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土野繁樹の21世紀探訪

中国100年の屈辱 その11 1937 辺見庸

 

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蔣兆和 「流民圖」 1943年作  Trois Mille Ans de Peinture Chinoise

 

南京事件を中国人の眼で見ると、どう見えるか。作家、堀田善衛は、それを小説『時間』(1955)で試みた。大虐殺事件を被害者の眼でみると、どんな光景が現れ、日本人の言動がどう見えたのか、を堀田は描いている。この斬新な企てを、辺見庸さん(以下敬称略)は「目玉の入れ替え」と呼び、堀田の勇気に敬意を表している。

彼は1945年春、27歳のときに上海に渡り、そこで敗戦を体験し、1年間、国民政府に徴用され広報部で働いた。敗戦前に、彼は南京を訪れ、城壁の上から見た紫金山の岩肌の美しさにうたれ、「人間とその歴史の怖ろしさ」を書きたいと思ったという。

『時間』の主人公は中国の知識人、陳英諦(37歳)である。6年間、インドと欧州で学び、帰国して海軍省に勤務。彼には妻子があった。しかし、陳の平穏な日々も、日本軍の南京占領で、一瞬にして破壊されてしまった。こどもを身ごもっていた妻の莫愁は、敵兵に犯され殺され、難民浮浪児になった5歳の息子も惨殺されたのだ。そのことを知った陳は「身が震え出し、汗を流し、ほとんど失禁しようとした。震えはとまらず、顔面筋肉は痙攣し,口許の如きは、われとわがものとは思えなかった。窓枠にしかとつかまって乾き切った庭を眺めていた」。

堀田の分身、陳は「何事も、敵に関しても味方に関しても、より公平にではなくとも、少なくとも正確に伝えて行かなければならぬ。伝え考えること、それは生を深め、根を深くするのに役立つ筈だ」と考え、南京でなにが起こっているかを、観察し書き続ける。陳は「書くのも語るのも憚れる」日本軍による「殺、掠、姦」の蛮行を描き、死体を運ぶ仕事を強制されたことを書く。

陳は街路で何百人という人が死んでいるのに出会う。そして「何百人という人が死んでいる」という言葉は、なんと無意味な言葉だと思う。「一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にものぼったのだ。何万と一人一人。この二つの数え方の間には、戦争と平和ほどの差が、新聞記事と文学ほどの差がある」と、堀田は陳に語らせている。

彼は、何万という抽象化された死では、犠牲者一人一人の生と死が見えてこない、と訴えたかったのだ。だから、堀田はこの小説のなかで、犠牲者の総数について触れていない。

 

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『時間』の表紙             堀田善衛  Wikipedia

 

南京が日本軍に占領されて半年後、陳は自宅へもどった。しかし、自宅は日本軍に接収されていたので、日本軍将校の下僕兼門番兼料理人として、地下室で暮らした。そして、深夜そこから無電機で、スパイとして収集した情報を国民政府の機関に送った。

堀田は陳英諦が見た日本軍将校の姿をこのように描いている。

自宅の主、元大学教授だった桐野大尉がある日、私を自室に呼んだ。大尉はユカタを着てタタミの上に座っていた。彼は壁にかけた軍服を指さして「この服を見ると、見るだけでも気持ちの悪くなる人がいることは、知っていますよ」と正確な英語で言った。桐野は「実際、われわれはこの南京で相当なことをやった」と言いながら、テーブルの下からニューヨーク・タイムズマンチェスター・ガーディアンなどの新聞を取り出して、どさりとわたしの足元に投げ出した。どれにも、RAPE, MASSACRE, NANKINGの大文字が刻み付けてあつた。

「この通りです。そうでしょう」と言い顔を歪めた。「しかし、この南京でわれわれの慈悲で生きている人間に、批判をするのが許されるとしたら、それはあまりに虫がよすぎるのではないでしょうか?」その言葉の奥には、烈しい憎悪、軽蔑、それに異常なまでの劣等優等のコンプレックスが渦巻いていた。

