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土野繁樹の21世紀探訪

歴史探訪 その17 天安門事件③

 

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中国国家博物館                                             Sim Chi Yin for The New York Times

 

1989年6月4日の朝、人民解放軍が学生と市民を虐殺したとのニュースを聞いた、ペリー・リンクは(『天安門文書』の監修者、プリンストン大学名誉教授)自転車に飛び乗り、友人である方励之夫妻のアパートへ向かった。ドアをノックすると李淑嫻夫人が現れ、怒りで体を震わせながら「彼らは狂っている。ほんとうに、狂っている」と繰り返しつぶやいた。方励之は机に向かっていた。物事に動じない彼も、ショックで沈着さを保つのに苦労しているようだった。夫妻の友人たちが電話で、二人は“反革命動乱”の扇動者リストのトップに指名されているようだから、一刻も早く逃げたほうがよい、と警告した。方は「ここは、わたしの家だ。なにも悪いことはしていない。出て行く理由がない」と拒んだ。しかし友人たちの重なる忠告に従って、数時間後に姿を隠した。

 夫妻は人目につかないあるホテルに移動した。リンクが北京の米国大使館に連絡すると、翌日の夜、ホテルに大使館の政治担当官レイモンド・ブルガードがやって来た。彼は「米国大使館に避難して下さい。お二人はブッシュ(父)大統領の客人です。必要と思われる期間ご滞在ください」と言い夫妻を招待した。テレビが方励之の指名手配の顔写真を全国放送している中、二人は密かに大使館に入った。

 

天文学者が“国賊”に

 

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方励之                      Wikipedia

 

中国政府が天安門事件の首謀者とするお尋ね者を、北京の米国大使館が匿ったのだから、この事件は国際的ニュースとなり米中外交関係の最大の刺となった。解決までに1年間かかった解放交渉の裏舞台を、方励之自身の言葉で再現してみよう。

その前に、彼の略歴を紹介する。北京の郵便局員の息子、方励之は16歳で北京大学に入学し、物理学を専攻、同学部のクラスメート李淑嫻(のちに北京大学教授)と結婚。1958年、中国科学技術大学の教師となる。84年、同大学の副学長に就任。天文物理学者としての彼の業績は世界的評価が高く、ケンブリッジ大学のスティーブン・ホーキング(『宇宙を語る』の著者)などと親しかった。81年には京都大学の客員研究員であった。

文革が終わった頃には、中国では権利という言葉を口にするのはタブーだった。しかし、今では誰もが口にする。それを主張し続けたのが方励之だった。国内外の民主化のシンボル的存在であった彼は、公開の席でも恐れることなく発言した。「マルクス・レーニン主義はよれよれの古着だ。捨てたほうがよい」「自由、平等、友愛、デモクラシー、人権­。こんな良い言葉がすべて“ブルジョア的”と呼ばれている。これがだめなら、あとに何が残っているのか」

86年、一連の民主化要求発言で、彼は鄧小平の逆鱗に触れ、副学長を解任され共産党から除名された。その後、北京天文台の研究員となる。89年1月、魏京生(79年、壁新聞で“4つの現代化”だけでは足りない、5つ目の民主化を加えよ、と鄧小平を批判した罪で15年の懲役刑)釈放を要求する公開書簡を鄧小平に送る。学生に絶大な人気のある彼は、89年の学生民主化運動に直接は関与していないが、当局は扇動首謀者として逮捕状をだした。

方は天文物理学者だったが、優れたエッセーを書く人だった。筆者がこの人の文章にはじめて接したのは、“New York Review of Books”誌(世界最高の書評誌)で、エズラ・ヴォーゲルハーバード大学名誉教授、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著者)の『鄧小平伝』(2011)の書評だった。その大著のなかで、 “人権”に関する索引が一つしかなく、天安門事件は悲劇であったとしながら、武力弾圧は中国の安定と繁栄のためにしかたがなかった、と党と同じ立場をとっているとし、理路整然と批判していた。鄧小平の経済改革への手放しの称賛に、中国は1820年代には世界のGDPの30%を占める大国だった、ヴォーゲルはこの国が歴史上、常に現代のソマリアのような最貧国であったかのように思っている、と手厳しい。

 

自己批判の文化

 

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鄧小平          Wikipedia         方励之の著作      Wikipedia

 

晩年、彼は同誌に「わたしの”告白“」(2011)というエッセーを書いている。内容は、彼の米国大使館からの釈放をめぐる米中交渉の内幕である。また、大使館”幽閉“中に同誌の求めに応じて、「中国の健忘症」(1990)を寄稿している。共産党は自分に都合の悪いことは、歴史の記憶から消し去る、それを党は組織をあげてやってきた、と体験的に語っている。以下は、彼の二つのエッセーから引く。

