フランスの田舎で暮らす

土野繁樹の歴史散歩

中国100年の屈辱 その6 孫文と宮崎滔天②

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辛亥革命911(映画) 香港・中国共同製作 2011年   成龍英皇影業有限公司

 

1900年9月末、孫文は平山周を伴って台湾へ向かった。間もなくはじまる広東省恵州蜂起への武器支援を、台湾総督の児玉源太郎に申しいれるためであった。台北での会見で、児玉は中国革命に賛同し武器給与を約束した。平山の回想録によると、孫文が日本の福建省割譲を黙認するという条件付きであったという。孫文の「滅満興漢」戦略は、まず南清に独立国家を樹立し、北京に攻め上ることであったから、その危険な取引をのんだのだろう。

児玉から武器給与の約束をとりつけた孫文は蜂起を命令した。10月8日、鄭士良が率いる600人の蜂起軍(日本の義勇軍は東京で解散)が戦闘を開始し、破竹の勢いで進軍し2週間後には2万人の軍勢に膨らんでいた。同月19日、日本で政変があり、首相が山県有朋から伊藤博文へ変わった。これが、孫文にとって致命的打撃となる。列強との協調路線をとる伊藤は、児玉に革命軍への肩入れをするなと厳命したので、孫文は武器調達の望みの綱を切られたのだった。

現地の司令官、鄭士良から「武器タラズ、至急オクレ」の電報を受け取った孫文は、フィリピン独立運動のために買った武器が門司に残っていることを思いだす。孫文は台北から東京の滔天にその手配を頼むと「事情アリ送レヌ」との返信がきた。期待を裏切られた孫文は、信頼する山田良政を前戦に使者として送り、鄭士良に事情を説明し、戦闘継続か否かは君に一任する、と指示した。2万の蜂起軍には武器がほとんど残っていない現実を前に、司令官は1000人を残して軍を解散し最後の戦いに挑む、という苦渋の決断をする。清の大軍は残軍を追い詰め全滅させ、武器補給ができなかった恵州蜂起は失敗に終わった。戦死者のなかには、弘前出身の33歳の山田良政もいた。孫文はのちに、この中国革命初の日本人犠牲者の碑を建て、弔っている。

悄然として東京へ戻ってきた孫文は、日本から武器が送られなかった理由を滔天から聞く。門司の倉庫にあった弾薬250万発は廃棄弾薬で役に立たず、その上、中村背水が陸軍の弾薬を高値で買いピンハネしていたと告げて平謝りする滔天に、孫文は「中国にも悪い奴はいるよ」と言ったという。

 

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文学座公演のチラシ 1976年2月  Wikipedia

 

中村背水のスキャンダルは中村が犬養の友人だったことから、マスコミが大々的に報じた。犬養はその扱いに苦慮し、やっとその年の暮れになって、元法制局長官の神鞭知常が赤坂の料亭に関係者を呼び調停をし、中村が邸宅を売って孫文に1万5000円を弁償することで決着した。また、神鞭の要請で、調停に立ち会った関係者は、事件の経過と調停内容を極秘にすることを同意した。そのなかに滔天も入っていた。彼は中村の背信を許せず一時は告訴も考えたが、裁判となると恩人の犬養に迷惑がかかると思い断念したのだった。しかし、滔天はこの事件の決着内容につき口外無用の約束を守ったために、とんでもない誤解を受けることになる。

赤坂の料亭での調停のあと、滔天は孫文の依頼で上海へ行き戻ってくると、彼が告訴を取り下げたのは中村とつるんでいたからだ、1万円をくすねて上海へ逃亡した、などの噂が同志の間で流れていたのだ。孫文と犬養の耳にもその噂が届いていたが、彼らは滔天を信じていたので気にとめていなかった。

