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フランスの田舎から世界を見ると

土野繁樹の歴史探訪

歴史探訪 その16 天安門事件②

 

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人民解放軍の戦車に対峙する「無名の反逆者」 長安街 1989・6・5  Jeff Widener AP

 

1989年6月3日、北京市内に入った戒厳部隊と学生・市民の間に最初の衝突が起こった。軍の兵士を待ち受けていたのは、学生と市民の頑強な抵抗だった。市内のいたる所で軍の車両の前進が妨害され、転覆させられ、タイヤに穴があけられた。天安門広場へ向うトラック部隊が市民に行く手を阻まれ、孤立した兵士の小グループが群衆に囲まれ暴行を受けた。軍需品を満載したバスが中南海近くで停車させられ包囲された。人民大会堂、国務院ラジオ・映画・テレビ部、共産党中央宣伝部に大群衆が集まった。

午後4時、政治局常任委員会の緊急会議が召集された。出席したのは、楊尚昆(国家主席)、李鵬、喬石、姚依林(戒厳令に反対した二人、趙紫陽総書記は解任され胡啓立は欠席)と治安と軍のトップだった。悪化する状況が李鵬と治安当局から報告されたあと、楊は次のように言った。

「鄧小平同志と連絡をとったばかりだ。皆さんに2点伝えるように依頼されている。第1点は、明日の夜明けまでに問題を解決する。つまり、日の出までに戒厳部隊は、広場にいる群衆を排除する任務を完全に終えなければならない。第2点は学生に対しては道理をもって接し、自発的に立ち去るよう求めるべきだ。流血を避けるためにできるかぎりのことをせよ。戒厳司令部は、最後の手段としてのみ発砲が許されることを、すべての部隊に周知徹底しておかなければならない。もういちど繰り返す。天安門広場では流血があってはならない」。(『天安門文書』)

会議は以下の決定をした。6月3日午後9時、戒厳令軍と武装警察は首都に発生した反革命暴乱の鎮圧を開始する、戒厳部隊は6月3日午前1時に広場に到着し、午前6時までに学生を排除する

 

 

午後6時、長安街は群衆で溢れ、自転車に乗ったままでは通れないほどだった。午後6時半、ラジオ、テレビ、拡声器放送で、市民は天安門広場に近づくなとの警告がはじまり、それは数時間続いた。午後8時半、ヘリコプターが長安街と天安門広場の上空を旋回した。午後9時、長安街の大群衆はそこを立ち去り、残ったのは1000人だった。天安門広場では、人民大会堂のなかで突撃部隊が待機していた。午後10時、戒厳司令部は郊外に駐屯していた全部隊に市内に進駐するように命じた。

午後10時、復興路の軍事博物館近くで、学生と市民が第38軍の先遣部隊の前進を阻止した。双方が2、30メートルを隔てて対峙した。一部の群衆が石を投げると、歩兵は上空に向かって警告射撃を行った。群衆の投石は止まらず、歩兵は銃口を彼らに向け発砲した。そこから500メートル先の木樨地橋では、戒厳部隊を阻止するために集まっていた市民がトロリーバスで道をふさいでいた。

しかし、そこを強硬突破した歩兵は、警告射撃と群衆への発砲を繰り返した。人々が路上に崩れるように倒れていった。歩兵が道路上の障害物を一掃すると、装甲車と軍用トラックが乗り入れた。トラックの兵士は、群衆が投石し侮辱的な言葉を発すると、容赦なく発砲した。天安門事件で、最も多くの死傷者が出たのは、木樨地であった。軍指揮官は鄧小平の「流血を避けよ」の命令は守らなかった。午後11時、戒厳部隊は5キロ先の天安門広場に向かう。

死者と負傷者は、三輪リヤカー、戸板、オートバイに乗せられ、近くの復興病院に運びこまれた。そこには家族の安否を心配した多くの人々が集まっていた。

 

天安門広場、深夜のドラマ

 

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劉暁波             Wikipedia   侯徳健          Wikipedia

 

