フランスの田舎で暮らす

土野繁樹の歴史散歩

中国100年の屈辱 その8 1936年 西安事件

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西安蒋介石(左)と張学良(左) 1936年12月

 

1936年12月4日、陝西省の首都、西安の飛行場に20人の護衛に守られた蒋介石と幕僚が到着した。西安は唐の時代に長安と呼ばれ、世界で最も美しく豊かな国際都市であった。1300年後の西安は、シルクロードで繁栄していた昔の面影はなく、北伐軍の司令部がある城塞都市になっていた。そこから300キロ離れた陝西省呉起鎮に、毛沢東共産党本拠地(37年に延安へ移動)があった。

 蒋介石は直ちに宿泊先の、玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスで知られる温泉保養地・華清池に向かう。到着するやいなや、副総司令で東北軍を率いる張学良(満州軍閥)と西北軍を率いる楊虎城(陝西省軍閥)を招集し、毛沢東の紅軍の殲滅作戦を命じた。彼は「あと一息だ。2週間から一月もあれば十分だ」と説得するが、二人は、内戦をやめ国民党と共産党は協力して日本軍と戦うべきだと主張し、頑として譲らない。この三者会談は1週間続き、命令に従わない二人に激怒した蒋介石は、11日に彼らを左遷し、中央軍精鋭がその任にあたると告げた。

翌日12日の未明5時、4台のトラックに分乗した張学良の将兵120人が、蒋介石の宿舎を急襲し、彼の護衛との間に銃撃戦がはじまった。その時、蒋介石は少年時代からの習慣である早朝体操をやっていた。蒋介石は、靴をはくひまもなく、薄いガウンとパジャマのまま護衛に守られて脱出する。宿舎を囲む3mの壁を越えるとき、彼は脚を踏み外し転げ落ち、「膝と背中の痛みがひどく3分間も動けなかった」と彼は『西安半月記』で回想している。

蒋介石と護衛が、裏山の月明かりの雪道を登って行くと、一行を狙って下から一斉射撃がはじまった。蒋介石には当たらなかったが、何人かの護衛が殺された。蒋介石は山頂近くの大きな岩の割れ目にひとり隠れる。彼は疲れ果て寒さに震えていた。午前9時ころ捜索隊の兵士の声を聞いた彼は、そこからはい出し、捜索隊長に「わたしは大元帥だ。殺して、早く決着をつけろ」と言った。隊長はその声を無視し、足から血を流し、寒さに震える蒋介石を背負って、山の麓まで運ぶ。彼はそこから車で司令部に連行された。

司令部で張学良と対決した蒋介石は強気だった。「君が逃げ隠れできるところはない。死んでも、骨を埋めるところはない。勇気があるなら俺を殺せ。そうでなければ、罪を告白して釈放しろ」と迫る。張学良が「共産党と戦わずに、日本軍と闘ってほしい」と訴えると「出ていけ」と怒鳴られた。張学良は「あなたのその短気が、いつも問題なのだ」と言った。

この時、蒋介石拉致監禁した張学良と楊虎城は、蒋介石と国民政府に、国共合作の救国政府の樹立、内戦の即時停戦、政治犯の即時釈放、政治的自由の保障、を求めていた。

 

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蒋介石拉致監禁」のニュースは中国全土を駆け巡り、マダム蒋介石宋美齢はそれを上海で聞き南京へ飛んだ。蒋介石はすでに殺されている、という噂が飛び交うなか、南京政府の軍政部長・何応欽は、直ちに西安爆撃機で攻撃すべきだと主張した。宋美齢は反対した。まだ夫の生死の確認はできていない、生きていたら爆撃で彼が巻き添えになるかもしれない、と主張したのだ。激しい議論が交わされ、宋美齢は自分が西安に飛び状況を確認する、と言ったが拒否された。

何応欽が西安空爆の準備命令を下したことを知った宋美齢は、蒋介石夫妻の顧問・W・Hドナルドに連絡し、至急、西安へ飛んでほしいと要請する。オーストラリア人のドナルドはニューヨ-ク・ヘラルド紙の元特派員で、孫文と張学良の顧問の経歴もある異色の人物であった。中国語は話さず中国料理も嫌いだが、宋美齢が最も信頼する友人だった。ドナルドは、アヘン中毒に苦しんでいた張学良にヨーロッパでの療養をすすめ、一年間付き添って完治させたことから、二人は強い絆で結ばれていた。