しかし、仲間割れを心配した犬養は一緒に酒でも飲もうと一席設けた。新年会に犬養が到着する前に、気の短い内田良平が「事件の決着を教えてくれ」と迫ると、滔天は「犬養先生の許しがないと話せぬ」と拒否した。すると、内田は「なぜ中村を殺さないのか」と糾弾した。滔天が「殺すに値すれば殺す」と開き直ったので、怒った内田は滔天の顔を皿で殴った。滔天は血だらけになり応戦するが、気が付いたときは医者の手当てを受けていた。

芸者屋二階の愛人、留香の部屋に居候していた滔天は、その日から同志とのつきあいを止め、外出がめっきり減った。滔天は大勢の同志が自分をこれほど疑っているのにショックを受け、これまでの自分の人生はなんだったのか、と深い自己懐疑に陥ったのだった。志はともかく、家族の面倒もみず豪傑を気取ってやりたいほうだい、革命事業も失敗続きではないかと。

1901年の暮、故郷から上京してきた妻のツチに、滔天は突然、浪曲語りになると告げる。それを聞いたツチは仰天する。彼女が「なぜそんなことを」と尋ねると、彼は次のように答えている。他人に頼る浪人暮らしは嫌になった、浪曲をうなれば憂さ晴らしにもなる、坊主が経を読んでお布施をもらうのと同じで、卑下することもあるまい。

犬養は滔天に思い止まれと迫り、神鞭は泣いて諌めたが、頭山は君の好きなようにやるのがよい、と激励した。滔天の決意は固かった。もともと浪花節が大好きで余興にうなっていた彼は、当時、浪曲界の若手のホープと言われた桃中軒雲衛門に弟子入りし修行する。浪花節語りになりひと山当てようと思ったのだろうが、そうはいかなかった。桃中軒牛右衛門の名でデビューした彼は、地方巡業時代に大当たりしたこともあったが、しばしば一日、一食で済ましたという。東京へ戻ってからは寄席にでて稼いだが、暮らしは楽にはならなかった。「余は侠客を歌わんために浪花節界に投じた」と言っていた彼の浪花節の腕前はというと、声は良いが、あまりうまくはなかったようだ。

滔天はいつも浪花節のまくらに、己の人生への思いを込めた自作「落花の歌」を唄っていた。「浮世が侭になるならば、非人乞食に絹を衣せ、車夫や馬丁を馬車に乗せ、水呑百姓を玉の輿、四民平等無我自由、万国共和の極楽を、この世に作り建てなんと、心を砕きし甲斐もなく・・・・」

 

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黄興  Wikipedia     「民報」創刊号    Wikipedia     宋教仁  Wikipedia

 

1902年夏、滔天は『33年の夢』を刊行しているが、2年後に漢訳本『孫逸仙』がでている。この訳本が日本に来た中国人留学生の間で評判になり、滔天の浪曲を聞きにくる学生が増え、楽屋を訪ねて孫文支援に礼を言う者もいた。日露戦争が終わった1905年に、清王朝は1300年続いた科挙の制度を廃止し留学を奨励したので、その年の在日留学生が8000人、翌年は1万2000と急増した。多くの留学生が滔天の本を読み、孫文の人と思想を知り革命支持者になったから、滔天も気をよくしたに違いない。

その頃、滔天は留香と別れて、ツチと3人のこどもを東京へ呼び寄せ、ようやく家族が一つの屋根の下で暮らすようになる。それまで夫からの仕送りは皆無で、下宿屋、石炭小売店、石灰屋、牛乳屋をして、3人のこどもを育ててきたツチの苦労は並大抵のものではなかった。相変わらず貧乏だったが、滔天は元気を取り戻し、浪曲語りをやりながら革命活動を再開する。

