中国100年の屈辱 その9 1937年 南京事件
南京入城式 1937年12月17日
南京陥落から4日後の1937年12月17日、日本軍による盛大な南京入城式が行われた。東京朝日新聞は翌日の夕刊でその模様を次のように報じている。
午後1時半松井大将を先頭に朝香宮殿下を始め奉り柳川部隊長,各幕僚は騎乗にて、ここに歴史的大入城式が開始された。嚠喨たる喇叭が響き渡る。何という堂々の大進軍だ。午後2時国民政府正門のセンターポール高く大日章旗が掲揚され、海軍々楽隊の「君が代」が奏でられ始めた。松井方面軍司令官が渾身の感激を爆発させて絶叫する「天皇陛下万歳」の声、全将兵の唱和する万歳のとどろき、ここに敵首都南京がわが手中に帰したことを天下に宣する感激の一瞬である。(記事要約)
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デモ行進する北京の大学生 Wikipedia
1919年5月4日、その日は日曜日で、北京は春というのに冷たい風が吹いていた。午後1時半、天安門広場に市内の12大学から3000人の学生が集まった。多くの学生が、彼らが尊敬する知識人の“制服”長い絹のガウンの上に綿入れのジャケットを着ていた。西洋列強に皮肉をこめて山高帽を被っている学生もいた。北京大学の学生代表が「われわれは、パリのベルサイユ講和会議で決定された山東省の日本への割譲に断固反対する」と宣言した。午後2時、学生は外国公館のある東交民港に向かってデモ行進をはじめた。プラカードには「青島を返せ」「講和条約に署名するな」「21か条を破棄せよ」「中国は中国人のものだ」とあった。このデモは中国の民族運動の発火点となった。
中国100年の屈辱 その3 「日清戦争」
筆者は下関で育ったので、日清戦争の講和条約会議場となった春帆楼と聞くとなつかしい。春帆楼は関門海峡をのぞむ高台にあり、源平合戦の決戦場となった壇ノ浦が眼下にある。日本の代表は伊藤博文(首相)と睦奥宗光(外務大臣)、清の代表は李鴻章(皇帝の特命大臣)と李経方(駐日公使)がしのぎを削る交渉をして結ばれた下関条約の内容を語る前に、かんたんにこの戦争についてふれておこう。
日清戦争(1894-95)は大韓帝国(韓国)をめぐる両国の支配権の争いであった。あからさまに言うと領土と権益の争いであった。
日本人の圧倒的多数は、宗主国である清の旧守派の支配から韓国を解放し、その「独立」を守り、明治維新型の「改革」を助けるための戦いであるとの開戦の大義名分を信じた。啓蒙思想のパイオ二ア・福沢諭吉は「日清戦争は文明と野蛮との戦争なり」と公言し、キリスト教界のリーダー内村鑑三は「義戦なり」「この戦いは神が日本に与えた天職である」と訴えている。このように、当時の知識人の多くが戦争を熱烈支持したなかで、のちに孫文の中国革命を体を張って助けた宮崎滔天は、これは帝国主義の戦争であると嫌悪している。
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