・・・・・

幽閉から5か月後の11月9日、鄧小平は“旧友”ヘンリー・キッシンジャーと会談し、方励之問題を取り上げ「米国側のイニシアチーブで、方が告白(自己批判)することに応じれば、中国から追放してもよい」と言った。するとキッシンジャーは「後で、彼が米国の圧力で自己批判をしたと公表すれば、事態はより悪くなる」と応じた。米国大使ジェームス・リリーは、鄧・キッシンジャー会談のやりとりを、妻とわたしに伝え、自己批判が二人の解放の条件の一つだと言った。もちろん、米国はあなたにこれを強要しているわけではない、と付け加えた。わたしは、大使がこの条件をのまなければ問題は解決できず、しかし、自己批判の無理強いもできない、というジレンマに陥っているのを、気の毒に思った。わたしは彼に「そんなに深刻に考えることはありません、やりましょう」と言った。おそらく大使もキッシジャーも中国共産党の“自己批判文化”をよく理解していなかったのだろう。

文化大革命のピーク時に、わたしを含める多くの科学者は、毎日、自己批判書を提出させられた。当局は、われわれに自分の誤ちを深く反省し、それが日々“より新しく、より深い”内容になることを求めていた。われわれのその要求への対応は、前日の自己批判書にちょっと手直しするだけだった。30分もあればよかった。例えば、パラグラフがABCDの順番であったものを、CBADにするという程度の書き直しで、内省が深まったことになった。後で知ったのだが、当局は誰もそんなものは読んでいなかった。

要するに、“自己批判”は形式にすぎないということだ。交渉のカードのひとつというより、面子のためだ。1970年、鄧小平は毛沢東が彼の復活を検討中であることを知ると、直ちに毛主席宛に「路線を決して、逆戻りさせない」ことを誓う自己批判書を提出した。この自己批判で毛は面子を保ち、鄧を北京に呼び戻したのである。ということで、鄧の面子をたてることが、方励之問題の解決に役立つならと思い、わたしは自己批判書を書いた。それは、過去と将来に関しての二つの部分から成っていて、わたしが犯したという間違いや罪については一言も触れていない。リリー大使はそれを中国外務相に渡した。

 

日本政府の借款が決め手に

 

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ブッシュとスコウクロフト Scowcroft Institute of International Affairs

 

12月9日、米大使館の政治担当官がブッシュ大統領の国家安全保障補佐官ブレント・スコウクロフトが北京に間もなく到着する、と興奮してわたしに伝えた。おそらく明日の鄧小平との会談で二人の解放が決まるだろう、だから「荷物をまとめて置いてください」と彼は言った。

いつでも出発できるよう準備して、翌日の朝から夜まで待ったが、なにも起こらなかった。次の日もわたしと妻は、朗報を期待して待機していた。午後、鄧小平はスコウクロフに会い、方問題の解決の条件を示した。要点はカネだった。鄧は解放の交換条件として、米国の経済制裁の解除、借款の再開、江沢民の訪米を要求した。スコウクロフは方問題の解決と経済制裁の解除をリンクして交渉することはできない、ワシントンは受け入れないだろう、と言い提案を拒否した。鄧小平とその部下は「身代金なしでは、釈放しない」という、古代から続いている取引の慣例に固執したのである。

交渉は決裂した。この会談内容からすると、当初、鄧小平が解放の条件として要求したわたしの自己批判は、たんなる見せかけにすぎなかったことは明白だ。

90年6月、日本政府は方励之問題の解決を条件に、中国への借款再開を約束した。鄧小平の反応は早かった。借款再開の報道から10日後の6月16日から25日の間に大使館を出て中国を去るように、との通告が届いた。

その時、鄧小平からはさらなる自己批判書を求める要請はなかったが、“New York Review of Books”誌の編集長ボブ・シルバーから原稿依頼があった。わたしが「中国の健忘症」と題する原稿を書き上げたのは、大使館を去る数時間前だった。

 

記憶を消すシステム

 

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天安門広場国旗掲揚式                   China Daily online

 

“歴史を忘れさせるテクニーク”は中国共産党の支配の重要な手法である。わたしはこの政権下で40年間暮らし、そのテクニークが機能している場面に度々遭遇してきた。その目的は、社会全体を歴史健忘症にさせる、とくに共産党の真の歴史を忘れさせることにある。

1957年の毛沢東の反右派闘争で50万人の知識人が迫害された。彼らは殺害され、監獄に入れられ、労働キャンプ送りとなった。わたしは当時大学を卒業したばかりだったが、“右派”のレッテルを貼られ党籍をはく奪された。

その頃、わたしはまだマルクス主義を半分くらい信じていたが、ひとつどうしても理解できないことがあった。それは、なぜ中国の共産党は知識人が少しでも(党の路線から離れて)独自の考えを表明すると、あれほど惨い弾圧をするのか、という疑問だった。

その疑問を10歳、20歳以上の年上の教師や友人にぶつけると、彼らはわたしの無知を笑った。彼らによると、党は延安時代の1942年にすでに“自由主義”、“個人主義”の矯正運動で「批判闘争」の名目の下、人々を自殺に追いやり、斬首で処刑していたというのだ。延安でそれを体験した人々は、矯正運動と聞くと表情がこわばる。15年後、われわれの世代はまったくこの事実を知らなかったのだ。