新宿番集町の滔天の家に、漢訳本『孫逸仙』を読んだ中国人留学生が頻繁に訪問するようになる。その中に後に滔天の親友になる黄興がいた。末永節の紹介で滔天の楽屋を訪れた彼は、前年に湖南省長砂の武装蜂起に失敗し、首に懸賞金がかかっている亡命者だった。その日、二人は意気投合し兄弟のような付き合いがはじまった。のちに犬養は、革命組織「華興会」の創立者である彼を評して「将来、大総統になる器である」と思っていたと語っている。日本人同志は彼の包容力と風貌から「シナの西郷」と呼んだ。

恵州蜂起に失敗した孫文は日本を去り、世界中の華僑を相手に資金集めをしていたが、1905年7月、2年半ぶりに横浜に帰ってきた。彼は一息つくとすぐに東京の滔天に会いに行った。その日の出来事を滔天は次のように記している。孫文が「ここ数年で留学生が増えたらしいが、元気のある青年はいないか」と聞くので「黄興という男がいる。こちらへ呼びましょうか」と言うと「そんな面倒なことはいらない。二人で会いに行こう」と言う。神楽坂の黄興の滞在先を訪ね、近くの支那料理屋に黄興と彼と同宿していた末永を案内した。初対面のあいさつのあと、孫文と黄興はあたかも旧知のように天下革命を論じはじめた。約2時間、二人は議論をしていたが、最後に万歳を唱えて祝杯を挙げた。

万歳と祝杯は孫・黄連合がなった瞬間だった。そのお膳立てをした滔天の気分は最高だったに違いない。その日から事は一挙に進み、孫文が来日してわずか10日目に、中国各地にある両者の革命組織が「中国同盟会」として発足したのである。会場は滔天と和解していた黒龍会の内田の家だったが、70人もの中国人が来たので会議中に座敷の床が抜けてしまったという。綱領は「駆除韃虜、 恢復中華、創立民国、平均地権」(平均地権は土地の国民所有)とした。それから3週間後、衆議院議員の坂本金弥の邸宅(現在、ホテル・オークラがある場所)で正式発足会が開かれた。孫文が総理に黄興が副総理に就任し、機関紙「民報」の刊行が決定された。

『民報』は毎月4-5万の発行部数のベストセラーとなり、読者は日本、欧米、アジア諸国、中国国内に広がった。この雑誌刊行を住み込みで手伝ったのがツチの姉の卓で、民報おばさんと呼ばれスタッフに慕われた。漱石の『草枕』のヒロイン那美は卓をモデルにしている。

翌年、神田の錦輝館で『民報』創刊一周年記念会が開かれた。来賓で登場した滔天を、数千人の中国人留学生が万雷の拍手で迎えたあと、孫文が「三民主義」(民族主義民権主義民生主義)をテーマに演説をした。孫文がそのスローガンを公にした画期的な日であった。演説の中で彼は実に簡潔に「三民主義」を説明しているので引いてみよう。

「我々の革命の目的は,衆生のために幸福を図ることで、少数の満州人が利益を独占することを願わないから、民族革命を求めるのであり、君主一人が利益を独占することを願わないから、政治革命を求めるのであり、少数の富者が利益を独占することを願わないから、社会改革を求めるのである」。このように、孫文の演説はいつも明快であった。だが、この歴史的スピーチを報道した日本の新聞は一紙もなかった。当時の新聞人は日露戦争の勝利に浮かれ、孫文にも「中国同盟会」にも関心がなかったのだろうか。

滔天の狭い家は「中国同盟会」結成前後から千客万来になった。横浜から孫文は週に数日泊りがけでやってきて、留学生がひっきりなしに訪れた。仙台医専を退学した25歳の魯迅もその一人で、のちに胡漢民汪兆銘など中華民国と国民党の要人となる人々が宮崎家に出入りした。その上、宋教仁(のち辛亥革命を成功させた武昌蜂起のリーダー)が居候となり、黄興の二人の息子を自宅で預かり学校に通わせるなど、一家はてんてこ舞いだった。それを嫌な顔をせず一手に引き受けたのはツチであった。ツチあっての滔天の中国革命だったのだ。

 

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中国人留学生 黄興(前列左)  Wikipedia

 

