フランスの田舎で暮らす

土野繁樹の歴史散歩

中国100年の屈辱 その9 1937年 南京事件

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南京入城式    1937年12月17日

 

南京陥落から4日後の1937年12月17日、日本軍による盛大な南京入城式が行われた。東京朝日新聞は翌日の夕刊でその模様を次のように報じている。

 午後1時半松井大将を先頭に朝香宮殿下を始め奉り柳川部隊長,各幕僚は騎乗にて、ここに歴史的大入城式が開始された。嚠喨たる喇叭が響き渡る。何という堂々の大進軍だ。午後2時国民政府正門のセンターポール高く大日章旗が掲揚され、海軍々楽隊の「君が代」が奏でられ始めた。松井方面軍司令官が渾身の感激を爆発させて絶叫する「天皇陛下万歳」の声、全将兵の唱和する万歳のとどろき、ここに敵首都南京がわが手中に帰したことを天下に宣する感激の一瞬である。(記事要約)

 南京が陥落した翌日12月14日、東京では昼には小学生による旗行列、夜には40万の市民による大提灯行列が行われた。小学校1年生だった半藤一利さんは近著『B面昭和史』で、その日のことを次のように書いている。「この南京陥落のお祝いほど盛大なときはなかった。昼は旗行列、夜は提灯行列。一日じゅうお祝いをやっていた。形容すればその夜、東京は火の海と化した。万歳、万歳の声で埋まった」

この国民的熱狂の裏で、日本軍による大規模な処刑、略奪、放火、強姦が行われていたことを国民が知るのは、戦後の東京裁判であった。今回の歴史探訪では、1937年の南京でなにが起こったのか、なぜ起こったのか、事件の真相を究明してきた歴史家の研究成果をもとに記している。事件に直接関与した将官の公式記録と将兵の証言、当時、南京にいた外国人の目撃証言、中国人被害者の証言を読むと、想像を絶する戦争犯罪があったことが分る。「南京虐殺は幻」説はまったく根拠のないことが分る。

 

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日本海軍航空隊の無差別爆撃で炎上する上海 1937年8月

 

歴史家は「木を見て森を見ず」ではなく、個々の事例を検証しながら事件の全体像である森を描くと『南京事件』の著者・笹原十九司教授は言う。

彼が描く事件の序幕は、1937年8月15の日本海軍機20機による南京空爆である。長崎の大村基地を発進した爆撃隊は、960キロを飛び、市内各地に爆弾を投下した。被害の中には、南京図書館のほぼすべての蔵書の焼失もあった。この日から、12月13日の首都陥落まで、海軍航空隊は50数回の空爆を繰り返し、100万都市の機能をマヒさせ、4000人以上の市民の命を奪った。空爆の恐怖を逃れて、裕福な中国人は続々と南京から脱出し、日本軍が南京を包囲した頃には、城内には40万から50万の市民と難民が残っていた。その大多数は、脱出するカネのない貧しい人々であった。

日本海軍航空隊の都市無差別爆撃は、南京だけではなく、華中・華南の60都市を爆撃し、鉄道、駅、橋など交通の要所を破壊し、市民の死傷者もでた。欧米の新聞は非武装都市への空爆の被害を世界に報道し、とくに上海と南京での逃げまどう市民の群れの惨状はニュース映画として大きく報じられた。石射猪太郎外務省東亜局長は「日本の新聞はもうだめだ」と10月4日の日記で書いている。戦果だけを華々しく報道し、市民への被害などどこ吹く風の日本の新聞への痛烈な批判である。当時の新聞は、「報道報国」を求める軍による厳しい言論統制下にあり、軍の応援団に成り下がっていたことが分る。非戦闘員を巻きこんだ空爆への国際的批判は高まり、ルーズベルト米大統領は警告を発したが、制裁を伴っていなかったので「米英、あえて恐れるに足らず」と軍は自信を深めたのである。

