フランスの田舎から世界を見ると

土野繁樹の歴史探訪

中国100年の屈辱 その11 1937 辺見庸

 

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蔣兆和 「流民圖」 1943年作  Trois Mille Ans de Peinture Chinoise

 

南京事件を中国人の眼で見ると、どう見えるか。作家、堀田善衛は、それを小説『時間』(1955)で試みた。大虐殺事件を被害者の眼でみると、どんな光景が現れ、日本人の言動がどう見えたのか、を堀田は描いている。この斬新な企てを、辺見庸さん(以下敬称略)は「目玉の入れ替え」と呼び、堀田の勇気に敬意を表している。

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中国100年の屈辱 その10 1937年 南京の生き仏

 

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犠牲者の顔写真ククリーン                 南京大虐殺記念館

 

南京事件は、おそらく日本の歴史のなかで最も恥ずべき出来事であった。「聖戦」の名で、書くのも語るのも憚られる蛮行が行われたことを、いまでは多くの日本人は忘れている。そして知らない。知っているにしても、うすらぼんやりとだ。それだけではない。南京事件はなかった、それほどの大事件ではなかった、という説が大手を振るってまかり通っている。

今回の歴史探訪では、幻説と事件の矮小化がなぜ誤っているかを、内外の信頼できる史料を駆使して証明してみよう。史料のなかで、とくに重要なのは、南京安全区委員会の長であったジョン・ラーベの『日記』である。ドイツ人ビジネスマンでナチス党員であったラーベは、南京市民、難民20万人を救った。このヒューマ二ストの日記を読むと、ドキュメンタリー映画の説得力がある。後半で、中国人でも日本人でもない、この第三者の証言を紹介する。

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中国100年の屈辱 その9 1937年 南京事件

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南京入城式    1937年12月17日

 

南京陥落から4日後の1937年12月17日、日本軍による盛大な南京入城式が行われた。東京朝日新聞は翌日の夕刊でその模様を次のように報じている。

 午後1時半松井大将を先頭に朝香宮殿下を始め奉り柳川部隊長,各幕僚は騎乗にて、ここに歴史的大入城式が開始された。嚠喨たる喇叭が響き渡る。何という堂々の大進軍だ。午後2時国民政府正門のセンターポール高く大日章旗が掲揚され、海軍々楽隊の「君が代」が奏でられ始めた。松井方面軍司令官が渾身の感激を爆発させて絶叫する「天皇陛下万歳」の声、全将兵の唱和する万歳のとどろき、ここに敵首都南京がわが手中に帰したことを天下に宣する感激の一瞬である。(記事要約)

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中国100年の屈辱 その8 1936年 西安事件

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西安蒋介石(左)と張学良(左) 1936年12月

 

1936年12月4日、陝西省の首都、西安の飛行場に20人の護衛に守られた蒋介石と幕僚が到着した。西安は唐の時代に長安と呼ばれ、世界で最も美しく豊かな国際都市であった。1300年後の西安は、シルクロードで繁栄していた昔の面影はなく、北伐軍の司令部がある城塞都市になっていた。そこから300キロ離れた陝西省呉起鎮に、毛沢東共産党本拠地(37年に延安へ移動)があった。

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中国100年の屈辱 その7 蔣介石の革命

 

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中国統一のシンボル「青天白日旗」

 

1960年代前半、筆者が学生だった頃、毛沢東は人気があった。当時、中国に関心がある若者は、米国のジャーナリスト、エドガー・スノーの『中国の赤い星』(1937年刊の戦後の邦訳)を読み、毛沢東とその同志のファンになったものだ。筆者もその一人だった。彼の書いた『実践論』と『矛盾論』はいずれも明快な革命哲学論だと思った。かたや、中国共産党の宿敵、蒋介石については、ほとんど関心がなかった。国共内戦に敗れた反共主義者宋美齢の夫、軍人独裁者というぐらいの認識だった。

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中国100年の屈辱 その6 孫文と宮崎滔天②

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辛亥革命911(映画) 香港・中国共同製作 2011年   成龍英皇影業有限公司

 

1900年9月末、孫文は平山周を伴って台湾へ向かった。間もなくはじまる広東省恵州蜂起への武器支援を、台湾総督の児玉源太郎に申しいれるためであった。台北での会見で、児玉は中国革命に賛同し武器給与を約束した。平山の回想録によると、孫文が日本の福建省割譲を黙認するという条件付きであったという。孫文の「滅満興漢」戦略は、まず南清に独立国家を樹立し、北京に攻め上ることであったから、その危険な取引をのんだのだろう。

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中国100年の屈辱 その5「孫文と宮崎滔天」①

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辛亥革命 南京太平門の戦い 1911年  T. Miyano画 . Wellcome Library

 

1897年8月下旬、宮崎滔天は友人、陳少白の横浜外人居留地の宿泊先で孫文にはじめて会った。のちに「中国革命の父」「国父」と呼ばれる孫文は、当時、日本ではほとんど無名の人であった。滔天は運命的ともいえるその日の出会いを自序伝『三十三年の夢』に詳しく書いている。

早朝、髭面の大男、滔天が友人の家を訪れると孫文はまだ就寝中であった。しばらくすると、彼が起きてきて応接室へ招きいれた。彼は寝間着のままで、顔も洗っていないようだった。滔天はその無頓着さにおどろき、この小柄な革命家のマナーにいささか失望を覚えた。

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