フランスの田舎で暮らす

土野繁樹の歴史散歩

 パリは燃えているか?(13) その2

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シャンゼリゼ大通りを凱旋行進するドゴールと随行団 1944年8月26日                  Aramy

 

筆者 は『パリは燃えているか?』は、20世紀のノンフィクションの傑作だと思う。この本の「感謝の言葉」を読んでいると、二人の 著者が 3年間をかけて取材した内容に圧倒される。二人の組み合わせが最高だ。ラリー・コリンズは米国のニューズウィーク・パリ支局長でアメリカ人、ドミニク・ラピエールは パリ・マッチの記者でフランス人であった。二人はこの世界的ベストセラーの 著者になるジャーナリストとしての豊かな経験があった。コリンズは北アフリカ、中東、ヨーロッパ の特派員、ラピエールはヨーロッパ、アメリカ、アジアの特派員 を体験していた。二人は勤務先から3年間の休暇をもらい調査と執筆に専念したが、この本は国際記者の最優秀作といえる。

筆者はこの本の刊行当時の爆発的売れ行き(30カ国、1000万冊)は、米国のノートン出版の知恵者の戦略が当たった気がする。ノートンは世界的出版社であるから映画界とも縁が深く、フランス人監督ルイ・クレマンと豪華なスター総動員の同タイトルの映画を公開し大当たりした。これはメディヤ・ミックスの勝利だろう。

この本が扱っている期間は1944年8月7日、コルティッツ将軍がヒトラーにパリ司令官に任命されあいさつに行く日から、ドゴールが4年間の亡命からパリに戻って来て、絶大な人気を得て臨時首相となった翌日の8月26日までの僅か19日間である。

今回のエッセイでは『パリは燃えているか?』(志摩隆訳)のなかで、主にコルティッツ、ノルドリンク、ドゴールに関する出来事を取り上げている。例えば、コルティッツに関しては「ヒトラーと面談」「パリ焦土化は当然」「パリ市長必死の説得」「ドイツ軍への反乱が始まった」「パリ司令官の孤独」「パリ全教会の鐘が鳴る」「ヒトラー、V1 号、V2号の発射命令」、ノルドリンクは「ノルドリンクと反ナチ情報部員」「コルティッツが決断する」、ドゴールは「孤独なフランスへの旅」「アイゼンハウワーの決定を変えた男」「パリまで50キロ」「パリ帰還」「ドゴール、 フランスを掌握する」。以下の手に汗握る描写は基本的に本からの抜粋であるが、主要人物の発言の引用部分は特に大事だ。二人の著者はこの引用部分を歴史の証言と考えていた。

筆者はコルティッツの心境の変化が、パリを救うことになったと思う。8月15日、彼は上司の西部軍司令部の会議で「パリ破壊は妥当」と考えていたが、21日にはヒトラーに反逆する決意をしているからだ。19日、パリで共産主義者主導のドイツ軍占領への反乱が起き、首都で武力衝突が勃発した。しかし、武力で 決定的に劣る反乱側はたちまち苦境に追い込まれる。アイゼンハウワーはパリ進攻に反対であったが、22日に共産党愛国者ガロアの必死の説得で心変わりをする。これはパリの運命を変えるものであった。

この本の圧巻はドゴールが4年の亡命を終え、26日、シャンゼリゼ大通りを凱旋行進する場面だ。100万の大群衆がドゴール、ドゴールと歓声を上げるなかで、彼は群衆のなかにある思いに同感し、自分がフランスの運命を託されていることを強く感じた。

25日、ヒトラーは戦略会議で「パリは燃えているか?」とモーデル参謀長に聞くが答えられない。怒った彼は北部フランスなどにあるV1号とV2号の1000発を、パリへ打ち込めと命令する。翌日、その命令を受け取った現地のB軍集団のシュバイデル参謀長は、常軌を逸していると思いそれを取りつがなかった。1週間後、ゲシュタポが彼を逮捕した。シュバイデルが命令を伝達していたら、凱旋行進の日、パリは殺戮の首都になっていただろう。彼はドイツ側の知られざる英雄だ。

ドゴールがフランス人になぜあれほど尊敬されるのか。その答えは、凱旋行進の日に彼が示した何者をも恐れぬ勇気と平静な態度にある。その日、将軍と行動を共にしたアメリカ人記者は「この日、ドゴールはフランスを自らの手中にした」と電報を打った。この本のハイライトである最終章に詳細を記しているので、どうぞご覧になって下さい。

 

 

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ヒトラー暗殺計画、首謀者のシュタウフベルグ大佐(左端)とヒトラー総統
 7月15日                     Bundesarchiv Bild

 

コルティッツ、ヒトラーと面談 8月7日

ヒトラーがコルティッツをパリ司令官に任命しその理由は彼の忠誠心だった。7月20日に軍幹部によるヒトラー暗殺未遂事件があり、疑心暗鬼になっていた総統の側近は「どんな苛酷な命令でも、いちども命令に逆らったことのない男」を推薦したのだった。彼はオランダ・ロッテルダムの無差別爆撃の命令を遂行し,死傷者多数、被災者8万人をだし、クリミア半島セバストーポリのユダヤ人虐殺の命令に従って約3万人の殺害に加担している。

コルティッツはヒトラーに8月7日に再会した。一年前、ドニエプル河岸の司令部で行われた野外昼食会の席で会い、ヒトラーに3つの点で感銘を受けた。あの確信に満ちた話しぶり、決して笑顔をみせず、そして、シレジアの田舎者のぶっきらぼうさであつた。ラステンブルクの森に到着する前は、 ヒトラーと会って第三帝国の将来について信念を新たにしたいと思っていた。ところが、目の前の男は1年前の男の面影はないまるで老人だった。顔はやつれ、蒼白で、目は血走り、猫背になっていた。なによりも何百万の人々を活気づけたあの絶叫が弱々しい声になっていたのだ。

内容はといえば、とりとめなく昔話で、やがていま準備中の“新兵器“について語った。そして、突然ヒトラーは「7月20日以来」と絶叫した。「何十人という将軍たちが、わたしの使命遂行を妨害したために、ロープの端からぶら下がるはめになったのだ。だが何者もわたしを止めることはできない」とヒトラーはコルティッツに向かって叫んだのだ。最後に彼は君の任務は「わたしの特別司令官になるのだ。将軍、安心してくれたまえ。必要な援助はなんでもやる」と言った。この言葉を発したとき時のヒトラーの「残酷な目」が忘れられない。彼はヒトラーが狂ったのではないか、と思った。

 

 

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アウシュヴィッツ強制収容所                     Wikipedia

 

ノルドリンクと反ナチ情報部員 8月12日ー16日

スウェーデン総領事ラウル・ノルドリンクは、ドイツ国防軍のためにボール・ベアリングの工場を経営していたので、パリ外交団主席という肩書きで、彼はドイツ軍の公式レセプションにいつも招待されていた。その日どうしても会いたいドイツ人“ボビー”を紹介してくれる人を探していた。

ノルドリンクの目的はゲシュタポに捕らわれた囚人の未来についてだった。パリには7000人が収容されていたが、ゲシュタポはその一部をドイツの強制収容所に送るか、残った収容者は退却前に親衛隊が殺害するかであった。なんとしてもボビーに会い、最近着任したパリ司令官に面会し、出来るだけ多くの政治犯赤十字の保護に置くことを談判したいと考えていたのだ。

ノルドリンクが電話をしたとき、エミール・“ボビー” ・ベンデルは数時間後、セント・スメールの上司の軍情報部長の命令でパリを去るつもりだった。しかし、この45歳のハンサムな元パイロットは、チュウリッヒの婚約者と落ち合い、この戦争から手をひくつもりだった。4年間暮らしたパリを去るのは、ボビーにとって悲しいことだった。もう一つのボビーの顔は、1941年以来、情報部内の反ナチ地下組織の最も重要な一員であった。

ボビー を説得するには時間がかかったが「数日だけ」滞在をのばすという条件で、彼は総領事に援助を約束した。これ は大誤算で、2週間のちにはフランス人の捕虜になってしまった。しかし、彼がその間にやったことはこれまでの仕事の価値をはるかに上回るものだった。

ノルドリンクとボビー・ベンデルは過去4日かけて、懸命にゲシュタポ政治犯釈放のために努力したが 、成果は上らなかつた。だが、8月16日、ホテル・マジェスティクでコルテ ィッツが「政治犯には用が ない」と言ったので、二人は飛びあがって喜んだ。占領軍政府参謀長の部屋に行き説明をするが、上司はすでにナンシーに行ったので、こんな重要事項は自分には決定出来な いと言う。

ノルドリンクは切り札として「フランス人の政治犯一人につき、ドイツ人兵士5人を自由に出来る」と言った。少佐の態度が変わり、ノルドリンクが連合国軍最高司令部はこの交換を了承していると言うと安心したようすだった。「あと1時間したら、わたしはナンシーへ出かけなくてはなりません」という。二人は大急ぎでホテルを出て、弁護士を見つけ法律形式で 書いてもらい、少佐の署名をもらった。1時間15分で、ドイツ人捕虜1万5000人との交換で3633名の政治犯の生命を救ったのだ。

 

 

パリの焦土化は当然 8月15日

早朝、コルティッツの車ホルヒは、ヴィクトル・ユーゴ通りの西部軍司令部前で止まった。ドイツ国防司令部の命令「限定的焦土作戦」を議題にした、上司の司令部フォン・クルーゲ元帥の会議に召喚されたためだった。コルティッツは前日、ベルリンから始めて直接命令を受け取っていたので、クルーゲも当然コピーを受け取っていると思った。

クルーゲの参謀長ブルーメントリットが16頁の作戦計画をもとに、第一段階のパリのガス、電力、水道施設の破壊、第二段階の産業施設のサボタージュを説明し、参謀長 は第一段階を直ちに実行することを主張した。コルティッツは連合国軍がドイツの諸都市を爆撃している現状で、当地が焦土化するのは当然だと思った。しかし、彼はこの計画はパリを放棄する準備にかかるときで良いと主張した。もちろん、ドイツ軍には放棄のつもりはないが、早まってやれば、パリ市民の多くがレジスタンスに合流すると考えたのだ。

すると突然、クルーゲは、二人とも良い点をついているが「いずれ最終決定はわたしが下す」と言い会議を打ち切った。しかし、会議が終わったあとで、コルティッツはクルーゲからパリの破壊を実施するように言われた。それから56時間後、クルーゲに異変が起こる。彼は突然解任され、ベルリンに戻る途中で自殺したのだった。自殺の原因はこの本では不明だが、コルティッツは彼のパリ破壊命令を棚上げにしている。

同じ日、司令官がホテル・ムーリスに帰ると4人の技師が待っていた。彼らの命令書にはベルリンのコードル大将のサインがあった。彼らは「パリ地区の主要な産業施設破壊の準 備と監督」のために派遣されたのだ。このグループの長バイエル教授は、それ相当の爆薬を装置できれば「少なくとも、6ヵ月間パリを完全に麻痺させる」ことができると司令官に保証した。コルティッツはホテルに部屋をとり、車を二台自由に使えるように手配した。2時間後に部屋に行ってみると、技師たちは「地図と青写真に夢中になっていた」。一人の技師が司令官に請け合った。「たとえパリが陥落しても、連合国軍が入ってきても 役に立つような工場は一つもないでしょう」。

 

 

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パリ市長テタンジュ                        Grand Cuvee

 

パリ市長必死の説得 8月16日

パリ市長ピエール・テタンジュは「ドイツ軍が橋を爆破するらしい」という匿名電話をもらい、急遽パリ司令官に面会を申し込んだ。開口一番、コルティッツは居丈高に「たとえばですよ。もしオペラ座にいたわが軍の兵士に、一発の弾丸でも発射されるとしますよ。そうなれば、わたしは一区画にある家を全部焼き払った上に、住民を全部銃殺させます」と言った。つづけて「わたしには親衛隊員を主力とする2万2000人の歩兵、戦車100台、爆撃機90機があります」と言い、橋、発電所、鉄道、通信施設の破壊計画を話した。テタンジュは体の震えを隠せなかった。

突然、将軍は咳き込みはじめたので、彼はバルコニーで外の空気を吸うようにすすめた。そこで、市長は脅迫に屈することなく、パリを証人に都への愛を語り始めた。「将軍たちは往々にして破壊する権力はお持ちですが、建設する権力はほとんどお持ちになりません。いつの日かあなたが観光客としておいでになったとき、このバルコニーに立って、このわたしたちの喜びと悲しみの目撃者である記念建築物を見て、こう言える日がくるかもしれません。フォン・コルティッツ将軍は、この建物を全部破壊しようとすることは出来たのだが、人類への贈り物として保存しておいたのだ」と。

コルティッツはしばらく無言のままだった。そして、ずっと優しい声で「あなたはパリのためには実に見事な弁護士ですな、テタンジュさん、あなたはご自分の義務を果たされました。わたしも同じくドイツ将軍としての義務を果たさねばなりません」。

 

 

共産党、一斉蜂起を決める 8月18日

共産党のパリ解放委員会は、ノートルダム寺院から南に10キロの野菜畑にある秘密会議場で、一斉蜂起という最も重要な決定を下した。議長役のアンドレ・トレはひとたび口火が切られれば、フランス国内軍(25000人)の愛国者が戦いに参加することを確信していた。

しかし、この圧倒的に不利な武装蜂起がもたらす、犠牲の大きさを考えれば、「常軌を逸した危険な賭け」であることを知っていた。大事なことは、ドゴール派の29歳のシャパン・デリマ将軍(ドゴールのパリ代表)やパロディ(ドゴールの政治家のトップ)を出し抜くことだった。2時間後に決定が下され、トレは喜色満面だった。しかし、彼の好み からすると、4人の委員 の中でレイ・アモン法学教授は、ドゴール派に近いと思われた。

法学教授への疑いは当たっていた。その日のうちに、アモン教授はドゴール派のパロディに、翌朝7時の一斉蜂起計画を伝えたのである。それなら、とパロディは大胆な方法を思いついた。先手を打って、パリ警視庁が彼らの手に渡る前に奪取するのだ。指令書はパリの警察官が、午前7時にノートルダム寺院の石畳の前に集まることを求めていた。これで、この派は一斉蜂起で先陣を勝ち取ることが出来る。

 

 

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降伏するドイツ兵                           Past Daily

 

ドイツ軍への反乱が始まった 8月19日

空気はうっとうしく、湿っぽかった。パリは占領第1518日目を迎えようとしていた。この灰色の朝から数時間後には、ドイツ国防軍の支配から逃れる戦いが始まろうとしていた。9時までの一連の報告にコルティッツは驚き、激怒した。一斉蜂起はまったくの不意打ちだったのだ。最初の2時間で市街の様相が一変した。

パリのいたるところから、徒歩または自転車で、スト中の警官が続々とノートルダム広場を目指して集結していた。警視総監ビュシェールの目が覚め、従僕に「何か変わったことはないかね」と訊ねると、彼は「ニュースがございますよ。みんなが戻ってまいりました」と答えた。時間は午前7時過ぎだった。

警視総監は中庭に面した窓からの光景に驚いた。小銃、拳銃、手榴弾武装した者、素手の者と数百人が集まっていたのだ。指導者のイヴ・バイエは叫んだ。「フランス共和国とドゴールの名において、わたしは警視庁を占拠する」。仰天した警視総監は「革命じゃないか…」とつぶやいた。そして、全員が熱烈な調子で「ラ・マルセイエーズ」を歌った。

そのあと、バイエはサン・ジェルマン大通りカフェ・ド・マゴで新聞を読んでいる男に「総監閣下、警視庁を占拠いたしました。警視庁はあなたのものです」と言った。男は満足の微笑を浮かべ、車に乗り新しい職場に向かった。この男は7日前に落下傘で着陸したシャルル・リュイゼで、ドゴール将軍が最初に任命した高官だった。