「われわれは同文同種の・・」と大尉は言った。同文同種だと。彼らがわれわれの文字を借りてつかっているだけではないか、同種などでは到底ない。

「あなたの家族は不幸な目に遭われましたが、中国の歴史にも、太平天国その他の残虐事件があります。いくつもね」口実をさがすためにしか、歴史を学ばないのか。「日本は総力を傾けてアジアの責任をとろうとしているのです」。責任―つまりその内実は、強圧、説得、賄賂、テロ、宣伝、買収ではないか。

桐野が「戦争は仕方がないとしても・・・」と口走ると、陳英諦は、心のなかで、それならば幾十百万の難民と死者たちをどうしてくれるつもりか。日軍の手になる南京暴行を、人間の、あるいは戦争による残虐性一般のなかに解消されてはたまったものではない、と叫んだ。
(上記の桐野のモノローグと陳の心のなかの反論は、原文を一部要約)

9・18記念日。朝食のサービスをしながら、大尉が1931年9月18日、柳条溝での鉄路爆破事件のことを話すのを聞く。驚くべきことに、彼はあの事件が、日軍が自ら手を下して爆破したことを知らない。中国人がやったのだ、と思いこんでいる。日本人以外の、全世界の人々が知っていることを、彼は知らない。

してみれば、南京暴行事件も、一般の日本人は知らないかもしれない。闘わぬ限り、われわれは「真実」をすらも守れず、それを歴史家に告げることも出来なくなるのだ。

堀田善衛は、南京事件が日本人の記憶から消されてしまうことを怖れて、『時間』を書いたのではなかろうか。だとすると、60年前の彼の心配は現実になったように見える。なにせ、安部晋三首相は対中侵略戦争を否定し、彼の任命した稲田明美防衛大臣は、南京事件はなかったと全面否定しているのだから。

 

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『1937』の表紙  Wikipedia

 

作家、辺見庸が書いた『1937 イクミナ』(2015)は衝撃的な本だ。彼は、戦後ニッポンは南京事件を忘れようとし、今やその記憶を封印しているという。その結果、「あったこと」が「なかった」と思う日本人が増えている。なぜ、こんなことになったのか。事件への責任を問うことはなく、沈黙と忘却を強いる空気があり、犠牲者への「鉛のような無神経」があるからだ、と彼は言う。

「戦争だったからしかたがない」というが、それは言い訳にはならない。あれほど多くの捕虜と市民をあれほど無残に殺傷したのだから。

南京戦の将校だった父をもつ辺見は、執筆の動機を、1937年の状況で「おまえなら果たして殺さなかったか」を問いつめるためであった、と書いている。だから、この本は単なる戦後ニッポン批判の書ではない。内容が深い。筆者は考える日本人の必読書だと思う。

この本のエッセンスを紹介する前に、南京事件が忘れられた理由を探ってみる。東京裁判南京事件を知った筆者の親の世代は、この国は「ひどいことをした」ことを知った。しかし、当時は食べるのが精いっぱいだったから、それを深く考える余裕などなかった。以降、学校の歴史教科書で事件は扱われてはいるが、ワン・パラグラフだから印象には残らない。

筆者がその事件を意識したのは、学生時代にアメリカ人作家から日本軍の蛮行を聞いたときだった。マスコミは事件をときどき取り上げた。たとえば、新聞は元兵士の虐殺証言を伝え、雑誌は「南京事件の真相」などでまぼろし説を主張した。80年代、文部省の歴史教科書検定をめぐる家永裁判を契機に、南京事件が人々の関心を集め、歴史家が全体像を描きはじめた。そのころ、筆者は秦郁彦氏の『南京事件』を読んだ。彼は犠牲者を4万と推定していた。

当時、筆者は毎日新聞のベテラン国際記者と交流があった。ある日、南京事件が話題になり彼は「オヤジやジーさんの時代の恥を、子どもに教えなくともいいんじゃないかな」と言った。筆者は「あったことは、ちゃんと次世代に伝えるべきでしょう」と反論した。そのとき、彼ほどの教養人でも、と失望したのを憶えている。

南京事件をタブー視しはじめたのは、いつ頃からだったのだろう。筆者がそれに気付いたのは、ベルトリッチ監督の映画『ラスト・エンペラー』(1987)の南京事件の記録フィルムがでる場面を、配給会社が勝手にカットし上映した事件だった。監督は激怒したが、会社幹部は国民感情に配慮してと言い訳をしている。本音は右翼が怖かったのだろうが。