その頃、天安門広場には数万人の学生と市民が立てこもり、人民英雄碑のまわりには、3000人のハンスト学生が座りこんでいた。その中には学生への連帯を示すため2日前にハンストに参加した、劉暁波(34歳の北京師範大学講師)、侯徳健(33歳の台湾出身の国民的ロック歌手)がいた。劉はのちのインタビューで「人民英雄碑の辺りは静寂そのものだった。侯徳健は“台風の眼”みたいだな“と言った。台風は周りを暴れまくっているのに、テントの中でハンストをしている我々は比較的冷静だった」と語っている。

6月4日午前1時、作戦計画通りすべての戒厳部隊が天安門に集結し、広場を包囲した。午前1時30分、静寂を破って突然、戒厳司令部が拡声器で緊急メッセージを伝え始めた。その内容は、いかなる代償を払っても、政府は反革命暴力行為を鎮圧する、学生と市民は直ちに退去せよ、というものだった。「それまで、広場にいた大群衆がアッという間に、わたしの目の前から消えた。残っているのは、人民英雄碑の前にいるわれわれだけだった。不気味な光景だった」と劉は回想している。

午前3時、軍の退去通告が繰り返しラウドスピーカーで流されるなか、学生はそれを無視して座りこみを続けていた。このままでは流血の惨事になるかもしれないと憂慮した、侯徳健、劉暁波、周舵(ハイテク企業家)、高新(北京師範大学講師)の4人(のち四君子と呼ばれる)は、学生は広場から退去すべきだと考え、彼らの説得にかかった。4人は学生に、共同で戒厳部隊と交渉し、平和的に撤収をしようと提案した。

しかし、ハンスト学生のリーダーで“天安門防衛司令官”柴玲(23歳)は「広場を去りたい者は去り、残りたい者は残ればよい」と全員退去に反対した。さらに、彼女が「趙紫陽は学生に、夜明けまで座り込みを続けてほしいと思っているようだ」と言うと、教師の劉暁波は「その情報がホントかウソかはどうでもよい。学生リーダーに、広場にいる学生の命を賭けたギャンブルをする権利はない」と諭した。

すると、侯は拡声器を手にして学生に向かって語りかけた

「皆さん、現在、北京では全市にわたって流血の惨事が発生した。人民を覚醒するのは、これで十分だ。皆さんが死を恐れないことを知っている。しかし、われわれ(4人)は皆さんが広場から退去することを望んでいる。引き揚げるとき、捕獲した銃なども返却しよう。われわれの原則である非暴力を貫こう」。

 

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戒厳司令部に乗りこみ交渉する侯徳健と周舵              Wikipedia

 

そのあと、3時45分に侯と周は二人だけでミニバンに乗り、戒厳部隊の連隊司令部へ向かった。数分後、車は中国革命歴史博物館の前で止まると、侯は「わたしは侯徳健だ。話し合いにきた」と叫んだ。政治委員が出てきて彼らに会った。侯と周が「学生を退去させるので、解放軍は発砲しないでほしい。退去の準備のために少し時間がほしい」と言うと、政治委員は「上級者に報告するので、待ってほしい」と応じ席をはずした。そのとき、4時すこし前だった。

4時になると、突然、広場のライトがすべて消され真っ暗になった。そのあと「いまから広場にいる学生の排除作戦を実施する」とラウドスピーカーの警告が流れてきた。道端で待っていた二人はうろたえた。しかし、3分もたたないうちに、政治委員が帰ってきた。彼は「司令官は君たちの提案を受け入れた。われわれは発砲しない。しかし、あまり時間はない」と言った。侯と周は急いで学生のもとに戻った。

闇に包まれた広場で、二人は当局との交渉の結果を報告し、即時撤退を呼びかけた。そのとき、人民大会堂に待機していた自動小銃を手にした突撃部隊の兵士が、記念碑に向かって前進していた。いつもなら、学生は全員の投票で、退去か否かを決めるのだが、そんな時間はない。ハンスト学生のリーダーのひとり封從德(柴玲の夫、23歳)の提案で、声による賛否をはかった。「去る」と叫ぶ声のほうが、「残る」と叫ぶ声より大きいと思った封は撤退を決定した。