警視庁でドゴール派に一歩ゆずった以外は、共産党が準備した一斉蜂起は瞬く間に拡大した。ゲリラ戦での兵士のスローガンは、共産党のボス、ロレ大佐が命名した「一人が一人のドイツ兵を」で、集団を離れた敵兵を攻撃し、武器を奪い取っていった。フランス国内軍はあり合わせの武器で、20の区役所、警察署、郵便局などを占拠していた。そして、いたるところにフランス国旗をはためかせていた。

パリで最も閑静なヌイイに住んでいた5000人のドイツ兵は、この朝も戦争からはほど遠い生活を続けていた。二人のドイツ兵がコニャクを飲みくつろいでいた。後ろを向くと肉屋が銃を向け、二人のドイツ兵はヌイイの区役所に連行され捕虜になった。

一発も撃たずに区役所を占領したカイエットは65名の部下を3つの階に分散させていた。すると、ドイツ兵を満載したトラックが到着し、士官が「降参して、でてこい!」と叫んだ。するとカイエットは「お前たちこそ降伏しろ、こちらは解放軍だぞ!」と答えた。銃撃戦が始まり、ドイツ兵全員が死んだ。

幌のないメルセデスがチュイルリー河岸の並木道を走っていた。あまりにも平穏なので、若いフォン・アルニム伯爵は、パリがまったく別世界になることは想像できなかった。後部座席で、二人の軍曹が機銃をビルに向け警戒していた。ノートルダム寺院や警視庁のあるシテ島に入ると、警視庁から銃弾の雨が降り注いだ。二人の軍曹はあっけなく殺され、タイヤを射抜かれた車からアルニムは命からがら脱走した。その夜、家族に電話した。「母さん、パリは地獄になってしまいました」。

午後7時、ホテル・ムーリスでコルティッツはノルドリンクと会っていた。警視庁から「状 況は絶望的で、弾薬はあと数分しか残っていません」と電話があり、司令官に会見を申し込んだのだ。バルコニーに立った司令官は、自転車で行く「あの綺麗な娘たちを殺すのは悲劇だ」と言った。この言葉にぎょっとしたノルドリンクは、「本当にパリを破壊するつもりですか」と訊いた。すると彼は「奴らを爆撃して警視庁から追い出してやる」と答えた。

ノルドリンクは「もし爆弾が目標をはずれたら、ノートルダム寺院かサント・シャペル寺院に落ちるかも知れないのですよ」と反論した。彼は「わたしの立場に もなってごらんなさい。ほかに一体どんな方法があるのですか」と言う。スウェーデン総領事は「一時休戦」を提案した。司令官はおどろいた。しかし、彼の 提案には利点もある。司令官はパリの平穏が保たれるなら、考えてもいいと思った。

これは、コルティッツの生涯で最も重大な決定だった。彼は次のように言った。「もしも 警視 庁の指揮官たちが、1時間の間に部下を統制出来るなら、全市にわたる休戦に同意して もよい」と答えた。コルティッツは武力が引き起こす悲劇なしで、平静が回復されることを祈っていたのだ。彼はそのあとで、参謀長に明日に予定していた空爆は一時延期を伝えるよう指示した。ノルドリン クがニュースを伝えると、警視庁のピザ二は椅子からとびあがって喜んだ。

 

 

ドゴール、孤独なフランスへの旅 8月19日―20日

パリで一斉蜂起が始まった日、ドゴールはロッドスター機フランス号でノルマンディ海岸の飛行場に向かっていた。2000キロ離れたマダガスカルから英国領に入ると、同国の護衛編隊が来ることになっていたが、それが来ない。旧式のロッドスター機は目測でシェルブールの小さな飛行場を探す。困った機長が「おやじさんにこの地図を持っていき、飛行場の位置がわかるか、聞いてくれ」と機関長に言う。ドゴールは眼鏡をかけて、しばらく外を眺めていた。ノルマンディの突端の部分を見ながら「ここだ、シェルブールのすぐ東だ」と言った。それは正確だった。残っているガソリンはわずか120秒分しかなかった。危機一髪のところだった。

モペルチェの小さな飛行場で、8月19日に彼を迎えたのは泥と霧雨だけだった。そこで ドゴールは  「パリで暴動が起こった」ことを知った。ドゴールの政敵が挑戦を仕掛けてきたのだ。今やサイコロは投じられたのである。今夜中にも連合国軍のパリ進撃をアイゼンハウワーに説得しなくてはならない。

翌日、ドゴールはフランス号でコタンタン半島にある最高司令官に会いにいく。アイゼンハウワーは、決してパリの運命に巻き込まれることはしないという堅い決心をしていた。彼もパリの蜂起は知っていたが、彼の唯一の関心事は、ドイツ軍を打倒することだった。1時間15分後、肩を落としとぼとぼと歩いてくるドゴールの姿があった。アイゼンハウワーは「パリ解放のために計画は変更出来ない」と彼に通告したのだ。

しかしドゴールは直ちに「パリ問題を再考するように」要求した。もし、この提案が拒否されるなら、連合国軍の指揮下からフランス軍第二装甲師団を引き抜き、独自にパリに進撃する決意である、と言明したのである。フランス号に乗り込みながら、彼はケ二グ将軍に「ルクレールはどこにいるか?」と聞いた。

 

 

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アイゼンハウアー総司令官と将軍たち。ブラッドリーは左端。      Wikipedia

 

アイゼンハウアーの決意を変えた男 8月22日―23日

アメリカ軍司令部は、8月22日と23日に二人のフランスからの訪問者を受けることになる。最初の人物は共産主義者、ロル大佐の参謀ロジュ・ガロア少佐、二番目はコルティッツのメセッジを伝えるスウェーデン総領事ノルドリンクの弟ロルフであった。 ガロアは一人でドイツ軍前線基地を突破しアメリカ軍陣地に入る。その後、ジープに3回乗り換えサイバード将軍とブラッドリー将軍の司令部に到着する。二人の将軍はアイゼンハウワーとの会談に出発する前だった。

ガロアはサイバード将軍の将校を前に、ロルの目的である武器供与ではなく、アメリカ軍の進撃を要請したのだった。ひげぼうぼうで汚らしい彼は話し始めた。「パリの民衆は、自らの手で首都を解放し、それを連合国軍への贈物にしたいと思っているのです。しかし、成し遂げる力がないのです。だから、皆さんに助けに来て頂かなければなりません。さもないと、恐ろしい大量虐殺が行われフランス人が殺されるでしょう」。 その主張には誠実さと信念が溢れて、なみいるアメリカ人将校は心を奪われた。部屋は静まり返っていた。

「深く感銘」したサイバート将軍は「ルクレール将軍が来るので、面倒を見てやってくれ」と言い残して出かけた。ルクレールは飛行場でガロアと二人でサイバート将軍の帰りを待っていた。彼が姿を現し、二人はかけ寄った。サイバート将軍が大声で言った。「君の勝ちだ!君を直ちにパリに派遣することに決定した」。この少し前、サイバートはグランシャンの会議場で、アイゼンハウワーとブラッドレーに労働者の指導者から聞いた話を切々と訴えた。アイゼンハウアーは溜息をついて「やれやれ、なんということだ。なあブラッド。これじゃあどうやら行かねばならんようだな。ルクレールに出発するように言ってくれたまえ」とブラッドレーに言った。

ブラッドリーは「パリに進撃する決定が下った」と言い、実行は彼とルクレールガロアの三人の責任であると強調した。そして、ガロアに「あなたはこの決定を下すのに、大いに力のあった情報の提供者ですからな」と言った。二日前雨の夜、一寒村の別荘で、共産主義者の上司から受けた命令を無視して、武器の代わりに連合国軍の援助を受けるようにと説得されたこの小柄な使者は、ドゴールさえなしえなかった偉業をなしとげたのである。ガロアのおかげで、連合国軍の軍隊はフランスの首都への、進撃を開始することになったのだ。

喜び勇んだルクレールは自分の小型飛行機のほうへ急いだが、ブラッドレーは呼び止めて「作戦命令は軍団長のところへ取りに行ってくれたまえ」と言った。ルクレールが師団司令部に戻ったときは、もう夜になっていた。彼は機から飛び降りると、滑走路に出て待っていた作戦部長のグリビュス少佐に、4年間も待ち続けていた言葉を叫んだ「グリビュス、即刻進撃だ!」。

フランス第二装甲師団ほど奇妙な、いろいろな人間の寄り集まりでできた部隊はなかっただろう。逮捕、追放を恐れるあまり家族には一言も言わず家を出て、何百キロも歩き通してきたフランス人がいた。危険なドーバー海峡をボートや盗んだ漁船に乗ってわたってきた青年もいた。ポーランド、ロシア、フィンランドノルウェーからアフリカやイギリスにたどり着いた開戦当時の捕虜たちもいた。フランス語などほとんど話せないアラブ人、パリの破壊を座視できないリビア人、メキシコ人、チリ人もいた。これらの男たちにとって、ヨーロッパでのこの戦いは、まさに十字軍だった。ドルジェクス大尉は4年前、パリで無力な同志とドイツ軍と戦った悲惨な体験があった。その当時はモーターサイクルだったが、今は新しいシャーマン戦車に乗って戦うのだ。砲塔の上に書かれた名前はパリだった。

8月22日の深夜、ヒトラーは戦略会議を開いた。彼は軍首脳部の面々に「古今の歴史上、パリを失う者はフランス全土を失っている」と言い、反乱首謀者の公開処刑を命令した。最後に結論を下した。「パリはどんなことがあっても、敵の手に渡してはならない。もし敵に渡すようなことがあっても、その時はパリは廃墟となっているだろう」。

翌日の23日にアメリカ軍司令部を訪れた、パリ司令官のメセッジを伝えるノルドリンク総領事の弟ロルフの要請は次の「コルティッツの決断」でその詳細を書いている。

 

 

コルティッツの決断 8月21日ー23日

イライラしたようすでパリ司令官を待っている男がいた。ヴェルナー・エーベルナッハ 大尉 だった。大尉は部下に 命じて、6日間かけてパリのあらゆるところに爆弾を仕掛け終わっていた。8月21日、エッフェル塔などの主要建造物に、導火線の火をつける命令を司令官から受け取りに来たのだが、2時間待っても会えなかった。コルティッツの命令は「準備作業を続行し、指令を待て」だった。

コルティッツにとって、暑いホテルで過ごしたその一夜は、全世界が崩壊するような思いであった。ノルドリンクの休戦協定の賭に敗れたのだ。それに最高司令部からの破壊命令のどれ一つも実行していない。クルーゲ元帥がパリ地区の工業施設破壊を命令したのは15日で、昨日、ベルリンから破壊命令を確認する電報を受けている。しかし、司令官は自分が反抗的になっているのに気が付いていた。

「親族連座法」という過酷な法が家族を脅かしている。また、ヒトラーを信じられなくなっている。あの男は狂人ではないのか、という疑いが念頭から離れない。そして、パリを破壊すために、彼は自分をここに派遣したのではないか。歴史はパリを破壊する男を決して許さないだろう、という議論は彼にはうなずける議論だ。彼が陥っている矛盾から脱却する方法は、フランス人が必死になって求めている連合国軍のパリ即時入城だった。

 

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スウェーデンのノルドリンク総領事         Wikipedia

 

翌朝、コルティッツはノルドリンクに至急会いたいと連絡した。外交官が司令官の部屋に行くと、彼は「ウィスキーを一杯やりましょう」と言い、グラスをあけ「乾杯」と言って一息に飲みほした。まじめな顔で「領事閣下、あなたの休戦協定は失敗だったようですね。暴動は日ましに拡大していくようです」と言った。溜息をついた総領事は、本当の権威者はドゴールだけで、ノルマンディ戦線のどこにいるのかわからない、と答えた。すると、司令官は「どうして彼に会いに行かないのですか」と聞いた。呆気にとられた総領事はしばらく沈黙したままだった。ノルドリンクは、連合国軍のところまで行くのに、ドイツ軍前線を通過する認可書を司令官は発行してくれるのか、と尋ねた。「もちろんです」とコルティッツは答えると、総領事は中立国の外交官として連合国軍と交渉する使節団を組織すると約束した。    

司令官はポケットからベルリンからの命令書を取りだし次のように言った。この命令の一つでも従っていたらパリは廃墟になっていただろう。パリ休戦が失敗した今となっては、この命令には従わざるを得ないのだ。現在これを阻止できるのは連合国軍の早急な介入のみである。そして付け加えた「これは反逆行為ととられても仕方があるまい。連合国軍に援助を頼むにひとしいからな」。

彼はノルドリンクのために、ドイツ軍戦線を超える認可書を書き渡した。総領事はドイツ軍戦線を突破する保障を与えてほしいと言った。司令官はドイツ前哨地点までボビー・ベンデルを連れていくことに同意した。コルティッツはやさしく彼の腕をとり戸口まで送っていった。総領事の手をぎゅっと握りしめて言った。「早くいらっしゃることです。あと24時間、いや48時間くらいしかないでしょう。そのあとは、わたしには保障ができません」。

スウェーデン国旗をひるがえしたシトロエンは、5人の使節団をのせて100キロ先のアメリカ軍前線に向かって走り続けた。そのあとをボビー・ベンデルが護衛しながらついていった。トラップの町はずれで屈強なドイツ兵が「これは何の用だ」と車をとめた。ベンデルが怒声で、一歩哨が外交使節団をとめるとは何事か、と詰問した。戦車隊長が現れ通行証を見せたが、ベンデルに押し返した。彼は戦車隊長にくってかかると、パリ司令官に電話することに同意した。電話にでたパリ司令官は「もしその一行を通させないというなら、わたしがじきじきに行って通過させる」と脅し一件を落着させた

そのあと使節団は命びろいをする。車が出発しようとした瞬間、歩哨が飛び出し「地雷だ!」と叫んだ。シトロエンの3メートル先から地雷原が始まっていたのだ。使節団の車は歩哨がジグザグに歩いて行くのについていった。冷汗の35分だった。アメリカ軍は500メートル先にいた。

スウェーデン総領事の弟ロルフ・ヘルドリンク(兄が心臓病で倒れ代理)は神経を消耗させる尋問を12時間ぶっ続けで受けていた。それから解放され、前日、ブラッドレー将軍がルクレールにパリ進攻の青信号を出したと同じ滑走路で、ヘルドリンクは当の将軍に伝言をつたえていた。将軍は静かにスウェーデン人の説明に耳を傾けている。彼は次のように説明した。パリ司令官はパリ破壊の公式命令を受けている。彼はその命令を実行していないが、窮地に追い込まれている。現在の情勢が進展すれば命令を実行せざるをえないだろう、だからコルティッツが望んでいるのは、ドイツの援軍が到着する前、あるいは破壊命令の実行をせざるをえない状況になる前に、入城してほしいということだ。    

ブラッドレーは直ちにこれに応じた。前夜、彼が命令した作戦は絶望的に緊急を要する性格を帯びてきた。アイゼンハウアーも彼も、ドイツ親衛隊第26および27戦車師団が支援部隊としてパリへ向かっていることを知っていた。もし、連合国軍がそれらの部隊より先にパリに着かなければ、パリは怖しい戦場となる危険性がある。ブラッドレーは「この男の気が変わったりしたら大変だぞ」と思った。かたわらのサイバート将軍に「フランス軍師団に大急ぎでパリに向かうようにホッジスに伝えてくれたまえ。それとアメリカ第4師団もパリに急行することもね」と言った。

 

 

ドゴール、パリまで50キロ 8月24日

「ドゴールよ・・・・・・あれがドゴールだわ・・・」とウェイトレスは天使の幻影をみたようにその目に涙をいっぱいためて、じっと立ちつくしていた。ドゴールはちょうどランブイエに到着したところだった。将軍はヴィシー政権の象徴であるランブイエ城に入り最上階にある質素な部屋へ入った。そのあと荘重な宴会の木の食卓で、3人の部下とともに夕食のC式の軍用缶詰を開けた。