「南京の生き仏」ジョン・ラーベ人道主義を描いた中英仏・共同製作映画“Der Gute Deutsch Von Nanking(善きドイツ人)“(1997)は、どの配給会社も関心を示さず、全国公開はいまでもされていない。テーマが南京事件で、その上、朝香宮が捕虜皆殺しの命令者として描かれているので、恐れをなしたのだろう。

ましてや、中国人監督が製作した南京事件をテーマにした作品を、配給会社は見向きもしない。海外で最優秀賞をえた陸川監督の「南京!南京!」(2007)や世界的監督である張芸謀の「金陵十三釵」(2011)を、まぼろし派は反日プロパガンダのレッテルをはる。

世界と中国が南京事件をどう見ているかを知ることは、われわれの視野を広げることになると思うのだが、自己規制と思い込みがそれを許さない。これでは、まるで見ざる、聞かざる、「知らざる」ではないか。

かくして、2016年の日本語の電脳空間では若きまぼろし派が、多数を占める状況になっている。

 

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辺見庸              Wikipedia

 

辺見庸共同通信の北京特派員で特ダネ記者だった。78年にその優れた中国報道で日本新聞協会賞を受賞し、87年に中国共産党の機密文書をスクープして、国外追放になった。この中国を知る作家が渾身の力を込めて書いたのが『1937 イクミナ』である。筆者は2度読んだが、凄い本だ。とくに、筆者の印象に残った部分を紹介してみよう。

辺見はこの本のなかで、「かき消えた『なぜ?』」という見出しの章を立てている。南京事件でなぜあのような無用な殺人を日本人は犯したのだろう、という問いを、ほとんどの日本の知識人はしなかったが、中国文学者の武田泰淳は例外だったという。1937年に召集された武田は、南京攻防戦には参加していないが、上海攻防戦、杭州攻略戦、徐州、漢口の会戦で、地獄の苦しみを味わった。その体験を基にして書かれたのが、短篇小説『審判』(1947)だった。

『審判』のあらすじは、主人公の杉が知り合いの元日本兵・二郎から「無用の殺人」を告白した手紙を受け取る。そこには、分隊長の命令で、二人の農民を理由もなく一斉射撃し、誰も見ていないときに、ひとりの盲目の農民を射殺したことが、書かれてあった。二郎は次のような告白をしていた。「故郷では妻子もあり立派に暮らしているはずなのに、戦場では自分をみちびいてゆく倫理道徳を全く持っていない人々が多かったのです。住民を侮辱し、殴打し、物を盗み、女を姦し、家を焼き、畑を荒らす。それが自然に、何のこだわりもなく行われました。私には住民を殴打したり、女を姦したりすることはできませんでした。しかし豚や鶏を無だんで持ってきたりしたことは何度もあります、無用の殺人の現場を何回となく見ました」「罰のない罪なら人間は平気で犯すものです」。

辺見は、彼の「従軍手帳」の記述と照らし合わせて、二郎の言葉は武田自身の体験告白であることを知る。武田が「従軍手帳」を廃棄していたら、自分の罪を闇に葬ることができたが、彼はそれはやらなかった。辺見は、そのことは極めて大きな意味をもつという。なぜなら、彼が犯した殺人を戦争一般のせいにせず、「罪を個として負う姿勢をしめした」からである。こうした自己への厳しい倫理観は日本ではまったく例外的なもので、「多くのニッポン人がそうした殺人を『戦争』の名のもとに帳消しにし、きれいさっぱりと忘却している」と言う。

辺見は、堀田善衛の『時間』や武田泰淳の『審判』と、石川達三の『生きている兵隊』、火野葦平の『麦と兵隊』『土と兵隊』、田村泰次郎の『春婦伝』などの戦争小説とを比べると、後者の作品には犠牲者への同情、倫理的視点がほとんどない、あっても弱いという。なぜ、日本兵をここまでひどい惨劇に走らせたか、との設問もない。ルポルタージュの傑作と言われる『生きている兵隊』ですら、なぜを問うていない、と彼は石川を厳しく批判している。

辺見は「ニッポンの戦後は、少しく断定的に述べるなら、戦時の加害と被害のかんけいとそれらの責任の所在につき、忘れるか忘れるふりをすることにより、なりたっている」という。

