フランスの田舎から世界を見ると

土野繁樹の歴史探訪

歴史探訪 その14 ニクソンと毛沢東 1972

 

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NIXONMAO  Nothing New Since Nixon Met Mao        Transmition6-10

 

1969年1月、ホワイトハウスの主になって1週間後、リチャード・ニクソン大統領はヘンリー・キッシンジャー安全保障担当補佐官を執務室に呼び、以前から構想していた対中和解政策を説明し、中国訪問の可能性を探るように指示した。執務室からでて来たキッシンジャーは、大統領主席補佐官ハリー・ハルデマンに「これは無理だね」と言っているから、当初は関心がなかったようだ。泥沼化したベトナム戦争の終結と米ソ核軍縮が、ニクソン新政権の最大の課題だったので、キッシンジャーの反応は不思議ではない。

筆者は米国留学時代に、世界を股にした神出鬼没の外交を展開したキッシンジャーに会ったことがある。メイン州コルビー大学で、当時、ハーバード大学の気鋭の政治学者だった彼の講演「べトナム和平」を聞き、内容は忘れてしまったが、リアリストで発想が柔軟だという印象を受けた。べトナム戦争は当時の学生の最大の関心だったので、ホールは満員だった。講演のあと彼は、厳寒のメイン州からボストンまで、3時間かけて自分で車を運転して帰って行ったことを覚えている。

それから半年後、ニューヨークのロックフェラー・センターにある読売新聞支局で見習いをしていた筆者は、ビルの玄関でキッシンジャーにばったり出会った。自己紹介して「大学でのあの講演、面白く勉強になりました」と言うと「ありがとう、これから、このビルにあるAP通信にいくところだよ」と気さくな人だった。1年半後に、彼がホワイトハウス入りしたことを知りびっくりした。

ニクソンは権力を濫用しウォーターゲート事件を起こし、大統領辞任という大汚点を残したが、米中和解という歴史的な仕事をした大統領として記憶されるべきだろう。大統領に選出される1年前、彼は外交評論誌フォーレン・アフェアーズに“べトナム後のアジア”(1967年11月号)を寄稿した。これを一読すると、ニクソンの外交戦略は長期的で雄大だったことが分かる。中国が文化大革命で大荒れしている時点で、彼はアジアの安定と繁栄のためには、毛沢東の共産中国を国際社会の一員として受け入れるべきだと主張しているから、啓蒙的反共主義者であった。

ニクソンは、毛沢東思想に支配され鎖国している核保有国は、このままでは周辺諸国にとって脅威となる、だから米中接近によって、鎖国に風穴を開け国際社会へ引きずりこむ、それが太平洋国家であるアメリカの国益を守ることになる、と考えたのだ。べトナム戦争で米国の世論は分裂し、未曾有の社会的混乱が起きている最中に、このようなビジョンを掲げたのだから大戦略家である。そして、この論文の巻頭に、欧州のリーダーには、キップリングの言葉“東は東、西は西、しかして、両者は永遠に相まみえることなし”(アジア人は西洋人とは基本的に違う)を信じているむきもあるが、これは「アジアへの人種的、文化的偏見を示しているーアメリカの理想とは相いれない」と書いているから、その視野は広い。

北京からの手紙

 

 

キッシンジャーは大統領が米中接近に本気であることを知ると、訪中プロジェクトに全力を傾注した。二人はこの秘密計画が漏れ、台湾ロビーなどに潰されることを恐れて、副大統領、国務長官国務省ペンタゴン、同盟国には一切相談しなかった。キッシンジャーと補佐官ウインストン・ロードなど5人のスタッフは、あらゆる角度から、米中和解がもたらす影響を研究した。その報告を読んだニクソンは、訪中する意思あり、とのメセッージを北京へ送る決定をした。しかしその頃、中国は文化大革命の大混乱の渦中にあり、北京がそれに応じるまでには長い時間を待たねばならなかった。

当時はベトナム戦争が進行中で、米国は大軍を派遣して南ベトナム政府を支持し、中国は北べトナムを支援する敵対関係にあったので、通常の外交ルートは使えない。ホワイトハウスは第三国の首都ワルシャワ、パリなどで中国外交官との接触をはかった。しかし、最終的に仲介の役割を果たしたのは、米中両国と友好関係にあるパキスタンであった。この仲介ルートが米中雪解けに果たした役割は大きい。

70年10月、パキスタン大統領ヤヒヤ・ハーンがホワイトハウスを表敬訪問したとき、ニクソンは彼に米中関係を修復したい、との伝言を託した。翌月、北京を国賓として訪れたハーンはそのメセッージを周恩来へ伝えた。すると、周は「元首を仲介にして、元首から私に提案が届いた」とハーンに感謝し、台湾からの米軍撤退を議題にするなら、特使を受け入れてもいいとの書簡をニクソンへ送った。それを受け12月初旬、ニクソンは台湾問題をふくめて両国間の関係改善のための全般的な話合いをしたい、と回答した。だが、それを受け取った周は沈黙したままだった。

71年4月上旬、ニクソンキッシンジャーは、北京の米国チーム招待のニュースにおどろき喜んだ。これは、彼らが秘密ルートを使って送っていた米中和解提案への中国側からの肯定的メセッージであった。

