中国100年の屈辱 その10 1937年 南京の生き仏
犠牲者の顔写真ククリーン 南京大虐殺記念館
南京事件は、おそらく日本の歴史のなかで最も恥ずべき出来事であった。「聖戦」の名で、書くのも語るのも憚られる蛮行が行われたことを、いまでは多くの日本人は忘れている。そして知らない。知っているにしても、うすらぼんやりとだ。それだけではない。南京事件はなかった、それほどの大事件ではなかった、という説が大手を振るってまかり通っている。
今回の歴史探訪では、幻説と事件の矮小化がなぜ誤っているかを、内外の信頼できる史料を駆使して証明してみよう。史料のなかで、とくに重要なのは、南京安全区委員会の長であったジョン・ラーベの『日記』である。ドイツ人ビジネスマンでナチス党員であったラーベは、南京市民、難民20万人を救った。このヒューマ二ストの日記を読むと、ドキュメンタリー映画の説得力がある。後半で、中国人でも日本人でもない、この第三者の証言を紹介する。
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南京入城式 1937年12月17日
南京陥落から4日後の1937年12月17日、日本軍による盛大な南京入城式が行われた。東京朝日新聞は翌日の夕刊でその模様を次のように報じている。
午後1時半松井大将を先頭に朝香宮殿下を始め奉り柳川部隊長,各幕僚は騎乗にて、ここに歴史的大入城式が開始された。嚠喨たる喇叭が響き渡る。何という堂々の大進軍だ。午後2時国民政府正門のセンターポール高く大日章旗が掲揚され、海軍々楽隊の「君が代」が奏でられ始めた。松井方面軍司令官が渾身の感激を爆発させて絶叫する「天皇陛下万歳」の声、全将兵の唱和する万歳のとどろき、ここに敵首都南京がわが手中に帰したことを天下に宣する感激の一瞬である。(記事要約)
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デモ行進する北京の大学生 Wikipedia
1919年5月4日、その日は日曜日で、北京は春というのに冷たい風が吹いていた。午後1時半、天安門広場に市内の12大学から3000人の学生が集まった。多くの学生が、彼らが尊敬する知識人の“制服”長い絹のガウンの上に綿入れのジャケットを着ていた。西洋列強に皮肉をこめて山高帽を被っている学生もいた。北京大学の学生代表が「われわれは、パリのベルサイユ講和会議で決定された山東省の日本への割譲に断固反対する」と宣言した。午後2時、学生は外国公館のある東交民港に向かってデモ行進をはじめた。プラカードには「青島を返せ」「講和条約に署名するな」「21か条を破棄せよ」「中国は中国人のものだ」とあった。このデモは中国の民族運動の発火点となった。