘密を学ぶ。情報と逆情報、スパイの勧誘とそのマネージメント、合法と非合法、武器、格闘技、監視などである。

この中で、重要なのは監視、探知、回避である。回避はKGBでは“ドライ・クリーニング”と呼ばれる。その技術は、いかに尾行を探知し逃れるかだ。尾行を巻くには、自然な形でやる方が良い、尾行する場合はそれを知られないことが重要だ、と教官は教えた。

敵に気付かれずに、スパイがエージェントと接触するのは、すべての秘密活動の要諦だ。これはどうすれば良いのか。ベテラン教官のもとで研修生は、指定された場所で、指定した人物と接触する方法を学んだ。繰り返し、繰り返し、このことが教えられた。毎日の研修のおわりは、監視グループの教官と研修生がノートを比べながらの検討会であった。ゴルディエフスキーはこの神経がすり減らされる技術をクラス一番でマスターした。

彼は暗号とその解読方法、秘密文の書き方、極小写真の準備、変装を学んだ。もちろん経済と政治を学んだが、マルクス・レーニン主義の色がかかっていた。学校のすべての同級生と同様に、彼はKGBへの永遠の忠誠心を誓ったー「わたしは、わが国を守るため最後の血の一滴までかけて、秘密を守ります」。

そして、共産党員になった。入党について気がとがめることはなかった。疑いはあったにしても、共産党を拒否する理由はなかった。その上、KGBはスリルがあった。もちろん、オーウェルが描いたような悪夢は知らなかったが。101学校の1年間は、彼にとって最も愉快な青春の一時期だった。そこには、興奮と期待があったからだ。

1963年の夏までに、ゴルディエフスキーはKGBの結束の固い仲間の一人になっていた。彼の誓いの言葉、祖国の秘密は死をかけて守るは本気だったのだ。

 

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KGB本部:メーデーに飾られたレーニン肖像画           gettyimages

 

1963年8月20日、彼は一番良いスーツを着てクレムリンから遠くないKGB本部へ出頭した。この建物は一部は監獄、一部は記録保存所があり、ソ連の情報機関の中枢がある。監獄はルビァンカと呼ばれ、ネオ・バロック建築で当初は全ロシア保険会社のものだった。その地下にはKGBの拷問室があった。KGBの将校の間では、その情報中枢部は“修道院“あるいは”センター“と呼ばれていた。

彼の任務は望んでいた外国勤務をして、非合法のエージェントを操る仕事ではなく、非合法エージェントの偽のアイデンティティを作る事務職だった。もう一つの任務は帰国したスパイを出迎える仕事で、このなかで最も有名なのは英国人のフィルビーだった。彼は1963年にMI6から脱出してモスクワに来たのだが、KGBでは伝説的人物だった。キム・フィルビーは他のスパイのように、若い幹部候補生相手に講義をした。しかし、モスコウの生活にほとほと嫌気がさし、自殺未遂まで企てている。

ゴルディエフスキーはここでの2年間の仕事に退屈し欲求不満に陥った。どうすれば、ここから脱することができるのか。その頃の気持ちを「わたしは出来るだけ早く外国へ行きたかった。しかし、KGBは独身者を外国勤務にしない。とすると、結婚するしかない」と書いている。できることなら、ドイツ語が出来る女性が良いと思い探し始めた。

共通の友人の家で彼はエレナに出会った。彼女は21歳のドイツ語教師で、知的で冗談のセンスがあった。そして、彼女も外国で暮らす望みを持っていた。彼女が気に入ったゴルディエフスキーは求婚した。これは、政略結婚だったが、二人ともそれを認めない。

1963年の後半についにチャンスがやってきた。デンマークのポストがあるという。彼の外交官の仕事はビザと財産相続だが、裏の仕事は非合法エージェントのネットワークを作ることだった。彼は喜んでこのニュー・ポストを引き受けた。

 

コペンハーゲンは楽園

 

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コペンハーゲン:「わたしは人間として花が咲いた」         Culture Trip 

 

1966年1月,ゴルディエフスキー夫妻はコペンハーゲンに着いた。そこは楽園だった。殺伐としたソ連に比べると、デンマークの首都は美しく清潔で、近代的で豊かだった。スマートな乗用車、ピカピカの建物、デザイン家具、豊富なコーヒー店、エキゾチックな料理のレストラン、そして彼らはデンマーク人が笑うと、歯の手入れが良いのにびっくりした。

彼の観察によると、デンマーク人は生き生きし、質が高い暮らしをしているだけでなく、文化的に優れている。初めて公共図書館を訪れた時のことである。あらゆる分野の書籍があるだけでなく、借りる本の冊数には制限がなかったので、プラスチック袋で持って帰った。町では警官をほとんど見なかったことも印象に残っている。

コペンハーゲンは音楽の町だった。バッハ、ヘンデルハイドンテルマンの作品がラジオや演奏会で聴くことが出来るが、これらの作曲家はソ連では聴くことが禁止されていた。クラシック音楽のファンだった彼にとって、これだけでデンマークは文化国家の価値があった。