北京で米中ピンポン友好試合が行なわれた後、毛沢東の指示で政治局常務委員会が開かれた。周はニクソンからの書簡の内容を紹介し、次のように中米接近の意義を説いた。今、米国のパワーは衰えつつあり、彼らはベトナムからの撤退を望んでいる、この状況で、敵国である米国との関係改善は、台湾の平和的統一やソ連を牽制する有効な手段となる。毛と政治局員の賛同を得た周はキッシンジャーへ正式の招待状をだした。

ピンポン外交から3週間後の71年4月27日、ホワイトハウスは待望の周恩来の返信を受けとった。それには、大統領あるいは特使の訪中を歓迎するとあった。ニクソンは、自身の訪中準備のために、キッシンジャー特使を派遣する、北京での会合は極秘扱いにしてほしいと書簡を送った。

6月2日、パキスタン大使の震える手から周の招待書簡を受け取ったキッシンジャーは、ニクソンのもとへ駆けつけた。ニカラグアの独裁者を国賓に迎えた晩餐会を終え、居間で寛いでいるニクソンにそれを渡した。書簡を読み終わったニクソンに彼は「これは第二次世界大戦後、米国大統領が受け取った最も重要な書簡です」と言った(後に、彼は19世紀の南北戦争まで、さかのぼっている!)。その夜、二人は深夜まで訪中について語り、ニクソンは最上級のブランデーで「未来の世代が平和に暮らすための、われわれの努力に乾杯」と言った。

キッシンジャーの忍者外交

 

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キッシンジャー周恩来 1971年7月   NLNP-WHPO-MPF

 

7月8日、キッシンジャーは、アジア歴訪国のひとつパキスタンの首都イスラマバード郊外の空港に到着した。同行した記者団に彼の側近は、キッシンジャーは腹具合が悪いので、パキスタン大統領の山荘で静養すると言った。しかし、これは忍者外交(暗号名、マルコポーロ作戦)のためのカモフラージュであった。深夜3時30分、黒メガネをかけたキッシンジャーは、パキスタン外相の自家用車に乗り空港へ向かった。空港には、エンジンをかけた飛行機のタラップに、人民服の中国人高官4人と毛沢東の通訳、ニューヨーク生まれの唐聞生が、キッシンジャーと2人の側近をタラップで待ち受けていた。2人のシークレット・サービスの護衛はなにが起こっているのか分からず、思わずピストルに手をかけた。

母親を見送りに空港にいた英国人記者が、騒然とした空気に気付き警官に尋ねると「キッシンジャーが中国へ行くんだ」と答えた。記者は大ニュースだと思いロンドンへ記事を送ったが、デスクは酔っぱらいの冗談と思いボツにした。これで、世紀の秘密外交は救われた。

飛行機はヒンドゥクシュ山脈を越えて北京へ到着した。北京に48時間滞在したキッシンジャー周恩来と17時間の話し合いをし、ニクソン訪中のお膳立てをした。キッシンジャーは、哲学から歴史まで話題が豊富で、ユーモアのセンスのある周恩来に魅せられ、彼はフランスのドゴールに並ぶ歴史的人物であると言っている。

ニクソンはなぜ米中和解政策を推進したのか。毛沢東はなぜそれに応じたのか。この問いへの答えは、当時の両国が直面していた冷戦下の国際情勢にある。

中国側の事情から説明する。毛の最大の関心はソ連の脅威であった。69年3月、中ソ国境線にある珍宝島ダマンスキー島)での軍事衝突で事態は緊迫し、8月になると、ソ連が中国に“外科手術”(核攻撃)をするとの噂が、東欧から北京にもたらされた。林彪は中ソ国境地帯に100万の軍を投入し、都市住民の疎開や核シェルターの建設がはじまり、中国は戦時体制に入った。国防費は前年比34%増となった。

9月、戦争回避のための会談が北京空港で周恩来ソ連首相コスイギンの間で行われ、平和的に解決することで合意した。しかし、毛沢東は、ソ連真珠湾型の奇襲攻撃をするに違いない、コスイギンは往時の日米交渉の野村駐米大使のように、時間稼ぎをしていると疑っていた。ソ連交渉団が北京を去る10月22日に奇襲があるだろう、と疑っていたがなにも起こらなかった。しかし、国境線での緊張は続く。

もう一つの毛の懸念は後継者に指名した林彪の台頭だった。紅衛兵運動で生じた大混乱を鎮め秩序を回復するために、人民解放軍の介入を許した結果、軍のパワーが巨大になり、林彪による軍事独裁政権のようになった。軍が党を支配するのは許されないー毛は自分の地位を脅かす林の粛清を決意した。

毛の戦略は、米国と和解することでソ連の脅威を無効にできれば、解放軍の役割を縮小できる、というものだった。毛は主治医の李志綏に、対米接近は「われわれの祖先が使った『遠交近攻』の策だよ」と言っているが、それで林彪も潰す作戦だから一石二鳥を狙ったものだった。

ニクソンにとってのチャイナ・ゲームは、中国接近によって、共産圏の二大大国を完全に分断し、世界のバランス・オフ・パワー(力の均衡)を変えることだった。チャイナ・カードはソ連牽制の最も効果的な手だった。もう一つは、ベトナムの友好国、中国の仲介によってべトナム戦争の泥沼から脱するという作戦だった。(米国は中国のべトナムへの影響力を過大評価していたので、その思惑ははずれた)米中和解は、一言でいうイデオロギーを超えて両国の戦略的利益が一致したから実現したということになる。

毛沢東暗殺計画

 

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毛沢東主席と林彪副主席のポスター    Chinese Poster. . net

 