辺見の父親は召集され、中国戦線で戦った将校であった。戦後、彼は復員して故郷に戻り、宮城県石巻新聞の記者になり、34歳のときに戦争体験記を同紙に連載した。父親の死後、それを読んだ辺見は「父の文にはとんでもなくだいじなことが欠けている」と感じた。

彼は連載を読み進むうちに、父親の部隊が「ヨボヨボの老婆が実はゲリラの女親分」で「白い肌の美少年が筋金入りの抗日分子」だったので、彼らを捕えたという箇所に行き当たる。当時の皇軍は、ゲリラや抗日分子を拷問、処刑するのが日常的なことだったから、将校だった父親は彼らの殺害に関係したはずだと、辺見は確信する。

彼は「父を責める気はない。にくんでもいない。軽蔑してもいない。するわけもない」と書き「同じ状況下にあったら、わたしはどうだったか、父と大差なかったのではないか」と自問する。

 

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天皇・皇后記者会見 1975年10月31日  日本記者クラブ

 

辺見は、父親が体験記のなかで、戦争の最高責任者・昭和天皇にひとことも触れていないことに気付く。「あの戦争はなんだったのかー父はあのひとに問いたい衝動をかかえつつ、あのひとをどうしょうもなく慕っていたのだろう」と彼は父親の心境を推し量る。「ところが、あのひとは父のことなどなんも思っていなかった」と言い、1975年10月31日に行われた、昭和天皇の記者会見の席での、元大元帥陛下の発言を引く。

 (問い)また陛下は、いわゆる戦争責任について、どうお考えになっておられますか、お伺いします。(英国タイムズ紙の中村康二記者)
 (天皇)そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。

これが、日本とその交戦国の兵士、市民数千万人の犠牲者をだし、日本を破局に導いた15年戦争の最高責任者の発言であった。辺見は、この発言はブラックユーモアの極致であるといい、「戦争責任にかんする昭和天皇の唖然とするほかないそらっとぼけ」に仰天し、怒りを爆発させる。

同じ記者会見で原爆投下についての質疑応答もあった。

(問い)「原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたでしょうか。おうかがいいたしたいと思います」(中国放送の秋信利彦記者)
天皇)「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます」

「やむを得ないこと」!?

この二つの質問に、天皇は「ほんらいならば、血へどを吐くようにして答えるべきだったが、みごとに賺(はぐら)かされた」と辺見は書いている。天皇のこの「やむを得ないこと」発言は死者・遺族、生存する被爆者への侮辱であると、怒りをこめて発言した主要紙社説、記事はほとんどなかった。質問をしたのは、外国メディアと地方放送局の記者だった。

彼は、横田喜三郎(のちに最高裁長官)の発言を引き天皇戦争責任を正す。「戦争の準備にも開始にも、天皇は深く関与している。みずから戦争を望んだのではないが、しいて反対することもなく、つぎつぎと軍部の政策の同意を与え、ついに戦争開始にも同意を与えた(『天皇制』1949)。「にもかかわらず、(天皇発言に)ひとびとがべっして怒りもせず、どこをみわたしても、いっこうに衝撃などうけていない」ことに、辺見は過去を「忘れるか忘れるふり」をして成り立っている戦後ニッポンの姿を見た。

辺見は「おそらく、近代の日本人は、侵略され征服される人々の身になって、切実に考える知性と想像力がまったく足りなかった」と指摘し、それを「鉛のような無神経」と言った。その典型的な例を、彼自身の体験を引いて書いている。

彼の著作に『もの食う人びと』がある。この本はベストセラーになり、1994年の紀行文学大賞を受賞した。そのレセプションの席で作家、阿川弘之が語った言葉は彼を仰天させた。

志賀直哉の愛弟子で、『山本五十六』などの著作で知られる阿川は、あいさつぬきで「『もの食う人びと』はつまらない。とくに最終章は実にくだらない」とこきおろした。最終章「ある日あの記憶を殺しに」は、その年のはじめに、ソウルの日本大使館前で割腹自殺をしようとして未遂に終わった3人の元「慰安婦」を、著者が取材した話である。阿川は、最後の場面が気に入らなかったようだ。

