フランスの田舎で暮らす

土野繁樹の歴史散歩

中国100年の屈辱 その1 「円明園の略奪と破壊」

“われわれは自らを文明人と称し、彼らを野蛮人という。しかしこれが、文明が野蛮に対してやったことだ”ヴィクトル・ユーゴー 1860年

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円明園の遺跡  BBC Magazine


円明園(英語では通称Old Summer Palace in Beijing)は北京の紫禁城(故宮)の西北8キロにあり、広さは紫禁城の5倍もある。清朝皇帝の離宮があったここは中国最大の観光スポットで年間600万人が訪れる。ユネスコ世界遺産円明園紫禁城のように昔の姿をとどめていない。1860年、第二次アヘン戦争の最中に英仏軍によって徹底的に破壊されたからだ。中国建築の粋を集めた200の建物に所蔵されていた書画、翡翠、絹織物、磁器、紫檀調度品など美術品の大半は英仏軍の将兵が略奪し両国へ持ち帰った。

円明園は康熙, 雍正, 嘉慶の3代の皇帝が150年をかけて造営したものだった。第一次アヘン戦争(1840-42)前の1830年代の中国のGDPは世界最大だったから、その富を注ぎ込んで宮殿、楼閣、庭園、湖、橋、回廊が造られた。美術館や図書館もあった。破壊される前にそこを訪れた英国人は「夢のように美しい」と日記に書いている。木造の宮殿,楼閣は炎上して姿を消し、その跡地に大きな石が転がっている。円明園にあった西洋バロック建築の海晏堂も破壊され、大理石の大柱と外壁の一部が残っている。その光景はまるで古代ローマの遺跡のようだ。訪問者は円明園の面影を残すこの唯一の場所で往時を偲ぶ。(北京郊外の頤和園は1880年代に西大后が離宮として建築したもので、英語でSummer Palaceと呼ばれる)

大著『夏の離宮の略奪』(“Le Sac du Palais d’Ete”2003刊)を書いたベルナール・ブリザイ(ジャーナリスト出身の歴史家)は、1979年に円明園をはじめて訪れたときの気持ちを「私は悲しかった。ここにはベルサイユ宮殿と庭園に比するものがあった。そして、フランス国立図書館ルーブル美術館のような文化施設があったのだ」と語っている。

中国人はかつて、ここに中国文明の粋を集めた庭園と楼閣と美術品があったことを知っている。彼らはみんな学校、映画、TVドラマで円明園の悲劇を学ぶからだ。ここは中国文化の華が破壊されたグランド・ゼロ (爆心地)と呼ばれ、中国人にとって円明園は屈辱の100年(1840-1949)のシンボルでもある。

1860年10月に一体なにがおこったのだろう。今回の歴史探訪シリーズでは、その悲劇を描き、現代への事件の余震を探ってみよう。

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円明園宮殿の復元図  Wikipedia


1860年10月、英仏連合軍は第二次アヘン戦争(1857?1860)に決着をつけるため北京にむかって進軍していた。戦争目的は中国に開港を迫り貿易を拡大するためだった。連合軍最高司令官第8代エルギン卿(1811-63)は、大英帝国の最も由緒ある家柄の出で、その父はエルギン・マーブルで知られる外交官の第7代エルギン卿だった。彼はアテネのパンテノン神殿にあった大理石彫刻を削って英国に持ち帰ったことで知られる。その至宝はエルギン・マーブルと呼ばれ大英博物館に展示されている。

京進軍の2年前の1858年2月、エルギンは4隻の艦隊を引連れて、品川に到着し日英修好通商条約を結んでいる。到着の一月前に日米修好通商条約が結ばれ先例があったので話し合いはスムーズにいき、清朝政府との交渉が難航しているのに比べて対照的であった。エルギンは交渉前に下田のタウンゼント・ハリス米駐日公使を表敬訪問しアドバイスを受けている。ともあれ、この条約は砲艦外交の威嚇のもとで結ばれたものだった。


円明園破壊事件のもうひとりの主役は英国派遣軍に同行していたロンドンのタイムズ紙記者ウィリアム・ボールビィだった。海外特派員のパイオニアの一人である彼はエルギンと波長が合い親しい仲であった。片や、エルギンはボールビィの人柄と報道を高く評価していた。

