フランスの田舎で暮らす

土野繁樹の歴史散歩

中国100年の屈辱 その4「五・四運動」

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デモ行進する北京の大学生  Wikipedia


1919年5月4日、その日は日曜日で、北京は春というのに冷たい風が吹いていた。午後1時半、天安門広場に市内の12大学から3000人の学生が集まった。多くの学生が、彼らが尊敬する知識人の“制服”長い絹のガウンの上に綿入れのジャケットを着ていた。西洋列強に皮肉をこめて山高帽を被っている学生もいた。北京大学の学生代表が「われわれは、パリのベルサイユ講和会議で決定された山東省の日本への割譲に断固反対する」と宣言した。午後2時、学生は外国公館のある東交民港に向かってデモ行進をはじめた。プラカードには「青島を返せ」「講和条約に署名するな」「21か条を破棄せよ」「中国は中国人のものだ」とあった。このデモは中国の民族運動の発火点となった。

 この歴史の分水嶺となる事件の歴史的背景を簡単に記す。

山東半島中国文明を象徴する孔子が生まれたところである。日清戦争の2年後、1897年に東洋への足場を求めていたドイツ帝国は膠州湾のある青島割譲を清に認めさせる。そのきっかけになったのは、ドイツ人宣教師の殺害だった。それを聞いたドイツ皇帝は「絶好のチャンスだ」と言い、艦隊を現地に派遣した。これは海外に植民地と軍事基地を獲得するときの、帝国主義の常套手段だった。ドイツは青島にカネを注ぎ込み、鉄道を敷き鉱山を開発し、海軍基地と近代的な街を建設し、東洋のビジネス拠点にした。ドイツ・ビール「青島(チンタオ)」の生産は、その時代にはじまった。

1914年8月4日に第一次世界大戦がはじまると、元老・井上馨は「今回欧州の大禍乱は日本国運の発展に対し大正新時代の天佑にて」との参戦を勧める書簡を、首相・大隈重信宛に書いた。政府はこの対岸の火事を「絶好のチャンス」と見て、8月15日に日本は連合国側につきドイツに宣戦を布告した。開戦前、その気配を察した青島のドイツ総領事はベルリンに「バタフライ嬢との付き合いがはじまる公算大」と暗号電を送ったが、日本は膠州湾に5万の大軍を派遣し、ドイツ守備隊5000を圧倒し、人口3000万の山東半島を占領した。さらに、南太平洋のドイツ諸島(現在のミクロネシア諸島)を占領した。

翌年1月、日本政府は中国大総統・袁世凱に21カ条の要求をする。その主な要求は次のようなものだった。①ドイツの山東省における権益を日本が継承する。②旅順・大連の租借期限、満州の安奉鉄道の期限を99年延長する。③日本製鉄業の原料供給源である漢口の中国企業を日中共同経営にする④中国の沿岸の港湾と島を他国に割譲・貸与しない⑤中国政府の政治、経済、軍事顧問に日本人を雇用する。その他、鉄道施設権、鉱山採掘権などの要求に加えて、中国は日本から兵器の半分以上を買うことが入っていた。帝国主義の時代とは言え、なんと盛りだくさんの要求であることか。見返りに、将来、三東省返還を考慮する,袁と一族の地位と身の安全を保障する、袁とその側近に勲章を与えるなどを提示している。なんと安っぽい見返りであることか。

要求内容を見て袁は激怒し、欧州の戦争で列強が東洋を顧みる暇がない間隙をぬって「わが国を制圧しようとしている」特に五条(前記⑤)は「わが国を朝鮮視するもので、絶対に容認できない」と言った。北京政府が日本の要求を公開すると、中国各地で激しい反対運動が起こり,日本製品のボイコットにまで発展した。しかし、中国の期待に反して、英仏露の連合国は介入しなかった。介入したくとも、そんな余裕などなかった。日本が21カ条要求をした頃、塹壕戦でドイツが毒ガスを使い、戦争の泥沼化がはじまり、日本が中国へ最後通牒をだした5月には、Uボートの脅威に直面し戦局に暗雲が漂っていたから、それどころではなかった。

日中の外交官は2月初めから4月末まで会談を重ねたが、頑強に抵抗する袁世凱にしびれを切らした日本は、5月7日に最後通牒(5条は削除し、他は多少の修正を加えたが基本は同じ)を中国へ通達した。同時に、山東満州,漢口の日本軍を増強し圧力をかけている。その2日後、袁は最後通牒を受け入れた。