辺見は3人の老婦人とマッコリを飲み、歌をうたい,宴の最後にこう言った。
「死ぬのはもうやめてください。文さんがチャンゴ(杖鼓)の手をやすめて“約束しますよ”と答えた」。そして彼は次のように結んでいる。「私の父親の世代に当たる、たくさんの日本の兵士の体に泣く泣く触れざるをえなかった手、そして50年後に包丁でその記憶のすべてを殺そうとした、温かくとてもとても優しい手を、泣きながら握りしめた」と。

阿川は「泣きながら、手を握ったなんて、きみ、あれ恥ずかしくないのかね」と言った。そして、彼は「きみね、死にたいものには死んでもらえばいいんですよ。」と言い放ち、「えっ?」と仰天する辺見を残して去っていった。辺見は「恥ずかしい」には「けがらわしい」のニュアンスを感じたという。彼はその暴言になにも反論しなかった自分を悔やみ、間髪を入れず「黙れ、ファシスト!恥を知れ!」と大声で叫ぶべきだったと書いている。

筆者もまた、犠牲者への「鉛のような無神経」の暴言だと思う。

 

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1937年12月13日 東京日日新聞   Wikipedia

 

海外の歴史家が「南京大虐殺」「南京レイプ」と呼ぶ、大量の殺戮と強姦がなぜ起こったのだろう。前回に示したように、捕虜の虐殺は組織的なもので、師団長、連隊長レベルの命令で行われ、上官の黙認あるいは軍紀を無視して、略奪、殺人、強姦、放火が行われたことは明らかだ。

陸軍士官学校を卒業し、将校として4年間、中国の最戦線で兵を率いて戦い、戦後、歴史学者になった藤原彰教授は、事件の背景には帝国陸軍の体質に問題があったという。

第1は、人権無視の厳しい規則と罰則、上官への絶対服従、古参兵の新兵への私的制裁(リンチ)の環境下にあった日本兵は、占領地の捕虜と住民の人権尊重など考えることはなかった。

新兵へのシゴキがいかに苛酷であったかを、辺見の父親は「わが二等兵時代を顧みると、屈辱の連続であった」「当時の“敵”であった米英や中国に敵対する前に、まず当面の迫害や侮辱や、苦痛と戦わねばならなった」と回想している。内務班の古参兵よる常軌を逸したいじめは、どの部隊でもあったから、これは特殊な体験ではない。

第2は、日本軍の非合理な精神主義。精神力が強調され、天皇のために死ぬことが、国民として、軍人として、最高の美徳とされた。これが行きつくところは、捕虜となることは最大の恥辱であるという思想だった。これを叩きこまれた将兵は相手国の捕虜を、戦時法にしたがって扱うことなど考えなかった。

第3は、中堅幕僚の下剋上。兵士へは上官の命令には絶対服従を求めたが、陸軍大学出身のエリート幕僚は、上官を無視して勝手にふるまい国を誤った。その極端な例が参謀の長勇である。
  
藤原教授はまた、南京で捕虜虐殺命令をだした指揮官や幕僚には、国際法や人道という観念がなく、陸軍幼年学校出身の純粋培養のエリート軍人には 少年時代からの特殊教育の結果、「唯我独尊、無軌道」な人物が多かった、と批判している。

筆者は、南京事件の背景には日本人の中国人への侮蔑意識があった、という作家と歴史家の指摘に注目したい。おそらく、それが蛮行の最大の要素であったと思われるからだ。そもそも、近衛首相の「暴支膺懲」からして、その意識を反映したスローガンである。辺見はその言葉は、尋常小学唱歌の「桃太郎」と重なるという。「桃太郎さん、桃太郎さん ・・これから鬼の 征伐に ついていくなら やりましょう・・そりゃ進め 一度に攻めて 攻めやぶり つぶしてしまえ 鬼が島」。手前勝手な「中国一撃論」のメロディが聞こえる。ともあれ、当時の日本人は上から下まで、この中国人をバカにする風潮に犯されていたようだ。

軍人の例をふたつ挙げてみよう。同盟通信の上海支局長であった松本重治が、1936年5月、当時、関東軍参謀であった田中隆吉と会見した。そのとき、田中は「君と僕とは、中国人をみる観方が根本的に違う。君は中国人を人間として扱っているようだが、僕は中国人を豚だと思っている。なんでもやっちまえばいいんだ」と語ったという(『上海時代』松本重治)

