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フランスの田舎から世界を見ると

土野繁樹の歴史探訪

歴史探訪 その15 天安門事件1989 ①

 

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天安門広場の大抗議集会 1989年5月30日          Wikipedia

 

筆者がはじめて北京を訪れたのは1980年春だった。北京空港はがらんとしてほとんど乗降客はおらず、壁には社会主義リアリズムの労働者賛歌の巨大な絵画がかかっていた。街を行き来する人々はほとんど人民服で、庶民の交通手段は自転車だった。乗用車はあまり見かけず、閑散とした天安門広場を公用車「紅旗」が走っていたのを思い出す。滞在先は、中国現代史のわが師ジョン・ロドリックのAP支局兼マンションだったから、快適で楽しかった。

当時、『ブリタニカ国際年鑑』日本版編集長だった筆者の北京訪問の目的は、中国最高指導者、鄧小平の特別寄稿「近代化への確信」が載る80年版を中国大百科全書社の編集部に届けることだった。この記事は、ブリタニカ本社(シカゴ)のフランク・ギブニー(筆者のボスで敬愛する友人、ジャーナリズムの師匠、以下フランク)が、北京人民大会堂で鄧小平を90分インタビューし、それをまとめ鄧自身が手をいれたものだった。これは英日仏版のブリタニカ年鑑に掲載された。文化大革命の悪夢から抜け出し「4つの近代化」を推進する鄧小平による、外国刊行物への初寄稿だったので評判になった。

鄧小平はこの寄稿で「中国人は愚かではない。大きな課題は、彼ら創造力をいかに全面発揮させるかにある。中国はいま国際協力の精神にのっとり世界への門戸開放政策をとっている。孤立のなかで、近代化が達成された国はいまだない」と書き、人口10億の最貧国の生活向上と繁栄を目標とする壮大な青計画を語っている。

フランクの鄧小平会見がきっかけとなり、ブリタニカ中国版が刊行されることになり、TBSブリタニカ社長兼総編集長として、東京で日本語版『ブリタニカ国際大百科事典』28巻を刊行した彼は、中国語版の共同編集委員会長に就任した。打ち合わせのため北京から編集幹部5人がシカゴ本社を訪れ、そのあと東京に立ち寄った。

そのとき、筆者は彼らを一夕自宅に招いて歓待したことがある。総編集長の姜椿芳(のちに中国社会科学院長)をはじめ5人の知識人は全員、文化大革命の狂乱の犠牲者であった。米国留学をしてニューヨーク特派員だった編集長の劉尊棋は、“走資派”のレッテルを貼られ20年間の牢獄生活をし、毛沢東のロシア語通訳だった閻明復は、江青ににらまれ5年間独房で過ごしていた。その夜、最も自由奔放でユーモラスだった閻は、10年後の初夏、趙紫陽総書記の右腕として、天安門事件の悲劇を防ぐため懸命の努力をしたことを、筆者は今回の歴史探訪をするまで知らなかった。

北京滞在中の忘れがたい思い出は、東京で会った皆さんから景山公園の宮廷料理店「仿膳飯荘」の午餐に、妻と共に招待され愉快なひと時を過ごしたことだった。

 

天安門文書』

 

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最高指導者、鄧小平                Wikipedia

 

天安門事件が起こったとき、筆者はニューズウィーク日本版の編集長をしていた。それを報じる同誌(1989年6月15日号)のトップ記事の見出しは「天安門は血に染まったー民主化の叫びを武力弾圧した鄧小平に、歴史の審判はどう下るか」とある。

リードには、「学生たちの民主化運動要求が始まってから7週間、人民の軍隊はついに人民に銃口を向けた。2週間前に戒厳令を布告して以来、奇妙なほど静かだった政府が、武力弾圧に乗り出したのだ。戒厳令軍がバリケードを破って天安門広場に突入、軍の発砲によって数百とも数千ともいわれる死者がでた。この強硬措置によって、最高実力者は中国を混沌の淵にたたき込んだようだ」とある。