7月15日、ニクソン大統領はテレビとラジオの生中継で「来年、中華人民共和国の招待を受け訪中する」と声明を読み、全米と世界をアッと言わせた。西欧の反応は好意的だったが、直前(3分説から2時間説まであり)まで知らなかった日本政府は裏切られたと思った。メディアはニクソン・ショックと言った。台湾人は激怒し将来を憂え、ソ連指導部は大混乱に陥った。

キッシンジャーが北京を秘密訪問したあと、毛沢東林彪を徐々に追い詰めていく。その夏、毛は南方7省を巡り軍と文官幹部に向かって行った13回の演説で、激しく林彪を批判した。林彪は毛に何度も面会を求めたが、彼は会おうとはしなかった。

中国政府の公式発表によると、林の息子、空軍作戦部副部長の林立果は父の地位が脅かされていると思い、同志の将校とともに毛沢東の特別列車を爆破して暗殺する計画をたてたという。林立果は「過去十数年の歴史を振り返るとき、毛がはじめは支持して、最後に政治的死の宣告を下さなかった人がいるだろうか。彼は誇大妄想でサディストだ」と暗殺の動機を記している。

しかし、林立果と同志は毛暗殺を実行するチャンスを失い、立果は両親の林彪、葉群と、山海関からトライデント機でソ連への脱出をはかるが、燃料不足でモンゴルに墜落し死亡した、と10か月後に中国政府は発表している。毛はまったく暗殺計画を知らなかった林彪派の4人の元帥を逮捕し、一挙に解放軍を掌握した。しかし、李志綏によると、事件のあと毛は「すっかり落ち込んだ。一日中ベッドで横になり、ほとんど口もきかず、何もしようとしなかった」という。林彪事件は毛にとって深刻な政治的挫折だった。そして、事件の全貌はいまだに明らかになっていない。 

歴史を変えた60分

 

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毛沢東ニクソン             NLNP-WHPO-MPF

 

1972年2月21日、ニクソン大統領が北京に到着する。主治医の李志綏によると、その日、毛沢東はかつてないほど興奮していた。世話係が彼のひげをそり5か月ぶりに散髪し、髪にヘアトニックをすりこんだ。ニクソンの搭乗機が到着すると、できるだけ早く会いたいと、飛行場に出迎えた周恩来をせかした。

周主催の午餐のあと、ニクソンキッシンジャー、ロードの3人が中南海の主席の邸宅を訪れた。書斎で二人は握手して会談がはじまった。やりとりは友好的で冗談も飛び出した。毛の言葉は聞きとりにくく、米国人は脳卒中の後遺症ではないかと思った。会談の途中、毛はニクソンの手を1分も握りしめたが、大統領は日記に「最も感動的な瞬間だった」と書いている。

ニクソンは会談の冒頭に「大変な読書量ですね」と言い、毛のエッセイや詩を称えた。すると毛は「自分の書いたものなどたいした影響はありません」と応じた。それに、大統領が「主席の本は中国と世界を動かしたではありませんか」と言うと、毛は「北京の界隈を変えただけですよ」「あなたの著作『六つの危機』は悪くない」と言った。

ニクソンは二国間関係に話をもっていこうとすると、毛はそれは周に任す、哲学的問題について大統領と意見交換をしたいと言った。ドアの後ろで、二人の会話を聞いていた李は「中国の新聞は米国を批判し続け、同様にアメリカの新聞も対中批判を続けるだろう。両国民が仲良くなるには時間がかかる」との毛の言葉が印象に残ったと書いている。

会談が1時間を越えると、毛の体調を気にする周が時計を見た。ニクソンは再び、二国間関係に話を戻した。「中国も米国も世界を支配する計画はない、そうならば、お互いの共通点を土台に、共存して発展する世界構造をつくろうではないか」と言った。すると、毛は、「中国は日本や韓国を脅かすことはない」とだけ言った。ニクソンは別れる前にローマの詩人ホラティウスの言葉を引き「今日を掴めですね」(人生は短い、チャンスを逃すな)と言うと、毛は微笑を浮かべその言葉を繰り返した。

ニクソンが去ると、毛はガウンに着替え、李に「中国との関係改善は、米国にとって国益になると率直に語る」ニクソンをほめた。毛は2年後に英国首相ヒースに「ニクソンには原則があり、目標がはっきりしている」と高く評価した。一方で、キッシンジャーは「単なる面白い小男だ。私の前ではいつもナーバスだね。」と点が辛い。しかし、キッシンジャーも負けてはいない。毛の死後、ヒストリー・チャネルで「毛は冷血漢でマキャベリアンだった」と逆襲している。

歴史的会談に同席したウィンストン・ロード(のちに中国大使)は、毛の発言があいまいだと思って失望したが、あとで会見録を読んでみると、ソ連、台湾、べトナムなどの重要懸案について一、二行ですべて答えていることに気付き、感銘を受けたと回想している。

 

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毛沢東の書斎での会談                  Ollie Artkins Collection

 

二クソン・周恩来会談

 

毛・ニクソン会談の翌日の午後、ニクソン・周会談がはじまった。米中両国の最大の関心であるソ連、台湾、日本について、どんなやり取りがあったのか。以下は、オックスフォード大学の歴史家、マーガレット・マクミランの秀作“Seize the Hour : When Nixon met Mao” Margaret MacMillan (2006)(『今日を掴め;ニクソンが毛に会ったとき』マーガレット・マクミラン著)とNSA(米国国家安全保障局)アーカイブの公開情報による。