「中国同盟会」の旗揚げを清政府は黙ってはいなかった。北京政府は日本政府に留学生の政治活動封じ込めを要請する。数か月後、文部省は「清国留学生取締り令」を制定し、大学入学には清国公使の紹介状が必要となり、大学には留学生の校外活動監視が義務づけられた。怒った留学生は反対運動に立ち上がったが、日本の新聞は傲慢だった。例えば、東京朝日は学生の抗議を「清国人の特有性なる放縦、卑劣なる意思」から出ている行為であると非難している。日本政府の措置に憤慨し多くの留学生が帰国した。

同盟会の発会式から2日後、孫文は湖南・江西の省境で武装蜂起を命じた。清軍はこの蜂起に手をやき、鎮圧までに1年以上の時間がかかっている。1907年初め、北京政府は日本政府に騒乱の元凶、孫文の国外追放を厳しく要求してきた。国外追放はまずい、日本と同盟会双方の面子が潰れると考えた内田は一計を案じる。「自発的退去」である。滔天はその案を孫文に進言すると、彼はあっさり受け入れた。

内田は赤坂での送別会の席で、外務省からせしめた6000円を孫の面子を傷つけないように自分の餞別として贈っている。内田の“面子外交”の背景には、孫文が「日本が援助してくれれば、満蒙を譲渡する」としばしば言っていたことへの期待があったのだろう。孫文万里の長城の外にある異民族の地には関心がなかったようだ。

孫文は革命の本拠地を東京からハノイへ移し、その年四回の武装蜂起をするが、ことごとく敗北した。滔天は相変わらずの貧乏暮らしで、どん底のときには豆腐のだしがら、おからが一家の常食だったという。それでも二人は革命を諦めなかった。

 

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孫文を囲む日本人支援者の辛亥革命記念写真(1911年12月下旬、香港から上海に向か
う船上にて)前列左から、ホーマー・リー(孫文軍事顧問)山田純三郎、胡漢民
孫文、2人おいて廖仲愷、後列左から6番目:宮崎滔天  益財団法人 孫中山記念会

 

孫文は武装蜂起を10回も試みたが、いずれも失敗し連戦、連敗であった。その念願が11回目の湖北省武昌の蜂起でやっとかなう。十転び十一起きであった。260年続いた清朝を倒し辛亥革命を可能にしたその蜂起は、予期せぬ事故からはじまった。

蜂起を計画したのは、宋教仁ら日本留学組であった。彼らは孫文の指導する蜂起の度重なる失敗にしびれを切らし、上海に本部を置く中部同盟会を組織し、清軍の軍人を密かにリクルートして挙兵に備えていた。湖北新軍と呼ばれる武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)の政府軍の三分の一の将兵5000人はいわば隠れ革命派であった。蜂起の日が10月6日に決まった。しかし、状況が変わる。湖北新軍に四川で起こった暴動鎮圧の命令が下ったのだ。蜂起の中核となる彼らなしでは勝算なし、と見た本部は決行を延期する。

しかし、10月9日、漢口のロシア租界にある革命派のアジトで、タバコの火が原因の爆薬の爆発事故が起こり状況は一変した。現場に駆けつけたロシア警察が、組織の会員名簿や決起計画書を発見し、それを湖北省総督府へ連絡したからだ。瑞澂総督は直ちに北京に援軍を要請し、しらみつぶしの捜索を開始した。軍人会員が処刑されるのは、時間の問題になってきた。

10日夜、工兵大隊長以下40人の革命派軍人は一か八かの勝負にでた。彼らは楚望台の武器庫へ急いだ。幸いにも武器庫の守備隊長がシンパだったので、銃弾薬を確保した300人の将兵は城門を突破する。やがて、城外の砲兵隊が応援に駆けつけ、山砲を城壁にかつぎあげ、総督府へ砲弾を撃ち込み炎上させた。身の危険を感じた瑞澂総督と師団長は長江に待機させていた軍艦に逃れ、清軍は降伏した。清軍の敗北の原因は、指揮官、兵士ともに戦意がなく降伏する者が多かったからだという。11日の正午までに3000人の革命軍が武昌を完全制覇した。