ジャーナリストは歴史のファースト・ドラフト(第一稿)の書き手だと言われるが、このリードは今読んでも悪くない。しかし、天安門広場で虐殺が起こったとあるが、これは正確ではない。あの夜の状況が大混乱していたので、BBCをはじめメディアはそう報じたが、事実ではない。戒厳令軍があたりかまわず発砲し、多くの学生と市民が死傷したのは、部隊が天安門広場へ向かう復興門街、西長安街であった。

今回の歴史探訪では、天安門事件の決定的瞬間に焦点を当て、悲劇にいたった経過を描いてみる。流血を回避できる機会がなんどもあった。しかし、保守派元老の文化大革命アナーキー再来への恐怖と学生の非妥協の態度が壁になり、それができなかった。最終的には、学生運動は動乱であるという鄧小平の“思いこみ”が歴史の流れを変えることになる。

後編では、6月4日の武力弾圧の現場にいたジャーナリストの回想で事件の核心にせまる。またあの悲劇から28年後のこんにち、政府の徹底的な言論統制によって事件が人々の記憶から抹殺され、40歳以下の中国人の大多数が天安門事件を知らない現実を紹介する。英国人ジャーナリスト、ルイサ・リム女史はこの現象を「記憶喪失症共和国」と呼ぶ。

まずは、『天安門文書』によって、事件の経過をたどってみよう。同書は、事件から12年後に改革派が保守派の血の弾圧の責任を問うために刊行したもので、その内容は学生の要求をめぐって、鋭く対立する最高指導者、鄧小平、趙紫陽総書記、李鵬首相などのトップの密室での発言が、そのまま書かれている前代未聞の本である。

党と軍の最高機密文書を入手して、それを英語版で刊行した筆者が誰であるかは、いまだに分からない。中国語版が刊行されると、北京は直ちにフィクションであると否定し禁書にしたが、この本は「確証はないが、限りなく本物に近い」とするオーヴィル・シェル教授や矢吹晋教授などの評価が、国際的にはほぼ定着している。

天安門文書』の訳者は筆者の友人、山田耕介だが、解説で「この本の価値は、事件の節目節目に密室でなされた政策決定過程の決定的瞬間が、鮮明な画像のように見事にとらえられている」と言っている。そのハイライトを紹介してみよう。

 

趙紫陽、判断を誤る

 

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人民英雄記念碑の前で胡耀邦の死を悼む学生            Rene Burri

 

1989年4月15日、改革推進派のリーダーで、国民的人気のあった胡耀邦(86年、学生運動への対応を誤ったという理由で、鄧小平から解任された前党総書記)の突然の死で、天安門事件のドラマの幕が開いた。学生にとって胡はリベラルな改革と清潔な政治の象徴であった。胡耀邦の死が報じられると、学生と民衆は天安門広場の人民英雄記念碑に花輪や生け花を手に集まってきた。

4月17日午後、北京の各大学から集まった学生と民衆3000人が、人民英雄記念碑の前で夜を明かした。18日早朝、数百人の学生が人民大会堂の玄関に座り込み、「自由と民主主義を」「報道の自由を実施せよ」など七項目の政治要求を全人代常務委に手渡した。

4月19日の日暮れには、2万人の学生と市民が広場に集まり胡耀邦を悼んだ。3000人の学生が中華門(党と政府の機関、指導者の邸宅がある中南海の玄関)に押しかけ「李鵬出てこい」と叫んだ。中華門包囲は党指導層の警戒を高めた。

とくに八老と呼ばれる元老グループは危機感を抱いた。彼らは毛沢東周恩来とともに新中国をつくった革命第一世代で、紅衛兵のターゲットとなり文革の悪夢を体験した人々だった。80歳を越えた彼らの影響力は大きく、いわば超法規的な最高裁的存在だった。その中の二人が最終決定権を持つ鄧小平(84歳)に電話をした。