ボールビィは、その報道と日記のなかで中国の生活様式―なかでも見事な建築と素晴らしい庭園―を称賛している。一方、戦争記者である彼は「清軍と遭遇すると、その度に英軍は彼らを粉砕している」「新兵器アームストロング砲の前に、なす術もなく清軍の兵士が倒れていく」と報道している。ボールビィ記者は、英軍の圧倒的軍事力の前に中国の指導者(彼によると“退廃的で信仰なき宮廷官僚”)は間もなく降伏するだろうと確信していた。その瞬間を見届けたいと思った彼は、降伏を促す目的で編成された英仏使節団に参加して北京に入城した。使節団は英仏外交官と護衛のインド兵からなっていた。しかし、ボールビィは清朝政府を甘く見過ぎていた。その判断ミスは彼の運命を変えることになる。

ちょうどその頃、仏軍が円明園に到着し、磁器、絹織物、翡翠など金目のものを手当たりしだいに略奪し、織物を引き裂き、運べない工芸品を壊していった。まもなく英軍が到着しその略奪ゲームに参加した。その光景の目撃者は「将校も兵もまるで気が狂ったように略奪を続けていた」と書いている。エルギンは日記に「戦争は憎むべきことだ。こんな光景を見れば見るほど嫌になる」と書き残している。しかし当時、将兵にとって戦利品は給料の一部だった。エルギンは略奪を止めさせ美術品と装飾品を集めオークションにかけた。集められたカネは将兵に分配され、その一部は戦傷死した家族に送られた。戦利品のなかの最高級品は、英国女王陛下ヴィクトリアとフランス皇帝ナポレオン3世に贈られている。

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円明園の財宝略奪の日の英仏軍     Wikipedia


10月7.8日の二日間にわたって繰り広げられた略奪のあと、さらなる蛮行が繰り広げられることになる。

エルギンのもとに、降伏交渉をするために北京に派遣された使節団一行が逮捕され、彼らの一部は拷問され殺害されたというニュースが届く。その中にはボールビィも入っていた。拷問は凄まじく、囚人が水をもとめると口にゴミが入れられた。3日3晩の拷問の結果20人が虐殺され、その遺体は識別できないほどだった。それを知ったエルギンは激怒し、10月18日に円明園のすべての建物を炎上させる命令をだした。清朝の蛮行への報復である。仏軍司令官は紫禁城に火を放つことを主張したが、エルギンはそれを拒否している。円明園は2日2晩燃え続けた。

のちに彼は破壊命令を下したのは「異例の犯罪行為への嫌悪と怒りから生まれた厳かな報復である」と正当化し、仏軍司令官に「もし、タイムズ紙記者の仇討ちをしなければ、タイムズはわたしのことをなんというだろう」とも言っている。従軍牧師マギーは「いまでも瞼を閉じると、あの見事な庭と宮殿が目に浮かぶ。しかし,清朝政府を降伏させるためには(破壊は)必要だった」と日記に書き報復を是認している。この作戦に参加した英将校の何人かが回想録を書いたが、いずれもこの作戦の成功が北京条約へつながったと正当化している。

ともあれ、円明園破壊は清朝皇帝と国民の中華思想、世界に冠たる文明国の優越感とプライドを粉々にした。 シカゴ大学の歴史家ジェ―ムス・へヴィア教授は、破壊は中国に「屈辱を与えるための意図的な行動だった。それは、他の国も英国に挑戦すれば、こうなるという教訓を与える目的もあった」と書いている。前記の歴史家ブルザイによると、フランス軍司令官は、野蛮だという理由で炎上作戦に参加することを拒否したという。となると、紫禁城炎上の提案はなんだったのだろう。

エルギンは彼の行動を世論は支持すると思っていた。予想通り英国世論はほとんど円明園事件を問題にせず、第二次アヘン戦争の“戦利品“である開港、賠償金、香港割譲に関心が注がれたのである。

同時代人だったフランスの国民作家ヴィクトル・ユーゴーはさすがである。その不義を見ぬいていた。彼は英仏連合軍の円明園の略奪と破壊について次のように書いている。「二人の泥棒が博物館へ押し入り、盗み、破壊し、放火した。そのあと笑いながら略奪した宝物を袋いっぱい抱えて去っていった。ひとりの泥棒の名はフランス、もう一人の名はイギリスだった」。

円明園を破壊したあと、エルギンは北京に凱旋入城した。その日の軍事パレードは英国と西洋の勝利のシンボルとなり、中国にとっては屈辱のシンボルとなった。その後も、円明園義和団の乱を鎮圧するために派遣された八カ国連合軍(欧米諸国と日本)、軍閥、匪賊によって破壊され,さらには、文化大革命の時代に紅衛兵によって傷つけられ廃墟と化した。そして、長い時の流れの中でその記憶は薄らいでいった。