海軍機による8月15日の南京爆撃が始まった段階では、日本の軍中央と政府はまだ不拡大方針をとり、局地解決を探っていた。その最中に、国民政府の首都南京の爆撃を推進したのは、当時の海軍次官山本五十六であった。山本が作戦に踏み切った理由は、対米戦のために開発した攻撃機の性能テストのためと、対米戦主要戦略である「先制奇襲攻撃による制空権の確保」を実戦演習するためだったという。空爆の実績をしめすことで、軍部と国民に航空戦力の必要性を認識させ、そのための予算を獲得する目的もあった。石射猪太郎は、海軍の好戦的な動きを知り、爆撃の2日前の日記に「海軍もだんだん狼になりつつある」と書いている。

宣戦布告なしの開戦、非武装都市への無差別爆撃はハーグ条約違反であった。海軍はそれを無視して決行したことを知り、筆者は思わず「山本五十六、あなたもか」とつぶやいた。

海軍の爆撃作戦の「成功」は、軍、政府、国民の間に南京占領は容易であるかの楽観論を生み、対中全面戦争を引きずりこんでいく牽引車の役割をはたした、と笹原教授は言っている。

 

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武藤章            近衛文麿         石原莞爾

 

日中戦争の引き金となった1937年7月7日の盧溝橋事件が起こったあと、陸軍中央は戦線不拡大派と拡大派の間で激しい対立があった。参謀本部石原莞爾作戦部長は不拡大派を代表し、次のように主張していた。「今や支那は昔の支那ではなく国民党の革命は成就し、国家は統一せられ、国民の国家意識は覚醒している。全面戦争になったならば、支那は広大な領土を利用して大持久戦を行い、日本の力では解決できない。日本は泥沼にはまった形となり、身動きができなくなる」

一方、それに真っ向から反対したのが、石原の直属の部下・武籐章作戦課長であった。彼は次のように反論した。「支那は統一不可能な分裂的弱国であって、日本が強い態度を示せばただちに屈従する。この際支那を屈服させて北支5省を日本の勢力下へ入れるべきだ。盧溝橋事件はこれを実現するため、願ってもない好機である。この事件に対処するには、力をもってするしかない」

作戦課員の一人は、華北への派兵を求める武藤と、不拡大方針を堅持し増派を認めない石原が、部長室で怒鳴り合いの口論をしているのが聞こえてきた、と語っている。ふつうなら、上官の決定に従うのがルールだが、日本陸軍下剋上がまかりとおり、独断専行でも結果がよければ、陸軍中央は追認する、お咎めもなく出世もできる、という悪しき前例があったので、武藤は強硬路線を突っ走ったのである。そもそも、石原自身が、関東軍参謀時代に軍中央の意向を無視して、下剋上満州事変(1931年)を起こした張本人だったから、なんとも皮肉な歴史の繰り返しであった。

ともあれ、結果は杉山元陸相などの多数の支持を得て、武藤の拡大路線が国策となり、リアリズムの正論を唱えた石原は作戦部長を辞任した。決定の背後には、一撃で中国を倒せるという軍部の甘い考えがあった。それを近衛文麿首相は積極的に支持し、いやそれどころか、参謀本部より強硬な路線を推し進め、8年間の日中戦争の泥沼に入っていったのである。

拡大路線を選択した近衛首相は、当時45歳で国民的人気のある政治家であった。海軍による南京爆撃が挙行された8月15日、近衛は「南京政府断固膺懲声明」をだしている。これは、蒋介石政府を断固として懲らしめる、という意味だが、盧溝橋事件の直後に起こった通洲での日本人居留民の虐殺(推定260人)などは許さない、との国民へのアピールであった。

通洲事件についてすこし触れる。その年、中国人ゲリラによる居留民と軍人の殺害事件が頻繁に起こったが、その中でも通洲事件は女子どもを含める惨殺だったので、新聞は「鬼畜の行為」としてそれを大々的にとりあげた。同胞虐待に国民は激怒し、中国を制裁せよの声が高まったのである。

しかし、中国人が虐殺された事件については、日本の新聞は報道していない。例えば、満州国建国1周年記念の日に起こった平頂山事件。抗日ゲリラが満鉄の炭鉱町の工場と家屋に放火して、日本人5人が殺された事件である。日本軍は、その報復になんの関係もない集落の村人3000を集め機関銃で殺害し村を焼き払った。

国民は、同胞の無残な死を知り、中国人への憎悪をかきたてたが、同じことを日本軍がやり、中国人が怒り抗日への決意を固めていたことを、戦後まで知らなかった。軍による報道管制のためである。