その13年後の70年、毛沢東に扇動され文化大革命(1966-76)の熱狂的な担い手となった学生は、今度は逆に標的になった。その年、中国科学技術大学の物理学科のすべての教師と学生は安徽省の淮南の石炭鉱山に“再教育”のため下放された。講師だったわたしもその一人だった。

その夏、“反革命的言動”で教師と学生を糾弾する批判闘争がピークに達し、ターゲットになった多くの学生がそれに耐えきれず卒倒した。わたしの任務のひとつは、荷車を引いて彼らを運ぶことだった。炭鉱で働いていた40人の学生の中には、自殺した者が二人いた。あれほど党に忠実だったのに、なぜこんなに酷い目にあうのか、学生はそう思ったに違いない。

後に、わたしの当時の学生の一人が、反右派闘争で何が起こったのか、自分はまったく知らなかったと告白した。この世代はあの時代の知識人弾圧の実態を知らなかった。

この歴史を忘れる現象が89年にも繰り返された。天安門民主化運動に参加した半分以上の学生が、10年前の“北京の春”を正確には知らなかった。若い活動家が自分の思うところを民主の壁に貼り表明したために、逮捕された事件である。学生は鄧小平が「第五の現代化(民主化)」を主張した魏京生を裁判にかけ、当時も服役中であることを知らなかった。わずか、10年前の出来事にもかかわらず、この世代にとっては知られざる歴史になっていた。

87年は反右派闘争の30周年の年だった。わたしと二人の友人は、運動をテーマにした学術会議を開くための準備にかかった。関連の歴史書を探したが皆無で、体験者のアタマのなかにある記憶だけだった。学術会議開催の案内をだすと、すぐに論文が集まり、寄付をする人もいた。しかし、当局の対応も早かった。もの凄い圧力(わたしは淮南にいたので、それを脱ぬがれた)が北京の二人の友人にかかり、会議開催を諦めた。当局は30年前の出来事に関する、こんなささやかな自由討論の場さえ許さないのだ。もちろん、書店には反右派闘争の本は置かれていない。

 

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毛沢東エドガー・スノー 1970年                 Wikipedia

 

共産党の歴史は世界に知られていない、あるいは忘れられている。そんな状況のなかで共産党が検閲した歴史をそのまま信じて、中国を語った有名なライターが何人かいる。その一人が、エドガー・スノー(米国人ジャーナリスト(『中国の赤い星』の著者)だ。

スノーは中国で長年暮らしたから、その社会をよく知っていると思われていた。しかし、共産党が政権を取った後の彼のレポートは、党のプロパガンダ路線を容認しているとしか思えない内容だ。例えば、『今日の赤い中国』(1961)で次のように書いている。

わたしは写真を撮ろうと思い、時間をかけて飢餓に苦しむ人々や乞食を探したが、どこにもいなかった。これまで、誰もそんな写真を撮ったことはない。わたしはこれまで飢餓の人を見たことがない、と断言できる。もう昔のような飢饉はないのだ。このレポートを書いている時点で、中国が飢饉であるとは思わない。

事実は、その頃(大躍進政策の失敗で)中国史上最大級の飢饉が進行中で、1958-61年の3年間で約25百万人(後に30-40百万に修正)が飢餓でなくなっている。乞食も多かった。

スノーの墓は北京大学の丘の上にある。中国人は彼を尊敬し、彼の中国と中国人への愛と誠意を疑う者はいない。しかし、彼のレポートはあまりに旧友である毛沢東の見解に影響を受けていた。結果として党のプロパガンダに貢献したことになる。

共産主義者による人権無視の非道な行為は、これまで中国内だけでなく国際社会でもあまり語られることはなかった。しかし、天安門事件があり、そのパターンが打ち破られた。中国政府による血の弾圧は、世界中のメディアによって詳細に報道され記録され、ほぼ全世界が非難した。この事件で世界のオピニオンリーダーと海外特派員のこの国を見る眼が変わった。このことの意味は大きい。

共産主義者は引き続き「歴史を忘れさせる」検閲作戦を推進しているが、国際世論の前では、党はもはや事実を隠すことはできないだろう。昨年、この国で起こったことが, 国内で忘れられてはならない。なぜなら、これは中国が普通の国になり進歩するための、不可欠な条件であるからだ。

・・・

このエッセーを書いたあと、方励之は夫人と共に米国大使館員に付き添われ北京空港へ向かいロンドンへ旅立った。2年後、彼はアリゾナ大学物理学部の教授となり、20年間そこで研究し教えた。方の親友だったペリー・リンクは、2012年に彼が亡くなったとき、昔の中国人の弟子の言葉を引き、その功績を称えている。

「彼は中国のサハロフと言われる。しかし、わたしにとって、方励之と共産党の関係は、ガリレオバチカンの関係と同じである。彼らは独断的な権威に挑戦し、迫害を受けたが、真実は曲げなかった」