食事をすませると、ルクレールを呼び寄せた。彼はドゴールに攻撃計画の大要を説明する。もし彼が行動を迅速にしなかったなら、パリへの途上で師団もろとも包囲されてしまう可能性があった。ドゴールはじっと若い将軍の説明を聞き、長い間考えこんで承諾を与えた。彼はこの率直で不屈の魂をもった熱血漢に特別の愛情を抱いていた。いわば精神の息子のようなものだった。「しっかりやってくれよ」とただ一言い、最後に付け加えた。「早くするんだぞ。第二のコミューンを出現させんようにな」

翌日、背の高いドゴールがランブイエ城のテラスを行ったり来たりしていた。彼は一時間ごとにルクレールの前進がますます困難になり、今夜のうちに自分がパリに入城する希望は達成されそうにない。午後パリの抵抗運動創刊号を見たドゴールは、政敵の動機と目的についての疑惑が確認されたと思った。彼が思ったとおり、共産主義者はドゴール将軍歓迎委員会を組織しその傘下に彼を迎えるつもりだった。しかしドゴールにはその手に乗るつもりはなかった。彼が望んでいるのは、大衆が彼に与えてくれる信頼だけだった。全国抵抗評議会とか軍事行動委員会の運命を彼は決めていた。解放の光栄ある歴史の名誉席に収まってもらうつもりだった。

 

 

パリ司令官の孤独 8月24日

コルティッツは旧友のヤイ大佐になにも言わずに電文を渡した。その電文にはパリ市街を廃墟の原野にせよという狂人からの命令であった。読み終えると大佐は溜息をつき「とんだことになりましたね。しかし、あなたにどんな選択ができますか」とあきらめの返事だった。ヒトラーの狂人の命令の熱狂的支持者と唯々諾々と受け入れる人々に囲まれて将軍は孤独だった。将軍はあとどれくらいの間、この美しいパリの建物を焼く命令に逆らえるのだろうかと思った。

その翌日8月24日の朝、コルティッツはB軍集団作戦司令部からの電報で、彼の指揮下に入る親衛隊第26および第27戦車師団がパリに近接中であることを知らされた。彼は長い間沈黙し考え続けていた。命令に背くか否かの選択に迫られていたのである。そして、一日半まえに出発したノルドリンク使節団からは、なんの知らせも受けていなかったのだ。彼はルクレールの第二装甲師団アメリカの第4歩兵師団のパリ進軍のニュースも知らなかった。

先に援軍が到着すれば、コルティッツは市防衛のために戦わざるをえない。彼の義務感と軍人としての名誉がそれを彼に強要している。無益な戦闘になることは彼も承知していた。もう選択の余地はなかった。彼は戦うだろう。しかし、この日がホテル・ムーリスでの最後の日になることも知らなかった。

ホテル・ムーリスから500メートルも離れていない、アルジェ街のビルの3階で、ボビー・ペンデルがパリ参謀部の共犯者のおかげで、あらゆる電報の内容を入手し読み、それを心臓病の発作でベッドにいるノルドリンクに伝えていた。情勢はきわめて重大だ、とボビーは断言した。援軍が先に到来する場合、自分自身と家族全員を銃殺の危険にさらしたくなければ、パリ破壊を実行しなくてはならなくなるだろう。「もし連合国軍が数時間のうちに到着しなければ破滅しかない」と彼は言った

同席したドゴールのパリ代表のデルマ将軍の副官クリュズは、自転車に飛び乗り秘密本部へ急いだ。そこでデルマに「早く連合国家に知らせなければ、コルティッツは応援の二個師団を待って、一戦をまじえパリを破壊するつもりだ」と報告した。もう一人の若き同席者プティ・ルロアはオンボロ自転車でドイツ軍前線を突破し、この極秘情報をルクレール師団とアメリカ軍に知らせに行った。

 

 

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ノートルダム大聖堂の鐘                                      Wikipedia

 

パリ全教会の鐘が鳴る 8月24日―25日

ホテル・ムーリスの大きな部屋で、幕僚がコルティッツとの別れの晩餐会を開こうとしていた。パリの占領軍の運命に幻想を抱いている者はほとんどいなかった。その時、アメリカ軍がセーヌ河を渡りなんの抵抗もなくドイツへ進撃中という、衝撃的なニュースがコルティッツに届いたのだ。その救援に向かったのが、パリ支援の二つの戦車師団であった。コルティッツは今や、自分の部隊しかあてにできないことを了解した。

ベルリンの最高司令部が自分に期待しているのは、エーベルナッハ 大尉に起爆装置に点火せよという命令だけである。彼はこの終末には、自分も責任があることを知っていた。

ルクレール将軍の命令で、パリ一番乗りをするレイモンド・ドロンヌ大尉の3台の戦車と6台の半装軌車は、オースティリッツ橋で軽い銃撃を受けただけで目的地に向かっていた。ドロンヌは突然、感動で喉がつまるのを感じた。夕闇の中で、ノートルダム寺院の永遠に変わらぬ姿がそびえていたのだ。ドロンヌの編隊はパリ市庁舎の前で停車した。彼の金色の時計は午後9時22分をさしていた。

国営ラジオ放送のアナウンサーが叫んでいた。「パリ市民よ、喜んでください。ルクレール師団がパリに入りました。わたしたちは嬉しさで気も狂いそうです。彼はヴィクトル・ユーゴの詩を朗唱し始めた。

目覚めよ!恥辱はもうたくさんだ。偉大なるフランスを再興させよ!偉大なるパリを再興させよ!

放送局が「ラ・マルセイエーズ」を流したあと、アナウンサーは「牧師さんたちに、力いっぱい鐘を鳴らすように言ってください」と言った。パリの全教会がそれに応じた。パリは荘厳な合奏につつまれ、市民350万人の多くがその音を聞いて泣いていた。

ホテル・ムーリスでは晩餐会の席でコルティッツと幕僚が懇談していた。突然、遠くから鐘の音が聞こえてきたと思ったら、鐘の音が大きくなり窓から流れ込んできた。会場は静まり返った。「どうして、鐘が鳴っているのですか」と無邪気な秘書が訊ねた。パリ司令官は「あれはわれわれのために鳴っているのだよ。連合国軍がパリに入城するというのでね」と言った。その鐘の音はコルティッツにとって弔鐘だった。

真夜中だった。コルティッツ がホテル・ムーリスの長い廊下を歩いていたとき、若い将校エーベルナッハが追いかけて来た。自分は新任務につくので去ることになる、司令官から命令があるのではと思い急いでやって来たという。司令官は素っ気なく「エーベルナッハ、もう君に対する命令はないよ」と答えると、エーベルナッハは爆薬を爆発させるために、一個小隊をパリに置いていくという。「いいから、君の部下を全員引き連れて出発したまえ」と言い、黙って部屋へ入って行った。これは司令官がパリを救った瞬間だった。

 

 

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V2の発射準備                           gettyimages

 

ヒトラーのV1 号、V2号発射命令 8月25日

ラステンルグの大本営で戦略会議が開かれたのは午後1時すぎであった。ヒトラーは連合軍が猛烈な勢いで、パリに攻め込んでいるという報告を信じられなかった。怒り狂った彼は、1週間も前からフランスの首都は最後の一兵まで死守せよと命令しているではないかと怒鳴った。長い沈黙のあと、ヒトラーはテーブルを拳固でたたきながらヨードル参謀総長に尋ねた。「わたしは知りたいのだーパリは燃えているのか?いま、この瞬間、パリは燃えているのか イエスかノーか、ヨードル、どうなのだ」その問いに答えられない参謀総長は沈黙したままだった。そして総統は最後の決心をしたと言った。ヨードルのほうを向き、パリに対するV1号 、V2号の1000発の集中攻撃をせよ、と命令したのだ。

その日、パリの象徴エッフェル塔の頂上に登ろうと決意している男がいた。レイモン・サルニゲ消防隊大尉はあの4年前の敗戦の日に、ここにナチ・ドイツのハーケンクロイツ旗がかかったことへの屈辱を覚えている。三色旗を頂上に掲げるため痛む足をひきずりながら1750段の階段を登っていった。彼はやっと頂上にたどり着き、自家製の旗をとりだした。それは三枚の軍隊用ベッドシーツを縫い合わせたもので、色もあせていた。サルニゲは気を付けの姿勢で、涙をぬぐいもせず、夏の青空に国旗を掲揚した。

ルクレール師団の古強者の一人ジャック・プラネ大尉は、ドイツ軍パリ司令官逮捕を命じられた。トレ広場に集合した彼の部下200名は13時に攻撃を開始した。彼は部下を三つの班に分け、二つの班は背後から攻撃するが、彼が指揮する三班はパリ司令官の本部の正面玄関からのりこむつもりだった。その班のカルシェ中尉がピラミッド広場に差し掛かると、ドイツ軍の機銃の十字砲火にとらえられ、彼の歩兵部隊は完全に道をふさがれてしまった。それまで、彼の歩兵部隊に先導されていたプラネ大尉の5台の戦車は、敵を一掃するためにカルシュ部隊の前にでた。

声で騒音に満ちている事務所のなかで、コルティッツは最後の手紙を口述していた。ノルドリンク総領事にあてたものだった。「親愛なるノルドリンク総領事閣下、本官は閣下に対し深甚なる感謝の意を表するものであります」将軍はそこで中断して、窓のほうに数歩寄った。彼はびっくりした。敵の戦車がそこに来ていたのである。ホテル玄関に砲針を向けているのに不安になったが、彼は「砲塔を開けたままにしているのは、この戦闘を甘く見ている」と思った。その時、屋根の上にいたドイツ兵が戦車めがけて手榴弾を投げた。手榴弾は爆発し将校と砲手は破片の雨で負傷し、外に飛び出しアスファルトの上で火まみれでころげまわった。ラインホルト少佐は部下に発砲を禁じた。煙のたちこめる戦車の操縦士は、直ちに現場から脱出した。

40分前、リヴォリ街に進出してきた5台のシャーマン戦車のうち、3台までがドイツ軍の手榴弾やバズーカ砲弾の攻撃でたたきつぶされた。戦闘のすざましさは一人の将校が「こりゃあ大変だ!スターリングラードもこんなふうだったにちがいない」と言っている。

ムーリスの前では戦闘は激化していた。90分前、リヴォリ街の攻撃に敢然と出陣していったレクレール師団の5台の戦車のうち、最後まで生き残ったのはたったの1台だった。パリ司令官逮捕を命じられたジャック・プラネ大尉は200人の部下の先頭に立って戦ったが、ムーリスまであと50メートルのところで射撃され死亡した。

アンリ・カリシェ中尉とその部下3人が、携帯機関銃をかまえてムーリスの玄関に躍り込んだ。彼らは玄関のガラスケースに入った、ヒトラーの巨大な肖像画を機関銃で木っ端微塵にした。カリシェはリンの匂いがする手榴弾をロビーの中央めがけて投げた。もうもうとたちこめた煙のなかから、両手をあげたドイツ人将校が一人現れた。その男にカリシェが「全員、一人ずつ両手を上げ、武器を捨てて出てくるんだ」と命じると、リンで半ば視力を失い、服もぼろぼろの一団が降伏した。カルシェのほうに歩いてきた参謀将校に「将軍はどこか」と訊ねた。

将軍はカルシェの一階上の小部屋にある長いテーブルに座っていた。彼のそばには、4人の側近が待機していた。将軍と同じように彼らも降伏の象徴として、拳銃を机の上に置いていた。あきらめきったコルティッツはなんの動揺も見せずに、大団円の時を待っていた。彼はなんら自分をとがめることはなかった。いまこの瞬間にも「最後の一弾まで戦う」という総統の命令に従っている。だから、自分が捕虜になってからは部下にも降伏を命じることができる。同時に彼は、なにを怖れることもなく、恥じることもなく、歴史の審判にも堂々と臨むことができる。復讐心に燃えるヒトラーが、彼に死刑執行人の役割を押し付けようとすることをついに許さなかった。ドア開き伍長が「閣下、奴らがやってきました」と言った。

ドイツ軍将校がドアを開けカルシェが    なかに入った。コルティッツは立ち上り、中尉は不動の姿勢で敬礼した。「ドゴール将軍の軍所属アンリ・カルシェ中尉であります」と名乗ると、ドイツ人は「パリ司令官、フォン・コルティッツです」と答えた。カルシェが降伏の意思があるかと聞いた。「ヤー」と彼は答えた。そのとき二人目のフランス軍将校ド・ラ・オリ少佐が部屋に入ってきた。彼はコルティッツにドイツ軍が降伏文書調印をするために、レクレールが待つモンパルナス駅への同行を求めた。

下の階では車に乗るまでの間、コルティッツはまばたき一つせず群衆の怒りを受け止めていた。女たちは彼に飛びかかり、肩章をもぎ取り、唾をはきかけた。男たちは口々に罵声を浴びせた。彼はドイツのナチ党員に代わって、償いをしたのである。その時、赤十字の女性が将軍のそばに割って入り、自分の体を盾に彼をかばった。コルティッツは親切な女性に「奥さん、あなたはジャンヌ・ダルクのようですね」とささやいた。

ノートルダム寺院に面した警視庁の食堂で、もう一人の将軍が昼食の席についたところだった。ルクレールにとってこの勝利の日は、故国フランスへの進撃を始めてから4年目に当たっていた。1940年8月25日にドゴールの自由フランスの名で、同志17人と丸木舟に乗って、フランス領カメルーンの再占領を企てた記念すべき日であった。

彼はコルティッツが到着したと聞き、隣室のビリヤード室に入り降伏文章を受け取る準備をした。小柄なドイツの将軍がルクレールに近寄ってきた。「わたしはフォン・コルティッツです」と言うと「わたしはルクレール将軍です」とかつて陸軍士官学校で学んだドイツ語で答えた。降伏文書の条文について簡単な議論をした。そのあと、共産主義者のロル大佐が入ってきて、クレールのわきに自分の名前をいれるように主張した。ルクレールはそれに同意した。二人の合意でパリの15の基地で抵抗を続けるドイツ軍に、仏独米の3人の使者がそれぞれ軍事基地を訪れ、パリ司令官が署名した降伏命令書を渡し説得した。48時間以内にほぼ2万名のドイツ兵が捕虜になった。この戦闘だけでドイツ兵の死傷者2200名、レクレールの師団は42名が死亡し、市民は172名の死亡と負傷者が712名の負傷者がでている。

 

 

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ドゴール将軍が最も信頼したルクレー ル第二装甲 師団長    France3

 

ドゴールのパリ帰還 8月25日

ドゴールは首都への距離が近くなるにつれて「感動に息がつまると同時に心が澄みわたる」と大戦の回顧録に書いている。彼は連合国軍に知らせもせず、その承諾もえず、フランス人の運転するフランス車に乗って、銃声の鳴り渡るパリ市内に入ろうとしている。彼が望んでいた「基本的にフランスだけの問題」のクライマックスに向かって車は走り、オルレアン通りに入ると、彼はパリ市民の熱狂的人波に囲まれていた。午後4時半、ドゴールの亡命は終わりをつげた。

モンパルナス駅に入ったドゴールは、ルクレールが渡した降伏文書を手にして、ロルの名を見て顔がこわばった。この書類に彼の名をいれるのはまずかった、とルクレールに注意した。その朝、彼は全国抵抗審議会の声明はドゴールにはふれず、黙殺していたのだ。これは彼へのあきらかな挑戦であった。彼は駅を出発する前に彼はそこに居合わせたルクレールの参謀と握手をした。そこに、スペイン内乱時代の古い軍服を着た異様な姿のロルがあった。しかし、ドゴールは彼の手をしっかりと握りしめた。それから、車でアンヴァリッドを通過し、陸軍省の玄関の階段をのぼった。この建物は彼が去ったときのままだった。大臣室の写真も絨毯もカーテンも昔のままだった。わが家に帰った彼は、ここで国家再建に着手しようと決心した。

 

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ドゴールを待つ共産党党首のアンリ・ロル・タンギー(ロル大佐;右から二人目)
1944年8月月25日                          Wikipedia

 