ソ連大使館は優雅な庭園、スポーツセンター、クラブ施設がある素晴らしい環境だった。ゴルディエフスキー夫妻のアパートも新しく、天井が高く、フロアは木製でキチンの施設も完備していた。

大使館には20人の外交官がいたが、6人は純粋の外交官で、残りはKGBと陸軍の諜報機関GPU(国家政治保安部)に所属していた。彼は、大多数は能力がなく、怠け者で、実際のスパイ活動より交際費の精算に忙しい、と書いている。ひどい例になると、デンマーク人と接触し情報を得たことにして、報告書を作成し経費を請求することもあった。

ゴルディエフスキーはこんなことは御免被りたかった。スウェーデン語ができる彼はデンマーク語を学び始めた。彼は午前中は大使館でビザ発給の仕事をやり、スパイの仕事は昼食から始めた。

 

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“人生の友”ミハイル・リュビモフ      East2West 

 

1年後、彼はKGBの政治部の新しいボスを迎えることになる。ウクライナ人のミハイル・リュビモフはモスクワ国際関係大学の先輩で4歳年上だった。イギリスでは広報官の肩書で、労働組合、学生グループ、支配階級の情報を集めた。

彼はイギリス文化の愛好家 で、その英語は上流のアクセントがある流暢なもので、イギリス人は彼を“スマイリー・マイク”と呼んだ。ある英国情報をとることを断わり、本部の怒りをかいモスクワへ呼び戻されたこともある。

ゴルディエフスキーは初対面から彼を気にいった。リュビモフも、彼の歴史への造詣の深さ、バッハやヘンデルを愛好する姿に敬意を抱き,彼を弟分として処遇する。

彼はその頃の心境の変化を「わたしは人間として花が咲いた。ここには美しいものが溢れている。素晴らしい音楽、質の高い学校、普通の人の開放性と明るさ。ソ連の不毛の巨大な収容所の生き方は地獄のようだ」と書いている。

彼はクラシック音楽のコンサートへ行き、図書館に熱心に通い、デンマーク 各地の旅をした。生まれて初めて監視されていない暮らしをしてる気持ちだった。しかし、実際にはKGBの将校として、デンマーク諜報機関とお互いを監視しあっていたのだが。

デンマーク諜報機関はPET(国家警察情報局)と呼ばれ小さいが、非常に効率の良い組織だった。デンマークの保安に危険を及ぼしそうな人間には、万全の対応をするという方針があり、ゴルディエフスキーは、コペンハーゲンの飛行場に到着したときから要注意の人物であった。

ある日、彼ら夫妻はデンマークの政治家夫妻から夕食の招待を受けた。万一の場合に備えて彼はホールのドアと枠の間に目に見えないノリをつけていた。帰宅すると見事にノリは破られていた。それ以来、アパートでの会話は気を付けるようにした。

彼の妻エレナとの関係は冷たいものになっていた。ゴルディエフスキーの女性への態度は昔型で、妻は文句を言わずにこどもを育て、台所仕事をすれば良いというものだった。一方、エレナは「女性は家事より、もっと大事なことがある」という意見で、二人の仲はしっくりいかなくなった。夫婦仲が悪化するなか、チェコスロバキアで異変があった。

 

ソ連チェコ侵攻の大ショック

 

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ソ連軍のタンク兵に抗議するチェコの若者             Bettmann/Getty

 

1968年1月、チェコ第一書記のアレキサンドル・.ドプチェクが、ソ連のくびきから離脱するために、旅行の自由、言論の自由、検閲を緩和する自由化政策を発表した。彼の「人間の顔をした社会主義」は、秘密警察 の権限を制限し、西側との関係を改善し、将来は自由選挙を行うというものだった。
ゴルディエフスキーはこのニュースを興奮して追いかけた。もし、チェコがモスクワの支配を緩和することが出来るなら、ソ連の衛星国も同じことをやるだろう。デンマークソ連大使館のKGB将校の間では、その予測は真っ二つに分裂した。

一方は、この改革は1956年のハンガリー事件のようにモスクワは軍事介入をして、潰れるだろうと言う。他方、ゴルディエフスキーとリュビモフは軍の介入はなく、チェコの改革は成功するだろうと主張した。のちに、ゴルディエフスキーは「われわれは、チェコの改革にリベラルの将来へ期待をかけていた。この改革はチェコだけでなく、ソ連への影響もあると考えていた」と書いている。

1968年の始め、KGB議長ユリ・アンドロポプは、チェコの改革派の知識人、ジャーナリスト、学生を狙ってサボタージュをかけるために、30人の非合法スパイをチェコに潜入させることを決定した。そのリーダーはオレグの兄ヴァシリーで、最前線でプラハの春を転覆させる隠密作戦を実行していた。その中には、2人の改革派の中心人物を誘拐する計画もあった(これは失敗した)。

ヴァシリーは父アントンと同じに、ソ連政権が正しいのか、を問うことは一切やらなかった。弟のオレグは彼がチェコにいることは知らず、2人はプラハの春について話しをしたことはない。大使館でゴルディエフスキーは「ソ連軍の軍事介入はない。敢えてやることはない」と主張し、夏になり改革の歩みは勢いを増してきた。