14日、ドナルドは宋美齢の張学良宛の手紙をたずさえて、西安へ飛んだ。彼は張学良に司令部で会った。若き元帥はドナルドに、過去数か月、国共合作による抗日を説得したが、蒋介石はそれを拒否した、だから身柄を拘束して受け入れを迫っている、と説明した。張学良はドナルドから渡された宋美齢からの手紙を読んだ。そこには、誘拐は国内統一にとって壊滅的な打撃を与える、考え直してほしい、あなたの要求は正当な点があるかもしれない、とあった。ドナルドは、宋美齢から預かった蒋介石の日記を張学良に渡し、これを読めば大元帥の抗日についての真意がわかるはずだ、との彼女の伝言をつたえた。

さらに、ドナルドは楊虎城とその幕僚に会い、蒋介石は釈放すべきだと説得を試みた。しかし、楊虎城は抗日統一戦線に彼が同意しなければ、それはできないと答えた。これらの会合が終わった後、ドナルドと張学良は、蒋介石が監禁されている場所に向かった。二人が蒋介石の部屋に入ると、彼はベッドで上半身を起こし、「君が来てくれると思ったよ」と目に涙を浮かべてドナルドを迎えた。彼が監禁されている部屋は小さく、トイレもなくバケツがあるだけだった。ドナルドは彼に宋美齢からの手紙を渡した。そこには「あなたのために祈っています」とあった。

ドナルドが「宋美齢西安に来る」と蒋介石に伝えると、怒って「山賊の巣窟に連れてくるな」と言った。張学良が快適な場所に移動することを大元帥に勧めると、彼は60時間ぶりに起き上がり、軍服を着て乗用車で庭のある完全暖房の邸宅へ向かった。これには、蒋介石を強硬派の楊虎城の管理下から、張学良の保護下に移動させる意味も含まれていた。車のなかで、蒋介石はドナルドの手を固く握りしめたという。

張学良が邸宅を去り、蒋介石とドナルドが二人だけになると、それまで張を怒鳴りつけていた大元帥の顔を脱ぎ捨て、英語で“Finished, It is finished”(終わりだ。終わってしまった)と言い「これまでの苦労が水の泡になった」と言い、ため息をついた。

この拉致監禁事件は世界的ニュースになった。中国人は蒋介石の運命を固唾をのんで見守っていた。日本の新聞も大々的に取り上げ、その第一報を伝えたのは同盟通信の上海支局長・松本重治(戦後、国際文化会館理事長)だった。筆者は大阪朝日新聞マイクロフィルムで当時の記事を読んだが、連日、一面トップ扱いだった。事件から5日目には“蒋介石死亡 叛乱軍の凶弾に倒れる”と死なせてしまい、長い物故記事を載せているのには、おどろいた。「西安事件の真相」と題する解説記事の見出しは“暴露した支那本然の姿”で、中国は下剋上による権力闘争ばかりで、どうしょうもないというトーンであった。事件の核心である抗日ナショナリズムについての分析はない。

日本の政府の西安事件への反応はどうだったのだろう。クリイブ英国大使は本省宛の外交電報で「日本ノ態度ハ静観ナリ。同時ニ満足ノ意ヲ隠ソウトシテイナイ。日本ガツトニ知ルゴトク、中国人ハ救イヨウガナイコトヲ、今ヤ世界モシルベキダト言ワンバカリデアル」

 

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張学良                  楊虎城

 

蒋介石拉致監禁され、クリスマスの日に決着がつくまでのドラマを語る前に、事件に至る複雑な背景を紹介しておこう。西安事件が起こる半年も前から、蒋介石毛沢東国共合作の秘密交渉をしていたという意外な事実を、前回の記事で紹介した歴史家ジェイ・テイラーが書いている。このほとんど知られていない事実が、果たした役割は大きい。

この秘密交渉は、コミンテルン代表の潘(コミンテルンと国民政府の関係については前回の「蒋介石の革命」を参照)の立ち会いのもと、国民政府の外交部長・張群と共産党周恩来がその任にあたり、12月4日に蒋介石西安に着いた直後、南京でほぼ合意に至っていた。合作宣言の草案も用意され、あとは、蒋介石毛沢東のサインを待つだけであった。

合意の主要点は、次のようなものであった。紅軍の名称の廃止、共産党軍を国民政府軍事委員会の管轄下に置く、地主の財産没収の禁止、民主的政府の容認、国民政府軍が合併する共産党軍は3万。