10月12日朝、米国で遊説中の孫文コロラド州デンバーのホテルで、地方紙の“革命軍、武昌を占領”の見出しを見て蜂起成功を知った。実は、孫文は成功するとは思っていなかったので,その喜びは天にも昇るほどだったに違いない。はじめ孫文は米国からまず日本へ行き、祖国へ直行するつもりだった。彼は滔天に電報を打ち、日本政府の受け入れの意思を探った。西園寺首相は、偽名での入国なら許可するという。

孫文は堂々と日本へ行き、政府要人に革命の意義を訴えて、祖国へ向かうつもりだったので、偽名を使ってまでの入国は断った。今から思えば、偽名なら許可という姑息な方針は、政府が清朝と革命派に両股を賭けていたからだろう。日本行を諦めた孫文は列強の革命介入を防ぐため、ロンドンとパリを訪れ厳正中立を要請した。孫文の訪欧のもうひとつの目的は、新国家建設のための資金調達をすることだったが、融資をしてくれる銀行はなかった。頼るは華僑だった。革命の実現性が高まると世界の華僑からの寄付が殺到した。孫文は後に「華僑は、革命の母である」と言っている。

武昌蜂起以来、革命軍と清軍との戦闘は続き、南京攻防が天下分け目の戦いとなった。12月2日、南京は陥落し、捕虜となった清軍の兵士の辮髪はひとり残らず切り落された。その間、独立を宣言する省が続出し「中華民国臨時政府」への帰順を誓った。その省の数は17となり、国土の3分の2を占めた。12月半ば、清朝の総理大臣、袁世凱は英仏米の仲介による講和を革命軍に申し入れ、20日に双方の実力者の会議で「共和政府を中国唯一の政府として樹立する」ことが決定される。

辛亥革命への日本人の同情と期待は大きかった。3000人の中国人留学生が祖国再建のために帰国するとき、日本の大衆が示した思いやりと激励はその証であろう。夏目漱石は「日本人は皆革命党に同情している」と日記に書き、病床の石川啄木は「朝々新聞を読む度に,支那に行きたくなります」と書いている。当時の日本政府の日和見外交とは対照的だ。

12月21日の朝、孫文を乗せた英国汽船デンバー号が、香港港に到着した。マルセーユからの長旅だった。孫文から知らせを受けた滔天は、同志3人、香港総領事とともに彼を出迎えた。そのとき、孫文は滔天に日本政府はこの革命に干渉するのではないか、と尋ねている。滔天が「干渉などしない」と言い切ったので、安心したという。香港での歓迎会で演説して華僑に資金集めを訴えると、彼らは300万ドルの調達を約束した。その後、孫文は滔天とともに客船デブンナ号で上海へ向かう。その船には孫文を支援する十数人の日本の友人が乗っていた。12月25日朝、上海埠頭に孫文が降り立った。大勢の市民が大歓声をあげるなか、孫文は犬養と羽織袴の頭山を見つけると、駆け寄り二人の手を握りしめ大粒の涙を流した。

 

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孫文  Wikipedia      清のシンボル「弁髪」を切る Le Petit Journal    袁世凱 Wikipedia

 

12月29日、独立を宣言した17省の代表が南京に集まり、大統領選挙を行った。総数17票のうち孫文が16票、黄興が1票を獲得した。かくして孫文は南京を首都とするアジアで最初の共和制の中華民国の初代大統領に就任したのである。1912年元旦、中華民国政府が正式に発足し大統領就任式が旧両江総督府の大広間で行われた。世界中の外交官や日本の同志が招かれたその夜の大祝賀パーティでの、孫文のモーニング姿は輝いていた。滔天の夢はかなえられた。しかし、事態は暗転する。