ドゴールは、陸軍省の事務室でパリにおける政治代表パロディと初対面をした。そのとき、彼は全国抵抗評議会などに迎えられる意志はないという持論を展開した。パロディは、ドゴールが彼らの根拠地、市庁舎を拒否することでパリ市民に大きな失望を与えることになる、決心を変えてくれと迫った。しかしドゴールは頑固に拒んだ。そこでパロディは彼をよく知る、警視庁のリュイゼに応援を頼んだ。警視総監は長い議論のあとで説得に成功した。だが、市庁舎に出発する前に、二つの決定を総監に知らせた。第一は国家の象徴である警視庁を訪れそのあとで市庁舎を訪問する、第二は明日、凱旋門からノートルダム寺院までの凱旋行進をするであった。この行進は全国抵抗評議会への回答であった。まわりの人々に大声で「よろしい、行かなくてはならないなら、行くことにしよう」と言った。

一斉蜂起の隊長たちの失望は怒りに変わっていった。評議会委員長のピドーが「これまで人にこんなに待たされたことなどないぞ」「ドゴールなしでも、われわれだけで解放の式典をやろうではないか」と叫んだ。やっと到着した質素なカーキ色の制服を着た、ドゴールが大股で壇上がった。彼の演説は感動的だった。「敵はよろめいている。が、まだ打ちのめされてはいない。現在ほど国民の団結が必要とされることはない。戦争、団結、偉大、これがわたしの綱領です」

彼が話し終わったとき、ピドーはポケットから宣言書をとりだした。彼はしわがれ声で言いった。「あなたのまわりには全国抵抗評議会とパリ解放市民委員会がおります。群衆の前で、厳粛に共和国宣言をしていただきたいのですが」。ドゴールは氷のような視線でピドーを見て「お断りだ。共和国は一度滅びたわけじゃない」と答えた。ドゴールが市庁舎を去ったあと、共産主義者のひとりが 激怒して「ことは簡単だ。われわれは奴に負けたんだ」と言った。

マルジヴァルにあるB軍集団の地下司令部の電話が鳴り始めた。ベルリンのヨーデル大将がヒトラーの緊急命令でモーデル元帥と話したかったのだ。彼が不在と知ったヨーデルは参謀長のハンス・シュバイデルを呼び出した。そして「昨日、総統はV 1号とV2号によるパリ総攻撃を即刻開始せよと命じられている。パ・ド・カレ、北部フランス、ベルギーにあるロケットの1000発をパリへ打ち込む攻撃をせよ」、とシュバイデルに命じた。そして、ドイツ第三空軍参謀部も「出勤可能の全機をもって」パリ空爆命令を受けていると付け加えた。シュバイデルは 総統の命令を直ちに伝えますと言い、受話器を置いた。シュバイデルは蒼ざめ、人生で最も苦しい判断を迫られていた。彼はラステンブルク大本営からの電話が来たとき、モーデルがいたら1時間もたたないうちにV 1号とV2号がパリに飛んでいっただろうと思った。しかし、彼はすぐさま心を決めた。パリが陥落した現在、この命令は常軌を逸していると判断して、彼はこの命令をとりつがないことにした。一週間後、彼はゲシュタポに逮捕された。

シュバイデルのこの最も尊敬すべき決定と勇気は、翌日のドゴールのシャンゼリゼ大通りの凱旋行進に集まった市民を救っている。ベルリンの最高司令部も彼もこの行進のことを知らなかった。もし、シュバイデルが命令を伝達していたら、V 1号とV2号による攻撃によってパリは恐るべき殺戮の首都になっていただろう。

 

 

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大群衆に囲まれるドゴール                                                           Wikipedia

 

ドゴール、フランスを掌握する 8月26日

ドゴールは凱旋門の無名戦士の墓の前に立ち不動の姿勢とっていた。墓に身をかがめると、赤いグラジオラスの花環をおいた。そして、凱旋門のド―ムの下に、“死者に”と“ラ・マルセイエーズ”が鳴り響くうちに、彼は永遠の炎をふたたび燃え立たせた。そのあと、整列している第二装甲師団の戦車と装甲車部隊を閲兵した。

オベリスクまでの1800メートルの沿道は、喝采をおくる人々で車道までいっぱいだった。一点の雲もない青空の太陽が輝くこの日、ドゴールはまばゆいばかりの勝利の瞬間を生きようとしていた。しかし、彼はドイツ空軍がこの勝利の光景をおそろしい悲劇にしてしまうことを知っていた。

シャンゼリゼ大通りをドゴールは大股で行進していた。彼の背後に新フランスの指導者が続いた。ルクレール、ジュアン、ケニグ、レジスタンスの隊長たち、全国抵抗評議会のメンバーたち、パリ解放市民委員会や軍事行動委員会のメンバー、パロディ、シャンバン・デルマなどがいた。ドゴールは彼らのほうへ振り向いて言った。「諸君、わたしより一歩下がってください」。

世界で一番美しいこの通りに沿って、100万の群衆が屋根、窓、バルコニーに鈴なりで、人の波はついに車道にあふれた。熱狂した群衆の注視の的ドゴールは、群衆のなかに同じ一つの思いがあると感じ、自分がフランスの運命を託されていることを強く感じていた。

ドゴールがコンコルド広場に入っていくと一発の銃声が響き渡った。それに反応して四方から小銃が発射された。何千の人々が石畳に伏せたり、戦車のかげに飛び込んだりした。ドゴールが銃声には無頓着に歩いて行った。一人の戦車兵が「しめた、5番目の円柱だ」と叫び、オテル・クリンのその円柱に大砲を発射した。埃の中で円柱が崩れ落ちた。それと同じころ、カリシッ中尉と同僚のアメリカ人はノートルダム寺院の北の塔付近で銃声を聞き、塔のあるバルコニーから弾丸をあびせている3つの小銃の銃身を見た。カリシッは「畜生、奴らはドゴールを暗殺しようとしているんだな」と思った。

ドゴールのオープンカーがノートルダム寺院前の広場に着くと、彼はゆったりと車を降り、アルザスの郷土衣裳を着た二人の少女から3色の花束を受け取った。彼が正面玄関に向かって歩き始めると、弾丸が広場を掃射した。警戒中の兵士が四方八方に射ちまくっていた。しかし、ドゴールは泰然自若として歩み続けていた。参謀将校の秘書ステルは、ドゴール崇拝者ではなかったが「しゃんと体をたてて、がっしりと」進んでいく将軍の姿を見た瞬間、「この人に対する誇りの涙」が流れるのをとめることはできなかった。

ドゴールは本堂の貴賓席の席に静かに腰をおろした。参会者の多くが敷石にはいつくばり、銃声が大伽藍に反響しているなかで、彼は手に祈祷書を持ち聖母賛歌を歌いだした。賛歌が終わると、これ以上続けるのは愚であると思った彼は式を取りやめた。ドゴールはいささかも動じない足取りで伽藍を出、車に乗り込んだ。

ドゴールがどんな行動や演説をしたとしても、彼が肉体的な勇気と精神の平静さを公衆の前で示したこの行動ほどには、同胞の尊敬を集めることはできなかっただろう。この行動の最初から最後まで将軍と行をともにしたアメリカ人記者は次のような電文を送った。「この日、ドゴールはフランスを自らの手中に収めた」。

陸軍省に着くころには、ドゴールは一つの決心をしていた。沿道の群衆の喝采は、彼を支持する声であると受け取った。最初の決定はフランス義勇軍パルチザンを解散し、正規軍の編入し軍規の下に統率することだった。2日後、ドゴールはパリ地区のフランス国内軍の上部構造を解体してしまった。彼は利用できるものは軍に再編されると布告した。彼らの武器や装備はすべてケニグ将軍のもとに集められた。彼は全国抵抗評議会の委員と会議をもった。委員たちは永続的な機関にする案を提示したが、彼は皆さんの役割は終わったと告げた。ドゴールは回顧録でそのときのことを「鉄は熱かった。わたしはそれを打った」と書いている。

凱旋行進があった夜、ヒトラーはフランスの首都に彼の計画どおりの破壊を加えることができた。105機からなる編隊を組んだドイツ空軍機が、パリの東北地区を爆撃したのだ。戦争は終わったと思っていたパリの市民はびっくりした。ヴァンサスの城とリヨン駅のある地区での被害者は、30分間で死者213、負傷者914で、全破壊の建物は597戸に達していた。これは全戦争期間をつうじて最大の被害だった。

陸軍省の窓からギイ中尉が火災を見つめていた。隣のアパートから、パリ解放の祝いの幸福な笑い声が聞こえてきた。彼は暗闇のなかから人影が近づいてくるのに気づいた。ドゴールだった。不機嫌そうに押し黙って窓の外の光景を見つめていた。彼は溜息をついて「あの連中は、パリが解放されたから戦争はないと思っているのだろう。だが、戦争はまだ続くのだ。一番辛いのはこれからなのだ。われわれの仕事はやっと始まったばかりなのに」と言った。それから、ドゴールは事務所に戻って行った。石油ランプの明かりで彼は「やっと始まったばかりの仕事」に没頭し始めた。

 

 

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トレント・パークの“盗聴者”                            BBC NEWS

 

パリを救った二人のその後

コルティッツはロンドン北部にあるトレント・パーク捕虜収容所に収監され、米国のミシシッピ州の収容所に移ったが、容疑がないので47年に釈放された。トレント・パークには44年8月から他の将軍や将校とともにいたのだが、ドイツの囚人への待遇は、抜群でまるでゲストのような扱いであった。彼はそこが英国諜報部の情報の宝庫であったことを知る由はない。ゲスト待遇は囚人をリラックスさせるための作戦であった。

英国諜報部は100人の“盗聴者”にトレント・パークのドイツ人将軍の会話を録音させ、本音を知ろうとしたのだった。例えば、“盗聴者”は英国に亡命したユダヤ系ドイツ人は、将軍たちの会話からドイツ軍が東欧で大量のユダヤ人を虐殺している事実を掴んだのだ。チャーチルは戦争中にこのドイツ軍の秘密を知ることができたのである。コルティッツはトレント・パークに入った直後の44年8月29日に「わたしがやった仕事の中で、最悪なのはユダヤ人の撲滅だった。わたしはこれを徹底的に全面的にやった」と秘密テープで告白している。

また44年10月の秘密テープで、コルティッツは「われわれは、すべてのことに同意したことに罪を負わねばならない。われわれはナチの言うことを半分は信じていた。しかし、やるべきだったのは“地獄へ行ってしまえ、馬鹿なことを言うんじゃない”と言うべきだったのだ。わたしは部下の兵士がこのナンセンスを信じることに加担した。わたしはこのことを恥じる。われわれの罪はあの教育のない動物(ヒトラーと側近)よりも重いかもしれない」と告白している。 このコルティッツの発言は、まだヒトラーが連合国軍を相手に戦っていた頃のものである。彼のヒトラー批判は厳しく、自らの責任についても、それ以上と思えるほど厳しい。

彼が恐れていたベルリンの報復はどうなったのだろう。1944年8月28日、参謀総長モーデルはヒトラーにコルティッツを「パリ司令官の責任を果たさなかった」ので告訴することを要請した。その手紙には「その過失が彼のうけた戦傷によるものか、抵抗の意思弱化か、敵の介入によるものか、はわからない」と言っている。軍事法廷がはじまり、死刑の判決が下されたとの報道もあったが、結果的には親族連座法で家族が罰せらることもなく、1947年に彼が釈放され一家は再会をはたした。こうなった理由は裁判が長引き、ドイツが負け戦になりそれどころではなくなったからだと思われる。

コルティッツは戦後 1955年に、ノルドリンクとパリで再会したのだが、残念ながら話の内容は分からない。しかし、1956年にホテル・ムーリスを訪れたときのことが記録に残っている。彼はホテルのバーにやってくると、バーテンダーが「不自然なほど姿勢が正しい」コルティッツ のことを覚えていた。ホテルのマネージャーがやって来たので、彼はパリ司令官時代の執務室を見学 したいのだが、と言うと「どうぞ」と部屋に案内した。彼がそこにいたのは 15分足らずであった。

見学を終えた彼は 、マネージャーからシャンパンでもどうですか と誘われたが、昔の知人、パリ市長だったテタンジュと会う約束があるのでと断ってホテルを出た。あのパリを破壊しないで欲しいと、必死で説得したパリ市長である。彼は自分の人生を変えた会合のことが忘れられなかったのだろう。

1966年 11月5日コルティッツはバーデン=バーデンで亡くなり家族葬のあと、9日に公式の葬儀が行なわれている。AP電によると、仏米は国家の代表として、彼と親しかった軍人を葬儀に送っている。フランスは在バーデン=バーデンの司令官 ワグナー大佐と友人だったド・オメゾン大佐を派遣している。ドイツ側は葬送曲を奏でる軍楽隊が参加する、軍の公式行事として式典を主催した。独仏米の軍の要人が見守るなか、パウル・コウラー中将は弔辞を読みパリの救済について「われわれドイツ軍人は皆、将軍の解決策に心からの感謝をしている。彼は命令と良心の間で最大の抗争に取り組んだ、勇敢で人道的な人物であった」とヒトラーの命令に従わなかったことを賞賛した。

 

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セッポアのノルドリンクの墓碑                                          pingou45

 

ノルドリンク総領事の父はスウェーデン人で母はフランス人であった。生まれはパリで 中等教育機関リセの卒業生だったから、そのフランス語は流暢で自分は「パリの市民」であると称していた。彼がコルティッツと初めて会った時の印象をその自伝で 「彼はプロシアの軍人で、交渉は難しそうだ」と書いている。しかし、二人は信頼で結ばれ、パリ破壊をとめるための”同盟“となった。パリ司令官はルクラークの師団が総司令部を囲み、降伏する寸前に総領事宛の感謝の手紙を書いていた。

彼がコルティッツと関係を持ったのは、ゲシュタポに捕まった監獄にいる政治犯 の釈放だった。大量の政治犯の釈放を見事に成功させた経過は書いたが、その動機は人道主義であった。スウェーデン政府が指示したとは思わないが、この国の人々が大いに支持する考えである。

1962年にノルドリンクはパリで亡くなり、その墓碑(上の写真)には「スウェーデンの ラウル・ノルドリンク総領事は、英雄的でかつ決断力のある行動で囚人を解放しパリを救った。これは賞賛に価することだった」 とある。戦後 、フランス政府は彼に最高勲章を授与しその功績を称えている。 パリのルゥ・セント・バーナード市など4つの場所で通りに彼の名前をつけ、その一つは「政治犯3633人の釈放を実現し、パリを救った外交官に永遠に感謝する」と記念碑に刻み彼を称えている。コルティッツはユダヤ人虐殺については非人道的行為だが、 ノルドリンクは正真正銘の人道主義者だった。

映画『外交』を監督した直後、フォルカー・シュレーンドルフは、映画製作会社のピータ・ベッカーのインタビューで製作の意図を聞かれている。内容はなかなか深みがあるので紹介しよう。「この映画は正しいことを説得する言葉について語っている。そのものずばり、外交の力についてだ。ドイツとフランス、あるいはドイツの将軍が主題ではない。首都の破壊についてもそうだ。一人の人間の言葉の力、策略、嘘と正直のあらゆる要素の話し合いで、戦争を終わらすことが出来るのだ。映画製作の意図はそこにある。

世界の紛争を見ていると、ほとんどの場合、馬鹿げた不必要なものだ。その要因はリーダーと国民の考え方にある。彼らは敵とどう戦うかしか考えていない。わたしは言葉こそが現実を変えることが出来ると思う」。彼は米国のリチャード・ホルブルックが、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の和平交渉で指導的役割を果たした外交官として高く評価している。

このインタビューと同時期に、ジャーナリストがシュレーンドルフに、もしパリがワルシャワのように破壊されたとすると、どうなったと思うかと尋ねた。彼は「パリが焦土になっていたら、戦後の仏独関係は極めて難しかっただろう」と答えている。戦後の仏独を軸にした世界の欧州連合EU)は存在しなかったかもしれないのだ。

 