4月20日

彭真(97歳)「北京がこのように混乱しては、われわれは“第二の文化大革命”を警戒しなくてはならない。ああいう学生たちのうしろには黒幕がいるにちがいないから,真相を究明したほうがよい」 

王震(81歳)「あの学生どもは謀反を起こしておりますぞ。われわれはただちに対策を講じるべきだ」

その朝、副首相の田紀雲は趙紫陽総書記に会いに行き、23日に予定されている北朝鮮訪問の日程を変更させようとした。田は趙が最も信頼する改革派の腹心の一人だった。
  
田紀雲「紫陽同志、北京とそのほかの都市の情勢はきわめて緊迫しています。北朝鮮訪問は延期できませんか」

趙紫陽「公式訪問を延期すれば外国人は わが国の政治情勢が不安定だと思うだろう。だから、わたしは日程にこだわりたい」

4月22日午前、人民大会堂での胡耀邦の追悼式典が終わり出口へむかう鄧小平に、趙紫陽は翌日北朝鮮に出発すると伝え、学生運動の解決のための三原則“学生を授業に返す、暴力行為は厳罰に処す、学生への働きかけは説得を柱とする”を報告した。

すると、鄧小平「結構だ」と言い了承した。別れ際に、趙紫陽は「わたしが留守の間、李鵬同志が党中央の職務を担当します。何かあれば、李鵬同志がご連絡することになっています」と言った。

その後で、趙紫陽李鵬首相に学生への対応について「あらゆる代償を払ってでも流血を避けなければならない」と言うと彼は同意した。23日朝、趙紫陽は首相などに見送られ北京駅から北朝鮮へ発った。

腹心の田紀雲の警告を聞かず、北朝鮮訪問を優先させた趙の判断は甘かった。彼は学生運動が拡大するとは考えていなかったのだ。それに、趙の改革路線に反対している李鵬が、彼の留守中に策謀をめぐらす危険を計算にいれていなかった。その後の展開を見ると、趙が北京を留守にしたことは致命的な誤りであったと思う。

 


「人民日報」動乱と非難

 

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趙紫陽北朝鮮へ出発したあと、学生運動は拡がり、北京だけでなく天津などにも波及した。しかし、国家安全部の党中央へのファックス報告によると「天津のデモは終始、整然としていた」とある。北京では21の大学の代表集会、一部大学の授業放棄、壁新聞でのプロテストがはじまっていたが、学生の抗議行動は平和的であった。

 

4月24日、対策を講じるため李鵬は政治局常務委員会を招集した。この最高決定機関の常任委員は、趙紫陽李鵬、喬石、胡啓立、姚依林と楊尚昆国家主席で八老代表)で、当日は4人の委員と治安担当責任者が出席していた。会議は強硬派がリードし「策謀者を暴きだし、党と社会主義に敵対する勢力と断固として戦う」「鄧小平に会い報告書を提出する」ことを決定した。

4月25日朝、李鵬ら政治局員が鄧小平の私邸を訪れた。以下は鄧邸でのやりとりである

李鵬「北京では新華門に二度攻撃がありました。長沙と西安では略奪と放火があり、武漢では学生が長江大橋の上でデモをして、北京と広州を結ぶ大動脈をふさぎました。これらの行為は社会の安定と団結を損ない、社会秩序を乱すものです、常務委員会のわれわれは、これは動乱である、すみやかに制止しなくてはならない、と考えます」

姚依林「学生運動の性格は変化した。はじまりは哀悼だったのが社会的動乱に転化した」

楊尚昆国家主席)「われわれは下心のある少数の者が、この運動につけ込んで動乱を引き起こすことを許すわけにはいかない。すみやかに暴き出さねばならない」

鄧小平「わたしは常務委員会の決定に完全に同意する。これは通常の学生運動ではない。ごく少数の者が学生を食いものにしている。その真の狙いは中国共産党社会主義を根底から否定することだ。われわれは旗幟鮮明にこの動乱に反対しなくてはならない」
 