5月7日は中国の「国恥記念日」となり、中国の若者にとって、日本は不倶戴天の敵となった。

日本の世論はほぼ挙国一致で、21カ条要求を支持している。当時、最大の発行部数を誇る大阪朝日新聞は最強硬派で、要求貫徹を煽り武力介入も是として、のちに大正デモクラシーの旗手となる吉野作造さえ最後通牒を支持した(その後、彼は5・4運動に共感し日本の官僚・軍閥・財閥を批判した)。この政府支持の大合唱のなかで東洋経済新報だけが、言論界の「軽薄、無遠慮、不謹慎な言論」を批判し、その要求は「露骨なる領土的侵略政策」であると糾弾し、「帝国百年の禍根をのこすもの」と論陣をはっている。当時は耳を傾ける者はいなかったが、今から思えば、日本のジャーナリズム史に残る慧眼の論説であった。
    

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ベルサイユ講和会議の(左から)ロイド・ジョージ英首相、オルランド伊首相、クレマンソー仏首相、
ウィルソン米大統領 牧野伸顕前外相と西園寺公望全権代表 Wikipedia


ベルサイユ講和会議の主役は米国の学者大統領ウッドロー・ウィルソン,虎と呼ばれた仏首相ジョルジュ・クレマンソー、大衆政治家の英首相デヴィッド・ロイドジョージだった。第一次大戦後の世界地図を塗り替えたこの3人の政治家の個性はまったく異なっていた。例えば.ウィルソンの演説は説教臭く、クレマンソーの演説は痛烈と諧謔ロイド・ジョージの演説はウィットに富んでいた。べルサイユ会議は利害の異なる33カの国の代表と1000人の随員が参加し、6か月にわたって開かれたが、重要テーマについて決定を下したのは戦勝国の彼ら3人だった。

1919年1月11日、ベルサイユ講和会議に出席するため、日本代表団64人がパリに到着した。交渉にあたったのは二人の外交官・牧野伸顕前外相と珍田捨己駐英大使で、全権代表・西園寺公望(元首相)は3月にパリ入りしたものの記者団の前に姿を現すのは稀であった。二人の外交官を英国の新聞は「物静かで、感情を表にださず,用心深い」と形容している。西園寺1870年から10年間パリで留学生として暮らし、その時代に会ったクレマンソー首相の友人だった。クレマンソーは彼のことを「社交的だが、衝動的な男」と評している。

中国代表団60人と外国人顧問5人はリテリア・ホテルに陣取り講和会議に臨んだが、国内情勢は複雑だった。当時の中国には、袁世凱の後継者が支配する北京政府と孫文の広東臨時政府があり、地方軍閥が割拠する分裂の時代であった。代表団は北京派と広東派からなり、両者は対立していたが、山東省の中国への返還要求に関しては団結していた。

中国代表団はウィルソンが掲げた「14カ条の平和原則」のひとつ「民族自決」に大きな期待を寄せ活路を見いだそうとしていた。帝国主義によって半植民地となった祖国を解放するチャンスが来たと考えたのだ。これはパリの中国代表団だけではなく、国内の知識人の期待でもあった。当時の中国の開明派のスローガンは“Dr Science and Dr Democracy”であったが、これは、近代科学と西洋型デモクラシーによって国家を再興しようという運動の旗印であった。

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中国代表・顧維釣  Wikipedia        米大統領ウッドロー・ウィルソン Wikipedia


ベルサイユ講和会議で、ひときわ注目を浴びたのが中国外交官・顧維釣だった。欧米の新聞は彼をウェリントン・クーと呼んだ。コロンビア大学で学んだ彼は駐米公使を経て、わずか32歳で事実上の中国全権代表として米仏英の首脳と臆することなく渡りあい、山東省の中国への返還を主張した。