午前4時30分、広場のライトが再び点火された。そのとき、学生は完全武装した多数の兵士と向かいあっていることを知った。学生は全員立ち上がった。一人の兵士が、深夜、教え子が心配で駆けつけた梁暁燕(北京外国語大学講師)の胸元に銃剣を突きつけた。幸いなにも起こらなかったが、のちに彼女は「信じられないことが起こっていると思った」と回想している。

広場に入ってきた戦車と装甲車が、民主化運動のシンボル「民主の女神像」を押し倒し、学生のテントを踏みつぶし、東西から記念碑の周りにいる学生をはさみ込みこんだ。戦車、装甲車と学生との距離は2,30メートルしかなかった。午前5時、兵士に囲まれた3000人の学生は「インタ-ナショナル」を唄いながら整然と撤退していった。戒厳部隊は鄧小平の厳命に従い発砲することはなかった。

だが、侯徳健と周舵が戒厳司令部に4時前に着いていなかったら、事態はどう展開していたかは分からない。

 

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破壊された「民主の女神像」          Wikipedia

 

6月3日から4日にかけて、多くの内外の記者が北京市内で、人民解放軍による血の弾圧を目撃しているから、虐殺があったのは事実だ。しかし、今でも多くの人が天安門広場で虐殺があったと思っているが、上記のように、広場では血は流れていない。なぜ、この誤解が生まれたのだろう。それには、いくつかの理由がある。

第一に、広場で虐殺があったとする、逃走中の学生リーダーの“目撃談”が報じられたことである。ウーアルカイシは200人が広場で殺された、李録は戦車がテントで寝ている学生たちをひき殺したと言っている。しかし、ウーワルカイシは戒厳部隊が広場に入る何時間も前に脱出しているから、目撃していない。李録の証言は、テントがある現場にいた数人の外国人記者が否定しているから、事実ではい。柴玲も20人の学生と労働者が、広場で殺されたのを見たと言っているが、彼女も部隊が広場に入る直前に脱出しているから、これも疑わしい。のちの検証で、これらの証言は否定されるのだが、当時、外国メディアはそれを事実として報道した。

第二に、戒厳司令部による厳しい情報管制下、外国人記者は天安門広場で何が起こったかを、検証することはできなかった。また、衛星放送の回線は切られ、本社へのレポートは携帯電話だけとなり、撮影したフィルムと写真を密かに香港に送り、そこから本国に衛星で転送するしかなかった。そんな状況のなか、たとえば、長安街で死傷者を運ぶ学生の写真が、どこで撮られたかの確認もできないまま、本社編集局の思い込みで“天安門広場の虐殺”として報道されたのである

戒厳軍と交渉して学生を無事、広場から撤退させた侯徳健が、事件直後そのことを一部のマスコミに話したが、あまり注目されることもなく“天安門広場の虐殺”が長い間、事実として一人歩きしていた。日本では、その年の暮に現代中国史家、矢吹晋教授(横浜市立大学)が読売新聞に「天安門広場での虐殺はなかった」を寄稿したが、中国政府の代弁者だと袋叩きにあったという。

その誤認を検証し事実を明らかにしたのは、1993年に放映されたNHKのドキュメンタリー「天安門事件・空白の3時間に迫る」だった。6月4日未明、広場からの学生の無事撤退を撮影していたスペイン人記者レストレポの証言、現場にいた侯徳健や学生の証言をもとに製作されたこの番組は、通説を覆す優れたドキュメンタリーだった。

その夜、レストポレは3,4人の外国人記者と現場に最後までいたが、その中に朝日新聞の永持祐紀記者もいた。彼は社内報(1989年8月号)に臨場感あふれるルポを書いているが、次のような記述がある「“天安門広場の虐殺”というフレーズがよく使われる。今回の惨劇を象徴するものとして、それは良いと思うが、「虐殺」は実際には広場の外の北京市街が主な舞台である」「人民英雄碑は新中国の中心も中心、そこを真っ赤に染める戦略を、さすが中国の指導部は取らなかったのではないかと推測する」。