李鵬「小平同志のただいまの発言を知らせるために、われわれはただちに『人民日報』社説を準備するべきではないか」


翌日26日の人民日報は「旗幟鮮明に動乱に反対しなくてはならない」という見出しの社説を掲載した。核心部分は、上記の鄧小平の見解をなぞったものだった。

李鵬学生運動の“暴走”を強調することで、鄧小平の危機感を煽り、政敵、趙紫陽を窮地に追いこむ作戦だったのではなかろうか。ニューヨーカー誌の特派員として、学生運動を取材していたオーヴィル・シェルは、天安門広場の雰囲気は平和的で政府転覆の気配などまったくなかったと言っているから、社説はあきらかに政府の過剰反応だった。


学生はこの社説に激しく反発した。彼らは自分たちの運動は愛国的行動だと思っていたのに「動乱」と決めつけられたので、27日に全国20の主要都市でデモが行われた。北京では5万人の学生デモが市内を行進した。よく統制がとれていたので、市民に好感をもたれた。

この社説は天安門事件のターニング・ポイントになる。学生は民主化要求とともに社説の修正と学生運動の愛国的性質を政府が認めることを要求し、それをめぐって党指導部は二つに割れ対立する。

李鵬は人民日報の社説で学生はおとなしくなると思っていたが、逆に火に油を注ぐことになったのだ。この学生運動への性急な判断ゆえに、学生だけでなく、市民の間にも不満が広がっていった。

 


改革派の反撃

 

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胡啓立          Wikipedia    田紀雲           Wikipedia

 

運動が始まって最大のデモがあった4月27日、イデオロギーと新聞担当の政治局員、胡啓立と党中央書記処書記、芮杏文は、新華社、人民日報などの新聞の編集トップを招集した。トップは学生運動に関する記事の検閲について不満を口にした。

 胡啓立「新聞の編集長は今度のようなことについて、報道の成否を判断する権利がある。一から十までいちいち許可を求める必要はない」

芮杏文「報道分野でやらなければならない改革が多い。ニュースの報道は真実を伝えなければならない。われわれは絶対に虚報をでっち上げてはならないし、的外れであってもいけない」

これは鄧小平と李鵬の強硬政策へ異議を唱える、改革派の巻き返しだった。

4月28日、李鵬は再び政治局常任委を主宰した。その会議では学生運動への対応をめぐ
って意見が対立した。改革派は学生の善良な意図と大衆の支持を強調し、保守派
は学生の反体制分子や外国勢力の結びつきを強調し、政治局は二極化した。その日は
田紀雲も出席している。


楊尚昆「わたしは、大勢の人が社説に“動乱”とか“深刻な政治闘争”という語を使ったのは行き過ぎだと思っているという報告を読んだ。ほとんどの学生の意図は立派なのだから、われわれの力点は彼らを押さえつけるのではなく、彼らの行動の啓発と指導に置くべきである」

喬石「学生のスローガンの多くは汚職の根絶、率直な政治の強化、教育の重視、法制の推進など党中央の政策と合致する。われわれはできるだけ早くさまざまなレベルで対話を始める必要がある」

田紀雲「大衆がこれほどまでに学生を支持する理由は、めりはりの効いた人心を引きつけるスローガンがあるからだ。中央自体が抱える問題こそ、これらの者たちに足がかりを与えているのだ。このところ「太子党」などの閨閥のうわさ話が大量に出回り、人々をがっかりさせている。党は落ちるところまで落ちてしまった。もしわれわれが党を整頓できなければ、腐敗を排除できず、動乱は日常化するだろう」


李鵬はこれまでの主張を繰り返したが、鄧小平の最も親しい八老のひとり楊尚昆(81歳)の発言もあって、常務委員会は対話路線へ軌道修正した。30日、この状況のなか、趙紫陽北朝鮮から帰国した。その日、北京は平穏だったが、市内の北京大学をはじめとする45校の全大学生の70%にあたる9万人が授業放棄を続けていた。