当時、毛沢東の紅軍は蒋介石の国民革命軍に追い詰められて、その運命は風前の灯であった。国民革命軍が200万に対し、紅軍はわずか3万だから、蒋介石が「あと5分」で毛沢東の息の根を止める、と言ったのは大げさではなかった。殲滅作戦が成功すれば、毛沢東ソ連に亡命するしかないという状況だったのだ。

周恩来は張群との合意を毛沢東に報告するため、呉起鎮へ戻る途中、蒋介石がいる西安に短時間立ち寄っている。しかし、張学良には会わず、合意については沈黙していた。合意が正式になるまでは、極秘扱いになっていたからだろう。一方、張群は蒋介石には報告し、原則的同意を得ていた。蒋介石は、表向きには、抗日戦争は共産党を殲滅したあと、と言っていたが、共産党を骨抜きにできる条件ならよいと考えていたようだ。

その時点では、クーデターは起こっておらず、張学良が蒋介石に必死に国共合作を説いている段階だった。もし、蒋介石が胸襟を開いて国共合意を張学良に伝えていたら、おそらく拉致監禁はなかっただろう。テイラーは、秘密主義の蒋介石は合意が正式なものになるまで、部下は知らなくてよい、と考えたのだろうと言っている。シェークスピア曰く「性格は運命を決める」

コミンテルンの代表が、国共合作交渉に参加していたという事実は、ソ連のスターリの関心の大きさを示している。スターリンは、西安事件が起こる一月前の11月に、日独防共協定(反コミンテルン協定)が結ばれたことに衝撃をうけていた。ドイツと日本が同時に戦争をしかけてくるのでは、と恐れたのだ。

日本の攻撃を防ぐためのスターリンの戦略は、中国が日本と戦うことで、日本軍の力を削ぐというものであった。そのためには、国共は内戦をやめ、統一戦線を結成すべきである。いわば、国共合作による盾つくりである。スターリンは、毛沢東に圧力をかけ合意を急がせた。ソ連中国共産党の唯一のスポンサーで、大量の軍事物資、資金を提供していたから、毛沢東スターリンの意向には逆らえない立場にあった。

スターリンの指示に従って、毛沢東蒋介石との交渉を開始したが、同時に蒋介石の副総司令の張学良を籠絡しにかかっている。張学良の愛国心に訴えて、国共合作の必要性を説き、もし蒋介石が賛成しないなら、君の東北軍と楊虎城の西北軍と共産軍が合併して、反蒋戦線を結成しよう、君がトップになればよいと言い、その交渉を周恩来に指示していた。しかし、それを知ったスターリンは、中国をまとめて抗日できる人物は、蒋介石しかいないと言い、毛沢東案を拒否した。

4月、張学良は密かに延安(当時は楊虎城の支配下)を訪れ、カトリック教会で周恩来と長時間にわたって会談し、国共合作の決意を固めていく。

張学良はなぜこれほど、国共統一戦線にこだわったのだろう。父・張作霖奉天事件で謀殺され、満州(東三省)から追い出された日本軍への恨みもあったが、それだけではなかった。張学良の危機感は次のようなものだった。即ち、日本は満州国だけでは満足せず、2年後には河北省とチャハル省を軍事支配し、「華北自治」の名の下に華北傀儡政権を樹立した。日本は中国支配のため軍を続々と送り込んでおり、このままでは、全土が日本の植民地になる。大都市では学生を中心にデモが繰り広げられ、国民も抗日を要求しているではないか。いまや、中国人同士で戦っているときではない。

10月31日は蒋介石の51歳の誕生日であった。盛大な祝賀パーティが河南省の古都・洛陽で開かれ、張学良も招待された。パーティのあと、張学良は蒋介石に呼ばれ、叱責された。君は共産党を殲滅するより、国共合作をして共通の敵・日本と戦うべきだと手紙で言ってきたが、それは国賊の考えだと。のちに張学良は、その日、大元帥を拉致しようと思ったと回想している。

12月になり、張学良は蒋介石に会い、前回叱責されたにもかかわらず、全国で抗日デモが拡がっていると告げ、団結して侵略者と戦うべきだ、と再び訴えた。だが、大元帥は、いま紅軍を壊滅しなければ、共産党は息を吹き返すと答え、国共合作に反対した。張学良が、それでは西安に来て、楊虎城と高級将校に会い、大元帥の意図を直接話してほしいと頼むと、彼は同意した。

