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フランスの田舎から世界を見ると

土野繁樹の歴史探訪

中国100年の屈辱 その9 1937年 南京事件

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南京入城式    1937年12月17日

 

南京陥落から4日後の1937年12月17日、日本軍による盛大な南京入城式が行われた。東京朝日新聞は翌日の夕刊でその模様を次のように報じている。

 午後1時半松井大将を先頭に朝香宮殿下を始め奉り柳川部隊長,各幕僚は騎乗にて、ここに歴史的大入城式が開始された。嚠喨たる喇叭が響き渡る。何という堂々の大進軍だ。午後2時国民政府正門のセンターポール高く大日章旗が掲揚され、海軍々楽隊の「君が代」が奏でられ始めた。松井方面軍司令官が渾身の感激を爆発させて絶叫する「天皇陛下万歳」の声、全将兵の唱和する万歳のとどろき、ここに敵首都南京がわが手中に帰したことを天下に宣する感激の一瞬である。(記事要約)

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中国100年の屈辱 その8 1936年 西安事件

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西安蒋介石(左)と張学良(左) 1936年12月

 

1936年12月4日、陝西省の首都、西安の飛行場に20人の護衛に守られた蒋介石と幕僚が到着した。西安は唐の時代に長安と呼ばれ、世界で最も美しく豊かな国際都市であった。1300年後の西安は、シルクロードで繁栄していた昔の面影はなく、北伐軍の司令部がある城塞都市になっていた。そこから300キロ離れた陝西省呉起鎮に、毛沢東共産党本拠地(37年に延安へ移動)があった。

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中国100年の屈辱 その7 蔣介石の革命

 

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中国統一のシンボル「青天白日旗」

 

1960年代前半、筆者が学生だった頃、毛沢東は人気があった。当時、中国に関心がある若者は、米国のジャーナリスト、エドガー・スノーの『中国の赤い星』(1937年刊の戦後の邦訳)を読み、毛沢東とその同志のファンになったものだ。筆者もその一人だった。彼の書いた『実践論』と『矛盾論』はいずれも明快な革命哲学論だと思った。かたや、中国共産党の宿敵、蒋介石については、ほとんど関心がなかった。国共内戦に敗れた反共主義者宋美齢の夫、軍人独裁者というぐらいの認識だった。

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中国100年の屈辱 その6 孫文と宮崎滔天②

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辛亥革命911(映画) 香港・中国共同製作 2011年   成龍英皇影業有限公司

 

1900年9月末、孫文は平山周を伴って台湾へ向かった。間もなくはじまる広東省恵州蜂起への武器支援を、台湾総督の児玉源太郎に申しいれるためであった。台北での会見で、児玉は中国革命に賛同し武器給与を約束した。平山の回想録によると、孫文が日本の福建省割譲を黙認するという条件付きであったという。孫文の「滅満興漢」戦略は、まず南清に独立国家を樹立し、北京に攻め上ることであったから、その危険な取引をのんだのだろう。

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中国100年の屈辱 その5「孫文と宮崎滔天」①

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辛亥革命 南京太平門の戦い 1911年  T. Miyano画 . Wellcome Library

 

1897年8月下旬、宮崎滔天は友人、陳少白の横浜外人居留地の宿泊先で孫文にはじめて会った。のちに「中国革命の父」「国父」と呼ばれる孫文は、当時、日本ではほとんど無名の人であった。滔天は運命的ともいえるその日の出会いを自序伝『三十三年の夢』に詳しく書いている。

早朝、髭面の大男、滔天が友人の家を訪れると孫文はまだ就寝中であった。しばらくすると、彼が起きてきて応接室へ招きいれた。彼は寝間着のままで、顔も洗っていないようだった。滔天はその無頓着さにおどろき、この小柄な革命家のマナーにいささか失望を覚えた。

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中国100年の屈辱 その4「五・四運動」

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デモ行進する北京の大学生  Wikipedia


1919年5月4日、その日は日曜日で、北京は春というのに冷たい風が吹いていた。午後1時半、天安門広場に市内の12大学から3000人の学生が集まった。多くの学生が、彼らが尊敬する知識人の“制服”長い絹のガウンの上に綿入れのジャケットを着ていた。西洋列強に皮肉をこめて山高帽を被っている学生もいた。北京大学の学生代表が「われわれは、パリのベルサイユ講和会議で決定された山東省の日本への割譲に断固反対する」と宣言した。午後2時、学生は外国公館のある東交民港に向かってデモ行進をはじめた。プラカードには「青島を返せ」「講和条約に署名するな」「21か条を破棄せよ」「中国は中国人のものだ」とあった。このデモは中国の民族運動の発火点となった。

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中国100年の屈辱 その3 「日清戦争」

 

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平壌陥落の錦絵 小林清親                 British Museum


筆者は下関で育ったので、日清戦争講和条約会議場となった春帆楼と聞くとなつかしい。春帆楼は関門海峡をのぞむ高台にあり、源平合戦の決戦場となった壇ノ浦が眼下にある。日本の代表は伊藤博文(首相)と睦奥宗光(外務大臣)、清の代表は李鴻章(皇帝の特命大臣)と李経方(駐日公使)がしのぎを削る交渉をして結ばれた下関条約の内容を語る前に、かんたんにこの戦争についてふれておこう。

日清戦争(1894-95)は大韓帝国(韓国)をめぐる両国の支配権の争いであった。あからさまに言うと領土と権益の争いであった。

日本人の圧倒的多数は、宗主国である清の旧守派の支配から韓国を解放し、その「独立」を守り、明治維新型の「改革」を助けるための戦いであるとの開戦の大義名分を信じた。啓蒙思想のパイオ二ア・福沢諭吉は「日清戦争は文明と野蛮との戦争なり」と公言し、キリスト教界のリーダー内村鑑三は「義戦なり」「この戦いは神が日本に与えた天職である」と訴えている。このように、当時の知識人の多くが戦争を熱烈支持したなかで、のちに孫文の中国革命を体を張って助けた宮崎滔天は、これは帝国主義の戦争であると嫌悪している。

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