ウィルソン大統領がパリに立つ前に、顧をホワイトハウスに招き懇談しているが、そのとき、彼は大統領が中国の立場を支持するだろうと確信したという。1919年1月下旬、山東省の運命を決める五大国委員会(英米仏伊日)がフランス外務省で開かれた。まず牧野が発言した。彼は「山東問題は日中両国が双方で協定を結んだ条約であって、協議は基本的に解決している」とし、大戦中の連合国への貢献を語り、日本がドイツの権益を継承する権利があると主張した。翌日、顧が中国の立場を次のように発言した。日本が山東省を解放してくれたことには感謝するが、そこは中国の領土である、ウィルソンの提唱する民族自決、領土保全の原則に従って、山東省は中国へ返還されるべきだ、と主張した。また、彼は「山東省は中国文明の揺籃の地である。孔子孟子はここで生まれた。ここは中国人の聖地である」、外国人が山東省を支配下におくことは「心臓に短剣を突きつけるようなものだ」と訴えた。30分の演説が終わるとロイド・ジョージとクレマンソーは顧に「おめでとう」と言い、ウィルソンは「素晴らしいスピーチだった」と称えた。彼の雄弁は米英仏の首脳を説得したように見えた。しかし、中国の前には、日本と英仏との間で結ばれた秘密協定という厚い壁が立ちはだかっていた。

4月の最終決定を前に、中国代表団は大戦で破壊されたフランスやベルギーの町の学校建設への寄付キャンペーンを展開した。一方、日本の外交攻勢はより効果的であった。牧野と珍田は、米国を説得できなかったが、クレマンソーとロイド・ジョージと密かに会い、彼らに1917年の秘密協定の“約束を守ってくれ“と迫り、山東省の処遇について確約を得たからだ。その協定は、英仏が「日本が山東省のドイツ権益を継承する」ことを認めるものだった。

民族自決を主張し日本の要求に反対していた米国は, 最後の段階で中国を見放したが、その背景には舞台裏の取引があったようだ。それは「人種平等の原則」(人種差別撤廃)を国際連盟憲章の前文に入れよ、と強硬に主張していた日本がそれを取り下げる見返りに、ウィルソン大統領が日本の山東省の権益を認めるという妥協案である。この取引は英国代表のバルフォア外務大臣に日本側が提案した、とカナダ人歴史家・ マーガレット・マクミランが、その秀作“Paris 1919 : Six months that changed the world”(パリ1919年:世界を変えた6か月)のなかで書いている。マクミランロイド・ジョージの孫でもあるので、信憑性が高い。

そもそも人種平等の原則は、アメリカにおける日本人移民排斥に不満をもつ日本政府が、世界の人種差別撤廃を講和会議で提案したものである。今から考えると、きわめて真っ当な提案だが、これは白豪主義(移民は白人だけ)の英連邦のオーストラリアや黒人差別(選挙権なし)維持のアメリカ上院の激しい反対にあって憲章への明記が危ぶまれていた。

日本はこの原則が明文化されなければ、国際連盟には参加しないと圧力をかけた。ウィルソンとしては、日本の不参加をなんとしても食い止めたかった。なぜなら、すでに5大国のなかイタリアが自国の領土問題をめぐり不参加を決定していたので、さらに日本も参加せずとになると、彼の青写真に基づく国際連盟の機能が脆弱になると危惧したのである。
これが、ウィルソン変心の理由であった。

4月30日、中国代表団に日本への「山東省の権益移譲」に関する詳細な文書が通達されると、彼らはショックを受け落胆し、米英仏の首脳への怒りが爆発した。とくに民族自決を提唱していたウィルソンへの怒りは大きかった。

顧維釣はウィルソン宛に次のような抑制の利いた書簡を送っている。中国は「14カ条の平和原則」を信頼し、新思考による国際関係樹立の約束に期待を寄せていた。「しかし、その結果はこの上ない失望であった」と。

中国代表団はベルサイユ講和条約に署名することなく帰国の途についた

ウィルソン大統領が払った代償も大きかった。米国議会はベルサイユ条約を批准せず、アメリカは国際連盟へ参加しなかった。上院で否決された理由のひとつは、ウィルソンは山東省問題で中国を裏切った、というものであった。
    

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陳独秀 Wikipedia          石橋湛山 Wikipedia


山東半島の日本への割譲は中国人のナショナリズムに火をつけ、5月4日北京ではじまった抵抗運動は他の都市に広がり、労働者とホワイトカラーのストライキ日本製品のボイコットにまで発展した。孫文の広東臨時政府は北京政府に山東割譲を拒否するよう求めたが、北京政府は同意せず対立が決定的になり、その後の9年間、中国は分裂し本格的な内戦の時代になった。