北京には清朝の実力者、袁世凱が北京政府の総理大臣として陣取っていたので、中国には南北二つの政府が存在していた。2月に入り、軍も資金もない南京政府と、その両方がある北京政府との間で南北協議が行われ、孫文は妥協する。彼は共和制維持を袁に約束させ、その見返りに大統領の地位を袁に譲ったのである。2月11日、清朝皇帝の溥儀(6歳)が退位し、14日に孫は大統領の職を辞した。

在職わずか45日間であった。トンビに油揚げをさらわれたような結末に、滔天の無念さは想像にあまりある。だが、彼は孫文の苦しみもよく知っていた。滔天はこれまでの苦労への感謝の気持ちを込めて、妻のツチと息子の龍介を南京に呼んだ。大統領官邸にツチを迎えた孫文は「荒尾の刺身がうまかった」としみじみとした調子で言ったという。

 

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荒尾の宮崎家を訪れた孫文と龍介、ツチ、滔天 1913年 宮崎兄弟記念館

 

大統領を辞した孫文の前には、革命第二幕ともいうべき苦闘が待っていた。以下、辛亥革命後の孫文と滔天の歩みを駆け足でスケッチしてみよう。

1913年2月、孫文、日本に国賓として招待される。滞在中、滔天の荒尾の生家を訪れた。二人は長崎で、総選挙で圧勝した国民党(中国同盟会を中心にした党)のリーダー宋教仁暗殺のニュースを知る。袁世凱が放った刺客の仕業だった。孫文は帰国し袁打倒の武装蜂起をして第二革命を目指すが完敗。8月、孫文と黄興は再び日本へ亡命した。

頭山満は自宅に隣接する東京赤坂の邸宅に孫文をかくまい、生活費は福岡の炭鉱オーナー、安川敬一郎が引き受けた。その頃、孫文は上海の大実業家で支持者である宋嘉樹の娘、宋慶齢に会い一目惚れした。二人は相思相愛の関係になり、年が違いすぎると猛反対する父親を振り切って、慶齢は彼のもとに走った。

犬養に趣味はWomanと言った孫文は、前の亡命時に横浜で見初めた大月薫との間に子供をもうけていた。さらに、親が決めた妻、盧慕貞との間に三人の子供があったが、離婚して26歳も若い宋慶齢と結婚した。1915年11月、孫文の大スポンサー梅屋庄吉(日本映画界のパイオニア)の新宿百人町の屋敷で披露宴が行われ、犬養、頭山、滔天など同志が集まり二人を祝福した。

孫文の革命に共感して支援した日本の実業人はいたが、梅屋ほどの熱意をもって巨額な支援をした人はいない。1895年、香港で写真館をやっていた梅屋のもとに、カントリー博士(ロンドンで孫文が誘拐されたとき、彼を救援した医者)の紹介でやってきた孫文と意気投合した彼は「君は兵を上げたまえ。我は財を挙げて君を支援す」と言い、その約束を生涯守った義侠の人であった。

孫文と結婚した宋慶齢(二女)、大財閥の孔祥熙と結婚した宋靄齢(長女),中華民国総統蒋介石と結婚した宋美齢(三女)は、20世紀中国の歴史を動かした宋三姉妹といわれる。中国では「一人はカネを愛し(靄齢)、一人は権力を愛し(美齢)一人は国を愛した(慶齢)」といわれている。また、慶齢の宋子文は首相だったので、“宋王朝”とも呼ばれた。この王朝の父親と子供4人はすべて米国の名門大学で学んでいるので、中華民国はメイド・イン・アメリカの趣がある。

慶齢は毛沢東共産党を支持し、他の二人の姉妹は蒋介石の国民党を支持した。1937年に国共合作で抗日統一戦線が成立すると、三姉妹は仲良く前戦の兵士を慰問した。しかし、1946年に国共内戦がはじまると敵味方に分かれ、慶齢は北京、靄齢はニューヨーク、美齢は台北で暮らし三姉妹がその後一緒に会うことはなかった。