周はニクソンに、「ソ連は言葉だけの社会主義国で、実際は帝国主義のトラブルメーカーだ、69年には中ソは戦争寸前までいった。信用ならない国だ」と言った。するとニクソンは「米国は中ソ戦争を望まないが、中国を支持する用意はある、しかし米国はソ連との関係を改善したいと思っている、現に米国はソ連との核削減交渉をしているが、若干の進展がある」と語った。

続けてニクソンキッシンジャーは、長時間かけて、米国はソ連と共謀して中国を害するつもりはまったくない、と力説した。「その証拠に、ソ連の軍事情報と核交渉に関する秘密文書を渡してもよい」と約束した。軍事衛星で撮った写真をみた葉剣英元帥は英語で「ロケット情報ですか!」と喜び、その走行距離や核弾頭などの詳細を尋ねた。キッシンジャーはそれ以降、数年間にわたってソ連に関する軍事トップシークレットを惜しげもなく提供した。ペンタゴンはその事実を知らなかった。ソ連軍事情報の提供は、ニクソンキッシンジャーが目指す「三角外交」の決め手となった。

キッシンジャーの日本論

首脳会談で、周は繰り返し日本の台頭への懸念を表明し。次のように言った。「中国は過去において日本が中国にもたらした災禍を忘れることはできない。日本の経済は世界のマーケットを席巻しているが、いずれは軍事大国になるだろう。日本の意図を知りたい」

ニクソンは何度も日本を訪れ好意を持っていた。しかし、奇跡の経済成長を遂げた日本への称賛と不安という複雑な感情を抱いていたようだ。その不安は、日本が独自路線を突っ走り、第二次大戦の歴史を繰り返すことであった。ニクソンはそれを防ぐためには、日米同盟を堅持するのが最善策だと考えていた。

一方、キッシンジャーは日本文化への敬意は抱いていたが、周との会談で荒っぽい日本論を展開しているー「日本人は突然、爆発的に変わる。彼らは封建制から天皇崇拝へ数年で移行し、天皇崇拝からデモクラシーに3か月で変身した」「中国は伝統的に世界的視野を持ち、日本は部族的な視野しかない」。

筆者はキッシンジャーの部族的視野発言はどぎついが、一面の真実はあると思う。しかし、狂信の文化大革命が進行中の国で、その世界的視野をほめるのはおもねりだろう。

もう一つ興味ある点は、ニクソンが日本の核武装の可能性を示唆して、中国を揺さぶったことだ。ニューヨーク・タイムズ紙の腕利き記者シーモア・ハーシュによると、ニクソンは次のような発言をしたというーもし中国の言うように日米同盟を破棄すると、日本の核武装を止めることはできない、これは米中の国益にはならない。この発言は日米同盟を守るための発言であると同時に、日本の核武装への懸念を表明するものでもあった。

台湾問題は米中和解の最大の障害であった。中国側は「一つの中国」「台湾は中国の一部」という原則を米国が認めなければ、米中共同声明をだすための交渉はできない、という立場だったから、ニクソンキッシンジャーもそれを呑んだ。いや、正確には、二人はじめから蒋介石の台湾を見捨てる決定をしていた。

米中首脳会談で、周から台湾独立運動への懸念が表明されたとき、キッシンジャーは「米国政府が独立運動を支持することは決してない」と断言し、ニクソンは「今日、この場所でそれを約束する」と明言した。リアル・ポリティクスは非情である。

上海コミュ二ケの舞台裏

 

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上海の晩餐会               NLNP-WHPO-MPF

 

ニクソン・周の首脳会談が5回行われ、両者は米中共同宣言に合意し毛もそれに同意した。しかし、ニクソンキッシンジャーは、事前にそれをウィリアム・ロジャーズ国務長官に見せていなかった。北京から杭州へ向かう飛行機のなかで、ニクソンは彼に最終文書を渡した。それを読んだロジャーズは国務次官補マーシャル・グリーンに意見を求めると「長官、重大な問題があります」という。米国の日本と韓国との防衛条約には触れているが、台湾との間のそれはないという指摘だった。

グリーンの懸念には理由があった。1950年、あるスピーチでディーン・アチソン国務長官が米国の防衛ラインを定義したとき、韓国が入っていなかった。これを知った金日成北朝鮮スターリンは、米国の介入はないと思い韓国を侵略したという悪しき前例があったからだ。

このままでは、北京による台湾の軍事併合に道を開く可能性がある、とグリーンが指摘すると、ロジャーズ国務長官は「君の言うとおりだ」と同意した。

国務省のチームが滞在している宿舎に、周恩来の通訳、章含之が打ち合わせで訪れると、台湾に関する問題点について大激論が交わされていた。彼女は、米国人外交官が「このままでは受け入れられない」と大声で言うのを聞いた、と後に語っている。

ニクソンの指示に従い、キッシンジャーは実質上の交渉相手、喬冠華外務次官に共同声明の文言修正を提案した。しかし、喬はすでに毛の合意を得ているので変更できない、中国は共同声明なしでもいいと強硬だった。しかし、それがなくては訪中は失敗になる。キッシンジャーはその不手際を謝罪し、二人は深夜の交渉をした。

その結果、米国の日本と韓国への防衛義務の文言を削り、日本に関しては「米国は日本との友好関係に最高の価値を置き、現在の緊密な絆を発展させる」に変更することで同意した。韓国についても同様な文言を入れた。土壇場でのこのエピソードは国務省を蚊帳の外においた「秘密外交」へのツケでもあった。