事件から2ヵ月後に書かれたこの記事を、朝日新聞は社内報ではなく、本紙に載せるべきであった。そうしておれば、矢吹教授やNHKよりも早く事実を伝えることができたのに、惜しいことをしたものだ。なぜそうしなかったのだろう。

ともあれ、天安門広場に最後まで残り、学生に退去を説得した劉暁波も,広場での流血はなかったと証言している。事件後に逮捕された劉は、取り調べ中に検察官から「広場から学生たちを平和裏に撤退させたのはあなたがた4人の功績である。事実を話すのに、何が悪いことがあるのか」と言われ、真実を語ったと書いている。「事実を語ることは歴史への責任であり、自分への責任でもある。私が最も嫌うのは、中国人が道徳という美名の下に事実を歪曲する道徳至上主義を望むということだ。ウーアルカイシはまさに道徳の美名を選択し事実の尊重を放棄した」と 語っている。劉暁波は凄い人物だ。

 

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“暴徒”鎮圧作戦は続いた 6月5日                  Wikipedia

 

6月4日の未明、学生が天安門広場から退去したあとも、戒厳部隊と学生、市民との感情的対立は続き、街頭での殺し合いが繰り広げられた。午前6時、広場から退去してきた学生が、長安街の六部口で、戦車にひき殺されたり、射殺されたりで12人の犠牲者がでた。6時半、兵士をあざ笑った市民4人が射殺された。その日、北京の十数カ所の交差点で約500台の軍用トラックが炎上した。交差点で武装トラックから機関銃が盗まれた。市民が置いた釘でパンクした軍用トラックが横転、燃料タンクが爆発し6人の兵士が焼死した

戒厳司令部の6月4日の報告は、約200人の学生、市民、約20人の将兵が命を失ったと記している。だが、北京赤十字は同日の死者2600人と推計した。のちの政府公式発表では、死者241人、負傷者7000人とあるが、メディアや人権団体は、死者は500人から3000人と推定している。実のところ、現在でも死傷者の正確な数は分からない。

6月4日の事件を伝える北京のメディア,人民日報、中国中央テレビ局、中国国際ラジオ局英語部門は、ニュースを正確に伝える勇気を示した。なかでも国際ラジオ局は、世界に衝撃的なニュースを伝えた中国で最初のメディアとなった。6月4日の午前6時25分のニュースで、「数千人の人民、そのほとんどは罪のない市民が、重装備の兵士に殺害された」と報じ、「機関銃による殺害と人民への攻撃をためらう兵士たちを装甲車がひき殺したシーンの目撃談」を中継した。

中南海に送られた6月4日の報告は、その日、全国63都市でデモがあり、「社会不安が広がっている」と記している。5日から10日の間、デモは181都市に波及した。北京の学生がはじめた民主化運動は、しだいに市民が参加する北京での100万人デモにまで発展し、全国規模の共産党政権へのプロテスト運動にまでなっていた。しかし、この中国史上最大の民主化要求運動も、人民解放軍の武力鎮圧の前では、ひとたまりもなく粉砕されたのであった。

 

なにかが死に絶えてしまった

 

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人民解放軍の高級将校を慰労する鄧小平                Wikipedia

 

北京の秩序が回復した6月9日、鄧小平は中南海の懐仁堂に戒厳部隊の高級将校を招いて歓迎会を主催した。鄧は事件を“風波”と呼び、「長老がいなかったら状況は救いがたかった」、動乱を扇動した者の目的は「党、国家、社会主義を打倒することで、西側に傾斜したブルジョア共和国に変えることだ、腐敗に反対のスローガンは彼らのたんなる手段だ」と言い、人民解放軍の自制を称えた。そして、今回の事件は、「改革開放政策が誤っていたからではなく、問題は政治教育工作がおろそかにされたことだ」と主張した。

6月19日の政治局拡大会議で、鄧小平はふたたび「改革開放をけっして断念してはならない。われわれはさらなる改革を必要としている。(世界に)ドアを閉ざせば何事も達成できない」と強調した。