 

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ドブチェック大統領のプラハの春は消えた             alencontre.org

 

それが、突然8月20日の夜、ソ連ワルシャワ同盟軍の2000台のタンクと20万の兵士が、チェコ国境を越えて侵入してきた。この巨大な軍事力の前で、チェコ国民は唖然とするだけだった。ドブチェックは国民に抵抗は止めるようにと呼びかけた。明け方には、チェコは占領国となっていた。

ソ連は“ブレジネフ・ドクトリン”を作動させたのだ: ワルシャワ同盟軍の諸国のなかで、共産主義を否定あるいは改革する国があればソ連は軍事力で対抗する。プラハの春は終わり、 ソ連の冬が始まった。

ゴルディエフスキーは衝撃を受け、モスクワに愛想を突かした。怒ったデンマーク市民がソ連大使館の前でプラハ侵入反対デモを行い、彼はそれに深い恥を感じた。

ベルリンの壁も衝撃だったが、チェコ侵攻はそれよりあくどく、モスクワの政権の真の姿をさらけ出したものだった。共産政権への嫌悪感が一挙に戻ってきた彼は「無実の人々へのこの野蛮な攻撃に、わたしの怒りは燃え上がった」と記している。
彼はその怒りを大使館から家の妻に電話し「彼らはやってしまった。信じられない」とモスクワを厳しく批判し「わたしの魂は叫んでいる」と言い電話を切った。彼はこの電話はデンマーク諜報機関が盗聴し、西側と連絡し接触があると期待していた。しかし、なにも起こらなかった。ゴルディエフスキーは「この電話は西側に送った初めてのシグナルだったのに」と回想している。

 

MI6、グスコットが登場

 

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ゴルディエフスキーの影の最大の協力者グスコット       clearancejobs.com.

 

1970年1月、彼は3年ぶりに帰国した。ソ連は以前より抑圧的で、パラノイアで、すすけていた。ブルジネフ時代の共産主義はあらゆる色彩と想像力をはぎとっていた。息がつまる官僚主義、恐れと腐敗、誰も笑わず、何もちゃんと進まない状況はデンマークの対極であった。

彼が最も忌み嫌ったのは、街角のラウンド・スピーカーで流される社会主義建設を讃える音楽だった。彼はそれを「全体主義の騒音」と呼んだ。

彼は元の職場に戻り、外交官の会話の盗聴を担当指揮した。妻のエレナは同じ職場でスカンジナビア諸国の外交官の盗聴であった。彼らの結婚は今や“仕事の関係”だけとなり、アパートでの会話もほとんどなかった。

デンマークから帰ってからの2年間は、彼にとって「取るに足りない」時代だったということになる。彼は昇進し給料も上がったが、仕事の内容はほとんど変わらなかった。

英語を学び始めたが、デンマークが彼はKGBであると英米に通知したので、西側に配属される可能性は少ないと言われる。モスクワの灰色の画一主義に嫌気がさし、イラつき、憤慨し、行き詰まり、孤独になっていった。

1970年の春、ゴルディエフスキーがモスクワへ帰って数ヶ月後、イギリスのMI6本部の若い将校、22歳のジェフェリー・グスコットが、カナダから到着したファイルを読んでいた。大学の教師のような風貌をした彼は「この男ほどソ連の情報機関に、打撃を与えた個人はいないかも知れない」と後に同僚に言われる切れ者だった。

彼が読んでいたのは、カナダに亡命したスタニスラフ・カプランと呼ばれる人物のファイルだった。西側の情報機関に関心がある者はいないかと尋ねられると、カプランはゴルディエフスキーの名前をだして学校101以来の親友関係を語った。

グスコットはカプランの証言「オレグは眼をつぶっているような男ではなかった。過去の恐怖を知る考える男で、わたしと変わらなかった」を発見し、これに注目したのである。グスコットはデンマークの情報機関の彼のファイルを取り寄せ、将来の協力者候補としてマークした。

 

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“灰色の枢機卿”ヤクシン            Wikipedia

 

1971年9月、英国政府は105人のソ連の情報関係の将校を放逐した。亡命したKGB将校オグ・リアリンが、戦争が起こればロンドンの地下鉄を水浸しにする、イギリスの主要人物を暗殺するなどの情報を告白したのだ。

この大量放逐はKGBにとって大打撃になり、イギリス・スカンジナビアの責任者のクビが飛び、ドミトリー・ヤクシンがその任についた。彼は“灰色の枢機卿”と呼ばれる文化人で、思うことを大声で話す人であった。

ある晩、ゴルディエフスキーがBBCニュースで、先の大量追放の余波でデンマークから3人のKGBスパイが追放されるということを聞いた。その翌朝、同僚の一人にそのことを話した。5分のちに“灰色の枢機卿”から「もし君があのような噂を拡げるつもりならクビにする」と電話がかかってきたのだ。

彼はKGBをクビになることを恐れた。しかし、BBCの報道が確認された数日後“灰色の枢機卿”は彼を部屋に呼び大声で「コペンハーゲンで人がいるんだ。君はデンマーク語ができる。どうだ、わたしの部で働く気はないか」と聞いた。ゴルディエフスキーはおどろき大喜びし「やってみましょう」と答えた。彼は「あとは任せてくれ」と言った。