近衛は国会での施政方針演説(9月5日)で、「暴支膺懲」(暴虐な支那を懲らしめる)を日中戦争の大義名分とし、この戦いに臨むために挙国一致の国民精神総動員を訴えた。その草稿を読んだ石射は「支那を膺懲とある。排日抗日をやめさせるためには最後までブッたかねばならぬとある。彼は日本をどこへ持って行くというのか。アキレはてた非常時首相だ。彼はダメダ」と日記に書いた。

そもそも相手の国に押し入って、言うことを聞かないのは怪しからんから制裁する、という論理は、今日から考えると、傲慢そのものだが、世論はそれを支持していた。軍統制による新聞の一方的な報道のためだ。陸軍省新聞班は、日本軍が中国兵と市民を虐待していると思われるような「残虐ナル写真」の掲載を禁止し、一方で「支那兵ノ残虐ナル行為ニ関スル記事ハ差シ支エナシ」との検閲のガイドラインをだしている。日本軍の蛮行は報道するな、しかし、中国側の残虐行為は大いに書けというわけだ。

内務省もまた厳しい言論統制を敷き、外国新聞の日本批判記事掲載を禁じる指示をだしているから、国民はニッポン国を冷静に見ることなどできなかった。国民は脚色された“現実”を知るだけで、一連の日本人殺害事件に憤慨し「暴支膺懲」やるべしとなったのである。憲兵司令部は「国境ヲ超越スル人類愛又ハ生命尊重」などの思想は軍人の「犠牲奉公ノ精神ヲ動揺」させるという理由で、その取り締まりを各憲兵隊に通達している。思想統制はここまでいっていたのである。満州国のスローガン「五族協和」は国境を越える四海同胞を目指したものではなかったのか。

盧溝橋で日中軍が衝突したあと、戦火の拡大を防ぐために、参謀本部の不拡大方針に従って、支那駐留軍の首脳は中国側とコンタクトをとり停戦交渉を行った。7月11日に、相互撤退で停戦協定が成立し、これで危機が回避されたかに見えた。しかし、翌日の新聞は、近衛内閣が華北への派兵(関東軍2個旅団、朝鮮軍1師団、内地から3個師団)を決定したことが大々的に報じられ、停戦交渉調印のニュースは片隅に押しやられていた。

 

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蒋介石                    蒋介石の日記 Hoover Institute

 

蒋介石は、盧溝橋事件にどう反応したのだろう。彼は翌日の日記に、日本と「戦う時がやってきた」と書いているが、同時に「この挑戦を受けて立つべきだろうか」と慎重だ。しかし、即日、北支への派兵を命じている。7月13日、延安から共産党を代表して周恩来らが、蒋介石に会いにやってきた。この会談で、国共共同戦線(国共が協力して日本軍と戦う)が合意され、蒋介石は共産軍を合法化し、八路軍と命名した。同時に、蒋介石ソ連との間に相互不可侵条約を結び、日本を牽制した。

関東軍と朝鮮軍がぞくぞくと北平(北京)・天津付近に迫っている、との報告を受けた蒋介石は、7月17日、中国国民に向かって「最後の関頭」演説をして徹底抗戦を呼びかけた。「我々はひとつの弱国にすぎないが、最後の関頭に臨んだならば、全民族の生命を賭けて国家の生存を救う。最後の関頭に至ったならばあらゆる犠牲を払っても徹底抗戦する。ふらふらしていたり、安堵の夢にふけっているのであれば、民族は将来にわたってその名誉を回復できないであろう」。

日本軍は北京を7月27日、天津を30日に占領し、その後、戦闘は中支に拡大していった。蒋介石は8月7日、党と軍の最高幹部を集め秘密国防会議を開き、「この戦いはすべての中国人の命運をきめることになるだろう」と言い日本との全面戦争への決意を述べた。
「この戦いに敗れれば、中国が再起するには、数十年、いや何世紀もかかるだろう」「諸君は、戦うべきだと思うか」と問いかけた。日本との融和路線を主張していた汪兆銘を含めて全員が賛成した。