付記 筆者は『パリは燃えているか?』(Larry Colins & Dominique Lapierre著、志摩隆訳)の上下2巻に大いにお世話になりました。この本は早川書房が1966年に刊行し、2005年に再編集して 世に問うたものです。こんな複雑な話をよくここまで書いたものだと思います。二人の著者と日本版の関係者に感謝申し上げます。

 

 

パリは燃えているか?(12)その1

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パリの象徴 エッフェル塔                     Wikipedia

 

今年の夏は4年間にわたるナチスの占領下にあったパリが、ドゴール将軍の自由フランス軍と米軍によって解放された77年目の年になる。2年前の75周年記念日には、国家行事として大々的に行われメディアはパリ解放特集を組んでいた。フランス人は誰も、1944年8月25日を屈辱的な占領が終わり、自由が戻ってきた日として記憶している。

パリ解放のドラマは、次になにが起こるか分からないスリリングなことの連続だった。なかでも、ヒトラーの「パリを焦土にせよ」との命令が実行されていたら、エッフェル塔ノートルダム大聖堂ルーヴル美術館凱旋門もこの世から消えていただろう。それを思うと背筋が寒くなる。この大悲劇はドイツ占領軍のパリ司令官フランツ・フォン・コルティッツと中立国のスウェーデン外交官ラウル・ノルドリンクの必死の努力で、紙一重の差でまぬがれた。今回のエッセーでは、光の都を救った二人のことを中心に、パリ解放のドラマの一端を再現してみょう。

パリは燃えているか?』(Is Paris burning?)(1966年、志摩隆訳 早川書房)というドキュメンタリー作品をご存じだろうか。20世紀ノンフィクションの傑作と言われる作品で、1000万部が売れ、仏米共同製作の映画も当たった。作者は当時、ニューズウィーク・パリ支局長のラリー・コリンズ(米国人)とパリ・マッチ誌記者のドミニク・ラピエール(フランス人)。この本は二人の敏腕ジャーナリストが、3年かけて徹底的な調査・取材をして執筆した作品である。

仏独米英の膨大な軍事記録を調べ、関係者800人(そのうち500人の証言を使っている)を取材しているが、彼らのファクトへのこだわりは凄い。たとえば、1960年初めに、二人はドイツのバーデン・バーデンのフォン・コルティッツを訪ね、たっぷり2週間かけて事実関係を確かめ、当時の彼の心境を聞きだしている。それを彼の部下、同僚から裏をとり、さらにノルドリンクに確認している。このコラムを書くために、筆者はこの本を再々読したが、はじめて読んだときと同じ興奮と感動を覚えた。

 

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映画『外交』(2014)                     Gaumont

 

映画『外交』(2014)(邦題:『パリよ、永遠に』)はパリを救ったドイツ軍人とスウェーデン外交官の迫真のやりとりをテーマにした秀作だ。ベルリン映画祭で特別賞をとった仏独共同製作作品で、監督はドイツ人のフォルカー・シュレンドルフ。ドイツ生まれの彼は、17歳のときに両親とともにパリに移住しソルボンヌ大学と映画学校FEMISで学んだ。主要作品にオスカーを受賞した『ブリキの太鼓』(1979年)(ドイツの作家ギュンター・グラスの小説の映画化)がある。

『外交』の冒頭シーンは強烈だ。ベートーベンの交響曲7番が流れるなか、パリ解放の数週間前に、ドイツ軍の猛攻撃で廃墟と化したワルシャワの街の記録映画が写しだされる。瓦礫の山となったポーランドの首都の姿は、明日のパリを暗示する。

スウェーデン総領事ノルドリンクが、リヴォリ街にある高級ホテル・ムーリスの最上階にある、ドイツ軍パリ司令官フォン・コルティッツの執務室に突然入ってくる。二人はフランス人政治犯釈放の交渉で顔を合わせていたので、初対面ではなかったが、司令官は驚き「この厳重警戒の部屋にどうして入ってきた?」と言うと、総領事は「19世紀にナポレオン3世が愛人に会うために作った秘密の階段を登ってきたよ」と答える。時は1944年8月24日の深夜だった。それから、25日の明け方までパリの運命を決める二人の激しいやりとりが交わされる。 

この日すでに、ベルリンから派遣された爆破班が、パリの歴史的建造物、主要駅、すべての橋に爆薬を仕掛け終わりフォン・コルティッツの命令を待っている状況であった。司令官は「45の橋が爆破されると、セーヌ川が氾濫しパリは水没するだろう」と報告を受ける。パリ破壊のときが刻々と迫っているのを知ったノルドリンクは、司令官を説得するために密かにルーヴル博物館に近い司令部があるホテルにやってきたのだった。彼は必死に司令官の良心と理性に訴える。

ノルドリンクは「米軍はもうパリの郊外に迫っている。パリを破壊してもなんの軍事的利点はないではないか、美しいパリの歴史的遺産を地上から消し去り、罪もない市民を犠牲にすることにあなたの良心は咎めないのか」と訴えるが、フォン・コルティッツは断固拒否する。

「自分は軍人だ。父も祖父もそうだった。自分は、これまで命令に背いたことは一度もない。わたしは軍人としての義務を果たす。あなたは、パリ市民の犠牲というが、連合軍のベルリン空爆でドイツの女、子供が殺されているではないか。同じことだ。おひきとり願う」

ノルドリンクが「わたしはあなたに失望した」と言い肩を落とし部屋を去ろうとしたとき、司令官は突然激しく咳こむ。持病の喘息が再発したのだ。「薬をと」頼む彼にそれを渡し助ける。しばらくして、回復した司令官にノルドリンクは語りかける。「将来、あなたは旅行者としてこのバルコニーに立って、パリの街を見ながら“自分はすべての建物を破壊することができた。しかし、人類の遺産として残した”と言うことができる。それは、あなたにとって、すべての征服の栄光より価値あることだと思わないか」

司令官は長い間、沈黙したままだった。そして、静かな声で「あなたは義務をよく果たした。わたしもドイツの将軍として、同じように義務を果たさなくてはならない」と言ったあと胸の内を話はじめる。「わたしは、ラステンブルグの森にある最高司令部‘狼の巣’でヒトラーに会い、パリ司令官に任命された。その日の彼はやつれ果て、顔面蒼白で、目は血走りわめき散らすだけで、これが心服していたわが総統かと思った。その後、ヒトラーが出した‘親族連座法’を知っているか。総統の命令に従わない将官は家族も同罪として処罰するという法律だ。”パリを破壊せよ”と命じられているわたしがそれに従わないと、妻も子供も逮捕され収容所送りになり処刑されるかもしれないのだ」

リンドリンクは反論する「この戦争はドイツに勝ち目はない。あなたは、この美しい首都を焦土にした男として歴史に名を刻まれることになる。それでも狂ったヒトラーの命令に従うのか。戦後、その蛮行でドイツ人は烙印を押され誰も相手にしなくなるだろう。あなたの家族の救出はわたしのルートを使い責任をもってやる。パリはあなたに感謝するだろう」

フォン・コルティッツの心は揺れる。その時すでに東の空は明るくなり、彼の執務室のバルコニーからエッフェル塔が見えていた。司令官はホテルの屋上に上がり、無線を使ってナポレオンの墓があるアンヴァリッド傷兵院の地下で、爆破指令がくるのを待っていた隊長に作戦中止命令をだした。パリは救われた。

二人の俳優が演じるドラマは、気鋭のシナリオライター、シリル・ジェリが脚本を書き2年前に舞台で上演され評判になり、それをシュレンドルフ監督が映画にしたものだ。ニルス・アウスロプ (外交官役)とアンドレ・デュソリエ(司令官役)は舞台でも共演しているが、その演技は圧倒的迫力がある。監督は「この映画で破局を防いだ外交の力を描きたかった」と言っている。『外交』は、8月24日の深夜から翌朝までの将軍と外交官の対決と説得と選択に焦点をあてたドラマだが、優れたフィクションは、半端なノンフィクションより歴史の真実に迫ることができるという好例だろう。映画を見終えて、筆者は’歴史は人がつくるもの’との思いを強くした。

 

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フォン・コルティッツ将軍   Wikipedia    ノルドリンク総領事     Wikipedia

 

パリは燃えているか?』を読むと映画のシーン、会話はほぼこの本からとったことがわかる。例えば、スウェーデン総領事が、司令官に「将来、あなたはっ旅行者としてこのバルコニーに立って・・・」と語る場面は、実際には8月16日に、パリ爆破計画を知ったパリ市長が司令官を訪れたときの言葉だった。喘息の場面も司令官の拒否の言葉「軍人としての義務を果たす」も創作ではない。

世界一美しい都市がヒトラーから‘死刑宣告’を受け、どんな経過を経てその破局が回避されたかを、この本は詳細かつ鮮明に再現している。

ワルシャワが廃墟と化した頃、ノルマンディ上陸に成功したアイゼンハウワーはパリ進攻はやらないと最終決断をした。彼はドゴールがこの方針に断固反対するは百も承知していた。しかし、24頁の軍事顧問の報告書は「もしドイツがパリを死守する決意を固めたならば、スターリングラードのような長期にわたる市街戦でパリを破壊しくすだろう」と予測していた。それと配下の師団の四分の一はパリ350万人の民生に向けなくならず、貴重なガソリンも消費する。彼にとって最も貴重だったのはガソリンだった。パリ進攻が少し遅れても仕方がない

一方、ドゴールは1940年6月18日ロンドンから破れた同胞に呼びかけた祖国解放の約束を実現させるのは、パリであることを誰よりも知っていた。その夏、彼の政敵は第一にフランスの共産党で、第二は、連合国軍、とくにアメリカ人であった。アメリカ政府のヴィシー政権承認、米軍の北アフリカ上陸を事前に通知せずなど、ルーズベルト大統領とドゴールとの個人的関係が悪化し、彼のフランス国民解解放委員会を臨時政府として承認することを大統領が拒否するという最悪の関係にあった。大統領には自分の承認しない政府がパリで政権をとることは許せないと考えていたのだ。しかし、ドゴールには自らの政権を樹立したいという不退転の決心があった。この対決がどう展開したかが「パリは燃えているか?」の大きなテーマである。(続く)

 

 

ノルマンディ上陸作戦の影のヒーロー:MI5の二重スパイ(11)

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ノルマンディ・オマハ海岸に上陸する米兵 Robert Cappa撮影         Wikipedia

 

1944年6月6日、ナチスを打倒するために米英カナダを中心にした連合軍が敢行した、77年前のノルマンディ上陸作戦史上最大の作戦と呼ばれる。ドワイト・アイゼンハウアー最高司令官の指揮のもとに、17万6000の兵員、5000隻の艦船と輸送船の大船団、9000機の爆撃機と輸送機が投入された。この作戦は、その圧倒的な物量ではじめから連合軍の勝利は確実だった、と多くの人々は考えている。しかし、それは後知恵だろう。

あの日、連合軍の気象専門家の予測がはずれ英仏海峡が暴風雨になっていたら、英国情報部MI5の二重スパイの超弩級の偽情報がベルリンに探知されていたら、歴史の流れは変わっていたかもしれないのだ。

アイゼンハウアー将軍は欧州戦線で300万人からなる連合軍を指揮していた。米軍170万、英軍とカナダ軍100万、その他フランス、ポーランド、チェッコ、ベルギー、ノルウェー、オランダの派遣軍から構成され、ノルマンディ作戦にはその半数が投入された。陸揚げされた装備と物資も巨大だったー戦車、トラック、装甲車、ジープなどの総数5万台、タンカーと貨車2万台、鉄道機関車1000台。

アイゼンハウワーの戦闘司令部はサザンプトン郊外のトレーラーハウス(移動住宅)に設置され、参謀たちとの会議は隣のテントで行われた。彼は5月の段階で上陸作戦は6月5,6,7日の3日間のうちに敢行することを決めていた。二つの条件(パラシュート部隊とグライダーで空輸される歩兵部隊が、奇襲を成功させるための遅い月の出。早朝、海上から上陸する部隊が波打ち際に敷設された障害物が見える干潮時)が満たされるのは、この3日しかなかったからだ。

6月4日の朝は嵐だった。アイゼンハウワーは作戦の24時間延期を決定する。6日、7日に決行できないとすると、7月まで待たなくてはならない。それまで、作戦のブリーフィングを受けている20万人が秘密を保てるのか。ドイツの偵察機とスパイがこの作戦を嗅ぎつけるにちがいない。ゆったりと構え気さくで笑みを絶やさないアイゼンハウワーも、その日は神経を抑えるためにキャメルの煙草を4箱も吸った。嵐が続くその夜、アイゼンハウワーは司令官と参謀長とともに気象専門家の報告を聴いた。天候は一時的に好転し風はおさまり、5日は晴れ6日の朝まで続くが午後には再び悪化する、という。

アイゼンハウワーは司令官一人ひとりの意見を聴いた。英軍総司令官バーナード・モントゴメリーは6日上陸に賛成したが、成功の確率は20%あるいは50%と言う者もいた。全員が発言したあと、長い沈黙があった。アイゼンハウワーは「断行すべきだ思う。もう待てないのだ。選択の余地はない」と言い6月6日のDデーが決定された。

Dデーの前夜、アイゼンハウワーはポケットから取り出した紙にプレス・リリース用の声明を手書きで綴った。「上陸作戦は失敗し、部隊を引き上げた。わたしの攻撃決定は、入手できる最上の情報によってなされた。陸、海、空軍は勇敢かつ献身的にその任務をはたした。この作戦に関する責任はすべてわたしにある」と。この使われることはなかった声明を読むと、成功は保証されていなかったことがわかる。

 

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「大西洋の壁」を視察するロンメル(中央)       Wikipedia

 

パリとノルマンディの中間点にある小村ラ・ロッシュ・ギュイヨンの城館にドイツ最強のB軍集団の司令官エルヴィン・ロンメルの司令部があった。彼の指揮下50万の兵士が、オランダからブルターニュにいたる1300キロの大西洋岸を、コンクリートの壁とトーチカと地雷原で守りを固めていた。1943年末、ヒトラーロンメルに沿岸の要塞「大西洋の壁」を強化し難攻不落にすることを命じ、彼はその任務に全力をつくした。「壁」の建設には何百万トンのセメントと鉄鋼が使われ、50万人(ノルマンディ地方の人々など)が動員されている。ロンメルは機雷を付けた海中障害物を50万、あらゆる種類の地雷500万個を設置し連合軍の侵攻に備えた。

6月4日、西部戦線の天候は強風と雨で悪く、ドーヴァー海峡では強風が吹きすさび、さらに悪化するとの予報が、ドイツ軍の気象責任者からロンメルの司令部に報告された。こんな悪天候では連合国の侵攻はないとロンメルは考え、以前から計画していたベルリンに出発する。激務に追われ疲労困憊していた彼は、休暇をとって妻のルーツィエ・マリアの誕生日を祝い、同時にヒトラーと会い連合軍の侵攻を撃退するための、機甲師団の移動を要請するためだった。戦車部隊を移動する権限はヒトラーが握っていたので、直談判でその許可を得ようとロンメルは考えていた。

ベルギー国境に近いドイツ第15軍の情報部将校マイヤー中佐は、30人のスタッフを指揮して連合軍の無線連絡を24時間体制で傍受していた。彼は、1月に当時の情報部長官カナリス海軍大将から連合軍が上陸にさきだって、フランスのレジスタンス組織への連絡に使う二つの暗号を知らされていた。半年間、忍耐強く傍受を続け、6月1日に、マイヤーの特別班は第一の暗号メセッージがBBC放送の「個人的なお便り」を通じてフランス語で流されたことを探知した。その暗号はヴェルレーヌのあの有名な詩の最初の部分「秋の日の ヴィオロンの ためいきの」で、それは間もなく連合軍の上陸が開始されることをレジスタンスに告げるものだった。

マイヤーはその情報をテレタイプでヒトラーの総司令部へ送り、ルントシュテット西部戦線総司令部とロンメルの司令部へ電話した。しかし、総司令部の作戦部長は警報をださなかった。その部長はルントシュテットが警報をだしたと考え、ルントシュテットは総司令部が命令をだしたと思っていた。その結果、ノルマンディのロンメルの第七軍は何の手もうてなかった。