筆者は今回の歴史探訪記を書くために、何本かのニクソン訪中のドキュメンタリーを見たが、昔、東京で付き合ったことのある友人が、証言をしているのに出会い愉快だった。その一人が国務省のキャリア外交官で、ニクソン訪中に同行していた中国通のニコラス・プラットだった。

ロジャーズに随行した彼は、次のようなエピソードを披露している。宿舎のドアをノックする音が聞こえたので彼が開けると、周恩来と通訳の章含之が立っていた。突然の来訪におどろいたプラットは「ご用件はなんでしょう」と言うと、周は「国務長官にお目にかかりたい」という。ロジャーズはすぐ出てきて二人は会談した。その席で周は国務長官に、閣下のこれまでのご尽力に感謝する、今回はあまり意見を交換する時間がなかったのは残念です、今回の共同声明を土台にして、両国が協力して新時代を切り拓こう、と言ったという。

周恩来はなぜ突然の訪問したのか。その理由は、彼が通訳の章含之から共同声明について国務省が不満を持っていることを聞き、ロジャーズに直接会って、米中和解への中国側の熱意を伝える必要があると思ったのではなかろうか。もう一つの理由は、ロジャーズは共和党右派であったから、彼がこの共同声明への不満を公に表明すると致命的な打撃になる、これは食い止めねばならない、と考えたのだろう。周との会談を終えた国務長官は上機嫌で、長年の友人ニクソンの外交の大成果である上海コミュニケを支持した。

衛星中継のインパク

 

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ニクソン夫妻、万里の長城訪問       NLNP-WHPO-MPF

 

20世紀最大の外交ドラマであるニクソン訪中は、米国メディアにとってアポロ計画でアームストロング船長が月面着陸するほどのニュースであったから、TV、新聞、通信社はスター記者を派遣して、連日大々的に報道した。

約100人の同行記者とカメラマンは、二機の航空機に分乗して太平洋を飛んだ。ジャーナリストが、ニーハオ1号、2号と呼んだ機内は混んでいたが、彼らの気分は高揚しお祭り気分が漂っていた。その中には、CBSニュースのアンカー、ウォルター・クランカイト、ABCのバーバラ・ウォルターズなどの人気TVジャーナリスト、ニューヨーク・タイムズ紙のマックス・フランケルワシントン・ポストのスタンレー・カーナウなどの活字メディアのベテラン国際報道記者がいた。

前年の7月、ニクソンが訪中を発表すると、ニューヨーク・タイムズの辣腕記者、ジェームス・レストンは北京に飛び、周恩来にインタビューした。レストンがその会見で、筋金入りの反共主義者で知られるニクソンを中国はなぜ受け入れるのか、と質問したのに激怒した大統領は、ニューヨーク・タイムズの同行記者フランケルをリストから外せと、側近に指示している。

べトナム戦争に批判的な報道で知られるワシントン・ポストのカーナウも、ニクソンに嫌われリストから削られていた。しかし、米国を代表する二つの新聞を外すわけにはいかない、との側近の説得で、大統領はしぶしぶその指示を取り消した。

なにせ、世界が注目する大ニュースだから、同行記者のリストに入るための競争は熾烈だったようだ。筆者が面識のあるキッシンジャーのスタッフだったリチャード・ソロモンは「ある若い女性記者は『リストに入るには、誰と寝ればいいのかしら』と冗談を飛ばしていた」と言っているから、中国フィーバーは相当なものだった。

大多数の記者は中国についてなにも知らず「まるで月の裏側」に行くように興奮していたと、3人の女性記者のひとり、ウォルターズは言っている。同行記者のなかには、ごく少数だが、新中国誕生前から、この国に長期滞在してベストセラー“Thunder Out of China”(中国の雷鳴)”(1946)を書きドキュメンタリー番組“China : Roots of Madness(中国、狂気のルーツ)(1967)を編集したセオドア・ホワイトのような記者もいた。「中国、狂気のルーツ」は昔、筆者が勤めていたブリタニカ日本支社が販売していた作品で、半世紀ぶりに見たが、珍しいフィルムを多用した秀作である。

AP通信のナンバー・ワン中国通のわが師ジョン・ロドリックは、ワンマン新社長の「君はもう行ったからね」の一言でリストから外された。ジョンはその著作『中国史の目撃者』で、この歴史的瞬間を取材できなかった無念を「この痛みはいつまでも消えなかった」と記している。

 

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ニクソンと同行米国記者団の記念写真   US-China Institute USC

 

72年2月21日、大統領専用機エアフォース・ワンが北京空港に到着した。タラップから降りてくるニクソン夫妻の姿、出迎えた周恩来首相が大統領と握手する歴史的瞬間を、米国の三大ネットワークは衛星中継・生放送で伝えた。しかし、空港での歓迎はきわめて簡素なものであった。出迎えは少数の中国人高官だけで、慣例の儀仗兵閲兵も国歌演奏もなく、ある記者は、ニクソン訪中はうまくいくのだろうか、と心配したと後に語っている。

北京に到着した日、ニクソン中南海で、毛沢東と1時間の会談をしたことは前述したが、記者団は事前にその会談のことを知らされず、内容も発表されなかったことに失望し、ホワイトハウスのプレス担当者に抗議している。1週間の大統領滞在中に、ニクソン周恩来会談は連日行われたが、その記者発表の内容は具体的なやりとりの説明はなく、記者団はそうとう不満だったようだ。しかし、交渉内容が微妙なだけに、ホワイトハウスはそうするしかなかった。記者団は、上海コミュニケ(米中共同声明)が発表されるまで、藪のなかであった。