日中戦争が始まった当時、陸軍省軍事課員だった稲田正純は、戦後、次のように述懐している。「支那事変が始まって、私は強硬論の連中(拡大派)にあきれたことがあるのです。一つには、だれも先の見とおしがついていない。二つには、だれも漢民族について理解をもとうとしないのです」「支那事変がはじまってみると、兵隊全部にやっぱり『チャンコロ』思想といいますか、漢民族をバカにしてかかる気持ちが横溢しているのです。なかでも、いちばんよくないのと感じたのは支那課の連中です」(『昭和陸軍秘史』中村菊男)

支那課のエリート参謀は、中国について何を学んだのだろう。孫氏の兵法「敵を知り己を知れば百戦危うからず。敵を知らずして己を知れば一勝一敗。 敵を知らず己を知らざれば戦うごとに必ず危うし」も忘れていた。

読者は、南京に快進撃する日本軍の将校二人が、「百人斬り競争」をした新聞報道がやんやの喝采を浴びたことを知っているだろうか。どちらが早く百人の中国兵を斬首するかの競争である。東京日日、大阪毎日などがそれを報道し、(これが誇大報道であったか、どうかには関係なく)日本人はそれを「武勇伝」として受け取った。軍はこのニュースは戦意高揚に役立つと考えた。現在の視点からすると、とんでもない殺人ゲームなのだが、当時は、スポーツ記事のような感覚で読まれたのである。これを知ると、軍人だけではなく庶民の間にも強烈な「チャンコロ観」があったことがわかる。

 

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日清戦争の錦絵 平壌で日本に降伏する 清の高官       Wikipedia

 

邪馬台国の時代から、中国を偉大な隣国として敬愛と畏敬の念をもって眺めてきた日本人が、この国を蔑視しはじめるのは、日清戦争で日本が勝ってからである。この勝利は日本人の中国観を決定的に変えた。明治維新で日本は近代化を果たしたのに、中国は旧態依然ではないか。もはや師弟の関係は逆転した、という優越感を持ったのである。やがて、それは軽蔑感に変わっていく。日本が日英同盟を結び、日露戦争に勝利すると、国民の世界に冠たる帝国ニッポン意識は膨らみ、弱く貧しい中国への優越感と軽蔑感がますます高まった。

もちろん例外もあった。筆者はこの歴史探訪シリーズで、中国の苦境を理解し同情を寄せ、孫文辛亥革命を助けた宮崎滔天犬養毅頭山満などの人々のことを書いたが、彼らの「中国人は同胞である」という考えは少数派で、大多数の日本人は、中国人は劣等国民であると思っていたのである。その傾向は、1930年代になると加速する。日本はアジアの盟主として、中国大陸を支配して大東亜共栄圏を建設すると言う幻想の背景には、この民族的優越感が根底にあった。

南京事件の犠牲者の数について触れる。まぼろし説の幻想はさておき、中国政府の公式数字は30万、日本の歴史家の間で諸説があるが、ヒロシマナガサキの原爆犠牲者の数のように、ほぼ確定したものがあるわけではない。事件直後に本格的な被害調査を日中ともにしなかったからだ。南京が日本の占領下にあった7年間、日本側がその調査をするはずはなく、中国当局が直接調査することはできなかったからだ。

1945年、日本は敗れ15年戦争は終結したが、中国は国共内戦へ突入する。4年後、毛沢東中華人民共和国が建国されたが、大躍進の大破局から文化大革命の大混乱までの30年間、混沌の時代が続き、南京事件は記憶の片隅に追いやられていた。その間、日本はひたすら経済建設に邁進し、南京事件は忘れさられていた。この事件が日本で注目されるようになったのは、1980年代の家永三郎の教科書裁判だった。それを契機に一部の歴史家が本格的に研究をはじめている。

それ以降、国内で犠牲者の数についての論争が続いているが、国際的には、東京裁判の判決20万以上が受け入れられているようだ。例えば、英語版のブリタニカ百科事典は推定20万、BBCの歴史アーカイブでは、「大方の歴史家は20万と推定している」とある。