6月5日午後10時、マイヤーは、上陸が48時間以内行われることを伝える第ニの暗号、ヴェルレーヌの詩「身にしみて ひたすらに うら悲し」がBBC放送で流されたことを探知した。メイヤーは第15軍の司令官にそれを伝え、西部戦線総司令部に電話で通報し、そこからヒトラーの総司令部へ伝えられた。しかし、その最重要情報はノルマンディーを担当する第7軍には伝わっていない。ヒトラーの側近がカナリス情報の信憑性を疑っていた可能性があるが、第一線に通達されなかった理由はいまだに不明である。

 

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歴史を変えた二重スパイ・ガルボ        The National Archives

 

ドイツの情報部は連合軍がヨーロッパ戦線で大攻勢にでる準備をしていることを察知して、1944年1月ロンドンに送りこんだ敏腕スパイ・アラベルに、彼のスパイ網を使って、いつ、どこで上陸作戦をやるのか、情報をとるように指示した。アラベルは実は英国諜報機関MI5のスパイ・ガルボだった。(当時、人気のスウェーデンの女優の名前からとった暗号名)。養鶏学校卒の小柄で地味でやさしいスペイン人が、ノルマンディ上陸作戦に果たした役割は特筆すべきもので、MI5の公式サイトに「第二次世界大戦で最大の貢献をしたダブル・エージェント(二重スパイ)」とある。

MI5とガルボの「事実は小説より奇なり」を地でいくような1944年の情報戦について語る前に、彼のスパイ歴をたどってみよう。スペイン内戦でファッシズムに強い反感を抱いたフアン・プジョルガルボの本名)は、ヒトラーが欧州を席巻し英国が孤独な闘いを続けている1940年、マドリッドのMI5支局にコンタクトをとり、英国のためにスパイ活動をしたいと申しでる。3度も試みたが、MI5は相手にしなかった。だが、彼は諦めなかった。ドイツのスパイになり、その実績を武器にMI5で働くことを思いついた。

彼はマドリッドのドイツ情報部のエージェントを「自分は政府の役人で熱烈なナチス支持者だ。ロンドン出張が多いのでドイツのために情報を集めたい」と口説き、スパイの訓練を受けロンドン行を命じられる。しかし、彼はロンドンへは行かず、ポルトガルリスボンから情報を送る。図書館で、英国の観光ガイドブック、英海軍に関する刊行物、新聞・雑誌を読んで、詳細なレポートを送り続けた。しだいに、彼はマドリッドのドイツ情報部の信頼を得るようになる。

しかし、彼は一度もロンドンへ行ったことがないので「グラスゴーではワイン1リッターでなんでも言うことを聞く男が何人もいる」と報告をしたことがある。スコットランドの男はウィスキー党であることを知らなかったのだ。幸い、それは気づかれなかった。

1942年、プジョルはMI5に再びコンタクトをとり、英国のスパイになりロンドンで活動することになる。二重スパイとなったガルボは、彼の工作指揮官のトマス・ハリスと組んで、幻のナチス・スパイ網をつくる。二人は想像力で実在していない英国に点在する27人のスパイを創りあげ、“彼らが集めた情報”をマドリッドのドイツ情報部支局に送り続けた。画家のハリスの芸術性とガルボの燃えるような創意工夫の組み合わせで書かれた、ドイツ情報部への報告と手紙は1500にも上る。

情報の内容は、事実と虚偽のカクテルだったが、しだいに、ベルリン本部で彼の評価が高くなっていく。ベルリンはガルボと27人のスパイへの支払いを続け、死亡したスパイの未亡人には年金を払っていた。その総額8万5000ポンド(現在の貨幣価値で8億円)はMI5の活動に流用されたというから、英国情報部も人が悪い。

アイゼンハウワーの司令部はノルマンディの海岸を上陸地点に決めた時点で、敵をあざむくための陽動作戦に取りかかった。それは「不屈の計画」と呼ばれ、ノルウェー上陸とカレー上陸があると思わせる大偽装工作だった。後者にはとくに力が入れられ、ドイツ軍が最も恐れていた米軍のパットン将軍が第一軍団(兵員15万)を編成したと思わせ、ドーヴァー海峡から侵攻するように見せかけるために、数千のニセの航空機、戦車、兵員輸送船がイングランド東南地方に配置されていた。

これらの兵器はゴム製で、計画立案者がニューヨークのパレードで、空中に浮かぶ巨大なゴム製のミッキーマウスにヒントを得たものだという。ニセの戦車なら数人でかかえられるほど軽い。これは史上最大のだまし作戦だったが、露見するとリスクも大きかった。ドイツ軍に探知されなかった大きな理由は、当時、連合軍がイングランドの制空権を完全に握っていたので、敵は偵察機を飛ばして確認することが出来なかったからだ、とMI5の元将校は語っている。

 

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ニセ戦車作戦。しかし、強風には弱かった。           Wikipedia

 

ドイツ情報部から上陸地点を探れと指示をうけたガルボは27人の幻のスパイを‘動員’して、毎日のように情報を送った。ノルマンディ上陸までの5ヵ月の間、500の秘密レポートがベルリンに届いたが、これはMI5が巧妙に仕組んだ罠だった。一つひとつの情報はジグソーパズルのピースで、これを合わせていくとカレーが浮かび上がるという情報操作をしていた。

英国情報機関にはもうひとつ秘密兵器があった。それは、「ウルトラ」と呼ばれるドイツ軍の暗号を解読するウルトラ・シークレット作戦である。ロンドンから80キロ離れたブレッチリー・パークの政府暗号学校で、解読不能と思われていたドイツ軍のエニグマ暗号通信などを解読して、連合軍の勝利に大きく貢献した。そこでは、天才的数学者アラン・チューニングや言語学者、チェスの名人など1万人が働き、ドイツの陸海空軍、情報部、SS(ヒトラー親衛隊)、警察の暗号通信を傍受し解読していた。

レッチリー・パークは緑に囲まれ池にはガチョウが泳いでいるのどかなところにあった。この優雅な田園地帯で、英国の頭脳は潜水艦Uボートの交信を解読し、連合軍の輸送船の撃沈を止め、ロンメルのアフリカ軍団の交信を解読しカイロ占領を阻止している。ウルトラの名づけの親はウィンストン・チャーチル首相だが、ブレッチリー・パークは金の卵を産むガチョウだと言いヒトラーとの戦いに挑んだ。歴史家は、ウルトラがなければ戦争はさらに2~4年続いていたという。

ドイツ情報部は軍事施設の情報をとるため、英国にスパイを潜入させようと何度も試みている。夜間、潜水艦やパラシュートで送りこむのだが、彼らはすべて逮捕されMI5の尋問にあった。情報将校の尋問は厳しかった。スパイであることを認めた彼らは調書にサインさせられ、48時間以内にダブル・エージェントになるか、処刑されるかの選択を迫られた。

その結果、MI5は多くの二重スパイを使って情報戦を展開することができた。英国政府は、すべての情報機関の代表で構成されるXX委員会と称する二重スパイによる作戦を指揮する組織をつくっている。XXは英語でダブルクロス、裏切りという意味である。この命名は情報戦はゲームであるという英国人の感覚からくるものだろう。

二重スパイの情報がドイツ側でどのように評価されているかは、ウルトラの通信解読で確認できるから、情報戦において英国は圧倒的に有利であった。ハリスとガルボの流す情報も、それがどれほど信用されているかを、チェックすることができたのだ。

ノルマンディ作戦が実施される一月前、MI5を動転させる事件が起きた。ドイツの情報部将校ヨハン・イエブセンがマドリッドで拉致されたのだ。彼は凄腕の二重スパイのポポフの大学以来の親友で、英国びいきの反ナチの将校だった。彼は、ドイツが送り込んだエージェントを、MI5が二重スパイにしていることを感づいていた。 そのイエブセンが英国亡命の疑いで大型トランクに入れられベルリンに連行され、ゲシュタポ本部で厳しい尋問に晒されれた。

MI5はパニック状態になった。ゲシュタポが彼を拷問し二重スパイの秘密を告発したら、XX委員会のこれまでの努力がすべて水の泡になる。カレー上陸情報はウソだとわかったら、その打撃は計り知れない。MI5はゲシュタポが彼の多額の金銭上の不祥事だけに関心を向けることを祈るばかりであった。幸いなにごとも起こらなかった。誰も彼の運命がどうなったかはわからない。過酷な拷問にもかかわらず、告白しなかったイエブセンは陰のヒーロだった。

 

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カレー海岸の障害物:ヒトラーは「ここに敵が上陸し攻撃する」と信じていた。 Double Cros

 

ノルマンディ上陸の前日の6月5日、ガルボはベルリンに翌日の午前3時に緊急メセッージを送ると通告するが、無線技士がその時間に待機しておらず、5時間遅れで「サザンプトンのスパイによると兵士が装具を携えて集合している。侵攻作戦がはじまったようだ」との情報が伝わった。すでにその時点では、ノルマンディ上陸作戦は始まっていたのだが、その正確な情報でベルリンの司令部でのガルボの株があがった。ガルボマドリッドの工作指揮官に「せっかくの重要情報がこんなに遅れてしまった。なんたる怠慢だ。わたしに信念がなければ、この仕事は放りだすところだ」と抗議をした。

上陸から3日後、ガルボは最も重要なメセッージをベルリンに送る。パットンの第一軍団はまだイングランド東南地方にいる、英国にはまだ50個師団が駐屯している、ノルマンディ上陸の目的はカレー侵攻から注意をそらせるためだ、このメセッージを緊急に最高司令部に伝えてほしいとか書かれてあった。

ヒトラーはこの情報を信じた。その結果、ドイツ軍は8月までカレー防衛のために2つの機甲師団と19の歩兵師団を配置し続けた。ロンメル西部戦線最高司令官ルントシュテットに、ノルマンディ防衛のために戦車部隊を移動してほしいと要請したが、拒否されている。その結果、ロンメルは戦車で連合軍を阻止反撃できなかった(ロンメルはノルマンディ上陸の報をベルリンの自宅で知り、すぐに前線に向かったのでヒトラーには会っていない)。MI5と二重スパイのおかげで、連合軍はノルマンディを前進拠点にして8月はじめまでに145万の将兵を上陸させることに成功し、ヨーロッパ解放に拍車をかける。

2011年、いまは記念館になっているブレッチリー・パークのアーカイヴで、ガルボが1944年6月9日に送ったメセッージが、ベルリンが信じていたことを証明するドイツ軍の暗号通信が見つかった。ドイツが完全に罠にはまった証拠だ。日本の駐独大使・大島浩も、ガルボ情報を信じて「パットン将軍指揮下の23個師団が新たな侵攻のため待機している。これが、ドイツ軍がノルマンディ地方へ大量の兵力を投入しない理由だ」と6月23日付けで東京へ報告している。

7月29日ガルボは、彼の「類い稀な貢献」に対して、ヒトラーからドイツの最高勲章である鉄十字章が授与された、との知らせを受ける。ガルボは「総統への感謝の言葉がでないほど感激しております。わたしごときにこの栄誉が与えられ恐縮です」「この栄誉はわたしの同僚に与えられたものです」と返信した。その日、ガルボとハリスは同僚とこの栄誉に祝杯を挙げたにちがいない。

11月25日、彼は英国王ジョージ6世からその貢献に対して大英帝国勲章MBEを授与された。ダブル・エージェントが敵対する二つの国から、勲章をもらった例はかつてない。「戦時においては、真実はあまりに貴重なので、ウソのボディガードで守らなくてはならない」これは巨大な偽装工作を指導したチャ―チルの言葉である。

ノルマンディ上陸から1年後、ヒトラー第三帝国は崩壊した。戦後、ガルボは、マドリッドでドイツ情報部の彼の工作指揮官だったクーレンタールと再会し、鉄十字章を受け取った。クーレンタールは、ガルボが二重スパイであったことを知らないまま死んだ。48年、ガルボアンゴラマラリアに罹り死んだことにしてベネズエラへ移住。スペイン語の教師と本屋を経営して静かに暮らした。1984年、作家ナイジェル・ウェストに説得されて英国へ旅し、バッキンガム宮殿に招待されエディンバラ公と会見、MI5の昔の同僚と再会した。そのあとノルマンディへ行き上陸40周年記念行事に参加した。4年後、‘言葉の戦士’ガルボは72歳で亡くなった。

付記 筆者は以下の3冊の本をもとにストーリーを書いた。’Double Cross : the true story of the D-day spies’ Ben Macintyre著 2012刊、『史上最大の作戦Cornelius Ryan著 1959刊(早川書房),’D-day:the battle for Normandya’ Anthony Beevor著 2009刊、

 

 

歴史探訪~真珠湾攻撃の狂気の決定(10)

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真珠湾上空から米国海軍太平洋艦隊を攻撃する日本海軍の航空隊。 イラスト Wikipedia

 

筆者は昭和16年に産声をあげたから、真珠湾攻撃の年に生まれたことになる。月日はめぐり、今年はあの奇襲攻撃(1941年12月8日)から72年目になる。大学生になり日本の命運を分けたあの日、日本中が歓喜の声に包まれたことを知った。

朝日新聞真珠湾攻撃の翌日、「米海軍に致命的大鉄槌/戦艦六隻を轟沈大破す/空母一、大巡四をも撃破」と大見出しを躍らせ、その紙面に載った日米交渉経過に関する記事には「米、終始独善を固執」という見出しをつけている。朝日新聞は米国を「独善的」と断定していたわけだ。

大多数の作家・知識人は、このニュースを庶民とともに、これでスッキリした、朗報だと受け取った。なかでも作家・伊藤整(戦後に『チャタレイ夫人の恋人』を訳す)は国粋主義者だった。開戦の日の日記に「大和民族が、地球の上では、もっともすぐれた民族であることを、自ら心底から確信するためには、いつか戦わねばならない戦い」と興奮して書いている。例外は『ふらんす物語』の作者・永井荷風だった。彼は開戦から数日後の日記に、電車のつり広告にある「進め一億火の玉だ」「鉄だ力だ国力だ」をつまらぬ文句だと言い、この戦争はだめだと言外に匂わしている。

首相・東条英機は「人間は一生に一度、清水(寺)の舞台から飛び降りなくては」と言い、その決断を自画自賛した。昭和天皇裕仁は「虎口に入らずんば虎子を得ずだね」と内大臣木戸幸一にその感想をもらし、木戸は「感激す」と日記に書いた。(『ドキュメント 太平洋戦争への道』半藤一利著PHP文庫)

 

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1941年奇襲攻撃の成果を報道する朝日新聞の1941年12月9日の第一面記事。その日、日本中が沸いた。 朝日新聞

 

わが家の書斎の本棚にウィンストン・チャーチルの『第二次世界大戦回顧録6巻(‘The Second World War'Winston S. Churchill )がある。これは義理の父アーヴィドから譲り受けたものだ。アーヴィドは外国航路の大型客船の船長だった人で、隣人からキャプテン・ラーソンと呼ばれ親しまれていた。

第二次大戦中の1941年、彼が二等航海士として乗っていた英国商船がドイツのUボート(潜水艦)の魚雷攻撃にあい 沈没、救命ボートで脱出するときに敵機の機銃攻九撃をうけたが、幸い弾は当たらなかった。

救助された彼はスウェーデン人の同僚とロンドンで一冬過ごすことになる。当時、英国の首都ロンドンはドイツ軍の空爆下にあった。毎晩(連続で56日間)、敵機の編隊がやってきて爆弾を落とし、街中が火に包まれる大空襲(Britz)の日々をアーヴィドは体験している。

ロンドン空爆ヒトラーはイギリス人の士気を挫き、英国上陸作戦を敢行するつもりだったが、逆に彼らの戦意を高める結果になりあきらめた。アーヴィドは生涯、この不屈のジョン・ブル魂に敬意を抱いていた。だから、チャーチルの『第二次世界大戦』を大いなる関心をもって読んだのだと思う。