6月23日 第13期中央委員会全体会議で、改革派の趙紫陽(総書記)、胡啓立(政治局員)閻明復(国務相)芮杏文(党中央書記)は、正式に党の職務を剥奪された。

李鵬は総会で、「趙同志は動乱を支持し、党を分裂させる誤りを犯したとの結論に達した」ではじまる趙紫陽弾劾の長い演説をした。それに趙は理路整然と反論した。「李鵬同志が、わたしを解任することを提議しているが、それについては何も言うことない。しかし、“動乱を支持した”ことと、“党の分裂を図った”ことについては失礼ながら賛成しかねる。わたしの意見はすべて動乱の終息を目指すものであった。事実を直視する人なら学生運動と動乱の拡大の原因をわたしに帰することはできないはずだ」。しかし、総会は鄧小平の合意を得た筋書通り趙の罪状を承認した。

共産党中央の慣例では、本音はともかく、自己批判すれば情状酌量されカムバックの機会を与えられるのだが、趙紫陽は誤りを認めず自己批判を断行拒否した。鄧小平すら生き残りのため、毛沢東華国鋒への書簡のなかで自己批判をし、胡耀邦は鄧小平ら長老に謝罪している。趙のこの剛直さが、鄧小平と長老の怒りを買い、彼は北京で自宅軟禁の監視下におかれたまま、15年後の2005年に亡くなった。

趙紫陽の同志として将来を嘱望されていた胡啓立、閻明復、芮杏文は解職されたが、数年後に復帰した。しかし、保守派の江沢民総書記、李鵬首相の政権下、再び権力の中枢で活躍することはなかった。

“動乱を扇動した者”への政府の厳しい追及がはじまった。北京市公安局の「治安状況」報告書によると“反革命暴徒と動乱の首謀者”1100人が6月30日までに逮捕されている。北京の状況が鎮静化すると、全国規模で活動家逮捕が行われた。6月12日、北京公安局は“動乱の首謀者ナンバーワン”北京大学天文学者、方励之と妻の李淑嫺の逮捕、13日には、逃亡中の学生リーダー21人の逮捕を関連部門に指示した。指名手配リストの重要度順のトップは王丹で、以下ウーワルカイシ、劉剛、柴玲などが列挙されていた。

そのあと労働者のリーダー、知識人の逮捕リストが公表された。大多数の人々は逮捕されたが、厳しい追及にもかかわらず、ウーアルカイシ、柴玲など一部の学生リーダーと知識人は外国への脱出に成功した。注目すべきは、脱出を手伝った人々の間で、逃亡者の信頼を裏切り報奨金を手にいれた者は誰もいなかったことだろう。

保守派が眼の仇にした方励之夫妻は、北京の米国大使館が保護し、1年後にアメリカへ亡命した。侯徳健は逮捕リストには入ってはいなかったが、一年後に台湾へ追放された。劉暁波は逮捕され「反革命罪」で1年半の刑に服したあと、1995年に天安門事件受難者の名誉回復を呼びかけたことで、3年間投獄された。2008年、中国の大幅な民主化を求める「08憲章」を起草したことで、「国家転覆扇動罪」で11年の懲役刑に処せられ、現在も遼寧省の刑務所で服役中である。2010年、ノーベル賞委員会は、「中国で基本的人権のため、非暴力的手段で戦ってきた」ことに敬意を表し、劉暁波ノーベル平和賞を授与した。

6月末に新華社が行った「全国学生の思想状況」は、キャンパスの空気を次のように記している。恐怖:刑罰や逮捕への恐怖がただよう緊張した雰囲気が大学に広がっている。反抗:全国で約5分の1の学生が反抗的だ。沈黙:どこのキャンパスも、墓場のような沈黙に包まれている。学生は政治向きの話はさけ、恋愛やマージャンに関心を向けている。

ポスト6・4の中国社会の空気を、『天安門文書』の監修者アンドリュー・ネイサンとペリー・リンクの両教授は次のように描写している。「国民は無気力になって政治から顔をそむけた。インテリ階層、とくに理想に燃えた学生が、80年代に見せた素晴らしい社会参加は90年代になり消え失せた。いまや彼らの関心は自分の運命だけである。なにかが死に絶えてしまった」

 

忘れられない光景

 