8月に入り戦火が上海へ飛ぶと、蒋介石はドイツ人軍事顧問・ファルケンハウゼンに訓練された精鋭軍団を投入した。松井岩根大将が率いる上海派遣軍10万は、中国を一撃で倒すどころか、国民政府軍50万の激しい抵抗に遭遇し、3か月にわたる凄まじい戦闘が繰り広げられた。市街戦と日本軍の空爆で、上海は無残に破壊され、租界だけがほぼ無傷で残った。日本軍は4万、中国軍は19万の死傷者をだしている。11月初旬、杭州湾に柳川平助中将の第10軍10万が上陸し、中国軍は退却をはじめた。

第10軍の杭州湾上陸で、上海は陥落したものの、上海派遣軍の兵士は3か月もの中国軍との激戦で疲れ果てていた。しかし、拡大派の松井司令官は、この際,南京を一挙に攻略して蒋介石を倒す絶好のチャンスだと考えていた。11月19日、参謀本部の承認を得ないまま柳川が率いる第10軍が南京への進撃を開始した。翌日、その報告電を見た多田駿参謀本部次長はおどろき進軍を止めた。しかし、多田の部下である拡大派の下村第一部長は、天皇臨席のもとに開かれた24日の大本営で、上官の意向を無視して、「現地軍の態勢が可能なら南京攻撃をおこなう」ことの暗黙の了解を得た。またしても、下剋上による国策の決定であった。

 

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日本兵に斬首される中国兵

 

歴史家の仕事は刑事の仕事に似ている。事件を調べるために、あらゆる史料を精査し、関係者に事情を聴取し、現場を訪れて真相解明を試みるからだ。昭和史家としていまや日本の最高峰である半藤一利さんは、自らを歴史探偵と称している。

膨大な史料を駆使して、南京事件の真相を究明している吉田裕教授の『天皇の軍隊と南京事件』は、優れた歴史家の仕事である。彼は、南京戦についての回顧録、私家版、非売品、手書き史料と防衛庁戦史部の史料、たとえば、各部隊が戦闘のあとに書く「戦闘詳細」などの公式記録を吟味し戦争犯罪の痕跡をひろい全体像を描いている。

以下、吉田教授の労作から、南京事件のプロローグになる上海から南京への300キロの道程で起こったことのごく一端を引いてみよう。

盧溝橋事件が起こったとき、ここまで戦端が拡がるとは考えていなかった軍中央は、南京攻略の準備をしていなかった。準備不足の際たるものが食糧の補給である。10月20日、総参謀長が第10軍司令官へ与えた指示は「補給ノ為軍ハ、為シ得ル限リ、現地物資ヲ利用スルモノトス」であった。これは食糧と軍馬の餌を現地で徴発せよと命令で、その結果「行く先々の集落を襲って穀物、家畜を強奪して腹を満たす匪賊のような軍隊になった」(『私記南京虐殺』曽根一夫)のである。

戦時であっても、軍が民間人から徴発すれば、徴発証券(受取証)を発行して、あとで支払うのがルールだが、ほとんど実行されていないようだ。第11師団の経理部員の証言によると、上海から無錫までの進軍の「二か月半というもの、一銭も使っていないんです。すべて徴発ですね。おそらく第3師団も同じでしょう」(『兵科物語陸軍経理部よもやま話』矢部敏雄』)とある。徴発証券が発効されても、中国人所有者が代金の請求に持参したものがデタラメで、たとえば、徴発者の名前が加藤清正とか石川五右衛門になっていて、支払いができなかったという。

人間の徴発もあった。南京への進撃は、「南京一番乗り」の功名心にかられた各部隊指揮官の間の競争で、異常な強行軍となっていた。寒さに震えながらの急進撃に疲れ果てた将兵は、一般民衆を拉致連行し荷物を担がせた。これは、日常茶飯事の光景であったという。

第11師団歩兵連隊の水島信一伍長は、11月20日の日記にその光景を残している。「東の方から雨の中をびしょ濡れになって避難をして来る一家族があった。と突然“コラ!”横合いから一人の兵がとび出してきた。徴発の兵だ。主人は籠の中に入っている子どもを指して赦してくれと兵士を拝んでいる。子どもと妻はワァ―ンと一時に泣き、妻は兵士にとびすがった。兵士は“エーイうるさい”と言い、靴をあげてその妻を跳ね返した。主人は引き立てられていった。妻は泣いた、子も泣いた、雨の中大声をあげて泣きわめいた」