米国人記者には、中国人の付き添い兼監視役がついていた。彼らは自由に取材することは許されず、中国外務省が作った定食メニュー(学校、病院、人民公社など)から選択するしかなかった。それでも、CBSのドン・ラザー記者は監視役を巻いて、ホテル近くの商店に入ったが、すぐ見つかり退去させられている。ABCのテッド・コペル記者は中国人通訳に「中国の冗談をひとつ教えてください」と尋ねると、彼は「ありません」と答えたと言うから、中国は笑うに笑えない言論統制下にあった。コペルは米国留学経験のある北京大学の副学長をインタビューしたとき、彼が「毛沢東思想のおかげで」と繰り返すのに唖然としたとも語っている。

ホワイトハウスのメディア戦略は、TVの衛星生放送を最重要していた。ニクソンが北京に到着した日の晩餐会で大統領と周恩首相がマオタイで乾杯するシーンを、米国東海岸の市民は朝食を食べながら見ていた。ニクソン万里の長城、明の十三陵、紫禁城を訪れる絵になる光景も衛星放送で伝えられ、米国市民は中国文明の遺産に息を呑んだ。なかでも、万里の長城を背景にして、ニクソンが語った感想「この長城は実に偉大である。この偉大な壁をつくった中国人は偉大な民族だ」は、中国国民の耳に心地よく響き、米国民は和解のメッセージだと思ったことだろう。

ホワイトハウスはTV中継を、ニクソン外交を宣伝するために最大限利用したわけだが、これはその年の大統領選挙のキャンペーンでもあった。ホワイトハウスはTV報道には最大限の便宜をはかり(例えば、ニクソン万里の長城訪問のベスト・アングルを写すカメラの位置設定に協力)、片や、活字メディアはないがしろにされていたので、新聞記者の不満は大きかった。それでも、ニューヨーク・タイムズフランケル記者は8日間、まともに寝る時間もなく、毎日3本の記事を書いている。彼がその間に書いた3万5000語(日本語で10万字)のレポートは、その年のピューリッツア賞を受賞した。ニュースの背景説明と分析では、質の高い活字メディアにはかなわない。

しかし、ニクソン訪中報道では、テレビはその神通力を発揮した。平均的な米国民は、中国はとんでもない全体主義の国である、くらいの知識しかなかったのが、連日の報道で親しみを覚えたのである。ウォルターズは「ニクソンの訪中はアメリカ人の中国観を変えた」と言っている。

上海コミュニケを発表した日の周恩来主催の晩餐会のスピーチでニクソンは「世界を変えた1週間であった」と言ったが、その後の歴史をたどれば、それが的確な言葉であったことが分かる。

ニクソン大統領が帰国する日、上海空港ではニクソン周恩来が儀仗兵を閲兵し、高らかに両国国歌「星条旗よ永遠なれ」と「義勇軍行進曲」が演奏された。

ニクソンはペリー提督

 

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The New Yorker

 

ニクソン訪中で世界のバランス・オフ・パワーは劇的に変り、米国を軸にした米中ソの三角外交の時代に入った。米中接近にあせるブレジネフソ連書記長は、上海コミュニケ発表から4日後、ニクソン国賓としてモスクワへ招待し、大統領は5月訪ソする。米ソ首脳会談でデタント(緊張緩和)が一気に結実し、両国が保有する核爆弾とミサイルを大幅削減する「戦略兵器制限条約」が合意された。これは、ニクソンキッシンジャー外交戦略の大勝利だった。

長期的に見ると、ニクソン訪中が中国へ与えた衝撃はそれ以上に大きかった。中国現代史を辿ると、ジグザグはあったが、これが契機として中国は開国に踏み切り、鄧小平の開放改革路線を邁進し、今日では米国と肩を並べる超大国にまで発展したからだ。

毛沢東が支配した中国の30年は、徳川時代なみの鎖国だった。文化大革命のピーク時には、上海から外国へ行った中国人はわずか数十人だったというから、完全に世界から孤立していた。

当時の中国人は海外情報に接する機会もなく「アメリカ帝国主義は人民の敵」と信じていたのに、神とも仰ぐ毛沢東帝国主義の親分ニクソンと会ったのだから、天地がひっくり返るほどビックリしたようだ。当時、10代前半で、のちに米国人と結婚したある中国人女性作家は、木製の銃剣で米兵の藁人形を標的に突く訓練を受けていたのに、ある日突然、毛ニクソン会談があり、「中米友好」と言うのだから、困惑の極みだったと告白している。

筆者はニクソンの最大の功績は、中国30年の鎖国に風穴を開けたことではないか、と思っている。幕末、ペリー提督は日本を開国し、明治維新への道を切り拓らいた。ニクソンもまた、中国が鎖国から抜け出る好機をつくり、これが後の経済大躍進の道につながった。ニクソン訪中は、中国に幕末の黒船来航ほどの歴史的インパクトを与えたのではなかろうか。

一つの中国?