長い間、亡霊のような存在だった円明園は、1989年の天安門事件のあと再び注目されるようになる。なぜなら中国政府が愛国心教育に力を入れこの歴史的遺跡を“教材”にしたからだ。そのメッセージは‘19世紀のこの屈辱を繰り返してはならない。祖国を守るためには、強い共産党政府の下に国民が団結しなくてはならない’である。いま円明園を訪れる中国人は老いも若きも帝国主義の非道に怒り愛国心を鼓舞される。

最近の中国の大きな関心は英仏連合軍によって略奪された美術品の里帰り向けられている。これらの美術品は大英博物館ルーブル美術館から個人コレクションまで世界中に散在しているのだが、その存在が世界的に知られるようになったのは2009年2月のパリのクリスティーズでのオークションであった。

その日、クリスティーズでかつて円明園バロック様式の海晏堂の前庭にあった十二支ブロンズ像のなかの二つ、鼠と兎が競売にかけられた。前代未聞の展開をみた競売の顛末を語る前に、御苑のなかの西洋庭園と建築の由来をふれておこう。西洋庭園と海晏堂は雍正帝の時代に10年かけて完成(1757年)したが、その設計はイタリア人のイエズス会宣教師ジョセッペ・カスティリオーネによるものだ。建築家であった彼は3代の皇帝に宮廷画家として仕え、康熙帝ポートレートなど数々の名作を残している。海晏堂の噴水はフランス人のイエズス会宣教師ミシェル・ブノアが設計した。天文学者でもあった彼は噴水時計をデザインし、十二支の動物の口から1時間毎に噴水がでる仕掛けを作った。二人の宣教師は皇帝の絶大な信頼を得ていたので、思う存分腕を振るったことだろう。カスティリオーネは51年、ブノアは30年清朝に仕え北京で没している。

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ジョセッペ・カスティリオーネ乾隆帝像 北京故宮博物館蔵


さて、鼠と兎のブロンズ像に話をもどす。クリスティーズの競売は最終日に入り、デザイナ―の故サン・イヴ・ローランとその共同経営者ピエール・ベルジェの個人コレクションの競売が始まった。下見のときに最も注目された二つのブロンズ像は5000万ドル(39億円、コミッション込)で、厦門(アモイ)の美術商である蔡銘超が落札した。破格の値段だった。普通ならこれで一件落着となるのだが、蔡が支払を拒否するという異常事態になった。

クリスティーズは蔡が数年前のオークションで、明朝の仏像を1500万ドルで買った経歴があるので安心していたのだが、その反応に唖然とした。北京の記者会見で支払拒否の理由を聞かれた蔡は、はじめから支払うつもりはない「愛国的行動だ」と答えている。美術市場に出回る中国から流出した盗品の存在を世界に宣伝するための行動だったというわけだ。ベルジェも黙っていなかった。「もし中国政府が人権を尊重し、チベットの人々に自由を与え、ダライラマを歓迎するなら返却してもいい」と啖呵を切った。

鼠と兎はベルジェの手元にあったので北京に里帰りすることはなく、クリスティーズのオーナーで大資産家フランソワ・アンリ・ピノーが買い取り、4年後の2013年に中国政府へ寄贈した。その見返りに、ブランド企業の最大手ケリング社のCEOでもあるピノーは中国市場への足場を固め、クリスティーズの中国進出のライセンスを得ている。中国の面子を立て、実利を得るしたたかなビジネス外交ではある。

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十二支ブロンズ像の兎と鼠   Grenglish.co


今年のはじめ、BBC北京特派員クリス・ボールビィが円明園を訪れ“夏の離宮の恥”という記事を書いた。奇しくも第8代エルギン卿の友人だったウィリアム・ボールビィは彼の祖先だから、円明園は特派員にとって因縁の地である。彼は円明園に来た何人かの中国人にその印象を聞いている。代表的な答えは「憤慨している」「なぜすべてを破壊したんだ!」「この屈辱を忘れない」だった。こんな世論を背景に円明園から盗まれた美術品を取り戻す運動が盛んになっている。富裕層がオークションで買い、北京の国立美術館に寄贈するケースは少なくない。同時に、‘そもそも自国のもの、それも盗品になぜカネを払うのだ’という不満の声が高まっている。中国政府は「われわれは決して諦めない」と宣言しているから、盗品問題はこれからもくすぶるだろう。