・・・・

さて、天安門事件から28年たった今「事件を忘れず、中国が普通の国になってほしい」という方励之の望みはどうなったのだろう。英国人ジャーナリスト、ルイザ・リムの秀作『記憶喪失共和国』が、その問いへの衝撃的な答えをだしている。そのルポルタージュの内容は後半に記す。その前に趙紫陽の右腕として保守派の標的となり、党エリートのなかで唯一7年の懲役刑を受け、出獄後、人権活動家としていまも健在な鮑彤の現代中国批判を聞いてみよう。

 

鮑彤の孤独な闘い

 

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鮑彤                                   Wikipedia

 

趙紫陽が総書記の職を解任された1週間のちの1989年5月28日、彼の右腕で政治局常任委員会(最高決定機関)の秘書であったの鮑彤の自宅に、緊急会議があるので車を回すとの、電話があった。迎えの車に乗る前、彼は妻に「いつまた会えるかわからない」と言った。彼をのせた黒いセダン車は、北京郊外にある政治犯を収容する泰山刑務所に着いた。看守が「これから、あなたの名前は8901番です」と伝えた。彼は天安門事件第一号の政治犯であった。

彼は狭い独房に放り込まれ、24時間看守の監視下におかれた。中国で最も重要な官僚の一人であった鮑彤は、その日から権利も未来も名前もない男になった。当局が家族に彼の居所を教えたのは2年後であった。中央委員を解任され、党籍を剥奪された鮑彤は、92年、わずか6時間の裁判で「国家機密漏洩罪」と「反革命宣伝扇動罪」で懲役7年の判決を受けた。釈放されたのは97年だった。それ以降、20年後の今日でも厳しい当局の監視下にある。

天安門事件のあと、改革派の政府要人は解任あるいは左遷されたが、その中で逮捕され懲役刑を受けたのは鮑彤だけである。保守派はよほど彼を目の仇にしていたに違いない。彼の罪状は表むきは上記の二つだが、実態は、趙紫陽の知恵袋として改革を推進してきた彼への、保守派による制裁であった。趙と彼の学生運動についての見解は完全に一致していた。鄧小平の逆鱗に触れた5月4日の趙紫陽IMF各国代表への演説草稿(「学生運動は愛国的である」「動乱はないだろう」)は彼が書いたものだ。政治体制改革主任として、海外から識者を招いてセミナーを開催し、中南海をジーンズ姿で闊歩する型破りの鮑彤に、保守派の八老の反感は強かった。

54年、鮑彤が党中央組織部(党エリートの人事管理をする強大な権限をもつ秘密組織)のスタッフだったときの直属の上司が鄧小平だった。その縁で鄧と30年の交流があった鮑は、彼を良く知っていた。鄧の政治改革についての立場を、彼はフランス人ジャーナリスト、ミシェル・コルミエールに次のように語っている。「鄧小平は振り子のように揺れていた。ある時は改革を支持し、ある時は4つの基本原則(社会主義プロレタリア独裁共産党の指導、マルクス・レーニン主義)を力説した。彼は誠実な改革論者であると同時に、われわれが改革すべきことの守護者だった」。

 

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趙紫陽 1990年                                Wikipedia

 

鮑彤が趙紫陽に最後に会ったのは、彼が逮捕される数日前であった。その日、戒厳令に反対した趙は事実上解任され、体調を崩し自宅で静養中だった。鮑が「十分休養されて、元気になったらゴルフにお出かけください」と言うと、彼はにっこり笑ったという。その後、ときどきゴルフをするくらいの自由はあったが、趙は自宅軟禁されたまま15年後の2005年に亡くなった。党は二人が会うことを禁止したので、再会をはたすことは出来なかった。

 

共産党腐敗の構造

 

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『記憶喪失共和国』の著者ルイザ・リム                    Wikipedia

 

鮑彤は獄中で6月3、4日の人民解放軍の血の弾圧のニュースを知った。彼はそのとき、鄧小平は共産主義を銃殺したと思ったという。彼によると、その瞬間に、現代中国の深刻な慢性病―腐敗、政府への不信、道徳的堕落、公安機関の巨大化―への道が開かれたという。

天安門事件の学生と民衆の主要ターゲットの一つは政府高官の腐敗であったが、現代ではその規模は当時とは比べものにならない。それは、縁故ひいきや職権乱用による汚職という次元をこえた太子党(紅二代、江三代と呼ばれる革命世代の子孫)による国家財産の大規模収奪という形をとっている。

その実態はすさまじい。腐敗撲滅キャンペーンに取り組んでいる習近平主席の義兄は3億7600億ドル(400億円)の資産を作り、改革派として国民的人気のあった温家宝前首相の息子夫婦が27億ドル(3000億円)の資産所有と、例を挙げればいくらでもある。習の親族のケースはブルームバーグ記者、恩の親族のケースはニューヨーク・タイムズ記者の長期間の調査によるスクープ記事だった。中国当局はこのニュースを直ちにネット上から消した。