チャーチルはこの著作で政治家として初めてノーベル文学賞を受賞(1953年)したのだが、スウェーデン・アカデミーの授賞理由は次のようなものだった。「彼の現代史をテーマにした作品には、深く密度の高い自らの体験と知識が溢れ出ている、そのスタイルは明晰でユーモアがあり寛容である。彼は英語の巨匠である。行動がともなった彼の言葉は、あの暗い時代に世界中の多くの人々に希望と自信を与えた」。

チャーチルは恒例のノーベル賞記念晩餐会のスピーチで感謝の辞を述べたあと、いつものユーモアでワサビを利かしている。「わたしはこの受賞を誇りに思っている。同時に スウェーデン・アカデミーの選択に、本人がおどろいていること認めざるを得ない。この選択が正しいことを願っている。しかし、皆さんがなにも心配していないのであれば、わたしも気にしないことにしょう」(夫人代読)。

 

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ウィンストン・チャーチル首相:真珠湾攻撃のニュースを知った翌日、彼は「英国は生き残る。ヒトラーの運命は決まった。ムッソリーニの運命も決まった。日本は粉砕されるだろう」とルーズベルト大統領の側近に手紙を書いている。 ユーサフ・カーシュ撮影(1941年12月)カナダ国立図書館所蔵

 

さて、チャーチルは回想録第3巻で日本について2章60頁を割いている。ここでは、二つのこと、チャーチルの松岡洋祐外相宛の書簡(1941年4月2日)と真珠湾攻撃を知ったときの彼の反応(ロンドン時間12月7日)を紹介して、読者の参考にしたいと思う。

本論にはいる前に、時代背景を簡単に説明しておこう。ヨーロッパではヒトラーのドイツがほぼ大陸全土を制圧し、英国だけがその存続をかけてナチス軍と戦い、米国は戦争へは介入せず中立政策をとっていた。日本は前年の1940年9月に日独伊三国同盟を結び、英米との関係が悪化し戦争の可能性が語られはじめていた。

そんな状況のなか松岡は1941年年3月、外相としてヨーロッパ情勢把握のためにベルリンを訪れている。「松岡のベルリン訪問の目的は、ドイツのヨーロッパ制覇の実態と英国侵攻作戦の開始時期を知ることであった」とチャーチルは書き、戦後、米軍が捕獲したナチスの外交文書のなかにある、松岡ミッションに関する記録を紹介している。以下 その要旨である。

3月27日、英国侵攻作戦についてリッベントロップ独外相は松岡に「ドイツは対英戦の(空爆で)最終段階に入った。速やかに英国を征服するつもりだが、もはや障害となるものはなにもない」と言い、ヨーロッパにおけるドイツ軍の圧倒的な強さを「陸軍はもちろん空軍力も英米に優り、Uボートの増産で英国の息の根を止めることができるだろう」と数字を上げながら説明している。さらにリッベントロップは、「枢軸国側はもはや勝利を手にしたのも同然だ。英国降伏は時間の問題だ」と言い放っている。

日独伊三国軍事同盟についてリッベントロップは「ヒトラー総統は、日本ができるだけ早く英国に宣戦布告をすることを望んでいる。日本がシンガポールを攻撃すれば、英国降伏を早める決定的な要素になる」と松岡に参戦を求めている。

 

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ナチスのロンドン空襲は40年9月に始まった。その猛烈な攻撃の下、空襲は主要都市に及んだが、英国民はジョン・ブル精神を発揮し耐えた。 Wikipedia

 

昼食後、松岡はヒトラーとの会談に臨んだ。冒頭、ヒットラーは松岡に次のように言った。「戦争がはじまって以来、ポーランドの60個師団、ノルウェーの6個師団、オランダ18個師団、ベルギーの22個師団、フランスの138個師団、英国の12-3個師団が屈服した」「もはや敵には枢軸国に抵抗する力はない」。そのあと長いモノローグが続いた。

ヒトラーの長広舌を聴いた松岡は、総統の忌憚のない見解に感謝する、大略においてその見解に賛成すると言い「日本は千載一遇のチャンスであると思ったら、決定的なかたちで行動を起こす」と語っている。さらに、個人的には日本はできるだけ早く参戦したほうがよいと考えているが、自分には決定する権限がない、帰国したら、その方向でベストを尽くすと言った。しかし、参戦についてはかなり躊躇があるようだった、とドイツの外交文書は記している。

松岡は当時、米国のタイム誌の表紙になるほど、国際的注目を浴びた外交官だった。チャーチルは松岡を寸評して「彼は米国で教育を受けたが、強硬な反米主義者だ。ナチスとドイツの軍事力にいたく感銘を受けているようで、ヒトラーの呪縛にかかっている」と厳しい。

チャーチルは前述の日独会談のやりとりは知らなかったのだが、その会談の重要性はよく分かっていた。そこで、彼は松岡外相宛の書簡を書くことにした。一国の首相が外国の外務大臣にその国策について手紙を直接書くのは異例だが、彼はそんなことは気にしていない。

大日本帝国政府と国民の喚起を促すために、敢えて貴殿宛にこの手紙をだすことにした」ではじまるこの書簡で、チャーチルは8つの質問をしている。そのなかの3つを挙げてみよう。

ドイツは英国を占領できると思うか?その結果を待ってから行動したほうが、日本のkl国益に。ならないか?

ドイツ軍とゲシュタポによって占領された諸国は将来、ドイツに友好的になるだろうか、反感をもつだろうか?

1941年の鉄鋼生産力は、米国7500万トン、英国1250万トンで合わせると約9000万トンになる。日本の鉄鋼生産量は700万トンだ。もしドイツが第一次世界大戦と同様に敗北するとしたら、日本は一国で戦うことになるが、その生産量では足りないのではないか?

これは、まるで新聞記者の鋭い質問のようだ(彼は若い頃、従軍記者体験がある)。書簡の最後にチャーチルは、これらの質問への日本の答えが破局回避、英米との関係改善であることを望む、と書いている。

ベルリンからの帰途、モスクワで日ソ中立条約を結び、意気揚々と帰国した松岡は4月22日付で、チャーチルへ以下の内容の返事を書いた。

日本の外交政策はすべての事実を偏見なく吟味し、わが国が直面している状況のすべてを慎重に分析して決定される。その究極の目的は八紘一宇の実現である。八紘一宇は征服、抑圧、搾取のない平和な世界を意味する。その実現にあたっては人種的立場(アジア人のためのアジア)を勘案する。ひとたび、政策が決定されれば、決意をもって実行されることになる。しかし、状況の変化をも見逃すことなく細心の注意をもって決定されるであろう。

この返信で松岡はチャーチルの懸念は大きなお世話だと仄めかし、8つの質問には触れず八紘一宇の哲学で国策を決定すると言っている。両者の共通点は八だけであった。

 

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41年3月、ヒットラーと会談した松岡は英国侵攻作戦が近いことを知る。しかし、2カ月後、英国の頑健な抵抗に手を焼いたヒトラーは、侵攻作戦を放棄している。 Wikipedia

 

1941年12月7日(ロンドン時間)、日曜の夕刻、チャーチルは駐英米国大使ハリマン夫妻をロンドン郊外の自宅チャートウェルに招いていた。ラジオ・ニュースを聴いていたハリマンが、日本が米国を攻撃したようだと言った。間もなく執事が部屋に入ってきて、そのニュースは本当のようですと確認した。一瞬、沈黙が支配した。

チャーチルは直ちにルーズベルト米国大統領に電話をし、次のような会話を交わした。「大統領閣下、日本についてのニュースは本当ですか?」(チャーチル)「本当です。彼らは真珠湾を攻撃しました。今やわれわれは一蓮托生です」(ルーズベルト)「これで、事が簡単に、なりました。神のご加護を」(チャーチル

チャーチルは回想録に「真珠湾攻撃は息をのむような世界的大事件だった」と書いている。翌日の12月8日、チャーチルルーズベルトの外交顧問ハリー・ホプキンズに手紙を書いた。

わたしはこの事態を予測できなかった。日本の軍事力を正確に把握していなかった。しかし、今や、アメリカが参戦し死を賭して戦うことになった。ダンケルク、フランスの降伏,オラン港事件、侵攻の脅威、Uボート戦争と、17か月間におよぶ英国の孤独な戦いのあと、これで、結局、われわれは勝ったのだ!

英国は生き残る。戦争がどれほど長くなるかは分からない。ヒトラーの運命は決まった。ムッソリーニの運命も決まった。日本は粉砕されるだろう。あとは圧倒的な戦力を行使すればいいだけだ。英米ソの戦力は、敵の数倍ある。米国を侮る人々がいる。彼等は、アメリカ人は団結できない,血を見るのを嫌がる、と思っている。そんなことはない。わたしのなかに流れているアメリカ人の血(チャーチルの母親はアメリカ人)が知っている。

友人エドワード・グレイ(第一次世界大戦時の英国外務大臣、同時期チャーチル海軍大臣)が30年前に言った言葉を思いだす。「米国は巨大なボイラーだ。いったん火がつくとそのパワーには際限がない」。

 

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原爆キノコ雲の下、罪のない多くの人々が命を奪われ、被爆者は放射線による病に苦しんだ。 ヒロシマを訪れる人々は「核のない世界」を考える。 木村権一撮影 広島平和記念資料館所蔵

 

チャーチルは国策を決定するにあたって、ビスマルクを引き「常に相手の立場になってみることが必要だ」と言っている。「相手国のことを十分にかつ同情心をもって理解すればするほど、その政策の正しさの確率が高まる、相手国に関する知識が深ければ深いほど、なにをやればよいかが明らかになる」と自他を客観視してみることの重要性を説いている。

その原則から言うと「日本の真珠湾攻撃は、米国が自己防衛のためにかつてないほどの団結をすることを無視した、単純極まりない問題解決策だった。アメリカ人にとっても、わたしにとっても、日本が米国を攻撃することは自殺行為だと思えた。しかし、政府も国民も常に理性的な決定をするわけではない。時に、狂気の決定をする。真珠湾攻撃について、わたしは、ためらうことなく、日本は気が狂った、信じられない、と繰り返し言ってきた。いくら『相手の立場』になってみても、不可解な決定だったからだ」とチャーチル真珠湾攻撃の無謀さを断じている。

筆者は、チャーチル真珠湾攻撃の章を読みやりきれない気持ちになった。日本中が沸きかえっていたあの日、チャーチルは、連合軍の勝利を確信し、日本は狂気の決定をしたが故に敗北すると予言し、事実そのとおりになった。ということは、真珠湾攻撃国益を守るための「自衛のための戦争」どころか、日本人310万人の命(軍人230万人の戦没者のうち餓死者が60%。市民80万人が死亡。米英と中国などの連合軍の軍人・市民の死者は推定2000万人)を犠牲にした「自殺行為」だったということになる。真珠湾攻撃の大誤算のツケはあまりに大きかった。

日本は清水の舞台から飛び降りて半身不随になり、虎口に入って虎に食われたわけだ。なぜ、こんなことになったのか。アメリカの国力と戦闘精神を見くびったことが最大の理由だろう。日独伊三国同盟が結ばれたとき、この国が危険な曲がり角を曲がったなどと思う日本人はいなかった。政府・軍部による厳しい言論統制の時代、国民は洗脳され、世界を知らず、アメリカのことをなにも知らなかったのだ。愛国、反米を煽った新聞の責任も大きい。なにより、自国を客観視する能力がない指導者の犯した罪は極めて重い。

(2013年12月3日記)

 

 

ドルドーニュ便り~アルファロメオ( 9 )

 

 こちらで暮らしはじめるまで、わが家は車とは無縁だった。結婚以来、共稼ぎで東京と横浜で30年暮らしたが、自家用車を持ったことはなかった。そもそもわたしには、運転免許がなかったのだから持ちようもない。ところが、フランスの田舎への移住を決めてから事情が変わった。東京都の15倍の広さに、人口40万のドルドーニュ県では車なしでは生活ができないからだ。

 移住をきめた当時、わたしはまだサラリーマンで目黒の事務所に通勤していたが、一念発起、近くにある日の丸自動車に入学した。指導員に絞られ、実地試験に落ちること2回、やっと仮免をとるところまでこぎつけた。卒業式の日の教習所校長の祝辞がふるっていた。「この教習所の実地試験は、目黒、渋谷という全国でも最も難しいコースを走るテストです。日の丸自動車は教習所の東大と言われています。皆さんおめでとうございます」。その日以来、わが家でわたしは「ドライヴィング・スクールの東大をでた男」として知られるようになった。

 全国一の難関の自動車学校を卒業したわたしが8年前に当地で手にいれたのは、ルノーのクリオの中古だった。人生ではじめて所有した黒塗りの小型車を、夕闇のなかで愛でていたわが姿を思い出す。その数年前、奥方がルノーのメガン(メガーヌ)の中古を買い使っていたのだが、わたしはマニュアル運転ができないので助手席に座っているだけだった。

 これでは行動範囲が限られてしまうと思い、オートマ車を購入した。車は人の行動範囲を飛躍的に拡大する、20世紀最大の発明は自動車である、と英エコノミスト誌の編集長が書いていたが、21世紀になってそれを実感している。

 数か月前、メガンの調子が悪くなった。ガレージで調べると修理をすれば大丈夫だという。しかし、修理代は高いし、前のオーナーも含めると15年も走り、エアバッグもないから車を買うことにした。新聞記者をしていた奥方はインターネットで得意のリサーチを猛然と開始。はじめは中古を探していたが、人生に一度は新車に乗ろうと方針転換、その結果浮上したのがアルファロメオのMiToだった。デザインが素晴しい。エアバッグが7つもある。小型車だから価格もそこそこで、日本で買う半額だ。「この車に乗ると10年若返りますよ」とセールスマンのオリヴィエが言う。この殺し文句で陥落。

 

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村の教会前のMiTo

 

 頭金10%を払い2か月後受け取りの契約書にサインをした直後、ベルジュラックで暮らすバンバリ夫妻の家に招待された。その日、ストックホルムに住むエドマン夫妻も招待されていた。二人のムッシュは東京でビジネスマンとして活躍し、日本を第二の故郷と思っている親日家だ。とくに、25年を東京で過ごしたエドマンさんは自らを江戸男と称している。その日宴もたけなわになったころ、奥方がアルファロメオの話をすると、彼は「メイド・イン・イタリア?大丈夫かな」「それにしても、ヤードはリスクが好きだね。日本人と結婚し、フランスに移住し、そのうえイタリア車を買うとは」とひやかすと、奥方曰く「ハイリスク、ハイリターンがわたしの人生哲学よ。ご心配なく」とさらりとかわした。

 

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バンバリ邸のワイン貯蔵庫で (左より)バーブロ(バンバリ夫人) 筆者 ヤード 
キキ(エドマン夫人) ご主人のピーター・バンバリさん    Goran Edman

 

 車が届くはずの日の数日前、アルファロメオの販売店に電話すると、すこし遅れるという。その後、なんども連絡をとり販売店に車が到着したのは約束の期日の2週間後だった。手続きに1週間かかったから、都合3週間の遅れである。奥方は偶然、大型車がペリギューの販売店に、隣の町でこの車を運搬するのを見たので驚いていた。この呑気さにいささか呆れたが、こちらで暮らすには忍耐力がいる。

 車受け取りの日の朝、販売店に引き渡すメガンを洗い、長い間お世話になったな、と思いながら丁寧に磨いた。きれいになったメガンで、奥方とわたしは販売店に到着(自宅お届けサーヴィスはありません)。オリヴィエが笑顔で出迎え、大柄な女性マネージャーの部屋に案内する。保証契約などいくつかの書類にサインをしたあとのことだ。

 「メガンの廃棄処分同意のサインお願いします」とマネージャーが突然言った。8万㌔しか走っていないので、中古市場で再利用されるものとばかり思っていたのでびっくり。この車に愛着があった奥方の暗い表情になり「可哀そうね」とつぶやいた。しばし沈黙が続いたあと、奥方の気持ちを察したマネージャーは「メガンの役割が終わって、MiToがお待ちかねですよ」と慰めた。15年も前の車は価値がないので廃棄処分にするのが、販売店の方針だという。ヤードは悲しそうな顔でサインをした。もったいないことだ。