1860年の英派遣軍の兵士の一人が英国女王ヴィクトリアにペキネーズ(中国産の愛玩犬)を寄贈したが、その犬を描いた有名な絵がある。なんとその犬の名は略奪の英語Lootに引っかけたLooty‘盗人ちゃん’だ。名付けた当時は英国風の軽いジョークだったのだろうが、今では悪い冗談である。悪い冗談をもうひとつ。BBC記者は、円明園の土産物屋で‘国民的屈辱煙草ライター’なるものを見たと書いている。

クリスティーなどの競売者にとって、円明園の美術品は由緒正しいから大いに儲かる商品だ。以前はカタログにその出自を明記していたのだが、中国政府からの抗議を怖れて「円明園の磁器」などとは記さなくなっているという。

英王室美術館や国立軍事博物館にある円明園の名品は、ルートが明らかだから、中国政府が正式に返還を求めてくると英国にとって頭痛のタネになるだろう。個人コレクションは転売が繰り返され現所有者の手元にあるのだろうから、無償返還に応じるとは思えない。

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第8代エルギン卿  BBC Magazine


“夏の離宮の恥”の記事取材のため、BBC記者ボールビィはスコットランドエジンバラ郊外にあるエルギー卿の子孫の館を訪れた。その日、彼は150年前のエルギン家のアルバムの中に、滅多切りにされた先祖のタイムズ紙記者が棺に納められているスケッチを見た。

「エルギン卿には破壊しか選択肢はなかったのだろうか」とボールビィが尋ねると第十一代エルギンは「今から考えると別の対応の仕方があったかもしれない。同時に、彼の行為を評価するとき、あの時代の感情、それも強烈な感情を理解する必要がある」と言った。

ボールビィはさらに「円明園の美術品は中国へ返還されるべきだろうか」と尋ねた。エルギンは「それは大事な議論点だと思う。しかし、美しいものはそれ自体に価値があり、どこにあってもその美は変わらない」と答えた。そして、1860年の出来事について「こんなことはあるものだ。大事なことは過去にばかり目を向けずに、未来にむかって進むことだ」と言っている。

「美しいものは・・」という議論はギリシャ大英博物館のエルギン・マーブル返還要求への英国側のそれに似ている。パンテノン神殿の彫刻は、エルギンが当時エジプトを支配していたオットマン帝国のサルタンの許可を得たうえだから事情が異なるが、それでも、神殿の壁にあったものを持ってきたのは‘合法的略奪’だろう。ギリシャはエルギン・マーブル返還を1970年代から主張しているが、英国はそれに応じていない。

第11代エルギンは、歴史上、戦争による破壊と略奪はなんどもあった。過去にばかりに拘泥せず未来志向でいこうという。だが、本当の未来志向でいくためには、過去の出来事への基本的共通認識がいるだろう。それも正確な事実に基づいてた上での認識がいる。自国に都合のよいことだけの歴史の記憶では、未来志向でいくための基盤が弱い。

円明園の略奪と破壊事件は中国では誰もが知っているが、ボールビィ記者によると英国人はほとんど知らないという。これを知り筆者は‘あの歴史にこだわる英国人が’とおどろいた。これでは歴史のつまみ食いではないか。しかし、よく考えると自分も含めて日本人の中国近代・現代史への理解のレベルが浅いことも事実である。そのことを思い知ったのは、つい先日出会った本”Wealth and Power-:China‘s long march to the twenty-first century(富と力―中国の21世紀への長征)Orville Schell とJohn Delury共著、2013刊であった。アヘン戦争から現代までの代表的な中国人思想家と政治家11人のポートレートを描き、過去150年の中国の歩みを語るこの秀作に、筆者は大いに啓発された。この本は「屈辱の100年」を克服するために、彼らがいかに「富国強兵」をスローガンにし悪戦苦闘したかを書いている。次回は「屈辱の100年」に、日本が果たした役割を中心に同書の内容を紹介し、「富国強兵」路線を邁進する21世紀の中国の行方を探ってみよう。

註:筆者はこの歴史探訪記を書くために、以下の著作と記事を参照した。
“The Palace of Shame that makes China angry“ Chris Bowlby記者 BBC Magazine、 2015・2・1、“Palace of Shame” BBC Radio 3 同記者の45分現地レポート 、2015・2・2、”Le Sac du Palais d’Ete:Second Guerre de l‘Opium“ Bernard Brizay著、2003刊 “Le Palais d’ete ou l’humiliation chinoise” Le Monde, Brice Pedroletti記者 2015・8・1

 

フランス田舎暮らし ~ バックナンバー1~39


著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。