 

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習近平              蔡英文          トランプ

 

ドナルド・トランプ大統領の登場で、歴史の大逆流が始まっている。筆者は、歴史はジグザグコースを歩むことは知っていたが、これほどオバマのリベラル政策の全否定をしようとは思ってもいなかった。上海コミュニケから45年、米中関係でもそれが起こりつつある。

トランプは歴代大統領のタブーを破って台湾総統蔡英文と電話会談をして、大きな波紋を呼んだ10日後、フォックスTVのインタビューで「貿易などの取引に北京が応じなければ、“一つの中国”に縛られる理由はない」と言ってのけた。上海コミュニケで米中が確認した「中国は一つ、台湾は中国の一省」は、過去半世紀の米中関係の基本了解事項であるが、これをトランプは覆すことを示唆したのだから、米中関係を揺るがす爆弾発言だった。

当初はトランプのいつもの無責任な放言と思われたが、周到に練られたうえでの発言だったようだ。本人は国際問題にはまったくの素人だから、これは対中強硬派のアドバイザーの進言による発言だろう、とニューヨーク・タイムズ紙は報じている。

トランプの問題はなにか。ニューヨーカー誌の中国前特派員エバン・オスノスは、大統領選挙中にトランプからアドバイスを求められたホワイトハス元高官が「トランプの問題は、彼が知らないということを、本人がわかっていないことだ」と言ったが、もう一つの問題は、彼が知らないということを知っている側近に囲まれていることだ、と書いている。ということは、トランプ外交は強硬派の側近に操られることになるということだ。

トランプの「一つの中国」への挑戦に北京はおどろき、王毅外相は「蔡英文であろうと誰であろうと、一つの中国の原則を損ない、中国の核心的利益を傷つける者は、手痛い目にあうだろう」と警告、共産党機関紙の環球時報は「中国は台湾政策を改め、武力による統一を目指し、その準備をすべきかもしれない」と威嚇した。

台湾人のアイデンティティ

トランプ発言で突然、世界の脚光を浴びた台湾の人々はどう思っているのだろう。彼らは米国とより密接な関係を結べるという期待と、中国が理不尽な圧力をかけてくるのではとの不安の間で揺れているようだ。識者の間では、トランプは台湾のためではなく、中国に貿易交渉で圧力をかけるために台湾を利用しているだけだ、という見方が多い。

台湾の人口2400万は、中国の人口13億7000万に比べれば小さいが、EUにはこの人口以下の国家がいくつもある。例えば、スウェーデンハンガリーの人口は1000万である。一人当たりGDPは、台湾は22,000ドルで36位、中国は82,00ドルで76位、日本は33,000ドルで26位である(IMF)。

20世紀、日本の植民地として50年、国共内戦に敗れた蔣介石の国民党独裁下の40年と、大陸中国とはまったく別の歴史を歩んできた台湾(中華民国)は、今日ではアジアで有数のデモクラシーを誇る中国である。国境なき記者団によると、台湾の言論の自由度の世界ランキングは25位で、中国の174位、日本の72位に大きく差をつけている。女性議員の国際比較では、台湾は38%で日本の11.6%をはるかに超える。

北京と台北の間には、1922合意がある。これは、両者が「一つの中国」を認めるが「一つの中国の解釈は各自が表明する」というもので、主権問題をあいまいにして、交流を深めるための知恵であった。過去3年間で、大陸と台湾との間のヒト、モノ、カネの流れは飛躍的に拡大した。現在では、台湾の大陸向け貿易が占める割合は総額の60%で、中国依存が高まっている。北京は交流が拡大し経済が一体化すると、いずれは柿が熟すように台湾の本土復帰が実現できるだろう、と考えていた。

しかし、そうはならず逆に中国離れが起こっている。香港大学教授の林夏如女史によると、その原因は台湾市民のアイデンティティの激変にあると言う。天安門事件があった1989年の世論調査によると、「あなたは何国人ですか」とういう問いに、52%が中国人、48%が台湾人と答えていた。しかし、現在では、97%が台湾人、3%が中国人と答え、本土復帰を望む人々は僅か1・5%である。

これは、民進党政権の教育改革で、新世代が台湾の地理、歴史を学ぶことが必須となり、台湾と大陸の人の往来がもたらした結果である。台湾の若者は中国本土を旅し、留学し、ビジネスをする。その結果、彼らは本土と台湾との違いを実感し、台湾人としてアイデンティティをより強くもつようになっている。

今年のはじめ、台湾人の誇りを痛く傷つける出来事があった。韓国で活躍する台湾出身の16歳のアイドル歌手が、テレビ番組で台湾国旗(晴天白日旗)を振ったという理由で、中国のネットで猛烈に叩かれた事件である。歌手が所属する韓国人事務所は、中国マーケットを失うことを怖れて、彼女に謝罪を強要し「中国はひとつです。私は中国人であることに誇りをもっています」と言わせたので、台湾人は中国のネット世論と韓国の事務所に激怒した。この事件から見えてくるのは、中国世論もまた台湾併合は自明の理と考えているということである。

2年前、台湾ではひまわり運動があった。これは学生が、国民党が推進する中国との「サービス貿易協定法案」に反対し、議会の占拠にまで発展した運動である。これ以上、中国資本が台湾市場に参入してくると、大陸への依存度が大きくなりすぎ、台湾のアイデンティティが脅かされるというのが、学生の反対理由であった。これは、最終的には市民の支持をえて廃案になった。

今年初めの総選挙で、蔡英文民進党が国民党を破り政権にかえり咲いたのも、中国寄りの国民党へのノーの意思表示であった。台湾人は本土の共産党独裁体制より「法治」「言論の自由」のあるデモクラシー制度の下で暮らすことを選んでいる。台湾市民が同じ漢民族であるという理由だけで台湾併合は当然とする態度は、大陸の漢民族ナショナリズムの傲慢ではないだろうか。