一方、中国の愛国教育の拠点になった南京大虐殺記念館(1985年開館、2007年に大拡張)には、年間800万(昨年)の訪問者があるから、そのインパクトは大きい。ここを訪れた中国人のショックは、おそらく、広島の原爆資料館の展示を見た日本人のそれと同じだろう。

日中首脳が合意して発足した日中歴史共同研究会委員会の報告書(2010年1月)は、中国側は、東京裁判と南京国防部軍事裁判の判決を基に「被害者数は延べ30余万人」を主張し、日本側は「20万人を上限に4万人、2万人などさまざまな推計がなされている」と反論し、両論が併記されている。

筆者は、南京事件の犠牲者数について最も説得力のあるのは、笠原教授の10数万から20万の間という説だと思う。その論拠を紹介しよう。まずは、その範囲だが、彼は日本軍が南京攻略戦で戦区とした地域を対象とすべきだという。その期間は攻略戦がはじまった12月4日から、日本軍の残虐行為がほぼなくなった3月28日とする。南京攻略戦が開始されたときの南京城内の人口は、市民は40~50万人と推定している。

南京戦区は、南京城内(城市)と近郊の6つの県(六合,江浦, 江寧、溧水、句容、高淳)の地域で、その広さは東京都、神奈川県、埼玉県をあわせたほどであった。各県には、城市があり中国防衛軍が集結していた。この戦区に150万の人々が暮していたのだが、ここが熾烈な戦場になり、農村地帯でも、南京城と同様の日本軍のすさまじい蛮行があったという理由で、笠原教授は範囲を定めている。

南京事件の犠牲者数を少なく見積もる研究者は、その範囲を南京城内外に限定し、蛮行のあった期間を、例えば、南京攻略戦開始(12月10日)から占領(12月13日)までに限定する傾向がある、と教授は指摘している。

笠原教授が作成した「日本軍が集団虐殺した中国軍民の数」(『南京事件』表1、224~225頁)は、犠牲者数に関するきわめて信頼性の高い資料である。これは、前回の歴史探訪記の中でいくつか引用した、南京戦の日本軍各師団の公式記録「戦闘詳細」や将官の日記を基にして、12月13日~16日までの南京城壁内外の犠牲者の数を表にしたものである。その累計は8万人以上になる。これは、処刑された捕虜・投降兵・敗残兵と「便衣兵」と疑われた民間人の数である。日本軍の史料によるものだから、反論は難しい。

軍人の犠牲者については、日本と中国の資料から概算が推定できるが、笠原教授は民間人については史料が少なく、きわめて困難だという。彼は3つの資料、ラーベの「ヒトラーへの上申書」(1938年6月)、埋葬団体の埋葬記録、スマイスの「南京地区における戦争被害―1937年12月~1938年3月―都市および農村調査」(ルイス・スマイスは、南京安全区国際員会の書記で金陵大学社会学教授)を参考資料にあげている。

ラーベは「中国側は10万人の民間人が殺されたと主張しているが、我々外国人は(南京城市の被害は)5万から6万とみている」と言っている。埋葬団体が埋葬した遺体の合計は19万弱で、これには軍人も入っている。スマイスの調査によると、南京城壁の内外で1万2000人の民間人が殺害され、城市を除いた6県の農村地帯で2万7000の民間人が殺されたと言っている。

笠原教授は以上のような資料を参考にして、南京事件の犠牲者は「10数万以上、それも20万近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になった」と推定している。

 

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『戦争の記憶』の表紙         TBSブリタニカ

 

南京事件の被害者の数をできるだけ正確に推定することは大事だ。しかしあれだけの惨事を、犠牲者の数をカウントするだけの論争におとしめるべきではないだろう。中国が主張する30万をプロパガンダと否定することで、南京虐殺の事実を消し去り、矮小化することはできない。堀田善衛の『時間』の主人公・陳英諦が言うように「一人一人の死が、何万にものぼったのだ」という視点が重要だと思う。陳が妻と息子の死を知ったときの、衝撃,動転、慟哭に思いを寄せることなく、南京事件を語るのは浅薄だと思う。

筆者は編集者時代に『戦争の記憶:日本人とドイツ人』(イアン・ブルマ著)を親友だった石井信平君の名訳で刊行したことがある。この本は、二つの敗戦国が過去から何を学び、いかに過去を忘れようとしているか、をテーマにした傑作で、ブルマは「南京」の章に次のようなエピソードを記している。

