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フランスの田舎から世界を見ると

土野繁樹の歴史探訪

中国100年の屈辱 その3 「日清戦争」

 

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平壌陥落の錦絵 小林清親                 British Museum


筆者は下関で育ったので、日清戦争講和条約会議場となった春帆楼と聞くとなつかしい。春帆楼は関門海峡をのぞむ高台にあり、源平合戦の決戦場となった壇ノ浦が眼下にある。日本の代表は伊藤博文(首相)と睦奥宗光(外務大臣)、清の代表は李鴻章(皇帝の特命大臣)と李経方(駐日公使)がしのぎを削る交渉をして結ばれた下関条約の内容を語る前に、かんたんにこの戦争についてふれておこう。

日清戦争(1894-95)は大韓帝国(韓国)をめぐる両国の支配権の争いであった。あからさまに言うと領土と権益の争いであった。

日本人の圧倒的多数は、宗主国である清の旧守派の支配から韓国を解放し、その「独立」を守り、明治維新型の「改革」を助けるための戦いであるとの開戦の大義名分を信じた。啓蒙思想のパイオ二ア・福沢諭吉は「日清戦争は文明と野蛮との戦争なり」と公言し、キリスト教界のリーダー内村鑑三は「義戦なり」「この戦いは神が日本に与えた天職である」と訴えている。このように、当時の知識人の多くが戦争を熱烈支持したなかで、のちに孫文の中国革命を体を張って助けた宮崎滔天は、これは帝国主義の戦争であると嫌悪している。

戦争がはじまると、日本軍は連戦連勝、陸軍は清の最重要港・旅順を攻略し、海軍も黄海の戦いで清の誇る北洋艦隊を撃破した。陸軍が清の最後の拠点である田床台を占領すると、清の李鴻章は1895年3月講和を申し入れた。

中国人のショックは大きかった。中国文明圏の辺境にある島国に負けるなど考えてもいなかったからだ。その衝撃はアヘン戦争が中国に与えたもの以上だった。

さて、春帆楼の講和交渉へ話をもどす。

吉田松陰の門下の明治の元勲・伊藤博文の経歴については、読者はご存じだと思うので略すが、李鴻章についてすこし触れておこう。1864年、軍を率いて太平天国の乱を鎮圧して以来、李は西太后の信頼を得て、内乱と侵略に苦しむ清王朝の事実上の外務大臣として40年間、列強との交渉にあたった人物である。3度左遷されたが、3度西太后に呼び返され国難に当たった。

第二次アヘン戦争前後の清は、西洋帝国主義だけではなく、国内においても土着化したキリスト教を信仰する太平天国の乱(1851-64)による脅威にさらされていた。ヘンリー・キッシンジャーの“On China” 2001刊によると、1850―73年の間に中国の人口が4億5000万から3億9000万に減ったというから、大内乱であったことが分る。キッシンジャーは内患外憂で弱体化した中国の外務大臣であった李鴻章を、同情心をもって描いている。

春帆楼で談判をする10年前に、李鴻章伊藤博文は天津で会談し、日清間の衝突を回避するため朝鮮半島からの両軍の撤兵に合意している。それ以来互いに敬意を抱いていたので、春帆楼でも率直に本音で語りあうことができたようだ。二人は次のような会話を交わしている。

伊藤は20歳年上の李に英語で尋ねた「なぜ、今日まで(清は)なにも変わらず、改革がなされていないのでしょう?」。すると、長年、自強運動(西洋の科学技術を導入して清の国力を増強する運動)に取り組んできた開明派の李は「わが国は歴史と慣行に縛られて、身動きがとれません。やりたいことができないのです」「10年経ちましたが、なにも変わっていません。過度な望みをもち、それを実行できなかったことを恥じています」とおどろくべき率直さで答えている。

講和交渉が続いている最中に、李が暴漢によってピストルで狙撃されるというとんでもない事件が起こる。幸い弾は右眼の下をかすめただけで、命に別状はなかった。しかし、このテロ事件は世界的ニュースになり、日本政府へ批判が高まった。西洋列強の介入を怖れた伊藤と睦奥は直ちに停戦に合意し早期の妥結をはかり4月17日条約は調印された。