しかし、S局の部長は部員が減ることを嫌がり彼を手放さない。彼のやりきれない状況を、変えたのは兄ヴァシリ―の死であった。彼は酒の飲みすぎでドクター・ストップがかかっていたが、飲み続けて39歳で亡くなった。

彼の葬儀はKGBの要人が参列する英雄葬で盛大なものだった。オレグは兄が死んだとき、表面的には仲の良い兄弟の関係だったが、実は兄のことをよく知らないことに気付いた。二人の間には秘密の深い溝があったのだ。

仕事のために死んだ兄のことを思うと、部長は弟の希望をむげにはできなくなり、移籍に同意した。ソ連はゴルディエフスキーがデンマーク大使館の第二書記官で,コペンハーゲンに戻るためのビザの申請をした。裏の仕事はリュビモフがやっていた政治情報であった。

デンマークはビザを拒否することもできたが、ロンドンと協議し発給した。MI6とPETはカプランが言うような男なら、協力者になる可能性もある。試して見ようではないかと考えたのだ

 

MI6のリトマス試験

 

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ゴルディエフスキー:デンマーク情報機関の隠し撮り 
Private Collection

 

1972年10月11日、ゴルディエフスキー夫妻がコペンハーゲンに戻ってきた。二人は懐かしい故郷へ帰ってきた気分だった。その時、空港にはデンマーク警察の覆面警官が尾行をするために彼らを待っていた。

ロンドンではゴルディエフスキーの扱いはMI6が直接やり、PETは情報を共有し協力する体制をとった。その担当にはデンマークのMI6 の代表リチャード・ブロムヘッドが当たることになった。

彼は背が高く、ハンサムで、着こなしの良い、冗談と酒が好きで、外交パーティにはどこにでも出かける男だった。彼はロンドンから適当な機会をつくってゴルディエフスキーと接触せよとの指示を受けた。

彼がゴルディエフスキーと最初に会ったのは、コペンハーゲンの市民ホールで行われたアート美術展だった。二人はお互いの名前も知らせずにアートについて語った。

ブロムヘッドはその印象をロンドンへ「彼が話しはじめると、厳しさが消えた。その笑顔はKGBの人間には見られないユーモアのセンスがあった。わたしは彼を好きになった」と言っている。その後「外交パーティで、彼の姿を数度見かけたので、他の客のアタマ越しに挨拶をした」と報告している。

ロンドンのMI6本部のソ連担当官で切れ者のグスコットは、ゴルディエフスキーについてマイク・ ストークスと相談した。ストークスは戦後最大のスパイ、ソ連軍のGRU(国家政治保安部.)の大佐オレグ・ペンコフスキーの担当官をやったことがあるベテランだった

1960年から2年間にわたって、ペンコフスキーはソ連の核情報の詳細をCIAとMI6へ流し、なかでもキューバにある核ミサイルの配置図は、ケネディ大統領がキューバ危機で対ソ交渉をする上できわめて重要な情報であった。

彼は62年にKGBに逮捕され、尋問を受け、翌年5月に処刑された。(筆者のTBS ブリタニカ時代のボス、フランク・ギブニーが書いた『ペンコフスキー機密文書』(1966)はゴルディエフスキーと同じように、死を賭して全体主義と戦った男の感動的な記録である)。

グスコットとストークスの話にもどると、二人はゴルディエフスキーの本気度を試す“リトマス試験”という野心的な計画を立案したのだった。

その第一弾はカプランが彼と会うことだった。1973年11月2日の夕暮れ、カプランはゴルディエフスキーのアパートを突然訪問した。彼はカプランの来訪におどろき不安になった。裏切り者の亡命者と会っているのが、見つかると疑いがもたれる。それに、ここには妻がいる。

ゴルディエフスキーは友人をウィスキーでもてなし、その後の消息を聞いた。彼は現在カナダの製薬会社勤務で、ガールフレンドに会いにきて、ソ連大使館のリストで名前を見つけたのだと言った。それは嘘であった。しばらく雑談をして、彼は立ち上がり「明日、昼食を一緒にしよう」と言い町の小さなレストランを示唆した。妻のエレナは不安そうな顔をしていた。

 

英国スパイが接触

 

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バドミントンに熱中するゴルディエフスキー    Photo DB

 

翌日、コルディエフスキーは指定されたレストランに行った。彼はほとんど寝ていなかった。二人は昔話をした。その後、向かいのコーヒー・ショップへ席を移した。そこには、マイク・ストークスが離れた場所に座って観察していた。

グスコットとストークスによって、カプランの動きは綿密に計算され繰り返し練習が行われた。グスコットは「ゴルディエフスキーが誘いをかけられていることに気がつく手段だった」とのちに語っている。HI6がカプランに与えた指示は、亡命とプラハの春について、西側での暮らしの楽しさを語ることであった。