 

趙紫陽李鵬が正面衝突

 

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李鵬            Wikipedia   趙紫陽            Wikipedia

 

5月1日の政治局常務委で、趙紫陽李鵬が正面衝突した。その会議には楊尚昆と八老代表の出席権を行使して薄一波(81歳)が出席し「学生運動をこれ以上大きくしては絶対いかん!文革の悲劇を繰り返してはならん」と主張した。

趙紫陽「時代は変化し、人民の思想も変わった。民主主義は世界的潮流である。党がわが国で民主の旗を掲げなければ、他の者がやり、われわれは敗北するだろう」

李鵬「今回の学生運動の深刻さは前例のないものだ。彼らはデマをふりまき、小平同志など指導者を中傷し侮辱している。彼らの思い通りになったら、改革と開放などすべてが雲散霧消し、中国は大きく後退する」

5月4日 天安門に集結した数万人の学生の前で、学生自治連合会のリーダーが「5・4宣言」を発表した。その内容は次のようなものだった。現在の学生運動は70年前の偉大な愛国学生運動の継続と発展であり、政府と最終目標を同じくする、すなわち、中国の近代化である。政府と同様、学生は民主、科学、自由、人権、法制という5・4運動伝来の価値観のために戦う。宣言のあと学生リーダーは翌日の5日に「授業にもどる」「政府との交渉を継続する」との決定を読み上げた。しかし、運動の中心である北京大学の学生は投票でストライキ継続を決めたので、この決定は徹底しなかった。

その日、趙紫陽李鵬と二人だけで会い「動乱」の表現を和らげるよう説得を試みだが、首相は頑として譲らなかった。

趙紫陽「わたしが北朝鮮から戻ってきたとき『人民日報』の4月26日の社説に強い反発があったと聞いた。問題をこじらせて学生たちをいきり立たせたようだ。局面を反転させて、彼らをおとなしくさせる方法はありますか」

李鵬「ご存じのように、社説は4月24日の政治局会議、とくに小平同志の精神を反映したものです。核心のメッセージ変えることは不可能です」

趙紫陽「わたしの見解をお伝えしたい。第一に、学生のスローガンは、護憲、民主化促進、腐敗反対などで、これらの要求はすべて党と政府の立場と呼応したものだ。第二に。社会のあらゆる階層の人々が主要都市でデモに参加し学生を支持している。学生たちは社説で汚名を着せられたと思っている。それが彼らに火をつけた主因であつた。わたしは改めて語調を少し和らげるべきだと思う」

李鵬「いまや違法な学生が公然と政府に圧力をかけている。彼らは政府と対等者として交渉したがっている。鄧小平、陳雲(84歳)、李先念(80歳)のような高齢の同志は全員、ごく少数の者らがこの学生運動を背後から操っていると確信している。4・26社説は正しく、変更はできないというのが、わたしの見解だ」

李鵬は「わたしは同意できない。紫陽同志」と言い席を立った。

 

鄧小平邸の三者会談

 

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北京空港での歓迎式典 ゴルバチョフ楊尚昆             Wikipedia

 

5月6日午後、趙紫陽楊尚昆を訪問し、なぜ4月26日の論調を和らげる必要があるのか、自分の考えを鄧小平に伝えてくれと要請した。その2日前、趙はアジア開発銀行代表団への演説で「学生は愛国的である」と言い運動への理解を示した。それを評価した多くの学生が教室にもどっていた。

ここで、鄧小平と楊尚昆の関係について触れておこう。二人は四川省出身で、その親密な関係は1930年代までさかのぼる。鄧との特別な関係にある楊は政治局員と最高指導者との間の仲介役であった。楊はまた5人の政治局常務委員のなかで、趙紫陽にいちばん近かった。

13日午後、楊と趙は鄧の私邸を訪ね、会談した。趙が鄧に会うのは胡耀邦の追悼式以来だった。二人の学生運動についての見解の相違は埋まらなかった。話題は、まじかに迫ったソ連書記長ゴルバチョフの歴史的訪中に転じた。