2年前、スコットランドで英国からの独立の是非を問う国民投票が行われたが、反対の理由として「民族団結への裏切り行為」という声はなかった。あくまで、スコットランド人にとって独立自治がプラスかマイナスかが争点になっていた。

筆者が暮すフランスの田舎の村役場には、フランス国旗とEU旗が掲げられている。多くの村人は、自分はフランス人で、同時にヨーロッパ人であるという、ダブル・アイデンティティの意識を持っている。EU圏の若者はとくにこの意識が強い。彼らは国境を越えるダブル・アイデンティティが、精神的にも物質的にも人生を豊かにすることを知っている。

北京のリーダーは、台湾の人々が中国人であり同時に台湾人であることに誇り持つようなアプローチをせず、ひたすら民族統一を目的にしてきたので、台湾人に離反されたのだと思う。

トランプの対中外交

 

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The New Yoker

 

トランプの中国外交にもどる。

筆者が世界の中国学者・ジャーナリストのなかで最も信頼しているのは、米国人ライター、オーヴィル・シェルである。彼は1975年にニューヨーカー誌の特派員として中国に滞在し、人民公社で農作業をした記事でデビュー、それ以降40年間、深みのある記事、著作を多数刊行している。カリフォルニア大学ジャーナリズム科長などを経て、現在、ニューヨークにあるアジア協会の米中関係センター長。

彼はその見識とバランス感覚、飄々とした人柄で慕われ、米国の中国通の元老的存在である。そのシェルがトランプのビックリ仰天(悪夢になるかも知れない)の対中外交を予測しているので紹介する。内容は英国ガーディアン紙の記事から抜粋した。

オーヴィル・シェル談

トランプは大統領に選ばれるやいなや、米中関係の基礎を揺さぶった。それがどう展開するかは分からないが、非常に面白いことが起こるかもしれない。トランプはロシア大統領ウラジーミル・プーチンに交渉開始のシグナルを送っているが、同様のことを中国にもするのではないだろうか。

ビックリするようなことが起こる可能性もある。その第一歩はトランプの訪中ではないだろうか。中国は彼を最上級の待遇で迎えると思う。トランプは中国人お得意の華麗な歓迎式典や宴に完全に心を奪われるだろう。

習近平主席と取引をする決意で北京にやって来たトランプの仕事のやり方は「俺はリーダーだ。何をやればいいかは分かっている。任せてくれ」である。これは習近平のやり方とよく似ている。だから、物事がおどろくほど早く変わるかもしれない。米中間を分断していた価値観の違いの壁や外交交渉の慣例を無視して事が運ばれると、万華鏡のように思ってもいない姿が現れる可能性がある。

南シナ海東シナ海の問題?そんなことは心配しなくていい。もし、それがあなたにとって核心的国益なら、お好きなように。ここで世界を分割しよう。近隣諸国との折り合いはあなたがつければよい。しかし、その代償にわれわれはXとYが欲しい」トランプは習にこんな提案をするかもしれない。

どんな取引をするのかは分からない。しかし、誇大妄想的な取引が突風のように行われるのではなかろうか。人権、国際法、友好国との関係などの判断基準は考慮にいれられないだろう。しかし、この過去との断絶は意外な結果を生む可能性もある。

長期的には、現在の米中対立が戦争への道を歩んでいるとすると、健全な米中関係へ軌道修正するきっかけになるかも知れないのだ。パラダイムを変える要因は、たいてい戦争や経済崩壊だが、政治爆発もある、いまアメリカで起こっている政治爆発から生まれる、地殻変動の効果を過小評価すべきでない。

米中関係は新時代を迎えるだろう。米国の最高司令官になる男はまったく不思議な人物で、彼の行動を予測するのは非常に難しい。トランプは突然ピョンアンに現れて「取引をしよう」というような男だ。

彼はまず大統領専用機エアーフォース・ワンでモスクワか北京にいくのではなかろうか。トランプは世界で最も注目を浴びている最高権力者を相手にしたい。となると、プーチンか習ということになる。彼は訪問先で肩をそびえかせ、自分の才能は政策ではなく、取引であることを誇示するだろう。「取引をやろう」-これまでの人生を彼はこれでやってきたのだ。そしてこれが、彼が最も誇りに思っていることなのだ。彼はこれで突っ走ると思う。トランプは自分の取引能力に物凄い自信をもっている。そして、人権などはささいな事と思い気にしないで、取引をするだろう。

以上がシェルの意見である。世界はなにが起こるか分からない時代に突入したようだ。日本にとってトランプ・ショックは、ニクソン・ショック以上になるかも知れない。

 

筆者はこの歴史探訪記を書くにあたって、以下の著作アーカイブ、ドキュメンタリー映画、記事のお世話になった。“Seize the Hour: When Nixon met Mao” Margaret MacMillan 2006、” Mission to Mao” Roderick MacFarquhar  New York Review of Books 2007.6.28, “Nixon’s Trip to China” The National Security Archive  2003・12・11、 “China :The Roots of Madness” Theodore White 1967, “The Nixon’s China Game” PBS 1999,  “Assignment China: Opening Up” US-China Institute USC 2011, “How China’s Taiwan Strategy is back firing” 林夏如インタビュー Asia Society 2016・12・12、 “Trump and China” Tom Phillips記者 The Guardian 2016・11・15

 

 

 

フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。