南京事件の真実を知るための南京を訪れた教師のグループのひとり、森正孝さんが、クラスで虐殺の記録映画(主に欧米の宣教師が撮影したもの)を生徒に見せ感想を書かせると、驚くほど似通った反応があったという。たとえば、13歳の少女はこう書いている(1991年当時)。

「戦争というと、いつも長崎、広島を思いつきます。このビデオをみて、今考えてみると、うそのような気もするけど、本当のことであって、私はだいたい、日本がやられたことしか思いつかなかったけれど、日本人だったら、こういうこともあったってことを知るべきではないかと思った。1940年前にも忘れてはいけない事件があった。このビデオを見て一番印象に残ったことは、中国人が殺されるとき、後ろで日本人がそれを見て笑っていたことです。よく平気で見ていられると思った。その時代の日本人の気持ちがわからないし、理解できない・・」(一部省略)(1991年)

生徒たちは、はじめて日本が侵略者であるとことに気付いたのだ。今なら、ネット右翼は森教諭を非国民、売国奴と罵り、文部省は未成年者にそんなものを見せるのは非常識と糾弾し、彼は辞職に追い込まれるだろうが、当時はまだ、教師のテーマ選択の自由があったことがうかがわれる。

筆者がこの感想文を読んで思ったのは、中学生のインテリジェンスを見くびるな、ということだった。その反応はきわめて知的である。文部省は、歴史教科書を検定するさい、自国への否定的な評価は、次世代の国民教育としてふさわしくない、を基準にしているが、それは日本にこだわりすぎて、視野の狭い日本人をつくりだしていると思う。ブルマはこの本のなかで、ドイツの高校では「ナチの歴史について年間60時間の授業を行う」のが目標であることを紹介しているが、日本の高校生もせめて30時間は日本の20世紀前半の歴史を学ぶべきだと思う。

言論NPOが行った「日中共世論調査」(2015年10月21日)を見ると、中国に「良くない印象」をもつ日本人は88.8%、日本に「良くない印象」をもつ中国人は78.3%である。そして、日本人があげる最大の理由は「歴史問題などで日本を批判するから」(55.1%)で、一方、中国人があげる理由のトップは「侵略の歴史をきちんと謝罪し反省していないから」(70.5%)である。

お互いに悪印象をもつ理由のトップにきているのは、いわゆる歴史認識の問題で、その中心は南京事件だが、日中間のパーセプションの違いはあまりに大きい。中国人は愛国教育とプロパガンダに突き動かされ、日本人は中国人が怒っている理由を知らずに、いら立っているという状況である。

共産党独裁下の中国では、党が歴史をもコントロールしている。例えば、人民解放軍民主化運動を武力弾圧した、天安門事件について自由に語ることできない。一方で、中国政府は、南京事件愛国心高揚のための手段として大いに利用している。だからと言って、中国人が怒っている理由を日本人が理解せずに、くどいと反発するだけでは、両国民の真の和解はありそうにない。

堀田善衛に習って中国人に「目玉の入れ替え」をして南京事件を見てみよう。中国人が日本人から「南京事件はなかった」と言われるのは、日本人がアメリカ人から「ヒロシマに原爆投下はしていない」と言われるのに似ている、のではなかろうか。

日本人は潔く南京事件を認めるべきだと思う。中国も含めてどこの国も、歴史上、恥ずべき蛮行を犯しているから、南京事件は例外的なものではない。だからと言って、それが許されるわけではないだろう。

筆者が敬愛する明仁天皇は、終戦70周年の新年の所感で「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学ぼう」と国民に訴えたが、この歴史探訪シリーズはその言葉に啓発されて書いている。
 
“Unless we remember we can not understand” E.M Forster
「思いださなければ、理解はできない」 英国作家 E・M フォースター

 

註:筆者はこの歴史探訪記を書くにあたって、以下の著作にお世話になった。『1937:イクミナ』辺見庸 2015年刊、『時間』堀田善衛 1955年刊、『戦争の記憶』イアン・ブルマ著 1994年刊、『南京事件』笹原十九司著 1997年刊、

 

 

フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。