ゴルディエフスキーは、カプランは誘いのメッセンジャーであることに気付いた。彼がソ連軍の侵攻について語ると「ショックだった」と簡単に答え、カナダの暮らしの愉快さを語ると「それはいいね」とオーバーにならないように反応した。カプランの背後に誰がいるのか、分からなかったので慎重だった。

コーヒーのあと二人は握手をして別れた。具体的なことはなにも話されなかった。しかし、ゴルディエフスキーはルビコンの河を渡ったと思った。ストークスはカプランからホテルで会談内容を聞き、ロンドンに帰りグスコットに報告した。グスコットは「これは凄く面白い。もし、彼がこの会合を誰にも報告しないのなら、大きな第一歩になる。デンマークで彼と接触しよう」と言った。

ブロムヘッドは、朝の7時で気温はマイナス、寒くて凍えそうだった。MI6の男は妻の小型車でエンジンを止め、バドミントン・コートがあるビルの前に駐車していた。ここは、デンマーク諜報機関が探し出したゴルディエフスキーが通う場所だった。

彼がフロントに入って行くと、ロシア人は若い女性とプレイしている最中で、ブロムヘッドに気付き、ラケットをあげて挨拶した。ゴルディエフスキーはおどろいてはいないように見えた。この時間にイギリス人がここに来るのは、スパイ勧誘のためしかない。

若い女性がシャワールームに行くと、ブロムヘッドは切り出した。「二人きりで話がしたいのだが。よければ、立ち聞きされないところが、いいのだが」それに「大変興味があります。それに、あなたは、正直に話をされる方だから」(ゴルディエフスキー)「昼食はどうでしょう」(ブロムヘッド)「もちろんです」(ゴルディエフスキー)。

ブロムヘッドは昼食の場所はゴルディエフスキーが決めてほしいと言うと、彼はソ連大使館から道を隔てたとこるにあるオスタポ・ホテルを指定した。イギリス大使館に帰った彼は、ロンドンに「なんと言うことだ。かれはわたしをスパイに勧誘しようとしている」と報告した。

しかし、ゴルディエフスキーからすると、これは真の目的を隠す高級作戦であった。ソ連大使館に帰った彼は、上司のモジレディヴィッチに「英国大使館のあの男がわたしを昼食に招待している。どうすればいだろう」と聞くとモスコウに伺いを立てた。すると、“灰色の枢機卿”は「受けろ!攻撃的 に行け。イギリスは非常に関心の高い国だ」と返事がき
た。これで、彼はKGBに疑われれることなく会合へ出席できる。

 

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ソ連大使館近くのオスタポ・ホテル玄関   agoda.com 

 

3日後に、彼はオスタポ・ホテルに入っていった。ブロムヘッドは友好的な雰囲気を感じた。料理は素晴らしいスカンジナビア・ビュッフェで、会話は宗教、哲学、音楽で「話題は自分のことを、考えて選んでいる」と思った。彼はほとんどデンマーク語で、ブロムヘッドは上手くないロシア語、ドイツ語、デンマーク語のチャンポンだった。彼はそれを笑い悪意なく楽しんでいるようだった。

コーヒーと蒸留酒が出たところで、ブロムヘッドは「この会合は上司へ報告しますか」と聞いた。すると彼は「おそらく、やるとしても当たり障りのないものでしょう」と答えた。ブロムヘッドはロンドンに「彼はわたしに良すぎる。わたしの宗旨替えをやろうと言う気ではないだろうか」と電報を打った。

すると、突然、MI6からの彼へのコンタクトが消えたのだ。その後8ヶ月なにも連絡がなくなったのだ。

 

二重スパイになる

 

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マッキンタイアーの著作『The Spy and The Traitor』
Penguin Randam UK House

 

ゴルディエフスキーはなぜ8ヶ月も放って置かれたのか。「これは今でも謎だ」と著者マッキンタイアーが言っている。MI6のグスコフが「この件があんなに長い間、動かなかったのは辛いことだった」と囘想しているが、本当の原因はブロムヘッドのゴルディエフスキーへの疑いにあったのかもしれない。

あるいは、MI6のグスコフの上司が, KGB将校がスパイになった例はない, あまりに話がうますぎる、と反対したのかも知れない。デンマークからも、担当者のブロムヘッドからの報告もなかった。いずれにせよ、この空白期間はMI6の失敗であった。

ゴルディエフスキーは不満で怒ったが、落ち着いて考えると、この空白期間で彼が敵側のブムヘッドと接触したことは忘れられてしまう。彼はいずれコンタクトがあるだろうと思っていた。失敗も長期的に見ると、結果的には良かったことがある。

1974年10月1日の朝早く、ブロムヘッドはバドミントン・コートに現れた。彼は間もなくアイルランドへ転勤になるので、あの件は決着をつけたいと思ってやって来た、とゴルディエフスキーに釈明した。二人は航空会社SASが経営する真新しいホテルで後日会うことにした。ここなら、ソ連大使館の同僚と顔を合わすことはないだろう。

その日、ゴルディエフスキーがいつもの笑顔を浮かべて、定刻ちょうどにやって来た。この日の会合で重要なのは、ブロムヘッドが「隠れ家で、わたしと二人だけで、会うことが出来るか」と尋ねると、彼がうなずいたことだった。そして「誰もわたしがあなたと会っていることは知らない」と付け加えた。これは、彼がスパイになることを宣言した瞬間だった。