中国経済の半分を占める国営企業を支配する太子党の実態もすごい。天安門事件学生運動弾圧の急先鋒だった八老の親族、王震の息子、鄧小平の娘婿、陳雲の息子が経営者として君臨する、国営企業の資産は合わせて1兆6000億ドル(170兆円)という。

昨年、世界中の金持ちの脱税の実態を暴露して話題になった「パナマ文書」によると、現在の中国最高指導部である政治局員の3人の親族と、過去の政治局員5人の親族が、英国バージン諸島のタックスヘイブン租税回避地)に彼らが所有する会社を登録している。その中には“天安門の虐殺者”と呼ばれた李鵬元首相の娘の名もあった。

この共産党の腐敗の構造を鮑彤は、英国人ジャーナリスト、ルイザ・リム(BBC 記者を経て米国公共放送サービス記者)に次のように語っている。「わたしが官僚だったら、間違いなく腐敗しているだろう。同僚から“君の息子を国営企業の会長にするつもりはないか”と言われ、それを断ったとすると、同僚は“わたしの息子もそうできるのだから、君の息子も遠慮することはない”と言うだろう。それでも断ると、わたしは仲間外れにされ、相手にされなくなるだろう」「父が官僚であれば、息子も官僚になる。これが革命と言えるのか。マルクスと何の関係があるのか」「封建時代より封建的だ。これは権力維持のためのシステムにすぎない」。

鮑彤の天安門広場から遠くないアパートと、彼のお気に入りのマクドナルドのコーヒーショップで、インタビューを重ねたリムは、彼の恐れをしらない体制批判はどこからきているのだろうと自問する。その答えは、彼の知識人としての確信と、過去において党のエリートとして、大躍進政策文化大革命などの大失政に加担したという自責の念だった。彼はリムに「かつて自分が、文革中に“毛沢東万歳”と叫んだことを思うと、恥じ入ってしまう」と告白したという。

リムが鮑彤に最後に会ったのは、いつもの会合場所マクドナルド店だった。80歳を越え彼は急に老け込んだようだった。彼はリムに「わたしが次に書くことを知っているでしょう」と言った。驚いた彼女は「なんですか」と尋ねると「失望についてだ。見るもの聞くものすべてに失望している」と言い沈黙した。リムは疲れたようすの彼に面会を求めたことを悔やんだ。しかし、ある弁護士が腐敗の噂がある政府要人の資産公開を求めたため、逮捕されたことに話題が転じると元気が戻ってきた。

その頃、習近平のハエ“小物”もトラ“大物”も退治するというは反腐敗運動で、鉄道相(職権を濫用して蓄財し18人の愛人を抱え374のマンションを所有していた)が逮捕され、庶民は喝采していた。しかし、鮑彤は「1000匹のハエ、1万匹のトラを投獄しようが、政治改革をしないかぎり、腐敗のシステムは変わらないよ」と、その効果には懐疑的だった。やがて、いつもの彼にもどり、比喩を交えながらの鋭い体制批判をした。話題が興隆する現代中国におよぶと「秦の始皇帝の時代、中国は偉大だった。同じように、ジンギスカンの時代も国家は偉大だった。しかし、庶民はどうだったろう。国家はうまくやっていても、庶民が四苦八苦ではだめだ」と語った。

別れ際に、リムが「あなたがお元気な間に、6・4事件の再評価があると思いますか」と尋ねると、鮑彤は「そうなって欲しいね」と言った。

 

国辱を決して忘れるな 

 

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アヘン戦争 1840                        Wikipedia

 

天安門事件の直後、鄧小平は、党が犯した最大の誤りは、「党がイデオロギー教育をしてこなかったことである。これは学生だけではなく、一般人にもしなくてはならないと」と指示し、それを、趙紫陽の後継者、江-沢民総書記は忠実に実行した。

イデオロギー再教育のなかで、最も力が入れられたのは近現代史であった。教科書の大幅改訂が行われ、過去と現在を見るプリズムが変わった。それまでの階級闘争史観から、国辱からの解放史観への転換である。1840年アヘン戦争に始まる西洋列強による祖国の半植民地化、1931年の日本軍の侵略と占領、腐敗した国民党との内戦に勝利し49年に新中国を樹立し祖国を解放し、今日の繁栄をもたらしたのは共産党であることを強調する史観である。

したがって、国家と党の利益は完全に一致する、党を愛することは国を愛することだ、党批判は裏切り行為である、と中南海のリーダーは主張する。教科書では天安門事件は一部の不穏分子が企てた、党と社会主義制度を転覆しようとする反革命動乱であった、敵対的な外国勢力に煽られた事件だったと説明している。

1994年までには、100年の屈辱を強調する愛国主義教育は全国的に浸透し、その視点が新鮮でもあったので教師も学生も積極的に受け入れた。米国の政治学者、ウイリアム・カラハンが中国国立図書館の蔵書目録で調べた結果によると、1947―90年の間に国内で刊行された100年の国辱をテーマにした新刊本は一冊もなかったというから、ポスト天安門世代が新鮮に感じても不思議ではない。かくして、愛国教育は中国人のナショナリズムを高揚させていく。