鄧小平「(学生との)対話はよい。しかし、重要なのは問題を解決することだ。今回の運動は長すぎる。ほとんど一月だ。老同志はみんな心配している。わたしもだ。わたしは、
発展には安定が必要だと繰り返し言ってきた。事態が大混乱していてどうして発展ができよう」

楊尚昆「二日後にはゴルバチョフがやってくる。きょう、わたしが聞いたところでは、学生はハンストを発表するようだ」

鄧小平「天安門広場中華人民共和国の象徴だ。広場はゴルバチョフが来たときには、整然としておかねばならない。われわれは国際的名誉を維持しなくてはならぬ。広場が大混乱していたら、われわれは格好がつかないではないか?」

趙紫陽ゴルバチョフ歓迎には国家の名誉がかかっている。わたしは広範囲な学生がこの点に気づき、大局を見、歓迎式典を妨害しないと思う」

鄧小平「しかし、学生がのぼせあがって極端に走ったら、そんなことは考えまい」

この時点で鄧がどれほど趙を信頼していたかはわからない。北朝鮮から帰国して2週間も経っての会合は、かつての親密な関係からすると、不自然に見える。ともあれ、この会談で鄧が趙に言いたかったのは、“方法は問わないから、ゴルバチョフが来る前にこの混乱を収拾せよ”だった。

 

学生のハンスト宣言

 

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天安門広場の学生座り込み  中央は柴玲               Wikipedia

 

三者会談で、趙が学生は歓迎式典を妨害しないだろうと楽観論を述べた直後、学生がハンストを宣言し天安門広場で座り込みをはじめた。それを知った保守派は激怒し、改革派は憂慮した。緊急対策として、ゴルバチョフ歓迎式典を人民大会堂玄関から北京空港へ移すことを決めた。趙は学生を説得しストを止めさせるために、側近の国務相、閻明復(筆者の知人)を現場に派遣した。

以下は学生の「ハンスト宣言」(要約)である。

この陽光あふれる5月、われわれはハンストを始めた。青春の輝ける日々に、われわれは麗しい人生を捨てざるをえない!ためらい、思い惑いながらに。

国家は危機に瀕している。荒れ狂うインフレ、官僚ブローカーによる不正取引、権力の乱用、官僚の腐敗、善良な国民の海外逃避、法と秩序の悪化にさいなまれている。

われわれの純粋な愛国の熱情、比類ない忠誠は“動乱”と切り捨てられる。われわれは”下心“を持ち、”ひと握りの者に操られている“と非難されている。

民主主義は人類の崇高な願望である。自由は人類の神聖な生得の権利である。こんにち、ふたつの権利を贖うのにわれわれの命を必要としている。これは中国人民が誇れることであろうか?

われわれは死にたくない。生きたい。存分に生きたい。われわれは人生の盛りにあるからだ。

さようなら、同胞よ、われわれに残された唯一の方法で祖国に報いることを諒とせよ。願わくば、いのちで書きしるすこの誓いがわが共和国の空を晴れわたらさんことを。

この感動的な「断食の書」は多くの市民の間に共感と支持を呼び起こした。

午後8時、党中央統一戦線工作部長、閻明復は学生リーダーの王丹、ウーワルカイシ、柴玲に会った。学生を支援する劉暁波(大学教員、のちにノーベル平和賞受賞)にも会った。閻は学生との会談で「党中央は今回の運動の主流を承認している」と言い説得を始めた。

閻明復「情勢の進展は君たちが善意で始めた当初の域を超え、もはや君たちの手に余るものになった。ハンストは国家にも君たちの健康に何も生み出さない。君たちの要求や提案はわたしが責任をもってとりあつかう。君たちが道理をわきまえ。大局を視野に入れ、国家の尊厳と利益を支持することが肝要だ」