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重傷の学生を病院へ運ぶ人力車の車夫                 Wikipedia

 

ニューヨーク・タイムズ紙の北京支局長だったニコラス・クリストフは、天安門事件に関する報道で、1989年のピューリッツア賞を受賞した優れたジャーナリストである。現在、同紙のトップ・コラム二ストとして活躍するクリストフが、事件25周年にあたり感動的なコラムを書いている。以下、彼が体験したあの日の出来事である。

――――――

わたしが生きている限り、決して忘れない光景がある、それは、戒厳令軍に撃たれた重傷の学生を病院に運ぶ、人力車の車夫のほおから流れていた涙である。その人力車の車夫は勇気のある人だった。わたしより上等な男だった。

1989年6月3日の夜、われわれ(外国人記者とカメラマン)は天安門広場に隣接する長安街にいた。中国人民解放軍は学生の民主化運動を粉砕しつつあった。あの夜、解放軍はまるで外国軍のように首都周辺の各所から北京に侵攻し、動いているものはかたっぱしから標的にした。天安門広場からはるか離れた場所で、わたしの友人の弟は自転車に乗って職場へ向かう途中で射殺されている。解放軍の侵攻がはじまると、わたしは自転車に飛び乗り天安門広場へ駆けつけた。長安街では学生を守ろうとする群衆が撃たれた。

6月4日未明の惨劇のなかで、最も英雄的だったのは人力車の車夫たちだった。いつもは、彼らは三輪自転車の荷台に品物をのせて運搬するのだが、その夜は射撃が停まり次の射撃が始まる前に、彼らは兵士がいる方向に人力車のペダルを漕ぎ、殺された学生と傷ついた学生を拾い上げていた。学生の遺体と負傷した学生を収容しようとする救急車にも、兵士たちは情け容赦なく銃撃していたが、車夫はそれをもろともせず救出作業を続けた。彼らの勇気ある行動は、わたしの心を激しく揺さぶった。なぜなら、その春、外国人と中国人官僚から「民衆の教育レベルも洗練度もまだ十分ではない中国では、まだデモクラシーは機能しない」と繰り返し聞かされていたからだ。

わたしが目撃した一人の車夫のことを、いまでも鮮明に覚えている。Tシャツを着たたくましい体格をしたその人は、高校卒でさえなかっただろう。だが、なんという勇気の持ち主であったことか。彼は倒れている若い男の方に向かった。わたしは彼が射殺されるのではないかと思い、息を呑んでその姿を見ていた。彼は若い男の体を抱えて荷台に置き、ペダルを踏んで生きたままわたしたちの所に戻ってきた。彼のほおには涙が流れていた。

その人は外国人であるわたしと目を合わせると、三輪車の向きを変えゆっくりとこちらの方に近寄ってきた。わたしに政府がやったことの証人になってもらいたかったからだ。その夜の体験は戦慄すべきものだったから、彼の言葉を正確には覚えていない。しかし、彼が言いたかったのは、あなたはここで起こったことを世界に伝えるべきだ、ということだった。その人はデモクラシーを定義できないかもしれない。しかし、彼はデモクラシーのために命を賭けていた。

中国が過去4半世紀で巨大な進歩を遂げたこと事実である。収入は飛躍的に増え、住宅環境も向上した。人力車の車夫だったあの人には選挙権はないが、彼のこどもは大学に通っているかも知れない。その進歩は議論の余地がない。

しかし、人間の尊厳はライス(パン)だけでは保たれない。人権をも必要とする。中国の偉大な作家、魯迅は「筆で書かれた虚言は、血で書かれた事実を隠すことはできない」と言っている。中国の繁栄が続き、教育ある中産階級社会になると、彼らは政治参加への要求を強めるだろう。わたしはポーランドから韓国まで世界のデモクラシー運動を取材してきた。その体験からすると、いずれ天安門広場であの夜殺害された人々を追悼する式典が行われるだろう。わたしはそれを確信している。そして、その式典の記念に人力車夫の像が建てられることを願っている。(筆者の抄訳)

 

学生リーダー王丹の無念

 

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王丹                 Wikipedia

 