張学良は蒋介石とのこの会話の内容を、毛沢東に電報で伝えている。張学良は、ここでは大元帥拉致の計画には触れていないものの、すでに、11月の段階で、毛の西安における連絡将校・葉剣英には話していた。葉が毛沢東に「張はクーデターを計画している」と伝えると、彼は「傑作だ」と言ったという。

張学良はクーデターに踏み切る直前、毛沢東に電報でその旨を知らせた。それを知った毛沢東は秘書に「明日の朝、いいニュースがあるぞ」と喜んだ。いつもは明け方まで仕事をし、昼まで寝ている毛だがこの日は朝からそのニュースを待っていた。正午にクーデター成功の至急電が呉起鎮に届いた。

 

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スターリン              毛沢東

 

蒋介石の監禁のニュースを知り、共産党本部は大歓声に包まれた。毛沢東は大喜びだった。彼と紅軍司令官・朱徳は、蒋介石を直ちに処刑すべきだと考えた。しかし、彼らの一存では決められないので、スターリンに電報を打ち、蒋介石人民裁判にかける提案をした。同時に、毛沢東は張学良にメセッージを送り、彼を「抗日の国民的リーダー」と持ち上げて、蒋介石には「断固とした」対応をすべきだ、と示唆した。

西安クーデターを知ったスターリンは、毛沢東のように朗報だとは考えなかった。この異変は彼の戦略の大きな障害になると思ったからだ。

蒋介石監禁を知った大元帥側近の陳立夫(張群と周恩来の秘密交渉にも参加)はコミンテルン代表・潘に頼んでモスクワの本部へ「万一、大総統の身に異変があれば、中国はリーダーなしで日本と戦うことになる。これはソ連の利益にはならないだろう」と警告の暗号電報を送った。

また、スターリンのスパイは、何応欽が中央軍の西安への進軍を命じ、ヨーロッパ滞在中の汪兆銘に直ちに帰国するよう要請した、とモスクワに伝えてきた。このメッセージは、蒋介石が死んだ場合、その後継者に、親日汪兆銘か何応欽がなることを意味していた。また、汪兆銘ヒトラーと会見し、国民政府の「日独反共協定」への参加と交換にドイツからの援助を交渉していたので、スターリンにとって事態は深刻だった。

毛沢東の電報を受け取ったスターリンは、ソ連は「陰謀」に組さない、これは日本が仕組んだものではないか、毛沢東同志は蒋介石と話し合い、平和的に解決して彼を釈放すべきだ、と返信した。そのトーンはアドバイスではなく命令だった。エドガー・スノーは『中国雑記』のなかで、マダム孫文宋慶齢から聞いた話として、スターリンの電報を読んだ毛沢東は「顔を真っ赤にし、悪態をつき、怒り狂っていた」と書いている。しかし,大スポンサーに逆らうことはできない。12月15日、毛沢東朱徳周恩来は連名でスターリンに「平和的解決をする」と確約の書面を送った。

スターリンには、蒋介石の息子・蒋経国という切り札があった。ロシア人の妻と幼い子供のいる蒋経国は、ウラルの工業団地で働いていたが、スターリンの命令でモスクワに呼び戻されていた。スターリン周恩来に電報で「西安蒋介石との交渉で、国共合作が成立すれば(12年ぶりの)蒋経国の帰国が実現されるだろう」と伝えるよう指示している。

 

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周恩来                 宋美齢とW・Hドナルド(西安飛行場)

 

周恩来呉起鎮からロバにのって130キロ先の延安に辿りつき、そこから張学良が差し向けた飛行機で17日に西安に到着した。張学良に会った周恩来は「蒋介石の髪一本も触ってはならない」と言ったという。そして彼は、スターリンコミンテルンは、蒋介石が中国の指導者として残ることを要求している、と伝えた。周恩来はまた「蒋介石が統一戦線の原則に同意するだけでいい、同意すれば直ちに釈放せよ、その実施は彼の意思にまかせろ」と言った。