閻は会見の最後に「中国とソ連の指導者が首脳会談をやろうとしているときである。すべ
ての妨害をやめるべきだ。広場でハンスト中の学生に良識を説いてほしい」と言ったが、学生はその勧告を拒否した。会見のあと、閻は趙紫陽に報告した。

 

学生、広場退去を拒否

 

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閻明復           Wikipedia     王丹           Wikipedia

 

5月 14日、八老の重鎮、李先念、彭真は鄧小平に電話し、悪化する事態になにらかの手を
打つべきだとアドバイスした。もうひとりの元老,王震は鄧の私邸を訪ね「小平同志、この
学生運動をいますぐ取り締まらねば、党にも国家にも平和はなく、生首が転がるだろう」
と忠告した。

翌日15日朝、閻明復と8人の政府幹部が50人の学生代表と3時間の対話をした。しかし、学生は動乱のレッテルを撤回しなければ座り込みを続ける、と繰り返し主張した。しかし、政府側は「学生運動は動乱である」と規定したのは鄧小平だったから、それを呑むことはできず、成果なしで終わった。

正午、ソ連党書記長ゴルバチョフが北京空港に到着し、楊尚昆はすまなさそうに、天安門
広場に代え空港で歓迎式典を行った。面子を失った党指導層、とくに八老は激怒した。

16日、鄧小平が人民大会堂ゴルバチョフと会談し、待望の中ソ関係正常化が実現しつつあったとき、建物の外では数万人の市民が学生支持のデモをした。その日、市内のいたるところで、あらゆる階層の支持者が隊列を組み、ぞくぞくと広場へ流れこんできた。その数は30万人に達した。

午後6時、趙紫陽ゴルバチョフ会談に同席したあと、閻明復は直接広場に出かけふたたび学生にハンスト中止を訴えた。「未来は君たちのものだ。君たちの精神は国中を感動させ、民と党の心を勝ち取った。学生諸君に希望する。自分の生命を代償にしてはならない。病院に行き学校に戻ってほしい。わたしの言うことが信じられないなら、わたしが人質となって、いっしょに学校にもどることにしょう」と彼は涙声で訴えた。

学生リーダーの王丹とウーワルカイシが演説をし、3000人の「絶食団」の学生に閻の要請を受け入れるよう呼びかけた。しかし、ハンスト学生の指導者、柴玲は激怒し「ホンモノの革命には、血が流れなければならない」と主張し退去を拒否した。賛否が投票にかけられ、圧倒的多数の学生が退去を拒否した。政府内も保守派と改革派が対立し、学生内も妥協派と強硬派に分裂し、解決の糸口がないまま、翌日、鄧小平邸で会議が開かれる。

 

八老、戒厳令を決定

 

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左上から鄧小平、陳雲、楊尚昆、薄一波、彭真 李先念、 王震、鄧穎超  Wikipedia

 

5月17日朝、政治局常務委は鄧小平の私邸で会議を開いた。趙紫陽李鵬など5人の常任委員と元老の楊尚昆と薄一波が出席した。李鵬は学生を甘やかせたことが、無政府状態を招いたと、趙を名指しで批判し、それに姚依林も同調した。鄧は激しく趙を非難した。

鄧小平「紫陽同志、5月4日にアジア開発銀行でした君のあの演説が転換期だった。あのときから学生運動は着実に悪化していった。われわれの相手はじつは学生ではなく、下心のある者たちだ。彼らの二つの基本スローガンは“共産党打倒”と“社会主義の転覆”であり、その目標は西欧をモデルにしたブルジョワ共和国の建立である。この基本問題を理解しないと運動の本質を見誤ることになる。・・譲歩することは相手の価値観に譲るということである。・・わたしは長考熟慮のすえ、人民解放軍を投入して北京に戒厳令を発令する結論に達した。各位におかれては、これを十分検討されるよう希望する」