ロンドンでその報告を聞いたグスコットは「大きな第一歩だ。不倫をした男が“わたしがここにいるのを、妻は知らない”と言っているようなものだ」と語っている。ゴルディエフスキーは重い荷物から解放された感じだった。

これからは、ゴルディエフスキーは秘密を守るために戦っている、二つの組織で生きなければならない。人生はまったく変わるだろう。彼には、自分の行動は疑いなく正しい、魂をかけた道徳的義務がある、という不屈の信念があった。

ゴルディエフスキーが二重スパイになる決意を示すと、直ちにロンドンでは少数の幹部が会議を開いた。これはKGBの罠ではないかという意見が再び浮上した。しかし、このまたとない機会を逃すわけにはいかない、という意見が大勢をしめ作戦の敢行が承認された。

しばらくして、二人はコンハーゲン郊外の町で出会った。待ち合わせの肉屋の玄関から歩いて100メートルのとこにある隠れ家に、ブロムヘッドは回り道をして彼を案内した。そのアパートに入ると、ブロムヘッドは彼に「どれぐらい時間がある?」と聞くと「約30分ある」と言った。

「わたしと会うことで、危険はないのか」(ブロムヘッド)「そうかもしれないが、今はその危険性はない」(ゴルディエフスキー)。その後で、あなたのことは最高機密だから、MI6にもCIAにもスパイがいるが、ごく少数の人しか知らないと彼は言い、次にここで会う時には後継の担当官を紹介するという。

彼が去ったあと、彼とカネのことを話していないのに気がついた。それと家族の安全、万一の場合の脱出ルートも相談していない。ブロムヘッドは「なぜ、スパイをやるのかの理由も聞いていない。時間がなかったのだ」とのちに書いている。

プロムヘッドの最後の仕事、フィリップ・ホーキンズを彼へ紹介することは、隠れ家で行われた。ホーキンズは厳しく、笑わなかった。ブロムヘッドが去ったあと「彼はわたしがまるで敵であるような質問を浴びせかけた」とゴルディエフスキーは失望の念を隠していない。

ブロムヘッドはゴルディエフスキーにいまだに複雑な感情を持っていた。ロシア人は良い男で、敬意さえ抱いていたが、もし彼がKGBの罠だとすると、という推測が消えなかったのだ。こんな疑惑を持って彼は任務を終えた。

 

「彼は本物だ!」

 

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ゴルディエフスキーの著作(共著)『KGB』(1992)  
HarperCollins Publishing

 

スパイの仕事で最も重要なことは、スパイと担当官の間の強い感情的な結びつきである。この要素がなくて、成功したスパイはいない。ゴルディエフスキーはホーキンズに感情的な結びつきは感じることもあったが、愛の要素は欠けていた。

彼はスコットランド人で、冷たく、堅苦しく「まるで法律家の目でスパイを扱っているようだった」と同僚が言っている。一方で、ゴルディエフスキーは協力的なスパイとして、歓迎され賞賛されると思っていた。しかし、逆にイジメあっている気持ちだった。「しばらく異端審問が続いたが、気に入らなかった」と彼は言っている。

彼は手を挙げて協力する条件をだした。「KGBの仲間の名前はださない。秘密裏に写真は撮らず、録音をしない。信念でスパイをしているのでカネはいらない」の三条件だった。ホーキンズはしぶしぶこの条件をMI6に報告することを約束した。スパイと担当官の第一回会見は最悪だった。

しかし、会見を重ねるうちに、二人の関係は良くなった。彼はロシア人の安全を本気で考えていた。とは言え、すでに二つ目の条件は破られていた。第一回の会見の前に、デンマーク諜報機関PETの技術者が盗聴器を仕掛けていたのだ。

関係が改善されると、効率良く仕事がはかどるようになった。互いに尊敬の念を持つようになったのだ。たとえば、彼のKGBの組織(最盛期には100万人)についての解説は非常に正確であった。モスコウ・センターのすべての広大な局、部門、副部門について、ホーキンズにとって一部は知っていたが、大部分は新情報だった。人名、機能、技術、訓練方法はもちろん、ライバル関係、内部の意見の違い、昇進、降格まで含まれていた。罠の男ができるようなことではなかった。そして彼は一度もMI6について質問はしなかったのだ。

MI6の最高幹部はゴルディエフスキーの誠意が本物であることを確信した。グスコットは「彼は本物だ。彼が言っていることは真っ当なことだ」と結論づけた。

また、不法滞在のスパイを統括するS局に属していた彼の証言はMI6の確信を強めた。世界中に広がるこれらスパイの偽のアイデンティティの作成から、その資金運用の仕方まで詳しい情報を話したのだ。彼の記憶力は天才的だった。

ホーキンズはドイツ語の速記が得意だったので、証言を一言も漏らすことがなかった。ゴルディエフスキーは後で気付いたのだが、隠れ家の会話は盗聴されていた。約束が破られたと思ったが、自分でもそうするだろうと考えて黙っていた。