 

記憶喪失共和国

 

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「無名の反逆者」1989・6・5                             Jeff Widener   AP

 

天安門事件を象徴する写真(上)がある。白いワイシャツと黒いズボン姿の男が、素手で人民解放軍の武力弾圧に立ち向かうその姿は世界的に有名だ。前述した『記憶喪失共和国』の著者ルイザ・リムは、その写真を北京の4つのエリート大学(北京、清華、人民、北京師範―6・4学生運動の拠点)の100人の学生に見せ、「この写真のこと知っていますか」と尋ねた。すると、大多数の若者は怪訝な顔をするだけで、「これはコソボでのこと?」(天文学専攻の大学院生)「これは韓国でのこと?」、(教育学専攻の大学院生)「この写真は偽物じゃないかな」(医学生)と言う者もいた。

100人の学生のなかで、「知っている」と答えたのは15人だけだった。彼女がその一人に「お話しを聞きたいのですが」と彼女が言うと、「出来ません」と言い逃げるようにして去って行ったという。もう一人の学生は「知っているが、党は多数の国民の利益のために行動したと思う。ここまで中国が発展したことに党に感謝している」と答えた学生もいた。天安門事件直後のある世論調査によると、事件についての政府の説明を信じるか、という問いにイエスと答えたのは、わずか2-3%だから隔世の感がある。政府のプロパガンダ機関は、インターネット上で天安門事件に関する公式見解と異なる情報と意見がでると直ちに削除するから、学生は真相を知る術がない。その結果、彼らは政府の見解に疑問を投げかけることもなく無関心である。

 

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「中国の夢」ポスター                Ang Zhao/AFP/Getty Images

 

北京の世界最大の国立博物館の常設展示室は「偉大なる復興へ」と名付けられ、党の歴史的役割を賛美する“神殿”にも似た場所である。ここには約1000点の写真があるが、天安門事件については鄧小平が、事件後に戒厳軍将官を前に、その健闘を称えている1点だけだ。10年間中国をカオスに陥れた文化大革命についても、同様の扱いで写真1点と、3行の説明があるだけだ。3600万の餓死者をだした大躍進についても同じである。党の栄光の歴史だけで、その暗部は隠しているから歴史を直視していない。ご存じのように「歴史を直視せよ」は、中国が日本を批判するときの、決まり文句であるから皮肉なことだ。

展示室には、2012年に国家主席に就任した習近平が6人の政治局員と共に博物館を訪れたときの写真があり、主席の“中国の夢”を語る言葉が刻まれている。「偉大なる中華民族の復興とは、最も偉大な“中国の夢“を実現することである」2008年の北京オリンピックのモットーは“一つの世界、ひとつの夢”であったが、4年後には“中国の夢”に様変わりした。

リム女史は言う「党の教育プログラムは愛国者の国を作ることに成功した。しかし、国家があまりに愛国心を煽ったので強烈なナショナリズムが出現している。“100年の屈辱”の被害者意識と共産党による解放と偉大な中国の建設のストーリーは、この国のナショナリズムを支える2つの柱である。しかし、これは国民の間に自己嫌悪(こんな屈辱にあったのか)と自己肥大(中国はいまにナンバー・ワンの国になる)という分裂症気味の感情を生んでいる」。これは、現代中国人は劣等感と優越感が混じった感情で世界に対応しているということだろう。

愛国心高揚の格好の対象になったのは、日本軍の中国侵略の歴史である。暴虐な日本兵と戦う勇敢な中国将兵のストーリーは、映画とTVドラマとなり繰り返し放映されている。2004年には、そのテーマで製作された番組は15本だったが、日本が尖閣列島を国有化した2012年に177本にもなっている。横店影視城は抗日映画の三分の一を製作する映画会社で、そのスタジオは“反日革命基地”と呼ばれている。そこで悪役の日本人兵を演じ有名になった俳優は、インタビューで「悪役を演じる秘訣は、残虐であればあるほど迫力がでる」と言い、いつも自分は中国将兵に殺されるのだが、自分の夢は解放軍の将校の役を演じることだと告白している。現在の抗日ドラマの製作本数や人気度は分からないが、国家屈辱記念日、(9月18日、1931年の同日に満州事件が勃発)が近づくと、抗日ドラマがTVで繰り返し放映されるというから、国策は変わっていない。

 

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葫蘆島の記念碑                          松井 稔

 