条約は清にとって厳しく、屈辱的なものだった。韓国への宗主権の放棄、台湾と遼東半島(のち三国干渉で断念)の割譲,4都市の開市・開港、3億6000万円の賠償金がその内容だった。その額は、当時の日本政府の年間予算の4倍にもあたる巨大なものであった。

この極めて有利な条約を清に呑ませた背景には、李鴻章と北京の間の暗号電報を日本の外務省が解読していたという事情もあった。須藤真志教授(国際政治学)は「相手の手を読みながら、ポーカーをしたのと同じだった」と言っている。このことを知って筆者は、真珠湾攻撃の前から日本の外交暗号通信はアメリカに解読されていたこと、英国がナチス・ドイツ軍の暗号システム・エニグマ解読に成功し、戦況を逆転させたことを思いだした。


日本は開国時に結んだ西洋列強との間の不平等条約の改正を悲願として長年とり組み、1894年に英国の治外法権を廃止しその目的を達成した。しかし、皮肉にもその翌年、日本は清に西洋帝国主義の弱肉強食の法則を押し付けたのである。これで、日本は帝国主義クラブの会員になった。

春帆楼での調印式の光景を『富と力―中国の21世紀への長征』の著者シェルとデルリーは次のように書いている。「包帯でつつまれ怪我でふくれた李鴻章の顔は、清の面子が潰れたシンボルでもあった」

下関条約妥結の直後、清へのこの苛酷な条約内容を知った内村鑑三は、自らの不明を恥じた手紙を米国の友人へ書き送っているー「義戦は海賊の戦争となった。正義の戦いであると言った自分を深く恥じている」。保守派の軍人政治家、谷干城も軍備拡張は不要、領土拡大はかえって重荷になるという理由で領土拡張に反対している。しかし、これはあくまで少数派であった。当時、当時の人気画家・小林清親が描いた日清戦争の錦絵をみると、清軍を撃破し日本中が沸き立った空気が伝わってくる。この勝ち戦の錦絵は大ブームとなった。

日清戦争勝利のあと、日本は戦争目的である韓国の「改革」と「独立」はどうなったのだろう? 朝鮮を近代国家にするための改革支援について、開戦を主張した陸奥宗光がどう考えていたのだろう。彼の回想録『蹇蹇録』を読むとそれを知ることができる。

「余はもとより朝鮮内政改革を政治的必要の他はなんらの意味なきとせり、いささかも義侠を精神として十字軍を興すの必要を視ざり」「第一に我国の利益を主眼とするの程度に止め、これがために我利益を犠牲にする必要なし」(原文の漢字一部ひらかな)

要するに、彼の本音は‘朝鮮改革はあくまで建前で、最も大事なのは日本の権益’だった。現実主義外交といえばそうだが身も蓋もない。国民は、日本は義侠心から隣国の発展を助けるのだ、と本気で思っていたのではなかろうか。しかし、現実には、戦争は日本の権益拡大のためで、改革は二の次となった。

もうひとつの大義名分、韓国の独立はどうなったか。

下関条約が妥結された半年あと、閔妃暗殺という日本の官憲が関与した血なまぐさい事件があった。ロシアへ接近する李朝国王の妃を切り殺し遺体を焼却するという政治テロである。そのあと日本は親日政権を樹立するが、これが韓国の独立を守るためと言えるだろうか。

事件の10年後、日本は日韓協約を結び朝鮮の外交権を手中におさめ、伊藤博文総督府総監として実質的な統治者となった。日本の保護国となったことに怒った韓国の人々は武器をとり立ち上がるが、日本軍はこれを武力鎮圧。5年後の1910年8月22日、日本は韓国を併合した。これで韓国は完全に日本の植民地になった。日清戦争の大義名分である「韓国の独立」はまったくの空手形だったことになる。

