フランスの田舎から世界を見ると

土野繁樹の21世紀探訪

中国100年の屈辱 その6 孫文と宮崎滔天②

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辛亥革命911(映画) 香港・中国共同製作 2011年   成龍英皇影業有限公司

 

1900年9月末、孫文は平山周を伴って台湾へ向かった。間もなくはじまる広東省恵州蜂起への武器支援を、台湾総督の児玉源太郎に申しいれるためであった。台北での会見で、児玉は中国革命に賛同し武器給与を約束した。平山の回想録によると、孫文が日本の福建省割譲を黙認するという条件付きであったという。孫文の「滅満興漢」戦略は、まず南清に独立国家を樹立し、北京に攻め上ることであったから、その危険な取引をのんだのだろう。

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中国100年の屈辱 その5「孫文と宮崎滔天」①

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辛亥革命 南京太平門の戦い 1911年  T. Miyano画 . Wellcome Library

 

1897年8月下旬、宮崎滔天は友人、陳少白の横浜外人居留地の宿泊先で孫文にはじめて会った。のちに「中国革命の父」「国父」と呼ばれる孫文は、当時、日本ではほとんど無名の人であった。滔天は運命的ともいえるその日の出会いを自序伝『三十三年の夢』に詳しく書いている。

早朝、髭面の大男、滔天が友人の家を訪れると孫文はまだ就寝中であった。しばらくすると、彼が起きてきて応接室へ招きいれた。彼は寝間着のままで、顔も洗っていないようだった。滔天はその無頓着さにおどろき、この小柄な革命家のマナーにいささか失望を覚えた。

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中国100年の屈辱 その4「五・四運動」

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デモ行進する北京の大学生  Wikipedia


1919年5月4日、その日は日曜日で、北京は春というのに冷たい風が吹いていた。午後1時半、天安門広場に市内の12大学から3000人の学生が集まった。多くの学生が、彼らが尊敬する知識人の“制服”長い絹のガウンの上に綿入れのジャケットを着ていた。西洋列強に皮肉をこめて山高帽を被っている学生もいた。北京大学の学生代表が「われわれは、パリのベルサイユ講和会議で決定された山東省の日本への割譲に断固反対する」と宣言した。午後2時、学生は外国公館のある東交民港に向かってデモ行進をはじめた。プラカードには「青島を返せ」「講和条約に署名するな」「21か条を破棄せよ」「中国は中国人のものだ」とあった。このデモは中国の民族運動の発火点となった。

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中国100年の屈辱 その3 「日清戦争」

 

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平壌陥落の錦絵 小林清親                 British Museum


筆者は下関で育ったので、日清戦争講和条約会議場となった春帆楼と聞くとなつかしい。春帆楼は関門海峡をのぞむ高台にあり、源平合戦の決戦場となった壇ノ浦が眼下にある。日本の代表は伊藤博文(首相)と睦奥宗光(外務大臣)、清の代表は李鴻章(皇帝の特命大臣)と李経方(駐日公使)がしのぎを削る交渉をして結ばれた下関条約の内容を語る前に、かんたんにこの戦争についてふれておこう。

日清戦争(1894-95)は大韓帝国(韓国)をめぐる両国の支配権の争いであった。あからさまに言うと領土と権益の争いであった。

日本人の圧倒的多数は、宗主国である清の旧守派の支配から韓国を解放し、その「独立」を守り、明治維新型の「改革」を助けるための戦いであるとの開戦の大義名分を信じた。啓蒙思想のパイオ二ア・福沢諭吉は「日清戦争は文明と野蛮との戦争なり」と公言し、キリスト教界のリーダー内村鑑三は「義戦なり」「この戦いは神が日本に与えた天職である」と訴えている。このように、当時の知識人の多くが戦争を熱烈支持したなかで、のちに孫文の中国革命を体を張って助けた宮崎滔天は、これは帝国主義の戦争であると嫌悪している。

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中国100年の屈辱 その2 「アヘン戦争」

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英軍艦に吹き飛ばされる清海軍のジャンク船 1842 Edward Duncan 画 The British Museum


1839年6月6日、アヘン撲滅作戦の指揮をとる林則徐(皇帝の特命大臣)が旗を左右に振ると、広東虎門の海浜に作られた池のなかに、没収された大量のアヘンが次々と投げ込まれ、石灰が加えられると煙を上げながら海中に消えていった。その量は2万箱1400トンもあった。この事件はアヘン戦争の引き金となる。

英国の植民地支配に抗議して起こった「ボストン茶会事件」(1773年)は
アメリカ独立への道を開いたが、不幸にも、林の果敢なアヘン撲滅キャンペーンは、中国の半植民地化への幕明けとなった。英国が仕掛けたアヘン戦争を、現代中国の高校生は西洋列強と日本による「屈辱の100年」がはじまった年として学ぶ。

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中国100年の屈辱 その1 「円明園の略奪と破壊」

“われわれは自らを文明人と称し、彼らを野蛮人という。しかしこれが、文明が野蛮に対してやったことだ”ヴィクトル・ユーゴー 1860年

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円明園の遺跡  BBC Magazine


円明園(英語では通称Old Summer Palace in Beijing)は北京の紫禁城(故宮)の西北8キロにあり、広さは紫禁城の5倍もある。清朝皇帝の離宮があったここは中国最大の観光スポットで年間600万人が訪れる。ユネスコ世界遺産円明園紫禁城のように昔の姿をとどめていない。1860年、第二次アヘン戦争の最中に英仏軍によって徹底的に破壊されたからだ。中国建築の粋を集めた200の建物に所蔵されていた書画、翡翠、絹織物、磁器、紫檀調度品など美術品の大半は英仏軍の将兵が略奪し両国へ持ち帰った。

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