学生の側から天安門事件はどう見えたのだろう。6月4日の凄惨な武力弾圧のあと、中国政府が指名手配した学生リーダーのトップの標的であった、王丹(北京大学歴史学科の20歳の学生)の証言を紹介しよう。

王丹は事件のきっかけとなった胡耀邦追悼を組織し、戒厳令軍に囲まれ天安門広場を退去するまでの7週間、民主化を要求する学生運動の先頭に立って戦ってきた人である。事件直後、彼は逮捕され「反革命宣伝扇動罪」と「政府転覆陰謀罪」で、悪名高い秦城監獄で5年間、牢獄生活の辛酸をなめた。98年、国際世論の圧力によって釈放された王丹はアメリカへ亡命し、ハーバード大学で本格的に中国史を勉強し博士号を取り、2008年に台湾で教師生活をはじめた。以下の回想は、彼が国立清華大学での講義をもとに書いた『中華人民共和史15講』の「6・4天安門事件」の章による。歴史家である彼は、自分が関わった事件を実にクールに叙述していることに筆者は感銘を受けた。

王丹は事件のあと出されたいくつかの疑問に答えている。

その①「学生は過激すぎたので、政府を追い込み、発砲にいたらしめたのではないか」。彼は次のように反論する。(以下、著作からの要約)学生の要求は実は2つしかなかった。ひとつは人民日報の4・26社説の修正であった。学生は愛国的行動だと思っていたのを、動乱を起こし政府を転覆する目的の運動だと中傷されたことに怒ったのだ。これは、当然の要求だろう。その要求は趙紫陽総書記の意見でもあったから、なぜこれが過激な主張になるのだろう。もうひとつの要求は、政府との対話であった。政府の方針は、「社会の各階層と協議し対話する」だったから、それを要求したにすぎない。これがなぜ「政府を袋小路に追い込むことになるのだろう」。政府はこの要求を拒否し、学生運動を武力鎮圧したのだから、「過激なのは一体どちらだというのだ」。

その②は「衝突の責任は、双方にあるのではないか」これは喧嘩両成敗の見方だが、これは不公平というものだ。民主化運動を鎮圧した政府は、現在までその決定は正しかったと公言してきた。「しかし、共産党はあの“正しい政策決定”に触れることなく切り抜けてきた。自ら触れないだけでなく、他人が触れるのも許さない。当局の行いが正しいならば、なぜ避けるのだろう?自信のない者だけが避けるのである」。

当時、戒厳令に賛成した国家主席楊尚昆でさえ発砲の誤りを認めて、晩年、見舞いに来た友人の蒋彦永医師に次のように言っている。「6・4事件はわが党が犯した歴史上もっとも重大な誤りである。いまやわたしに糾す力はないけれど、将来、かならず糾されることであろう」(蒋彦永「六・四のために名を正すことを要求する上申書」)

その③は「発砲以外の方法で解決できなかったのだろうか」という疑問である。1976年の第一次天安門事件(死去した周恩来追悼を禁じた4人組の弾圧)でも、広場に集結している2万の大群衆を、あの「4人組」でさえ、軍隊を動員して発砲することなく排除している。

現在、われわれは、戒厳軍の主な目的は天安門広場の学生排除であり、実際に虐殺が起こったのは長安街であったことを知っている。多くの目撃者の証言によると、広場の学生排除作戦は人民大会堂から突撃してきた大部隊によって行われている。大量の将兵が北京郊外の西山から人民大会堂へ通じる地下道を通って集結待機していたのだ。

政府は、戒厳部隊は長安街を通過して、広場の学生を排除する作戦だったが、民衆と学生の抵抗に会い、やむなく発砲したと説明しているが、事実は長安街を制圧することなく、天安門広場を制圧できたのである。「発砲はやむをえざる措置では絶対になかった。明らかに、当局が意識的に行った選択であった」。(なぜ、その選択をしたかについて、王丹は説明していない。筆者は政府に刃向えば、痛い目にあうという教訓を与えるための無差別発砲だったと思う)

 

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天安広場で演説する王丹 1989年5月   Wikipedia

 