合併の日から「君が代」が朝鮮半島の国歌となり、韓国の国歌斉唱は禁じられた。ここであまり知られていない歴史の皮肉なエピソードを紹介しよう。君が代の歌詞は新古今集からだが、メロディーは宮内省の林廣森と陸軍軍楽隊のドイツ人・フランツ・エッケルトの共作で、1880年に国歌となった。エッケルトは韓国に請われて、1902年に「大韓帝国愛国歌」の作曲もしているから、日韓合併の日のエッケルトの心境は複雑だったにちがいない。

清から莫大な賠償金をとった日本は、そのカネをどう使ったのだろうか。下関条約で手にいれたはずの遼東半島を、露独仏の三国干渉で諦めざるを得なかった日本は、その85%を軍備拡張に使っている。西洋の大国の圧力に屈しないためには、臥薪嘗胆して強国にならなくては、という論理である。軍事費が予算のなかで占める割合が50%を超える年もあり、日本は「強兵」への道を歩みはじめる。

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西洋列強と日本による中国分割の戯画  Wikipedia


日清戦争で日本が勝利したことで、東アジアの覇権国が中国から日本に移り地政図が大きく変わった。日本人の中国人への見方も変わり、これまでは文明と文化の師匠であった中国を見下すようになる。また、弱体化した中国の姿を見て、西洋列強はさらなる割譲と特殊権益を要求し獲得していく。ドイツの膠州湾、ロシアの遼東半島、イギリスの九龍、フランスの広州湾の割譲がそれだ。浸食される中国の姿を、当時の英国の戯画が上記のように描いている。

列強はいかにして中国を侵食していったのだろう。その手法は、砲艦外交というより、清の借金の担保に租借権などを設定して、割譲、権益を確保したのである。清が西洋列強から巨額の借款をした背景には、日本への賠償金支払いの重圧があった。

日清戦争から5年目の1900年6月、義和団の乱(秘密結社による排外運動、スローガンは「興清滅洋」(清を助けて、西洋を滅ぼす)この乱は愛国運動の側面もあった)を鎮圧するために8カ国連合軍(日露米英仏独など)が北京に派遣される。連合軍は義和団により紫禁城に一角にある各国の公使館が包囲され、外交官と中国人キリスト教徒の命を守る目的で編成されたものだった。

その主力は日本とロシアで日本軍は総数2万のうち8000を占めていた。籠城する多国籍軍の指揮をとったのが英語、仏語、中国語を話す柴五郎中佐であった。ロンドン・タイムズ紙は彼の勇気と礼儀正しさを激賞し、他軍が紫禁城頤和園の略奪と破壊をするなか、柴が率いる日本軍の規律は見事で、その蛮行に加わることはなかった。

清の西太后義和団の乱を支持し、西洋列強に宣戦布告したので、戦闘が連合軍の勝利でおわると8カ国へ巨額な賠償金を支払い、さらなる領土分割と特殊権益を認めることとなった。賠償金は4億5000万両で、清の年間国家予算の4倍という莫大な額であった。「清朝の地位を守るために、カネに糸目をつけるな」と西太妃は李鴻章に指示したという。ロシアは義和団乱鎮圧への出兵のどさくさに紛れて満州を占領したが、それが10年後の日露戦争の伏線となり、北京条約で連合軍は北京と天津への駐兵権を得ることになるが、日本の北京への駐兵権は日中戦争の引き金となった盧溝橋事件(1937年)につながることになる。その意味で、日本にとって極めて重要な事件であった。

 

註:筆者はこの歴史探訪記を書くために、以下の著作と記事を参照した。”The Making of Modern Japan”Marius B.Jansen 著 2000刊、“Wealth and Power-:China‘s long march to the twenty-first century(富と力―中国の21世紀への長征)Orville Schell とJohn Delury共著 2013刊―邦訳は『野望の中国現代史』吉村治彦訳、『国民の歴史20 日清・日露戦争』 藤井松一著 1969年刊、 「堂々日本史 日清戦争と下関会議 」 NHK 1996年12月10日放映、


フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。