徴発に抵抗した主婦が殺された例もある。以下は「第10軍法務部陣中日記」の公式記録による。11月29日、ある上等兵が湖州において同僚とともに20キロに近い野菜を畑から徴発し、それを付近の農家の中国人婦人3人に洗わせようとしたところ「其ノ中ノ支那婦人ハ、早口ニ何事カ放言シ、野菜ノ洗浄ニ応ズル風ナカリシヲ以テ、日本軍ヲ侮辱スルモノナリトシ、所携ノ歩兵銃ヲ以テ同女ヲ射殺」している。

強姦も珍しいことではなかった。中国人女性はそれを怖れていた。その光景を第6師団の歩兵中隊の上田中尉は手記に書いている「杭州湾上陸以来,私は女達が墨や油や泥を顔や手足や肌に塗り、殊更に臭気を放つ様なボロをまとって、我が軍の入城を迎えるのを知っております。なるべく醜悪に見えるように努めていました」

強姦にともなう殺害も頻発している。強姦は親告罪(告訴がなければ裁判ができない)であったため、犠牲者の口を封じるための殺害であった。当時の陸軍刑法は「戦地又ハ帝国軍ノ占領地ニ於テ、婦女ヲ強姦シタルトキハ、無期又ハ七年以上ノ懲役ニ処ス」と定めていたが、野放状態であったようだ。

松本重治がその著作『上海時代』に、同盟通信の記者から「柳川兵団(第10軍)の進撃が速いのは、『略奪・強姦勝手放題』という暗黙の了解があるからだ」という話を聞いている。これは、兵士に強行軍を強いる代償として、将官が兵士の蛮行を見て見ぬふりをしていたからだろう。

放火も凄まじかった。多田参謀次長は杭州湾上陸直前の第10軍の参謀長にむやみに放火をするなと、指示している。「上海方面ノ戦場ニ於テハ、殆ド全部家屋ヲ焼却セシ為、軍後方ニ於テ病院設備、宿舎等ニ利用スベキ家屋殆ド皆無ニシテ、甚ダシク不利ヲ招ク」(この指示には、中国人の家屋、財産を保護せよ、との明言はない)。

しかし、南京への進撃作戦で、この命令が実施された気配はない。11月4日の第11師団歩兵部隊の水島信一は「森に包まれた民家があちらこちらに火災を起こしている。第一線は余ほどの距離があるのに何故だろうと聞いて見れば、あれは特務兵が退屈だから遊びに行って民家を焼いているのだと聞かされた」。12月3日の国崎支隊の会合で「何等ノ目的ナク故意ニ家屋ヲ焼却スルモノアルモ、皇軍ノ威信ニ関スル問題ナルオ以テ、各隊長ハ十分取締ヲサレ度」(歩兵第九師団「陣中日記」)と指示があったとあるから、軍紀は緩みっぱなしであったことが分る。

 

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抗日ポスター

 

捕虜の大量惨殺もあった。抵抗する意思のない敗残兵の殺害である。第16師団旅団長・佐々木到一は 敗残兵の処分について次のように言っている。「付近の農家を物色する。すると必ず便衣(民間人に変装)の敗残兵が潜伏していた。たいていは一時呆然として降伏もしなければ抵抗もしないものである。しかし問答や憐憫はこの場合絶対に禁物である。とっさの間に銃剣か弾丸がすべてを解決する」(『ある軍人の自伝』)陸軍きっての中国通として知られる佐々木のモットーは「捕ヘタル場合ハ徹底的ニ殺戮ス」であった。のちに彼は南京事件の立役者として歴史に汚名をのこすことになる。

第9師団分隊長であった山本武の日記に試し切りの場面がでてくる。「11月13日。午後3時前、黄渡鎮に到着する。たくさんの将兵が渡河地帯で待機する捕えた中国兵を,試し切りするとかで河岸に連れてくる。第六中隊の脇本少尉が指名され、衆人見守る中で軍刀を抜きはなち、一呼吸の後サッと切り下す。首は体を離れて前に飛び、体はあおむけにのけぞった。あまりの鮮やかさに。一同が拍手かっさいする」(『一兵士の従軍記録』)