葫芦島市は北京と瀋陽の中間にある港湾都市である。満州事変から15年間、中国の900の都市が日本軍の占領統治下にあったが、葫芦島市もその一つであった。昔、満州国であった街の港に「日本僑俘遣返之地」の記念碑が建っている。この波止場から、日本降伏の翌年の1946年5月から半年間に、在留日本人105万人(大多数が市民で、捕虜はごく一部)が、引き揚げ船で日本に帰国した。この事業は国民党、共産党、米国の共同事業であった。その碑の裏側には次の言葉が刻まれている「われわれはこのような歴史的悲劇を、二度と繰り返してはならない。未来の世代が日中友好関係を樹立することを心から願う」。筆者は蒋介石の45年8月15日の中国国民へのメセッージ「怨みに報いるに徳を以ってす」を思い出した。碑の言葉はそれと同様に心を打つ。現在の中国政府には、そのような寛容さはない。

 

言論の自由がない超大国

 

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国営中央TV局を訪れた習近平                      AP

 

習近平が5年前、中国共産党のトップに就いたとき、彼は政治改革を推進するだろう、と国内外で期待されていた。父親の習仲勳は八老のひとりで、文化大革命では“走資派”として紅衛兵にたびたび拷問され、前後16年間も拘束されたあと復活した。のちに、彼は鄧小平が胡耀邦総書記の解任を提案したとき、ただ一人反対した開明派だった。習近平自身も少年時代に下放され陝西省延安近くの辺鄙な村で6年間辛い農作業をし、姉が紅衛兵にいじめられ自殺という体験もしている。毛沢東文革の不条理を味わった習近平は、民主化への理解があると思われていたのだ。

 

ところが、天安門事件から28年、言論統制と人権侵害は、事件直後(1989-92)の政府の締め付けよりひどいと、大方の中国専門家は見ている。まずは習近平の中国でなにが起こっているかを素描し、なぜ習はそんな政策をとっているのかの説明を試みる。

報道機関とジャーナリストへの締め付け、インターネットとソーシャル・メディアの規制は、ここ数年強くなるばかりだ。何百人もの人権活動家と辯護士が逮捕され、裁判にかけられ、ウィグル人とチベット人への迫害は厳しさを増している。知識人への監視が強化され、西洋型立憲主義、普遍的価値、西洋型ジャーナリズムは危険概念である。キリスト教会の十字架が外され、大学で外国の教科書を使うことが禁じられている。国内外のNGOへの規制強化で、活動が禁じられた組織もある。“敵対的な外国勢力”への攻撃が頻繁になされ、公安機関が”国家安定の維持活動“を全土にわたって展開している。ラフ・スケッチをすると、こんなところだろう。以下、いくつかの例を挙げてみる。

中国で、インターネットで天安門事件について調べたいと思い、民主、人権、独裁、専制、王丹、ウーアルカイシ劉暁波、方励之などをキーボードに打ち込んでもでてこない。当局がブロックしているからだ。ということは、事件を知ることも語ることも出来ないということになる。6・4事件を、6+4や6四などと隠語にしても、当局はすぐそれを発見してブロックをかける。かくして、共産党にとって「不都合な真実」はことごとく歴史の記憶から消される。前記の米国メディアがスクープした習近平温家宝の親族の蓄財、パナマ文書が暴露した政治局員の親族の脱税などのニュースは瞬時に削除されている。それらを検閲する中国公安局のインターネット・ポリスの数は推定3-5万人という。

2016年2月、習近平は人民日報、新華社、CCTV(国営中央テレビ局)の3つの政府メディアの本部を訪れ、幹部を前に次のように演説した。「党のニュース・メディアは、党の意思と主張に従い、その権威と統一を守るために仕事をしなくてはならない」。さらに、習はメディア幹部に、軍と党のリーダーに求めたように、忠誠を誓うことを要求した。この訪問は、習がここ数年推進している個人崇拝キャンペーンの一環でもあった。

習はトップになって以来、メディアのコントロールを徐々に強めてきたが、その日の演説は、政府報道機関は党の忠実な代弁者であれという、直截なメセッージであった。彼は、国内報道だけではなく、国際放送CCTVにもそれを求めている。これは、前任者、胡錦濤の「政府メディアは国民の声を反映せよ」という方針からの転換である。

この方針を香港大学の「中国メディア・プロジェクト」の編集者ディビッド・バンドルスキは「すべて党が中心だ。諸君はわれわれのアジェンダに従え」の宣言で、これはソーシャル・メディアから商業メディアにまで及んでいると言う。かくして、国境なき記者団の世界のメディアの自由度ランキング(2016年)によると、中国は176位(日本は72位。米国41位)という不名誉な地位にある

 

キリスト教も弾圧

 

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教会尖塔から外された十字架 浙江省水頭         Mark Schiefelbein/AP

 

習近平のコントロールキリスト教にも及んでいる。昨年1月、彼は宗教政策についての主要演説を行った。「共産党は外国勢力による宗教を通じての祖国侵入を断固防がなくてはならない。中国において(外来)宗教は中国化されるべきだ」。

現在、中国のキリスト教徒人口は推定1億人だから共産党員8700万人よりも多い。信者のなかの3000万人は政府公認の「三自愛国教会」(プロテスタント)と「天主教愛国会」(カトリック)が占め、7000万人は“地下教会員”である。信者の大多数はプロテスタント諸派に属している。共産党キリスト教を意識して統制下に置きたいのは、自由にさせておくと一大勢力になり危険だと思っているからだ。ちなみに、当局のブラックリストに入っている人権辯護士の半数は信者であるが、こんな現象を党は警戒しているのだろう。