 

レイラに恋をする

 

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28歳のレイラ:ゴルディエフスキーに会った頃  
Private Collection

 

彼と妻エレナとの関係は悪化していた。彼女が夫の裏切りに気がつけば、おそらくKGBへ訴えるだろう。裏切り者への処罰は厳しく、デンマークから拉致され、モスクワで取り調べ、拷問、そして処刑が待っていた。

その重圧にもかかわらず、彼はソ連の圧政への孤独な戦いに満足していた。そんな中で、彼は恋に落ちた。

レイラは世界保健機関(WHO)のコペンハーゲンタイピストで、その前は共産党の青年新聞の記者であった。父はKGBの少将でモスクワに引退していた。コペンハーゲンに到着してまもなく、彼女は大使夫人のレセプションに招待される。

夫人が「ここでやりたいことある?」と尋ねるとレイラは「わたしはジャーナリストでした。デンマークについて本を書きたいです」と答えた。「それなら、大使館のプレス・アタッシェのゴルディエフスキーさんに会うといいわ」と言った。

彼はレイラに会い、美人で面白い人柄に一目惚れをした。彼女は「彼は一見すると灰色の印象で、街で会っても気が付かないくらいだが、話だしておどろいた。彼は実にいろんなことを知っていた。それを一流のユーモアで話すのだから面白い人ね」と語っている。しばらくして、二人は恋人になった。

彼はレイラにソ連では読めないソルジェニーツインの『収容所群島』、『煉獄のなかで』を紹介した。彼女はスターリンの過酷な圧政におどろき、オレグの幅の広さに感銘を受けた。しかし、オレグがスパイと言う大それたことをやっているとは、夢にも思わなかった。彼は数日置きに、レイラにメセッージを送りコペンハーゲンの異なるホテルで不倫を重ね、4週間毎に郊外の隠れ家で、KGBを揺るがす秘密を伝える反逆罪を犯していた。

彼は身元の発覚を恐れて、KGBの仕事で知ったデンマーク人のスパイの名前を明かさない決意をしていた。しかし、それも弱まっていき名前をHI6の担当官に話している。その理由はデンマークにおけるソ連のスパイのネットワークが脆弱で、裏切り者の数も少なかかったからだ。
この国では共産党員でも愛国者だった。ソ連へ流れた情報も大したものでなく、PETはその逮捕は彼の名前が発覚しない範囲でやっている。

MI6はゴルディエフスキーの暗号名SUNBEAMのことをCIAに知らせていない。二つの情報機関の関係は密接だが、“必要がある限り”の原則を守って、CIAはイギリスがKGBの将校を主要スパイにしていることは知らなかった。

情報機関は一つの国に将校を長期滞在させない。どこの国でもやっているが、あまり居心地が良すぎると敵側と結託の可能性があるからだ。ということで、デンマークKGBの彼の上司モジレディヴィッチが転任しリュビモフにとって変わった。彼は前のデンマーク大使館時代、ゴルディエフスキーの上司で友人だったから彼は幸せだった。リュビモフは彼の将来に期待していた。そして、その評価は「能力あり、幅が広く、彼の行動は非の打ち所がない」とある。

 

大量のKGB機密文書をコピー

 

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KBG機密書類のやり取りがあったサンアネ広場             artnet.com

 

1997年1月の夕刻、彼はホーキンズに隠れ家で会った。その日ホーキンズは眼鏡をかけた若い男に紹介された。この男はホーキンズの後継の担当官であった。彼の本名はジェフェリー・グスコットで、7年前、カプランのファイルを読みゴルディエフスキーに注目したその人であった。

その後も、彼はMI6本部で担当官の報告を受け取るデスクの役割をしていたので、そのケースについてはすべてのことを知っていた。しかし、29歳と若い彼はナーバスになっていた。だが、二人はすぐに気持ちが通じあった。彼はロシア語が流暢で、はじめから儀礼ぬきの会話をした。彼もまた長距離走者であった。

そして、ホーキングに比べると際立った違いがあった。それは、グスコットが彼を単なる情報源であるとは考えず、個人として扱ったことである。「グスコットはどんな状況でも前向きで、常に明るく、間違えると心からの詫びをする人」(ゴルディエフスキー)であった。スパイと担当官の深い信頼関係ができると、SUNBEAM作戦はスピードを上げ、高いレベルの成果をあげるようになった。

 

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マイクロ・フィルム                         scanning.ed

 

モスクワからデンマークソ連大使館へ届くメセッージと指示はマイクロ・フィルムであった。それは航空便で運ばれ、検査なしの外交バッグと呼ばれる袋に入っている。そのマイクロ・フィルムは、KGBのトップの指示で、各担当者あてに切られ配布される。担当は、不法滞在スパイ(S局) 、政治(PR局)、逆情報(KR局)、技術(X局)などである。それぞれのフィルムの中には、手紙とメモとその他の書類が入っている。