その④「民主化運動が成功していたら、中国はどうなっていただろう」。党内における趙紫陽の率いる改革派が、いっそう徹底した経済改革を進め、同時に政治改革を断行しただろう。とくに報道の自由の政策を推進したにちがいない。民主化運動の大きなスローガンの一つであった腐敗撲滅は、世論の力を強めなければ、腐敗現象を効果的に抑制できないことは明らかだ。「言論の自由が1989年に拡大し始めていれば、こんにちのような腐敗が中国のメカニズムを救い難いほど悪化させることはなかっただろう」。

社会安定の根本的な保証は、政府と社会とが対話のパイプを持ち、双方が協力して、平穏に改革を進めるプロセスを確保することである。「台湾の経験こそが、最良の手本である」。

「なぜ学生運動は失敗したのだろう」。王丹はその理由を次のように語っている。この運動は(胡耀邦の死で)あまりにも突然やってきた。まったく準備ができていなかった。当局は「計画的な陰謀である」と称したが、学生には計画がなく、組織がなく、事前工作がなく、とくにリーダーシップがなかった。

オックスフォード大学の講演会で、事件を振り返って、彼は二つの過ちを認めている。「第一に、学生運動を続けるうち、その純粋性を過度に重要視しすぎたことだ。断食を始めた5月11日以降、だんだんと大衆運動になっていったのに、我々はほかの人の助けを拒み、政府内の開明派とも協力しなかった。そうでなければもっとよかったはずだ。第二に、断食の時期はちょうどゴルバチョフ訪中直前で、我々は一両日中に政府が広場をかたづけに来ると思っていた。ところが誰も現れないうえに、その後、各地から天安門広場での断食に参加する学生が増えていき、制御できなくなってしまった」

彼は著作でさらに、学生は要求を表明するだけでいいのだが、大衆運動となると目標を達成しなければならない。その違いを学生は理解できず、「外部の期待をよいことに、民主化運動の戦術まで決定してしまっていた。政治闘争の技術としての妥協の重要性を理解していなかった」と言っている。

王丹の自省の言葉「妥協の重要性」には、ゴルバチョフ訪中前に天安門広場からハンスト学生が退去することに同意し、その交換条件に政府が対話の継続(4・26社説修正も含め)を認めていたら、流血の惨事を防ぎ、民主化への道が開けたかも知れない、という無念の思いが込められていると、筆者は思う。

趙紫陽の率いる改革派が勝っていたら、中国はどんな国になっていただろう。昨年6月、香港で趙紫陽が首相、総書記であった時代(1980-89)の演説や政策を収録した全集が刊行された。それを読んだ趙の伝記の著者でもあるディビッ・シャンボー教授(ジョージ・ワシントン大学政治学)は、改めて彼の改革者としてのヴィジョンに敬服したという。

経済改革と政治改革を同時に大胆に推し進める、趙紫陽の構想が軌道にのっていたら、中国は開放的な社会になったことはまちがいない。言論の自由への道が開かれ、政府批判を許容し、政府と党の分離を進め、民主国家へ歩みはじめただろう。中国の台湾化の第一歩になったかもしれない。しかし、中国はその機会を逃し、共産党独裁の強化による富国強兵の道をひた走ることを選んだ。(続く)


筆者はこの歴史探訪記を書くにあたって、以下の著作,ドキュメンタリー映画、記事のお世話になった。『天安門文書』張良編 アンドリュー・ネイサン/ペリー・リンク監修、山田耕介/高岡正展訳 2001、『中国人民共和国十講』王丹著 加藤啓事訳 2014、“The Gate of Heavenly Peace” (映画)Richard Gordon/Carma Hilton 製作 1995,”Tears of Rickshaw Driver “ Nicholas Kristof , New York Times 2014・5・17 , ”Assignment China: Tiananmen Square” (映画) US-China Institute USC 2014, “天安門広場の証人は語る” 日比野晃 日本自動車短期大学論 2002, “天安門事件20周年 元学生リーダーの王丹氏” 「日刊ベリタ」 2009・4・7,“事実に迫ることの難しさーノーベル平和賞劉暁波氏の証言”高井潔司 2010・11、

 


フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。