12月20日、宋美齢の兄で国民政府の重鎮・宋子文西安飛行場に到着すると、張学良が迎えにきていた。張学良の案内で蒋介石がいる邸宅に着き、宋がひとりで部屋へ入ると、大元帥は北伐と紅軍打倒に10年をかけ、あと一息で紅軍を粉砕することが出来たのに、囚われの身になった、と嘆いた。宋子文宋美齢からの夫宛の手紙を渡した。それには「もし兄が3日以内に南京へ戻ってこなければ、わたしは西安へ行き、あなたと生死を共にします」とあった。蒋介石はそれを読み、涙を流した。

宋子文は、張学良と楊虎城に会い、大元帥は二人を許すと言っている、だから釈放してほしい、と訴えると、われわれが要求しているのは統一戦線だと言い拒否した。宋子文は、宋美齢西安へ来て、蒋介石に妥協するように説得する以外、他には手がないと思った。

南京では、宋美齢の要請で、何応欽が西安爆撃をさらに3日間延期することに同意した。その同意をとると、12月22日、彼女と宋子文とドナルドと秘密警察のボス戴笠は西安へ飛んだ。宋美齢蒋介石の部屋に入ると、痩せて弱々しくなった彼は涙を浮かべながら、なぜこんな危険なところに来たのだと言い、妻を叱った。が、すぐその後で、実は今朝、旧約聖書のエレミア書を読んでいると「神は汝を女によって守らし給う」(筆者意訳)という言葉に出会った、と穏やかに言った。

その日、宋美齢は張学良と会った。張学良は大元帥の日記を読み、蒋介石がいかに抗日救国に心を砕いているか知り、自分が重大な過ちを犯したことを恥じている、と宋美齢に告白した。即刻、大元帥を釈放したいが、楊虎城と彼の部下が、それに反対している、との張学良の言葉に、宋美齢は、夫が無事に南京に帰還できれば、あなたは処罰されないことを、わたしが約束する、と応じた。

22日の夜、蒋介石宋子文周恩来に4つの条件を伝えるよう指示した。その条件とは、中国におけるソヴィエト地区の廃止、紅軍の名称廃止、階級闘争を止める、大元帥の命令に従である

さらに、蒋介石は、中央軍の西安への進軍停止を命じる、抗日戦争がはじまれば、共産軍に軍事物資と資金の提供をする、とも言った。宋子文がそれを周恩来、張学良、楊虎城に伝えると彼らは満足したように見えた。しかし、しばらくして、張学良が宋子文の部屋にやって来た。楊虎城が、なんらかの合意書を手にするまで、大元帥は釈放できないと言い張って譲らないという。宋は、蒋介石はこの状況下では,死んでも署名はしないだろう、と答えた。

事態を打開するため、張学良とドナルドは、宋美齢周恩来と会うことを提案した。周恩来宋美齢との2時間半の会談のなかで「中国を率いる人は、蒋介石しかいない」と言っている。

クリスマス・イブの午後8時、周恩来が宋子に伴われて蒋介石に会いにきた。彼は直立不動で敬礼し、黄埔軍官学校時代の上司に「校長おひさしぶりです」と挨拶した。蒋介石は「われわれは、これまで敵味方に別れて戦ってきた。しかし、わたしは君のことを時々思いだしていた。また、一緒に仕事ができればいいね」と応じた。

それに対して周恩来は「抗日で、共産党員はあなたをリーダーとして支持したい」「この事態を解決する方法は、唯一、上海と南京で行われた数か月の国共交渉の合意に基づくことです」と言い、楊虎城がこだわっていた合意書には一切ふれなかった。会談も終わりちかく、周恩来は「ご子息の蒋経国が間もなく帰国されるでしょう、愛国者であるご子息は、父上が侵略者と戦うことを望んでいると思います」と言った。

この瞬間、二人はあうんの呼吸で、抗日統一戦線の結成に基本合意したのであった。

12月25日の早朝、ドナルドが “メリー・クリスマス”と挨拶しながら、蒋介石夫妻の部屋に入ってきた。彼は、宋美齢に小型タイプライター、蒋介石にひざ掛けのプレゼントを贈った。事件以来、はじめて蒋介石破顔一笑した。

翌日26日の午後2時、宋美齢は、張学良が幕僚の前で「わたしは、自分の意図が高潔なものであることを国民へ示すため、大元帥とともに南京へ行く」と語っているのを目撃した。その直後、宋子文が「楊虎城が、西安飛行場からわれわれが飛び立つことに同意した」と、蒋介石夫妻と側近に伝えた。すると蒋介石は、張学良と楊虎城と話したいと言った。二人が現れると、彼は、君たちには個人的な恨みはない、二人の行動を許す、わたしは救国のために行動している、と語った。