“China First and Religion Second”の政策は、中国で最もキリスト教徒が多い東シナ海に面した浙江省(人口5000万、首都、杭州)で、数年前から、露骨に実施されている。当局により、キリスト信仰のシンボルである十字架が、教会の尖塔から取り外されたのだ。信者によると、その数は推定1200―1700にのぼるという。地方政府による十字架排除の実力行使に抵抗する信者と警官との間に各所で衝突があったが、従わなければ教会を破壊すると脅され信者は妥協せざるを得なかった。以前は政府公認ではない教会も当局は大目に見ていたのだが、無残に破壊された。このキャンペーンは全国的には展開されていないから、キリスト教徒への警告だろう。

北京のある公認教会の牧師は、BBCのジョン・スドウォ―ス記者にインタビューに答えて、流暢な英語で「われわれはなにより第一に中国の市民であり、第二に神の王国の市民である」と明言している。この祖国第一、信仰第二の路線に反感をもつ中国人信者は、“隠れキリシタン”として自宅でのバイブル・クラスなどで信仰を守っている。

中国とキリスト教の縁は深い。16世紀、明の時代にイエズス会の司祭マテオ・リッチ天文学と数学を中国に伝え、20世紀前半、米国の宣教師は中国各地に大学、病院を建て、現代中国建国の父、孫文は敬虔なキリスト教徒であったから、西洋の中国近代化への貢献度は高い。それを、外国生まれの宗教だから油断ならないという発想で、政府の厳しいコントロール下におこうとする北京の政策は、大文明国にふさわしくない。

 

習近平の論理

 

なぜ習近平はこのような異常とも思える言論、思想統制をしているのだろう。今回の歴史探訪をしていて、この疑問が筆者のアタマから離れなかった。色々読み考えたが、最も説得力があると思ったのは、アンドリュー・ネイサン教授(コロンビア大学、『天安門文書』監修者)の分析である。彼は“Who Is Xi?” 2016(習近平とは何者か?)の記事のなかで次のように言っている。

現在の共産党指導部とビジネス・リーダーの大多数は、太子党と呼ばれる革命第一世代の息子と娘たちである。彼らは建国の父たちの継承者であると自負している。彼らは、100年の屈辱の歴史にピリオドを打ち、中国人の誇りを取り戻し、中国を発展させ、世界で尊敬され、怖れられる国にしてくれた父の世代の偉業を、引き継がなくてはならない、と思っている。彼らが最も恐れているのは、「赤い帝国」を崩壊させた世代になることだ。(崩壊すると、彼らが継承した権力と富も消滅する)。

ネイサンは太子党のリーダーのエリート意識は、血統主義に基づいていると指摘している。毛沢東に粛清され文革の狂気の犠牲となり獄死した劉少奇主席の息子、劉源(党中央委員)でさえこの論理に組し、習近平を支持している。彼だけではなく、父親が毛の犠牲者になった2代目の多くが「延安の息子と娘の北京協会」「国家創建者の文化を推進する北京協会」の会員として毛の遺産を偲んでいる。

筆者は血統主義という言葉を聞き、中国歴代王朝の父から子への権力と富の継承を思い起こした。「赤い帝国」の元祖は毛沢東、二代目は鄧小平、“党中央の核”となった習近平は三代目というところだろう。三代目はなにがなんでも、共産党独裁国家を守らなくてはならないと考えている。そのためには、王朝の安泰を脅かすと思われる批判はどんなに些細でもいち早く潰す、という方針をとっているのだと思われる。

 

筆者はこの歴史探訪記を書くにあたって、以下の著作,ドキュメンタリー映画、記事のお世話になった。"The People's Republic of Amnesia : Tiananmen Revisited"Louisa Lim著 2014、『天安門文書』張良編 アンドリュー・ネイサン/ペリー・リンク監修、山田耕介/高岡正展訳 2001、"Assignment China: Tiananmen Square" (映画) US-China Institute USC  2014, "My 'Confession'" Fang Lizhi,The New York Review of Books 2011・6・23 ,"The Chinese Amnesia"Fang Lizhi , the New York Review of Books 1990・9・27, 'Hi! I'm Fang!' "The Man Who Changed China" Perry Link , the New York Review of Books 2013・4・4、"Crackdown in China: Worse and Worse"Orville Shell, the New York Review of Books 2016・ 4・21,"Why many Christians in China have turned to underground churches"John Sudworth , BBC News 2016・3・26,"Decapitated Churches in China's  Christian Heartland"Ian Johnson, New York Times 2016・5・21,"Who Is Xi?"Andrew J. Nathan ,the New York Review of Books  2016・5・12,"China: The Struggle at the Top" Andrew J. Nathan ,the New York Review of Books 2017・2・9 

 

 

 

フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。