1915年に話をもどす。この年の12月、袁が共和制維持の約束を破り皇帝に就任すると、南の軍閥が立ち上がり第三革命が起こる。翌年4月、孫文は新妻と共に東京を去り上海へ戻り、亡命中に立ち上げた中華革命党の本部を上海へ移す。内外の圧力で袁は皇帝を退位したあと病死した。その後、中国は軍閥が割拠する内戦の時代に突入した。10月、黄興が上海で喀血し急死した。その哀しみを滔天は「自棄酒も飲めぬほど弱った・・男泣きに泣いた」と書いている。

1917年4月 湖南省長沙で行われた黄興の国葬へ参列した滔天のもとへ、師範学校の学生、毛沢東から講演依頼の手紙が届いた。「白波滔天先生閣下 先生は黄公(黄興)に生前は精神をもって之を支え、死しては落涙をもって弔い今また葬儀に波濤を越えて来賓されて棺を送られた。高誼は日月を貫き、精誠は鬼神を動かし、以って天下に稀に聞き、古今未だ無きものなり。ないとぞ令者に一見を願い、豊かなお教えを広く拝聴したく、先生に直に拝し接することができれば幸甚なり」。滔天はその要請に応え毛沢東に会ったと思われるが、その記録はない。

同年9月、孫文は広東軍政府を樹立し大元帥に就任したが、軍閥のクーデターが起こり命からがら上海に逃れた。しかし、1918年末、広東へ戻り中華民国軍政府の総裁となり返り咲いた。北京政府は孫文にベルサイユ講和会議の代表になることを要請したが、彼はそれを拒否した。中華民国が国際的に認知されていない段階で、列強を相手に交渉しても意味がないと考えたからだ。

1921年2月、滔天は孫文の招きで中国へ行き大歓迎を受けた。これが、孫文と会う最後の機会となった。翌年12月、滔天は東京で肝臓癌で亡くなった。53歳だった。1923年1月、上海で孫は大追悼会を催し「日本の大改革家」「中国革命に絶大な貢献をした同志」と万感の思いを込めてその業績を称えた。

孫文は親友、滔天の人物と業績について次のような言葉を残している。「宮崎寅蔵君なる者は、今の侠客なり。識見高遠,抱負凡ならず、仁を懐い義を慕うの心を具え、危うきを救い、傾けるを助けるの志を発し、日に黄種の陵夷を憂え、支那の削弱を憫む。しばしば漢土に遊び以って英賢を訪い、不世の奇勲を共に建て、興亜の大業を助け成さんことを欲す」(『33年の夢』に寄せた序文の一部)

孫文三民主義に基づく共和国をつくる戦いはなおも続く。1923年、上海で孫文=ヨッフェ共同宣言が発表され、ソ連との提携が進む。コミンテルンから派遣されたボロディンが国民党最高顧問に任命される。同年、広東の関税問題をめぐって列強5か国(英米仏伊日)と広東政府が対立。列強は広州に軍艦を派遣して圧力をかけたので、孫文は要求を断念した。失敗したが、これは帝国主義への彼のはじめての挑戦であった。

1924年9月、孫文は北伐を宣言する。それは、軍閥が支配する北京政府を倒し内戦にピリオドを打ち国内統一をする宣言であった。それは、西洋列強と日本が各地の軍閥と手を結び、既得権の保持と拡大を図っていることへの挑戦でもあった。11月、孫文は来日して、日本国民に中国の不平等条約要求に対する理解と支持を訴えた。神戸での「大アジア主義」と題する講演で、日本国民に「西洋の覇道帝国主義)の番犬になるか、東洋の王道の干城となるのか」の選択を迫った。3000人の聴衆は熱烈な拍手で応じたが、前記の結語の部分を新聞は削除した。