蒋介石一行と張学良は、ボーイング機に乗って洛陽で一泊し、27日、南京に到着した。空港から市街までの沿道に、大元帥の無事帰還を喜ぶ40万人の南京市民が並び、爆竹の音が鳴り響いた。西安へ飛び立ったときの蒋介石は人気のあるリーダーだったが、帰ってきたときには国民的ヒーローになっていた。

 

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蒋介石夫妻 1936年12月27日

 

南京へ帰還した日の夜、蒋介石は側近の陳立夫をベッドルームに呼んだ。陳が「周恩来の態度はいかがでしたか」と尋ねると「非常に良かった」と言った。そのあと、陳は「陝西省に国民革命軍の大部隊が集結していますが、この機会に一挙に紅軍を殲滅してはどうでしょう」と言うと、蒋介石はうなだれて何も言わなかった。蒋介石は約束を守ることを選んだのだ。この瞬間、紅軍を殲滅し、毛沢東共産党を潰す機会は永遠に失われたのである。蒋介石が疲れているのを見て、陳は急いで部屋を出た。

クーデターを起こした張学良は、南京の軍事法廷で10年の懲役を科られたが、蒋介石の特赦で釈放された。しかし、秘密警察の監視のもと50年間を軟禁状態で暮らした。80年代後半、中華民国総統李登輝によって戒厳令が解かれたのち自由になり、1991年、妻と共にハワイへ移住し、100歳で亡くなった。死後公開された張学良のオーラル・ヒストリーで、彼は蒋介石は「究極のエゴイスト」であったと語っている。

クーデターの共謀者・楊虎城の運命は過酷だった。蒋介石釈放後、周恩来の配慮で楊とその家族はフランスに旅立った。しかし、翌年、日中戦争がはじまると帰国し、蒋介石に戦線復帰を申し出たがが許されず、逆に逮捕され、その後の12年間を自宅に軟禁された。1949年、国共内戦蒋介石が敗れ、台湾へ都落ちする直前、彼は秘密警察に命じ、楊と幼い息子と娘を無慈悲にも殺害した。

1936年の西安事件は中国史の流れを変えたが、同じ年に、東京で起こった2・26事件もまた、日本の歴史の流れを決定的に変えることになる。雪の降る日のクーデターで、首相官邸、警視庁、陸軍省朝日新聞などが占拠され、首相、侍従長、内大臣、大蔵大臣、陸軍教育総監が襲撃され、そのうち3人が殺害された。この事件以降、軍に反対する者は誰であろうと容赦しない、という体制が確立し、政治家、財界人は恐怖に駆られ何も言わず、心ある人々は沈黙を強いられたのである。

蒋介石は2月27日の日記に「日本の変によって禍乱は日ごとに深まり、侵略は必ず暴烈さを加えよう。われわれとしては、自力更生に励むのみで、全力で準備をととのえ、自救の道とすればよい」と書いている。事実、2・26事件のあと、帝国陸軍の中国への侵略はピッチを上げた。蒋介石の日記には倭寇、臥薪嘗胆、雪恥(雪辱)と言う文字がたびたび出てくる。この屈辱はいつの日にか、晴らしてみせる、との思いをこめた言葉だったにちがいない。

西安事件から半年後の1937年7月、北京郊外の盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)での日中両軍の衝突をきっかっけに、8年わたる日中戦争がはじまった。昭和天皇陸軍大臣杉山元に「どのくらいの期間で片づけるつもりだ」と問うと、彼は「1か月」と答えている。これこそ、イイカゲンの極致だった。軍は、中国は一撃で倒れると本気で思っていた。中国人を見くびっていたツケはあまりに高くつき、日本兵45万人が亡くなった。侵略された中国では、2000万人の兵、市民が亡くなっている。

註:筆者はこの歴史探訪記を書くにあたって、以下の著作にお世話になった。“The Generalissimo: Chiang Kai-Shek and the for Modern China”(大元帥、蒋介石と近代化のための苦闘)Jay Taylor著2009年刊、”Generalissimo:Chiang Kai-Shek and the China He Lost “ (大元帥、蒋介石とその失われた中国)Jonathan Fenby著 2003年刊、『真相・西安事件 蒋介石秘録11』 サンケイ新聞社 1976年刊
写真のクレデットはすべてWikipedia

 

フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。