中国100年の屈辱 その3 「日清戦争」
筆者は下関で育ったので、日清戦争の講和条約会議場となった春帆楼と聞くとなつかしい。春帆楼は関門海峡をのぞむ高台にあり、源平合戦の決戦場となった壇ノ浦が眼下にある。日本の代表は伊藤博文(首相)と睦奥宗光(外務大臣)、清の代表は李鴻章(皇帝の特命大臣)と李経方(駐日公使)がしのぎを削る交渉をして結ばれた下関条約の内容を語る前に、かんたんにこの戦争についてふれておこう。
日清戦争(1894-95)は大韓帝国(韓国)をめぐる両国の支配権の争いであった。あからさまに言うと領土と権益の争いであった。
日本人の圧倒的多数は、宗主国である清の旧守派の支配から韓国を解放し、その「独立」を守り、明治維新型の「改革」を助けるための戦いであるとの開戦の大義名分を信じた。啓蒙思想のパイオ二ア・福沢諭吉は「日清戦争は文明と野蛮との戦争なり」と公言し、キリスト教界のリーダー内村鑑三は「義戦なり」「この戦いは神が日本に与えた天職である」と訴えている。このように、当時の知識人の多くが戦争を熱烈支持したなかで、のちに孫文の中国革命を体を張って助けた宮崎滔天は、これは帝国主義の戦争であると嫌悪している。
続きを読む中国100年の屈辱 その2 「アヘン戦争」
英軍艦に吹き飛ばされる清海軍のジャンク船 1842 Edward Duncan 画 The British Museum
中国100年の屈辱 その1 「円明園の略奪と破壊」
“われわれは自らを文明人と称し、彼らを野蛮人という。しかしこれが、文明が野蛮に対してやったことだ”ヴィクトル・ユーゴー 1860年
円明園(英語では通称Old Summer Palace in Beijing)は北京の紫禁城(故宮)の西北8キロにあり、広さは紫禁城の5倍もある。清朝皇帝の離宮があったここは中国最大の観光スポットで年間600万人が訪れる。ユネスコ世界遺産の円明園は紫禁城のように昔の姿をとどめていない。1860年、第二次アヘン戦争の最中に英仏軍によって徹底的に破壊されたからだ。中国建築の粋を集めた200の建物に所蔵されていた書画、翡翠、絹織物、磁器、紫檀調度品など美術品の大半は英仏軍の将兵が略奪し両国へ持ち帰った。