第18師団連隊伍長の村田和志郎が11月24日の日記に「進んでいくと八里店近くの、焼け落ちた家屋の跡には、敵の捕虜三〇〇、廻りの竹林内と言わず、家屋内と言わず、惨殺、焼殺されて目もあてられず、それは丁度、東京大震災を想像させられた」と書いている。戦後、村田はこのことにふれ「戦時国際法には捕虜の待遇につき規定されてはいるが、
捕虜の収容には家屋、食物、監督を必要とし、進撃が急である場合には、射殺する戦場習慣があった」と言っている。これは、捕虜は作戦の足手まといになるから殺す、が日常化していたことを示している。

日本軍の殺戮の対象はまったく無実の一般民衆にまで及んでいる。上海戦以来、中国民衆の抗日意識は強烈で「南京に近づくにつれ、抗日感情はいよいよ激しい。部落の土壁には、至るところ『百年抗日』とか『倭寇壊滅』などのスローガンがでかでか書かれ、住民は女。子供でさえ道を聞いても教えてくれない」(小林正雄編『魁 郷土人物戦記』)と第16師団の兵士が書いている。民衆の敵意に直面した日本兵は敵愾心をつのらせ、無差別殺人を各所でやっているが、その数はわからない。

第6師団連隊の小隊長・高城守一の回想は、言葉を失うほどショッキングであるが、現実にあったことなのだ。「南京までの途中、通過する部落は。そのほとんどの家々が破壊され、焼き払われ、道路には敵兵の死体だけでなく、民間人の死体も数えきれないほどころがっていた。途中にころがる無数の死体の中でも婦女子の死体には、下腹部に丸太棒をつき刺してあり、目をそむけたくなるような光景であった。路傍に取り残されて泣いている赤ん坊がいた。その子を歩兵の一人が、いきなり銃剣でブスリと、串刺しにしたのである突き刺した兵は、さらに、刺したまま頭上に揚げた。それも誇らしげに・・・」(創価学会青年部反戦出版委員会『揚子江が哭いている』)

この兵士の狂気の沙汰を、日本人は侵略戦争のシンボルとして記憶に刻むべきだろう。

ここまでは、上海から南京へ進撃する日本軍の蛮行を記したが、南京攻略戦がはじまると、それまで以上の大規模な処刑、略奪、放火、強姦が行われた。日本軍が南京を占領し12月13日以降も、それは6週間も続いた。

 

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松井岩根            朝香宮            柳川平助

 

12月17日の南京入城式の翌日、陸海軍の合同慰霊祭が催された。松本重治はそのときの松井方面司令官の様子を次のように書いている。「慰霊祭はいともおごそかに終わった。私はそれで終わったかと思っていると、松井最高司令官が、つと立ち上がり、朝香宮をはじめ参列者一同に対し説教のような演説を始めた。

「おまえたちは、せっかく皇威を輝かしたのに、一部の兵の暴行によって、一挙にして、皇威を墜してしまった」と叱責のことばだ。しかも、老将軍は泣きながらも,凛として将兵らを叱っている。「何たることをおまえたちは、してくれたのか。皇軍としてあるまじきことではないか.おまえたちは,今日より以後は、あくまで軍紀を厳正に、絶対に無垢の民を虐げてはならぬ」と切々たる訓戒の言葉であった。

松井は日本軍の蛮行を知ってショックを受けていたのだ。しかし、この訓戒が守られることはなかった。

東京裁判南京事件の責任を問われ、A級戦犯として死刑となった松井は、巣鴨拘置所で、花山信勝教誨師に処刑直前に次のように語っている「南京事件ではお恥ずかしい限りです。私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変わっておった。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将もいた。ところが、そのことのあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは『当たり前ですよ』とさえいった」(花田信勝『平和の発見』)

(続く)


註:筆者はこの歴史探訪記を書くにあたって、以下の著作にお世話になった。『南京事件
笹原十九司著 1997年刊、『天皇の軍隊と南京事件』吉田裕著 1986年刊、『南京の日本軍』
藤原彰著 1997年刊、“China’s War with Japan,1937-1945” Rana Mitter 2013,『B面
昭和史:1925-1945』半藤一利著 2016刊
写真はすべてWikipediaから転載

 

フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。