ベルサイユ条約が与えた影響のなかで最も大きなことは、欧米先進国のデモクラシーとリベラリズムをお手本にしていた中国の政治家と知識人が、欧米に失望し裏切られたと思ったことである。5・4運動から生まれた総合雑誌「新青年」の創刊者・陳独秀もその一人であった。彼はウィルソン大統領を絶賛していたので、その失望は大きかった。

1915年に雑誌を創刊した陳は次のように考えていた。なぜ、中国は屈辱的な「21カ条の要求」をのまざるを得ない国になったのか。「科学と民主主義」が国の土台にないからだ。中国の進歩の壁になっているのは守旧主義の儒教である。それから解放されなくては国が亡びる。そのためには文学革命をやらねばならない。陳は二つの編集方針を立てた。ひとつは古典に典拠を求めない、もうひとつは庶民が理解できる白話文(口語文章)にするである。前者は古典を金科玉条とする悪癖を打破し、後者は日本の言文一致運動と同様に、文学が大衆のものになる道を開いた。魯迅胡適、周作人、李大剣などが執筆者となった「新青年」は知識人と青年層に大きな影響をもつ雑誌となった。当時、北京大学の図書館員だった毛沢東は「むさぶるようにこの雑誌を読んだ」と言っている。

西洋がモデルでないとしたら、代案はどこにあるのか。中国の知識人はそれをロシアに求めた。中国と同じように伝統的な国であるロシアが1917年に革命に成功し、大胆な実験に取り組んでいる。中国が「富国強兵」の国になる道は共産主義ではなかろうか、と考えたのである。さらに、レーニンの革命政権が、ロシア皇帝時代に獲得した領土と特権を中国に返還すると宣言したことで、ロシア熱が高まった。(現実には、ソ連はそれを実行しなかったが)

ベルサイユ条約から1年後、上海で中国共産党が結成される。5月4日のデモに参加した人々の多くが党員になり、デモの中心人物であった北京大学の図書館長・李大剣が「新青年」誌の創刊者・陳独秀とともに共同書記長に就任している。5・4運動を推進した毛沢東周恩来共産党創立会議のメンバーだった。党結成から28年後、中国共産党は権力を握った。

これほどの歴史的重要性のある5・4運動を日本はどのように受け止めていたのだろう。

5・4運動を大阪朝日新聞は「支那人の盲動」と見出しをつけ、徳富蘇峰国民新聞は「英米の扇動」「腹黒のウィルソンの指金」と英米を批判した。さらに同紙は「日支親善の根本主義」と題する論説で「中国は無条件に日本を信頼すべきだ、日本なくして支那の領土保全はない」と主張している。東洋学者・内藤湖南もまた「中国の要求は意外である」とし、なぜなら「中国は内乱亡国の瀬戸際にあるのだから、日本に頼って発展したほうが現実的である」と言っている。このようにほぼすべての新聞と識者は、デモの歴史的意味を把握せず、5・4運動が誇りを傷つけられた民族の意思表示であることを理解していなかった。

そのなかで、京城帝国大学の泉哲は外交評論誌の論説で「日本は台湾を取り、旅順を租借し、山東を占領したが、それが中国人を刺激した」「危険な国だと思われてもしかたがない」「租借は体裁のいい領土略奪である」と帝国主義の核心を突き、それへのレジスタンスである5・4運動に理解をしめしている。

石橋湛山(戦後の首相)は東洋経済新報の社説「大日本主義の幻想」で、民族自決の潮流には背けない、日本は植民地を捨て、中国から引くべきだ、同じ捨てるなら早いほうが良い、それが東洋諸民族の信頼を得る道である、と主張したが、残念ながら日本はその路線を歩まなかった。

山東半島の運命を決める1919年1月のベルサイユの五大国委員会で中国代表・顧維釣は次のように発言している。「この会議の決定は、今後半世紀の極東の平和を保障するものになるか。あるいは10年後に戦争になるかの選択になる」。事実、歴史は彼が予測したように動き、1931年に満州事変が起こり、1937年には日中全面戦争がはじまっている。

註:筆者はこの歴史探訪記を書くために以下の著作と論文を参照した。“Paris 1919 ,Six Months that Changed the World” Margaret MacMillan著 2001刊 邦訳は『ピースメイカーズ:1919年パリ講和会議の群像』稲村美貴子訳 、『国民の歴史21 民本主義の潮流』松尾尊兌著 1969刊、「五・四運動と日本のジャーナリズム」胆紅 (『大阪大学国際公共政策研究』第11巻、2007年3月

 

フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。