趙紫陽「小平同志、わたしはこの計画の遂行はできかねる。困難がある」

鄧小平「少数は多数に服従するのだ!」

午後8時、政治局常務委が中南海で再開された。鄧小平の戒厳令提案への投票が行われた。趙紫陽と胡啓立は反対、李鵬と姚依林は賛成、喬石は棄権した。それまでの喬石の発言からすると、本心は反対だったと思われるが、保身のためだったのだろうか、棄権した。反対が3票になっていたら、局面は変わったかもしれない。「少数は多数に服従せよ」と趙を一喝した鄧小平は、その結果にどう対応したのだろう。2対2となり結論が下せない常務委員会は、最終決定を鄧小平と元老にゆだねる決議をした。

その日、国家安全局報告によると、デモ参加者の総数は120万人を数えた。学生だけでなく国家公務員を含めるありとあらゆる階層の人々が、ハンスト学生への支持を表明してデモを行った。

当局のメディアは、イデオロギーを担当する胡啓立の認可をえて、タブーを破り学生運動を大々的に報道した。新華社中国新聞は次のように伝えた。「はじめて街頭に出た大勢の労働者声援隊が、いま注目を浴びている。(主要企業)数十社の労働者である。彼らが掲げた横断幕には、「学生と労働者とは根を同じくして生まれた。学生のハンストに胸が痛む」と書かれてあった。

「人民日報」の記者たちの横断幕には「4・26社説を書いたのはわれわれではない!」とあった。「人、八十をすぎれば愚鈍になる」「小平、あなたは老いた」と八老と鄧小平批判の幕もあった。同日、27の省でデモが繰り広げられ、貴陽と瀋陽では10万、ハルビン市では6万人の大規模デモが行われた。

5月18日朝、李鵬、閻明復などが人民大会堂で、王丹、ウーアルカイシなどの学生リーダーと会見した。李鵬が、この会見の目的はハンストをおわらせる方法に限られると言った。すると、王丹が学生運動を愛国的とする、学生と党指導者の対話を生放送する、この二つの条件が受け入れられるなら退去を説得する、と言った。思いつめた学生の立場を歯牙にもかけず、李鵬は高飛車であったため会議は決裂した。王丹によると、李鵬はその会見の始めと終わりに「諸君が動乱を起こしたなどと、言った覚えはない」と言ったというから、ひどい男だ。

その日、鄧小平など八老と政治局常務委員4人が戒厳令を発令する決定を下した。趙紫陽は体調不良で欠席していた。5月21日深夜、北京を戒厳令下に置くことが決められた。鄧は北京の解放軍部隊の人数を、楊尚昆に尋ねた。楊は18万と答えた。鄧の名で部隊配置命令が下された。

 

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趙紫陽,最後の訴え                        Wikipedia

 

その夜、趙は政治局常務委に出席。これが最後の会議となる。彼はもはや委員会の主役ではなかった。その会議のあと19日の早朝4時、趙は天安門広場を訪れ学生に涙ながらにハンストの中止を訴え「われわれは来るのが遅すぎた」と言った。趙のもとにサインを求める学生が殺到した。

その日の朝、鄧小平は自邸で楊尚昆に「趙が天安門に行って、しゃべったのを知っているか?涙を流し、不満顔をしよって、党の原則をあざ笑った。だらしがない」と語った。

5月21日、趙紫陽は解任された。(続く)


筆者はこの歴史探訪記を書くにあたって、以下の著作,ドキュメンタリー映画、年鑑、レポートのお世話になった。『天安門文書』張良編 アンドリュー・ネイサン/ペリー・リンク監訳、山田耕介/高岡正展 訳、『中国人民共和国十講』王丹著 加藤啓事 訳、”The People’s Republic of Amnesia: Tiananmen Revisited” Louisa Lim 2014, “The Gate of Heavenly Peace” Richard Gorden/Carma Hilton 製作 ドキュメンタリ―映画 1995, 『ブリタニカ国際年鑑』1989年版, ”China’s Spring “ Orville Schell New York Review of Books 1989.6.29,

 

 

フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。