 

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さよならメガン

 

 奥方は愛用しているモノに時々話しかける。先日も、半世紀前に父親から贈られたシンガー・ミシンが故障したとき「頑張ってね」と言っていた。モノにも命が宿るという考えは、日本的なものだが、奥方にそれが根付いたのだろうか。

 日本には針供養のように引退するモノに感謝する儀式があるが、奥方によるとキリスト教にはモノを供養するコンセプトはないという。マネージャーの部屋をでて、二人でそんなことをしゃべっているところに、オリヴィエがお祝いのシャンパンの瓶をもって現れた。

(2012年11月5日記)

 

ドルドーニュ便り~春が来た(8)

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わが家の春景色

 

やっと長かった冬が終わって、サン・ジャン・ドコール村に待ちに待った春がやって来た。当地で暮らしはじめて一番寒く、毎日のように雨が降る異常な冬が去り、無風、気温20度の正真正銘の春日の今日は心が弾む。納屋から取り出した黄色いデッキチェアーに座って、コーヒーを飲む。夏雲のような逞しい雲を眺めながら、健康回復のありがたさを思う。

ポカポカ陽気に誘われて散歩にでかける。玄関をでると、坂を上がってきたルノー車が停まった。わが家からすこし離れた丘の上の一軒家で暮らすカレー夫人エレンだった。「ヤードの調子はどうですか?」と彼女が聞く。「おかげさまで、咳も止まったのでもう大丈夫でしょう。血液検査の結果、なんの問題もなく安心しました」と答える。

一昨日、エレンはわが奥方が悪性のインフルエンザにかかり10日間も寝こんでいるのを聞きつけ、見舞いに来てくれた。医者に往診してもらったが、なかなか治らないので、風邪ではなく他に原因があるかも知れないので、血液検査をしたいと言うと「それじゃ、わたしが知っている看護婦のマゾーさんに来てもらいましょう」と言い彼女は一旦自宅に帰った。しばらくして「病人にはなによりスープよ」と言いながら、大きな瓶に入った作ったばかりの二種類の野菜スープを持ってきてくれた。翌朝、マゾーさんが来て採血し、町の血液分析所で検査した結果は問題なしだった。隣のバトラン夫人も医者の往診の手配をしてくれた。隣人の親切が身に沁みる。

 

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池のガチョウ

 

わが家に隣接して5000坪の大きな池がある。パリの住人の別荘の敷地内にあるのだが、家主はふつう不在なので、たまに池を1周する。エレンにお礼を言ったあと、池の周りを散歩していると、ガチョウのつがいが目の前をゆっくり歩いていた。やがて彼らは、池に入り一直線に進んでいった。夫唱婦随か婦唱夫随なのかは分からない。

村につながる道の右側は野原で蛇行するコール川が見え隠れし、左側は小高い岩崖になっている。崖のくぼみを見るたびに、ここはクロマニヨン人の住居だったのでないかと思う。村の入り口まで1キロの道沿いに4軒の家が点在している。わが家の別棟の洗面所や台所を新装してくれた建築業のカスターニュさんの家、昨年引っ越してきて友人になったイタリア人夫妻の水車がある家、5年前に農家の廃屋を自力で改築し見栄えのする住居にしたオランダ人夫妻の家、川沿いの庭があるモロッコ人夫妻ラヒトさんの家がある。わが家のすぐ隣はバトランさんとドモントさんの家だから、これをいれると7軒中(わが家を含めて)4軒が外国人の住居ということになる。

人口350人のサン・ジャン・ドコール村には、外国人が所有する家(半分は別荘)が24軒もある。国籍は英国、アイルランド、オランダ、ベルギー、リトアニア、イタリア、ドイツ、モロッコ、カナダ、アメリカ、スウェーデン、日本と12ヶ国にもなる。ドルドーニュ県の小さな村がなぜこんな国際村になっているのか。その背景には、EU市民であればEU圏のどこにでも暮らせる、というEUのシェンゲン協定の存在がある。EU圏内ではヒト、モノ、カネの流れが自由になり、国境が消滅している。その結果、グローバル・ヴィレッジが出現したわけだ。

村の外国人のなかで一番多いのは英国人で、その次がオランダ人で、その他の国はそれぞれ一人か二人だ。抜群の環境、不動産の安さ、肉や野菜の旨さに魅せられて、ドルドーニュ県で暮らす英国人は多い。昨年末、村の親友(夫のロンはカナダ人、妻のオナはリトアニア人)のお宅でパーティがあったが、客はフランス人と外国人が半々で、英国人が7,8人はいた。隣に座ったアイルランド人の知人がワイングラス片手に「何百年もかけて、アイルランドから英国人を追っ払ったと思ったら、なんたることか。この村は英国人でいっぱいだよ」と言っていた。こんなのをアイリシュ・ユーモアと言うのだろう。

 

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教会の鐘塔(左)と城の尖塔(右)

 

1キロ歩いて村の入り口に着くと、11世紀に建った教会の3時を告げる鐘が鳴った。村の広場では、城を背にして陽光を浴びながら4.5人の村人がペタンク(伝統球技)に興じている。中世にできたコール川にかかる風情のある石畳みの橋を渡ると、リトアニア人のオナが、アメリカ人のメリーと語らっていた。建築技師のオナは夫の人類学者ロンと5年前に、15世紀に建てられ20年も放置されていた家を買い、資材を購入しほとんど自力で大改造をし、趣味のいい快適な生活空間を作り上げている。

米国ケンタッキー州出身のインテリア・デザイナのメリーは、夫のジムと当地で暮らすこと20年のベテランだ。彼らは村の中と、村の外れの丘の上の廃墟を再生した家を持っているが、内装はまるで建築雑誌 ’Architectural Digest’に出てくるような輝きがある。二組の外国人夫妻は、村の退役将軍フォルニエさんが言うように、誰も手をつけなかった廃屋を蘇らせ村を美しくした功労者だ。奥方とわたしはこの二組の夫婦とは波長が合い、世界観と人生感が重なるところが多く最も親しい。

久しぶりに会ったメリーが「もう頭痛は無くなった?」と聞く。「ぼくはすっかり良くなったが、ヤードがインフルエンザで10日も寝込んで、やっと元気になりつつあるよ」とわたし。「イタリアへは行ったの?」と彼女が尋ねるので「いやーそれがドゴール空港まで行ったのに、雪のためフライトがキャンセルになるは、大混乱の空港でヤードの体調が悪くなり医療センターで診察を受けるやで、結局、翌日こちらへ戻ってきたよ」と言うと「楽しみにしていたのに、それは大変だったわね」とえらく同情してくれる。「まあ、航空券やホテルの代金はムダになったけど、飛行機が墜落して死ぬよりいいよ」とわたしが言うと、彼女は「それはそうね」とあいづちを打ってくれた。

家に戻る道すがら、医者の世話になる話になったせいか、10年前のわが病院体験を想いだしていた。その日、わたしは新品自転車のハンドル操作を間違え横転、鎖骨を折ってペリギュー県立病院に入院したのだが、翌日の昼時に看護婦が「赤にしますか、白にしますか」と聞いたのにはビックリした。フランスの病院では患者にワインをだすのである。その頃はまだフランスの医療保険制度(加入者はVitaleというみどり色のカードを所有している)に入っていなかったので、一泊入院は高くついた。しかし、あれは5万円の超高級ボルドー・ワイン一杯の値段だったのだ、と自分に言い聞かせている。味はあまり美味しくなかったが。

フランスの国民皆保険制度は、日本の国民健康保険のように、資格取得のための支払い義務がないので助かる。フランス市民あるいはEU市民(フランスと相互取り決めのある国の市民)には、自動的に日本の国民健康保険証に当たるVitaleが発行されるが、これには費用がかからない。わたしの場合はヤードがEU市民であるので、その夫であるので幸いにも資格が出来た。

わたしも2月にヴィールスにやられ左眼が大きく腫れたので、町の総合医のところで診断をしてもらい、彼の署名入りの薬のリストをもって薬局に行き、それで治療したのだが、総費用は約200ユーロ:2万5千円だった(診察費23ユーロを2回、レントゲン50ユーロ、薬100ユーロ)。薬代の明細を見ると、政府が50%負担していた。この部分は消費税20%などの税収でカバーしているということになる。

Vitaleは適用範囲が広く、できるだけ安いことを原則にしているから利用者にとってありがたい制度だ。このシステムは年寄りに優しい。それでも、大多数の人々がMutuelleという自己負担の医療保険に加入している。

それにしても、フランスは薬の国だと思う。わたしが利用した鎮痛剤など3種の薬は少ないほうで、奥方は2回の医者の処方で7種類もあった。人口3000人の隣町ティヴィエには3つの薬局があり、それぞれの店に薬剤師が4,5人いて、訪れる人が絶えない。薬嫌いの奥方に言わせると、フランスの医療サービスはスウェーデンと同等の高レベルだが、薬に依存しすぎということになる。調べてみると、フランス人の薬消費量はヨーロッパ一だった。

 

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かりんの花

 

春の空気をいっぱい吸って家に戻ってきて、タンポポの花で溢れる庭を一巡する。タロウドリの鳴き声が聞こえてくる。水仙の花が咲き、柳に葉が付きはじめ、かりんの花(写真)が満開だ。かりんは東京にいる2歳の初孫の名前でもあるので、この花にはとりわけ愛着がある。

奥方がインフルエンザでダウンしている間、スーパーでの買い物と料理は、わたしが担当した。リスト片手にスーパーで食料や日用品を買うのは慣れているが、料理は辻クッキング・スクール卒で料理教師の母をもつ奥方が仕切ってきたので一苦労だった。それでも、彼女の指示に従って作ったポーク・フィレ、ハンバーグ、アンリーブのグラタンは合格点をもらった。蕎麦つゆやマドレーヌ菓子の作り方をマスターしたのも収穫だった。食べる人、皿洗う人から、料理する人への進化である。

今晩は、やっと元気になった奥方が台所に立ち、料理長として腕を振るった。わたしは傍で、彼女の作る肉野菜スープの料理法を質問しながらメモをとり後日に備えた。さすが、師匠の料理は旨い。食事のあと、書斎の窓を開けるとフル・ムーンだった。

満月が 池に映りて 春来る (2013年3月30日記)

 

ドルドーニュ便り~日仏ふたりの飛行家(7)

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『わが長距離飛行:パリ―東京』の挿絵

 

 ドルドーニュの田舎道を車で走るのは爽快だ。樫,栗、松などの樹に囲まれた曲がりくねった緑の道を、わが家から15分も走ると、ドアジーさんの館がある。館の正面にある壁は長さ70m、高さは5m、両端に黒い尖塔があるから、まるで要塞のようだ。

 

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ドアジー

 

 この館のご主人ジャン・ドアジーさんは退役軍人(大佐)で、奥さんとのんびり暮らしている。かつて、彼の叔父ペルティエ・ドアジーは、日仏友好の象徴として知られた人だった。彼のことは『絹と光―知られざる日仏交流の歴史』(クリス・コッポラ著)の中に詳しくでてくるが、まさか、その甥が隣人だとは思ってもいなかった。偶然、町のスーパーでドアジーさんの奥さんからそのことを聞き、館を訪ねたのだ。この田舎にもJapon connexion(ジャポン・コネクスィヨン)ありである。

 ペルティエ・ドアジー(1892-1953)は偉大な飛行機乗りとして、パリ―東京長距離飛行にはじめて成功した人だった。今では二都市間の飛行時間は12時間だが、1924年のこの冒険飛行のときには、平均時速168㎞で120時間もかかっている。もちろん一挙に飛んだのではない。2万㎞を20の都市(ブカレストバグダッド、カラチ、北京など)を中継し47日間かけている。

 

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ペルティエ・ドアジー大尉

 

 ドアジーさんは「叔父は人生を愛する愉快な人で、パリ―東京飛行の帰路、インドで虎狩りをした話をしていたよ。若いころ苦労したので部下にやさしかったね」と懐かしそうに語っていた。資料をいろいろ貸してくれたが、最も興味深かったのは、ドアジー大尉(当時)の回想録”Mon Raid-Paris Tokyo” (わが長距離飛行:パリ―東京)だった。この本の巻頭は大尉が、400馬力のプレゲ型機カトリーヌ(大尉の1歳の娘の名前)号で、機関士ブザンとともにパリの飛行場を飛び立つ光景からはじまっている。

 韓国の大邱を発ち対馬海峡を渡り、19番目の中継地、大阪に着いたのは1924年6月8日だった。大尉は回想録に次のように書いている。「飛行場には、我々を歓迎するための大テントがかけられていた。出迎えの人々の万歳、万歳の大歓声のなか、山のような花束とプレゼントを受け取った」。翌日の東京での歓迎ぶりも熱狂的だったようで、着物姿のマドモアゼルが、二人の遠来の客の肩車にのっている微笑ましい写真も残っている。

 大尉は大阪の飛行場で、思いもよらぬ友人と再会している。第一次世界大戦の戦友で、ともにドイツ軍を相手に空中戦をした日本人パイロットが、フランス陸軍の士官服を着て彼を出迎えたのだった。回想録で大尉は「大戦中ずっとフランスのために前線で戦ってくれた同志バロン滋野の出迎えを受け、わたしは非常に感動した」とその心境を述べている。

 『バロン滋野の生涯―日仏のはざまを駆けた飛行家』(平野国夫著、文芸春秋)を読むと、滋野は大正時代のコスモポリタンであることがわかる。

 滋野清武(しげのきよたけ)は14歳で男爵家の当主となり、1910年に28歳で渡仏し、はじめは音楽家志望でパリの音楽学校で勉強していた。しかし、ライト兄弟の飛行機熱に巻き込まれ、パリの飛行機クラブで操縦技術を学び、日本の民間人として初の万国飛行免許を取得している。その後帰国するが、民間飛行練習所の設立準備のために、再びフランスに戻る。間もなく大戦がはじまり、滋野はフランス陸軍飛行隊に志願し大尉として活躍、レジオン・ドヌール勲章を授与されている。彼が所属した鵠の鳥(コウノトリ)飛行大隊は、敵機を5機以上撃墜したパイロットのエリート集団であった。パイロット仲間から彼はバロンと呼ばれ親しまれていたという。

 

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滋野清武とジャーヌ夫人  『バロン滋野の生涯』(文芸春秋)より

 

 渡仏中に彼はリヨンでエイマール・ジャーヌという女性と恋をし結婚した。帰国し大阪住吉で暮らしていた頃の写真を見ると、二人は床の間を背に和服姿、手に扇子のお似合いの夫婦である。写真を撮った4年後に、滋野はドアジー大佐と劇的な再会を果たすのだが、二人が握手をする隣で、ジャーヌ夫人が赤ん坊の次男を抱いている姿が映っている。残念なことに滋野はその半年後に胃病で42歳の若さで亡くなった。

 二人の男の子を抱えて、32歳で未亡人になったジャーヌ夫人の苦労は大変だったようだ。長男の男爵相続問題で、滋野家から2人のこどもを残してフランスへの帰国を迫られたが、彼女はそれを拒否している。その後、大佛次郎夫人などを相手にフランス語の個人教授をし、その収入で親子3人は細々と暮らしている。やがて太平洋戦争がはじまり、二人のこどもは兵役にとられ、長男は満州に送られる。戦後、長男のジャーク・清鵠はピアニストとなり、次男のロジェ・清旭は画家となり、ジャーヌ夫人は1968年72歳で亡くなった。

 

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ドアジーさん

 

 ドアジーさんを再訪した日、わたしは平野さんの滋野伝を持参した。「この和服姿の滋野夫妻の写真いいでしょう。でも、太平洋戦争中、ジャーヌ夫人は外国人だったから、大変な苦労をされたようです」とわたしが言うと、朗らかなドアジーさんは一瞬沈黙し、哀しい表情になった。そのあと彼は「一杯やりましょう」と言った。( 2012年11月15日記)