ゴルディエフスキーが無断借用し、グスコットに渡しそれをコピーし彼に返す、もしこれが出来れば、大変な情報獲得になる。しかし、与えられた時間は30分以下だった。グスコットはロンドンのヒストリー・パークにある技術担当部門に、マイクロ・フィルムをコピーする小さなポータブルの機械の開発を要請した。秘密裏に、早くコピーができることが条件だった。

コペンハーゲンの宮殿近くにサンアネ広場がある。そこで1977年の春こんな光景があった。昼休みの時間、ひとりの体格の良い男が電話ボックスに入ろうとしていると、ツーリストが道を尋ねそのまま群衆の中に消えた。道を聞いているその瞬間に、ゴルディエフスキーはグスコットのジャケットにマイクロ・フィルムを滑りこませたのだ。

グスコットは近くのPETの隠れ家に入り、バックパックから小型手帳のサイズのコピー機を出す。カーテンを閉め、電気を消しこの小型ボックスにマイクロ・フィルムをいれる。「もしマイクロ・フィルムを傷つけると大変なことが起こるから、これは危険な仕事だった」と彼は語っている。

30分後、二人は広場の違う場所でマイクロ・フィルムのやり取りをする。その光景は情報機関の高度な訓練を受けた者しか分からない。ゴルディエフスキーはポケットにそれを入れ、大使館へ戻り持ち主が帰る前に返却した。その成果は大きかった。しかし、そのリスクも大きかった。

彼の上司リュビモフは政治局のトップだったので、直属の部下であるゴルディエフスキーは彼に届くマイクロ・フィルムをすべてコピーした。その後、他の部門に手をつけ、その数は数百に登っている。スパイの暗号名、作戦内容、モスクワ・センターの指示があり、デンマークに関する“ソ連の外交戦略”という150頁の大使館が制作したドキュメントもあった。

内容が外交的に重要なら、たとえば北極におけるソ連のスパイ状況は、MI6が外務大臣ディビッド・オーウェン、首相ジェームス・キャラハンだけに報告している。情報ソースは誰にも知らされなかった。

 

MI6長官の感謝の手紙

 

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オールドフィールドの著作『C』(1985) Futura Publishing 

 

グスコットがデンマークを訪れる機会が増え、滞在も月に3日と長くなった。金曜の昼食時に二人はマイクロ・フィルムのやり取りをし、隠れ家で土曜日の夜と日曜の朝に会合を持った。

ゴルディエフスキーが自らに課した約束も、その頃には消えてしまっていた。彼は大使館のKGB の将校とすべての不法滞在者スパイとその他のソースの名前を挙げ。て、グスコットに知らせた。そして、グスコットの強い要請に従って「時々」カネを受け取ることにした。無給で働いて3年目のことであった

それは、これまでのイギリスの彼の貢献へのお礼であった。それはイギリスの銀行に振り込まれた。

しかし、彼はカネより価値のあるものを受けとった。それはMI6 長官のモウリス・オールドフィールドからの感謝の個人的手紙だった。海軍の伝統を引き継いで、彼の署名Cが緑色で入っていた。

この手紙に深く感動したゴルディエフスキーは礼状を出した。そして、スパイをやる理由について次のように書いている。「この仕事をするまで、どれほどの長い精神的煩悶があったことか。しかし、民主主義の価値こそロシア人を救うという結論に達した。もし、人がそれに気付けばロシアが奴隷状況から脱するため、勇気を持って何かをやらねばならない」

二人の手紙は現在、MI6のアーカイブに保存されている。

その頃、妻エレナは彼の不倫に気がついていた。アパートでは隣人が聞こえるほどの、二人の大声の言い争いが聞こえた。彼らの仲は死んだも同然になった。ゴルディエフスキーは「わたしは離婚が成立すれば、すぐにでもレイラと結婚するつもりだ」と書き記している。彼は誰よりも彼女を愛していた。レイラは「エレナから彼を盗んだとは思っていない。彼らの結婚は終っていた。わたしは彼を偶像化している」と書いている。

彼は思い余って「世界保健機関に勤める若い女性を愛している。その人と結婚したいのだが」とリュビモフに相談した。彼は同情的だった。しかし、離婚経験がある彼はKGBがいかに離婚について保守的かを話した。彼は左遷され、数年間ほされていたのだ。彼は「離婚したオレグはどうでもいい仕事に追いやられるだろう」と記している。事実、ゴルディエフスキーの運命はそうなる。

リュビモフは“人生の友”かもしれないが、ゴルディエフスキーにとっては情報の主要なソースであった。彼から得たすべての情報はMI6に伝えられていたので、友情はまた裏切りでもあった。(続く)

このエッセイを書くにあたって、以下の著作、インタヴュー、記事のお世話になりました。とりわけ、ベン・マッキンタイアーさんの秀作に感謝を捧げます。”The Spy and The Traitor:The Greatest Espionage Story of the Cold War”, Ben Macintyre Penguin Random House UK 2018 , “ Oleg Gordievsky” Desert Island Discs BBC Radio4  2008・2・10、”Oleg Gordievsky” Coin Davis In the Psychiatrist’ s Chair BBC Radio4 2015・ 8・15、”Betraying bandits” Gordon Corera The Spectator 2018・10・6

 

 

 

フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。