1925年、孫文は北京の病院で肝臓癌のため60歳の生涯を終えた。最後の言葉は「革命いまだ成らず。同志よ奮闘せよ」だった。孫文の40年の革命人生は、まるでギリシャ神話のシジフォスのようであった。

 

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孫文の書    Wikipedia     右から蒋介石犬養毅、一人おいて頭山満Wikipedia

 


1929年6月1日、北伐を成し遂げ中国を統一した中華民国主席の蒋介石は、孫文の遺骸を、3年かけて建設した南京紫金山の中山陵に北京から移し、盛大に慰霊祭を行った。孫文が遺言で辛亥革命が成功した南京で墓に入ることを望んでいたからだ。

その日、孫文夫人の宋慶齢蒋介石夫人の宋美齢、国民党幹部、その他大勢の内外の参列者にまじって日本人の姿もあった。孫文と最も縁が深かった犬養毅頭山満、萱野長知(玄洋社)、そして宮崎家を代表して宮崎龍介が参列していた。霊廟のなかで行われた式典では、蒋介石の隣に犬養がいた。国葬から2日後、蒋介石は犬養、頭山らを南京の自宅に招いて歓待している。

孫文は次のような言葉を残している。「中国革命史の公式記録のなかに、日本の友人たちが果たした、かけがえの無い貢献の詳細が書かれるべきだ」と。

筆者が、滔天語録のなかで最も気に入っているのは、次のせりふである。「分割か、保全か、勝手にしやがれ馬鹿野郎、盗賊や三百モグリみたいな話は聞きとうもない。馬鹿にするな、人の国をこの畜生奴、支那は僕の国だ」。

この滔天の怒りの発言の背景をすこし解説してみよう。20世紀初頭、日本の中国分割論者は次のように考えていた。あの国はどうしょうもない、改革もできず統治能力もない。そうなら、西洋列強と一緒に中国を分割支配したほうがよい。日本は満蒙、福建、朝鮮をとって、日本の国力を伸ばすべきだ。一方、保全論者は次のように考えていた。日本と中国は同文同種で一心同体である。西洋列強が中国を分割すると、次は日本がやられる。だから、中国を保全するのは、日本の保全のためだ。

彼はどちらの考えも気に入らなかった。他国の分割など盗賊行為ではないか、変な理屈は言うな。保全といってもあの腐敗した清朝を支援してもだめだ。まずは、満州族の王朝を倒し、中国を漢民族の国にすることだ。そもそも、人の国のことを自分の都合だけで、どうこうしようとするのは怪しからん。中国人の立場になって考えろ。

孫文が北京で亡くなって90年が経った。100年の屈辱をすすぎ、いまや中国は名実ともに富国強兵の超大国になった。しかし、共産党独裁は続き、自由な言論空間はなく、王道ではなく覇道で舵取りをしているように見える。中山陵に眠る孫文に「習近平の中国をどう思うか」と問うと「革命いまだ成らず。民主をやれ」と答えるのではなかろうか。

 

註:筆者はこの歴史探訪記を書くにあたって、以下の著作のお世話になった。『三十三年の夢』 宮崎滔天著、島田虔次・近藤秀樹校注 1993刊、『龍のごとくー宮崎滔天伝』上村希美雄著 2001年刊、『革命いま成らずー日中百年の群像』(上・下巻)譚?美著 2012刊、『孫文革命文集』深町英夫編訳 2011刊、“The Japanese and Sun Yat-sen“ Marius B. Jansen著 1954刊。
読者の皆さんに、二つの歴史ドラマ映画をお勧めしたい。『1911辛亥革命ジャッキー・チェン総監督・主演  香港・中国合作映画 2011年、『宋家の三姉妹』(The Soong Sisters)ヘイべル・チャン監督 香港・日本合作映画 1997年。どちらもYoutubeで見ることができる。

 

 

フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。